愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

【正しさハラスメント】中二病のまま大人になってしまった技術者の末路

 

 

emokuaritai.hatenablog.jp

d.hatena.ne.jp

こんな記事を読んだ。

 

「正しさハラスメント」という概念!

セクハラとかアルハラとかと同じで、これをやってて満足している側の人間は絶対に気付かないし気付こうともしないという意味で、非常に上手い言葉だと思う。

 

自分の仕事はプログラミングにはあまり関係していないから深くは言えないのだが、情報系の分野になると、特にこういう人が多くなるよね。

物理的な面ではほぼパソコン一つだけで完結して、それ以外は知識量と作業量でものを言える分野だからだろうか。コンピューターの処理能力は、扱い方次第では人間のそれをはるかに超える。それゆえに万能感に浸りやすいのだろうか。

 

昔の記事でも書いたが、例えば「プログラミングの基本を教えるスレ」みたいなものが立つと、おじさんたちがありとあらゆる手で即死させようとして大量に沸いてくる。

例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。

 

今日は、「正しさハラスメント」をやってしまう人間の心理について、書いてみようと思う。

マサカリを投げるプログラマーに限らず、もっと広い分野の技術者が対象の話になる。

今まで自分が見てきた人間に対する経験談で話すことが多いが、20年はこういう人間を相手にし続けているから、それなりに叫びたいことはある。

 

 

目次:

 

1.愛で生きる人間と、理屈で生きる人間

以前の記事で、「愛で生きる人間」と「理屈で生きる人間」のことを書いた。

clacff.hatenablog.com

 正しさを否定する人間とは、「愛で生きる人間」の方だといえる。

「『みんな』で盛り上がっているのに水を差すなんて無粋な!」という思想。

あるいは、「『自分』がせっかくいい気持になっているのに余計なことを言うな!」という思想。

人間至上主義であり、他人至上主義である。そしてこれは、人間の生存本能に近い思想であり、歴史が長いのは断トツでこちらの方だ。

人間はサルの一種に過ぎない、ということで目標を確定してしまうのならば、「愛で生きる」と言う選択肢を採用することも、アリだとは思う。個人的には嫌だけど。

 

それに対して正しさを求める人間とは、「理屈で生きる人間」の方だといえる。

一つでも間違っていればそこから先に積みあがることは全部間違っている、という思想。

議論と記録によって、人類は無限に進化ができる、と考える思想。

実際に、今までの人類の科学や技術は、このような思想で作られている。

 

愛で生きる人間は、人間という種の本能を最高裁判所にしているが、理屈で生きる人間は、今まで人類が積み上げた知恵と実績を最高裁判所にしている。人類の知恵はすべての宇宙・概念にまで及ぶため、人間と言う種だけに限定した愛よりは、確実に正しい結論は出る。

 

「正しさハラスメント」をする人間は、理屈で生きる人間の方なのだろう。

気付いて指摘ができる以上はそれは正義であり、議論だけがすべての正義を作る。

「理屈で生きる」という思想においてその姿勢は正しいし、自分もそう思う。

 

 

2.「成長したくない」という中二病

正しさは、正義である。理屈を振りかざすことは正しいことであり、どんどんやればいいと思う。

しかし、その振りかざしている理屈が未熟であり、それを反省する気もないというならば、それは害悪だ。

 

clacff.hatenablog.com以前、理屈と中二病に関する記事を書いた。ここでも、「技術的な正しさを押し付ける人」の卑小さについて書いている。

・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?

・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?

「正しさハラスメント」をするような者は、こういった「次に当然出てくる問い」に答える能力すらもっていない。だから、中二病だと言うんだ。

 

自分のブログに、未熟で危険なプログラムを載せて、「よくわからないけどこんなの作ってみたよ!コピペするなら自己責任でね!」と書く行為。

この行為自体は、何一つ間違っていないし何の罪も規定されていない。

「よくわからない」ということも、「自己責任だ」ということも、すべて完璧に事実なんだ。

 

「間違ったことは即座に指摘する。その上でしか正しい世界は作られない。」という思想は正しいが、「議論だけがすべての正義を作る」という思想が意図的に無視されている。

マサカリはいい。いいんだけど、「もっと大きなマサカリ」を認めることができなければ何の意味もない。自分がおこずかいで買ったナイフよりも、大きくて鋭い刃物があれば、それを認めて取り入れる度量がない場合、どんな刃物も偽物になる。

普段プログラミングとか難しいことを考えているくせに、こんな簡単なことにだけは絶対に気付こうとしない。

 

そりゃ確かに、仕事の上のプロダクトで間違ったコードを書いているならば問題であるし、正しいと勝手に保障して使用を推奨したりするのは問題であろうが、「正しさハラスメント」をするような人間にはそんな判断力はない。自分のパソコンでオフラインでやっているだけでもなお、対面で躊躇なくハラスメントを繰り出してくる。

 

 

3.中二病が振り回せる正義の限度

「正しさハラスメント」が中二病の産物になりやすい理由として、「正しさの上限を一人で勝手に決めれてしまう」というものがある。

 

セクハラとかアルハラとか、そういうハラスメントでは線引きが難しいという事実はあるが、それでも一応、定義に限度はある。全く近寄らずに話さずにいればそうそうセクハラはならないし、アルコールも対象がはっきりしているだけに分断することは可能だ。

 

しかし、「正しさハラスメント」の場合は、そいつの知性のレベルに合わせて限界が勝手に決まってしまう。これが恐ろしいところだ。

例えばセキュリティ的に正しいとか危険だとか言っても、じゃあそれで完璧かといったらもちろん完璧ではない。その処置も別のベテランから見ればハラスメントの対象になる。

それに、技術の世界においては、そもそも一つの処置だけが正解だといえるほど単純でもない場合がほとんどだ。また、後出しで突っ込みを入れる方が絶対に有利という条件も大抵の場合で無視されている。

 

科学も技術も、一人の人間だけが完璧に知ることなどできはしない。というか、完璧に知ることが不可能であるから、進化がいつまでも続いていくわけであって。

自分の理解がすべてである、と言い切って議論を否定するならば、それですべての理屈を否定することになる。

・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?

・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?

という簡単な問いにすら答えることができていないというのに。

 

なお自分の経験上、「正しさハラスメント」をする者に対してこういう問いを突きつけると、大抵の場合でファビョるか白痴化する。答えを聞いてから意見を曲げる後出しジャンケンすら平気でやる。

 

「正しさハラスメント」に耽る者は、無知の知を理解しようとしない。

自分がものを知らないということを絶対に認めようとはしない。

マウンティング合戦で勝つことでしか心の平静を保つことができない未熟な精神だから。

他人を踏めるような信頼関係もないのに、自分の持っている正義だけが言語だと思っている。

こんな人間に、自らの礼儀を鑑みる能力などありはしない。

 

 

4.自分の経験則を勝手にまとめると

clacff.hatenablog.com

以前の自分の記事で述べたように、インターネットは、最初は弱者のものだった。だから弱者の言論が優勢になる。

冒頭の記事から引用して、

・現実に差別が多いからポリティカル・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実に違法行為があるからリーガル・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実にニセ科学が蔓延してるからサイエンティフィック・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実に非効率的なことが多いからコスト・コレクトネスを声高に叫ぶ。

 現実で弱者の立場に追いやられて、こういった「嘘の矢面」に立たされてきた人達だから、貪欲に病的に正義を求め続ける。

 

そうした不幸な生まれがあるゆえに正義を求めるのだが、しかし、そのやり方が未熟すぎる。

正義で生きているくせに、自分が負けるのが怖いから、より正しい正義を認めようとしない。

 

それどころか、本当は虐げられた記憶すら持っていないのかもしれない。「正しさハラスメント」を繰り返してきた人生なら、その場だけなら一方的に殴り放題で負けることは絶対にないから。自分が未熟で弱かった歴史を「黒歴史」として隠してしまうなら、そりゃそこから先は常勝無敗に決まっている。

それゆえに、何が間違いかもわからずに、叩けるところだけを叩き続ける。

それが、正しさハラスメントをする人間の正体だ。

 

例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。

危険なことなら厳しくして当然とか、指摘してもらえるうちが花とか、そういう古いことを言ってて本当に信頼関係が築けると思っているのだろうか?

 

「本当に自分は威張れるほど他人のことを考えた指導ができているのか?」と、よく考えてみてほしい。どうせできないだろうし、義務もないけどさ。

 

 

 

 

【住民税】ふるさと納税に対する解釈【自由化】

 

そろそろ年末ということで、ふと「ふるさと納税」のことを思い出した。

自分の好きな自治体に寄付ができて、豪華な返礼品がもらえる、何かお得なシステムであるらしいが、詳しいことはよく知らなかった。

そこでこの週末にちょっと調べてみて、実際にふるさと納税をやってみた。

 

使用したサイトは以下のサイトです。

www.furusato-tax.jp

2015年度からは、一定の条件を満たせば確定申告が必要なくなった。

年収300万円~ぐらいの給与所得者ならば、上記のようなサイトで、2000円均一のAmazonをポチるような感覚で、豪華返礼品がゲットできる。

 

現段階での自分の理解を、記事にまとめてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

 

1.「ふるさと納税」の紹介

ふるさと納税自体は、数年前からテレビCMも時々やっているし、何やらお得そうなシステムだということは知れ渡っている。

しかし、「数万円払って高級なカタログギフトがもらえる程度だろう?」と今まで自分は思っていた。そして、もちろん確定申告などの手続きが超面倒くさいのだろうと思っていた。

 

もらえる商品については、もちろんカタログギフトもあるが、かなりいろいろなものから選べる。

f:id:cLaCFF:20161225222802j:plainこんな一覧から、Amazonみたいにサイドバーから選んで、クレカで「注文」することができる。

和牛とか地元の果物だけでなく、旅行券や家具や雑貨もある。あとなぜか包丁がやたら豊富。その自治体の特産品だけでなく、普通にホームセンターで売っているようなものも選べる。団体や事業への募金みたいな形でも消費可能だ。

 

手続きもすごく簡単になった。2015年度からは寄付限度額が2倍になり、「ワンストップ特例制度」というものができて、確定申告などをしないでも、次年度からの住民税を自動で割り引いてくれるようになった。

寄付限度額の範囲ならば、実質の自己負担は固定の2000円。40000円寄付した場合は、次年度の住民税が38000円安くなる。

 

2015年以前のふるさと納税は、確定申告が前提のシステムであった。

だから自営業とか、勝ち組ブロガーとかが主にやっていたシステムだった。*1

 

2015年度からはこの「ワンストップ特例制度」を使えば、源泉徴収のサラリーマンでも、封筒で書類一枚と身分証明をおくるだけで、ふるさと納税をすることが可能になった。

ワンストップ特例制度を使ってふるさと納税をする条件は、大体以下の三つぐらい。

・給与所得者であること

・住民税を払っていること

・自分で確定申告をしないこと

 

 

あとは寄付できる自治体は1年5つ以内で、年収や家族構成によって寄付限度額が決まる。

www.furusato-tax.jpこのシミュレーターでかなり簡単に計算ができる。

例えば年収400万円なら、1年で4万円分ぐらいは、このサイトで「2000円均一」の買い物ができる。

 

 

2.「ふるさと納税」の性質の理解

ふるさと納税ってなんでこんなおいしいシステムなのか?どうせ裏があるんじゃないか?ということをやはり想像してしまう。

ざっと検索した限りでも、「好きな自治体に寄付できる」「返礼品がもらえて税金が安くなる」ぐらいのことしかプッシュされていない。

そこで、自分がいろいろ調べて「ふるさと納税がお得になり得る理由」を勝手に解釈してみた。

 

ふるさと納税とは、つまり住民税を寄付する場所を自分で選べるというシステムである。

 

従来の住民税とは、その自治体に住んでいれば、年収に応じた額を嫌でも払わなくてはならないものであった。

そして自治体にとっては、ただ住民を抱えてくれば勝手に入ってくる金だったともいえる。

インフラが整っていて人口が多い自治体ならば、左団扇でガッポリ儲けれたわけだが、そうやって人口を取り合っていると、インフラが整っていない田舎の自治体が損をするようになってしまった。

 

そこで、人口だけで自治体の品格や予算が決まってしまうのは不公平だ!として、住民税の納付先の自由化が制定された。

人口が少ない自治体でも、魅力的な返礼品や寄付先事業でアピールができるので、勝負になる。納税者が負担する2000円の固定額については、税金の総額も増えることになる。

納税者としても、ただ住んでいるだけで特に思い入れもない自治体に住民税を払うより、自分の好きな自治体に住民税を払えた方がいい。納税の義務を勉強して実感することにもつながる。

 

もちろん自由化されたのは住民税の総額の1割ほどであるが、その住民税を「うちの自治体に落としてくれ!」とアピールをしているのがふるさと納税というものだ。そのため、豪華な返礼品などを用意している。その返礼品が例え高価で赤字ギリギリであっても、よその自治体の住民税を奪ってこれるのだから、アピール合戦には本気になれるわけだ。

 

このように、ふるさと納税とは住民税の納付先の自由化、つまり奪い合いであるといえる。

だから、ふるさと納税という名称であっても、自分の自治体には寄付できない。最初から入ってくる予定である住民税なら、わざわざ競争する意味がないからだ。*2

 

またふるさと納税による税金の控除は、必ず住民税から引かれる。*3

だから、元々の払うはずだった住民税以上の額は寄付できない。*4

払うべき住民税は年収と家族構成で決まるため、ふるさと納税の寄付限度額も年収と家族構成によって上限が決まる。

年収が多い場合は、住民税の額も多くなるため、その分多くの額のふるさと納税ができる。

家族が多い場合は、その分住民税が割り引かれているため、ふるさと納税ができる額も低くなる。

 

 

3.「ふるさと納税」の問題点

以上、ふるさと納税がなぜあんなに高価な返礼品を出せるのか、を考察してみた。

ちゃんとそれなりに現実的な理由があるように思える。

 

納税者の側の注意としては、最初にまとまった額の金額を出さないといけないということだ。返済は一年かけての分割払いになる。

それと、来年払う住民税が減るので見かけの手取りは増えるが、別に年収が増えるわけではない…

納税者側のデメリットはこれぐらいで、あとは、多少手続きがあったり調べる手間があるぐらいだ。

それさえ乗り越えてしまえば、毎年何万円かは、「2000円均一」で豪華賞品を選ぶことができる。

 

国や自治体側からみれば、たぶんデメリットは結構あるのだろう。

税金の総額が定額の2000円分だけは増えるとはいえ、その実態は奪い合いなので、今まで胡坐をかいていた自治体や、競争力のない自治体は損をこうむることになる。

 

また、このお得なふるさと納税と言うシステムは、払っている住民税が多ければ多いほど、納税者が得をできるシステムだともいえる。

すなわち年収が多い金持ちほど得ができてしまうので、税金の逆進性がある。

転売にそのまま使えるような高価な返礼品が多い、というも問題だ。

 

そういったデメリットを考慮したうえで、国はこのふるさと納税と言うシステムを整備してくれた。

納税者としてはもちろん得であるし、税金のことを理解して国政に参加するいい機会であるので、自分が使って得なうちは使い続けようと思う。

 

 

(なお、この記事は cLaCFFによる個人的な理解であり、cLaCFFは今回初めてふるさと納税をしてみた程度の人間です。間違いの個所を見つけたらぜひ指摘してください。)

 

 

 

*1:サラリーマンでも確定申告をする機会はないことはない

*2:返礼品がいらないなら寄付自体は一応可能だが。

*3:確定申告をする場合は所得税からも少し引かれるが

*4:ふるさと納税による住民税の自由化は全体の1割なので、正確にはもともとの住民税の10%だけ。

芸術や科学を、「最後の秘境」に誰がした?

 

こんな本が発売されているということを知った。

中身はまだ読んでいないが、レビューや感想文などは見てみた。

娯楽としてはなかなか面白そうな本だ。

 

それと同時に、このような記事も発見した。

moro-oka.hatenablog.comこの方は芸術分野のことについて書いているが、自分は自然科学の分野において同じような経験があり、記事を書いている。

 

自分自身、いまだに嘆き悲しんでいる差別問題であるので、今一度書いてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

 

1.専門家に対する、「愛の強要」

自分が以前に書いた記事というのがこちら。

clacff.hatenablog.com

この記事を大体要約すると、

・何かの専門家は、「その分野への異常な愛」を持っていなければならない、という偏見。

・その分野が専門的で理解できないから、その説明として愛を強要する。

・愛だけの天然クンを祭り上げてトップに立たせてしまうと、その分野が崩壊する。

 

今回の記事で挙げられていた、「芸大生は天才変人奇人である」という決めつけは、自分が言いたい話と同じ話である。

彼らが言う、「天才変人奇人である」とは、「人生・人間性・社会性をかなぐり捨てて、芸術のみに生きる人間である」という一方的な決めつけである。そういった「すべてを捨てて凝縮された愛」という武器を使って、芸術という世界に生きているのだと思い込んでいる。

 

ハンターハンターに出てくる「制約と誓約」みたいなものだろうか。人生の条件を縛り、多くのものを捨てたことにより、残った愛が常人では考えられないほど強くなる。難しい分野で超人的な活動をしている(ように見えている)から、こういった犠牲的な手法を用いているに違いない、と思い込んでいる。

 

 

2.もともと、変人奇人である必然性がない

こんな誤解が生まれるのも、その専門的な分野が理解されていないのが原因だ。

 

「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいる

芸大生だって、他人の表現を勉強して、自分が考えたより良い表現を突き詰めているだけだ。その結果作品が出来上がったわけであり、決して変人奇人が口からタマゴを吐いて産み出したわけではない。

 

科学者も芸大生同じぐらいの割合で天才・変人・奇人扱いをされる。

しかし科学はもともと、「発見した経験則を全員に説明できるようにまとめること」を目的とした活動である。

というより、「発見した経験則を説明できるようする」という行為は全て、科学であると言っていい。

大げさな話、家庭の主婦が昨日より上手に目玉焼きが焼けて、自分の娘にその焼き方を教えることができたのならば、もうその主婦は科学者だと言っていい。医学や物理学だって、結局は全部こういう風に作られている。科学の内容に貴賤などありはしない。

 

「理解できないレベルの愛」とか、必要ないし肯定してもならない。

あまりに世間から愛を強要されるに至って、当の科学者でさえも科学の目的を忘れている。

バラエティ番組でいじられる科学者・知識人しか、世間の目には映っていない。

 

確かに、相対的にみれば、こういった芸術や科学の分野にはそれなりに高い能力や珍しい才能を持った人間が集まっているのだろう。

能力の高い者や才能を持ったものが、こういう生き方を選択しやすいような社会になっているのだろう。その事実自体はいくらかは正しいと思う。

 

しかし、科学者や芸大生は、本質的には天才・変人・奇人などではない。

なぜならば、その分野を開発するに当たっては、そんな人間である必要はないからだ。

数学パズルが楽しくて数学の道に進んだ、という数学者はいるだろう。

しかし、魔法陣の計算なんかしているより、プレステの方が楽しいに決まっている。

確かに北極のオーロラは美しいだろう。

しかし、美しいものが見たいだけなら学者なんかにならなくても旅行で北極ツアーに行けば事足りる。

地質学者が、地震が起きるたびにウキウキしてテレビの速報をチェックしたりするだろうか?

しないよそんなこと。

 

科学者や芸大生だって、こういった当然の感覚を持った人間である。

普段もっと頭を使っているんだから、これぐらいのことは簡単に気付いている。

科学も芸術も、変人奇人が遊ぶだけのところではないんだ。

 

 

3.ショーを強いられる立場

理解されていないということは、救われていないということだ。

芸術の分野は、いわゆる一般人から見れば、以下のような存在である。

・理解することはできない

・否定することは難しいから怖い

・でもハタから見ていると面白い

これらの傲慢さや無責任さが入り混じった状態が導き出す回答が、「天才だね」という心無い褒め言葉だ。

本当に天才だと思っているのならば、今すぐすべての芸大生を一部上場企業に内定させてみろ!

偏差値高いし勉強してるぞ!?

 

今回の冒頭で述べた本は、まあ娯楽として読むなら割と楽しいのだと思う。しかし、そんな一時のカタルシスのために、科学や芸術が食い物にされているという現実がある。

その結果、芸大生当人も天才・変人・奇人になりたがってしまう。

というより、勝利の判定をするのは大衆の方であるため、勝つために天才・変人・奇人を目指さざるを得なくなってしまう。

その結果出来上がってしまうのは、「愛しか信じなかった天然クン」であり、こういうやつがその分野を支配してしまうと、芸術の本来の目的すらも自分で言えなくなる。

 

だが、今日の冒頭の記事を読んで、少しは勇気が出てきた。

この記事を読む限り、少なくとも芸術の世界では、そんな天然クンばかりでもなかったようだ。

 正義を信じて戦う人間の意志は、こんな逆境においても残り続けている。

 

 

 

「0円贖罪」というボーナスゲーム

 

megamouth.hateblo.jp

ほんとこれ。マジでこれ。

自分の職場でもこういった「0円贖罪」が日常的に行われている。

自分の場合はプログラムに関することではないが、何か成果を求められる場においては、この「0円贖罪」はどこでも行われることなんだろう。

なぜなら、上から叩ける立場の者にとっては、心地の良い思考停止であるから。

 

今日は、この「0円贖罪」の心理のことを書いてみる。

 

 

目次:

 

 

1.「0円贖罪」とは

あるプロジェクトが遅れてしまって、納期通りに物が作れなかったとき、

スケジュール延期の代償としての追加仕様の実装や、修正ついでの機能追加

 で許してもらおうとすること、あるいは「それで許してやろう」とすることが、今回言われている「0円贖罪」である。

 

プロジェクトが遅れてしまってヤバい(と思っている)のは、どちらかと言えば現場の方ではなくマネージャーや元請けの方である。

マネージャーは本社の進捗会議の時に詰められるからヤバい!と思っているが、そんなどうしようもない状況において、この「0円贖罪」は非常に魅力的な逆転手段である。

 

「0円贖罪」とは、「納期が遅れてしまった」というミスを、先送りにできる手法だ。

「困難なプロジェクトをなんとか成立させた」という評価を得る事ができる。場合によっては、これは「スケジュール通りに、当初の想定の仕様のシステムを完成させる」ことより名誉なことであったりもする(!)

と先の記事で言及されているとおりであるし、また機能の追加が上手くいった場合はそれで完全勝利にできる目だって出てくる。

 

しかし、言い換えれば「0円贖罪」とは、負債のダブルアップである

機能を追加するのに必要な時間もろくに見積もっていないし、追加した機能が別の問題を生む可能性も考慮していない。

せっかくリスケジュールをしたのに、余計な仕事を増やすことでそれを台無しにしている。

もともと自分たちのスケジュール設定が甘かったという点に目を背けて、さらに勝ち目のない勝負に希望をかける。

 

 

2.「0円贖罪」を選んでしまう心理

この「0円贖罪」は、働く側と働かせる側の信頼関係の問題である。

「普段現場の仕事を見ていない上長」や、「開発部門から生産部門」など、プロジェクトが意識の隔たりがある地点を通過するときに、この「0円贖罪」が要求される。

 

たとえ元々のスケジュール設定があいまいであろうと、一度仕事を始めてしまった以上、「プロジェクトが遅れた」という点については、現場側にも一定の責任がある。

そこで「0円贖罪」によってスケジュール延長という慈悲が与えられたわけであるが、それはつまり「仕様の追加できる弱み」を見せたことになる。

上の立場の者にとっては、その点については絶対に負けないし、殴り放題だ。その上マウンティングまでできる。叩く側にとってはボーナスステージのようなものだ。

 

「追加する仕様」の具体的な内容についても、基本的に「信用ならない」という前提で動いてしまう。

マネージャーたちは、「こいつらはスケジュールを遅らせてしまったやつらだ」と思い込んでいるし、「逆境でもちゃんとリスクを計算する俺かっこいい」と思い込んでいる。

「0円贖罪」という絶対に負けない立場に自分たちが立っているから、「そもそもなぜ遅れてしまったんだ?」ということを考えようともしない。理由が分かったところで採択もしない。

 

仕様を追加しろと言いつつも、「お前ら本当にできるの?」とか言ってしまう。

ひどいケースになると、「本当にできるのか納得させてから進めろ!」とさらに無駄な仕事を増やす。元々できるかできないかもわからない仕様であるのに、その責任はなぜか現場が悪いことにされる。

 

リスケジュールを行ったうえでも、締切は依然ヤバい。

その上で仕事の内容にケチがつけられて、「信用できない」という話を出されると、現場としては納期を急ぐという選択肢が取れなくなる。

元々危ない戦いであるのに、マネージャーと現場との信頼関係のなさによって、さらに危なくなっていく。

 

なお、最初から現場の能力に問題があるという可能性もゼロではないが、先日の記事で書いたように、上司やマネージャーというものは、9:1ダイヤのレベルでそもそも絶対的に有利である。

clacff.hatenablog.com

 仕事の内容にケチをつけるのは、後出しジャンケンする方が絶対に有利である。

コミュニケーション不足による誤解は、全部こっちの責任にできる。

 

仲間同士で憎み合う職場が出来上がっているから、こういう叩きあいでマウンティングをとろうする。

もはや正義などでなく、殺し合いでしかない。殺し合いの果てに正義があると思っている。

あるわけねーだろ

 

 

3.「0円贖罪」の常態化

ひどい場合になると、元々大丈夫だったスケジュールを、「0円贖罪」で壊してしまうことだってある。

こんなんじゃだめだ!とちゃぶ台を返すことがかっこいいと思ってしまう心理が、技術の世界においては存在する。

そして、そのひっくり返したちゃぶ台は、「0円贖罪」で完済できると思い込んでいる。

お金をかけてでも、時間をかけてでも、スケジュールを圧縮してでも、いいものを作りたいという行き過ぎた職人気質・ものづくり意識がこれだ。

配慮が足りないクソおたくが技術屋を気取っているから、芸術品ばかりを作りがたる。

 

「転んでもただでは起きない根性」というものは、必ずしも正義ではない。特に、他人との信頼関係や立場の差が存在するのならばなおさらだ。

前提が間違っていたならば、それを認めて大人しく死んでおくことが正義であり真実である。

 

下請けと元請の関係ならば、「0円贖罪」が発生してもまだ「意識の違い」としてあきらめることもできるだろうが、自社内だけでこれをやられてしまうと、クラウドソーシングのような解決策を取ることもできない。

信頼するべき上司に「0円贖罪」をやらされてしまうと、お互いに不信感だけがたまっていく。

当人としては、試練を与えて成長させてやっている気になっているのだろうけど、プロジェクトは遅れて質は落ちる一方だ。

 

まあ、「0円贖罪」なんかやってて安心していられる段階ならば、会社において「信頼し合える仲間」なんてもともと必要なかったのかもしれないが。

 

 

 

【人間】愛で生きるか理屈で生きるか

 

面白い記事が書かれていた。

pipipipipi-www.hatenablog.com

 

人間は、愛情が足りないとおかしくなる。

自分も似たような理論を考えたことがあるので、便乗して記事を書いてみようと思う。

 

人間は、「愛情で生きる」という方式を採用した人と、「理屈で生きる」という方式を採用した人の、二種類に分けられる。

そして愛情の世界から切り捨てられた敗者が、「理屈で生きる」という方式を採用するまでの、道筋を示す。

 

 

目次:

 

 

1.人間にはなぜ愛情が必要なのか?

正しいか正しくないかというだけならば、愛情よりも理屈のほうが勿論正しい。

なぜならば、愛情は人体の内部だけで定義された事象であるからだ。

それに対して理屈は、全ての宇宙・概念にまで広がっているからだ。

人間が手に取る武器としては、理屈は愛情の上位互換、といっても差し支えない。

愛情と理屈は、どちらを採用するかというのにはまだ議論の余地があるが、どちらがより広くて正しいかといえば、間違いなく理屈のほうが広く、正しい。

 

しかし、人類は何万年か前に誕生した時は、愛情の方を採用していた。

多くの人間が群れを作って、食料を集めて労働力を確保していた。

そうした本能が何万年も続いたため、現代の人間にも、「愛情で生きるべき」という本能がいまだにプリインストールされている。

 

愛情と比べて、理屈は成長するまでに長い時間と手間暇が必要だ。

現代のように、情報を保存してコピー・洗練させる時代になったのはせいぜい1000年前ぐらいからであって、人類の今までの歴史に比べればずっと短い。

 

現代人の肉体も、愛情が足りないと危険信号を出す仕様が残っている。

だから、いかに金や正義を十分に持った現代人であっても、誰からも認められずに愛情も受けずにいると、おかしな行動をとるようになる。周りの人や自分の持ち物や自分自身を、壊して回るようになる。

 

正義とは完全に理屈によってのみ作り上げられるものであるが、人間自身は完全に理屈だけでは生きることはできない。どんなにため込んだ理屈であっても、最後は「当人の信じる力」がないと運用できないのだから。

 

 

2.愛で生きることを採用した人たち

人体には愛情が必要だという歴史と本能があったわけだが、愛情で生きればいいかといえば、そうでもない。

 

「愛情は理屈に比べて範囲が狭く、愛情の方を採用していると人類の進歩が遅くなるから」という理由はそこまで重要ではない。

別に人類の進歩の速度が一定以上でなくてはならないなんて理由はないし、理屈を考えないで本能で生きていられるというのは、理屈の側から考えても、それなりにユートピアであるといえる。

 

愛情で生きることの何がヤバいって、人間が行使できる愛情が有限であるからだ。

 

無償の愛はあったとしても、「無限の愛」というものは基本的に無い。

人間が他人を配慮できる数には、精神的にも物理的にも限度がある。

他人へ意識配分も、愛情を確かめるための貢物も、人口の欲求に対して総量が不足している。

 

人間は、目は二つ・頭は一つしか持っていない。

家族であっても、たった十人かそこらで目が届かなくなる。恋人なら三人もいれば頭はぶっ壊れる。

つながりの薄い友達組織ならば、100人ぐらいまで大丈夫かもしれない。ということはつまり、人口を増やすためには愛情を薄めないといけないというわけで、人体が愛情を求めるのならば、人口を減らさなくてはいけない時が必ず来る。

組織を分割するという手段を使ったとしても、愛情の効率が悪くなるだけで必要な愛情の総量は変わらない。

ドラクエ3のパーティーに5人目を入れようとするときのように、必ず誰かを不採用にして切り捨てなければいけない。弱くてどうでもいいやつから順番に。

 

学校の先生も、クラブの先生も、研究室の教授も、会社の部長も、国の大臣も。

本当に愛があるんだったら非リアもオタクもワープアも低学歴も全員救ってくれるはずだろう!?

「全部は無理だね仕方ないね」という事情を一つでも通した時点で、愛情は敗北している。

愛情とは、生と殺に向かって同時に走りださないといけないという、矛盾を抱えたシステムだ。

 

切り捨てられた者にとっては、愛情とはこのように残酷無残なものである。

だがそれでもなお、現代においても多くの割合の人が、愛情で生きる方式を採用している。

 

たぶん、人類はもともと群れで生きる猿であり、現代においても完全に進化しきってはいないのだと思う。

頭脳から発せられる「理屈を求めよ」という好奇心や使命感を遂行するためには、まだ人体の方の進化が追い付いていないのだと思う。

 

 

3.「愛情で生きる」の真の姿

愛情で生きるという生き方は、すなわち「人間至上主義」だと言い換えることができる。

そして、この「人間至上主義」というのはだいぶ危険な思想だ。

自分や他人の人体が愛で満足できれば、それ以上の理屈は必要がない、ということを意味している。

 

愛が満たされていれば理屈はどうでもいい。

例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という標語がある。この標語はもちろん理屈としては間違っていて、トラックが突っ込んで来たら全員死亡する。

しかし、みんなと一緒ならば死んでもいいという思想がこの標語の意味だ。

「人間至上主義」を信じてしまうと、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という嘘の理屈を通してしまうことができる。

 

さらに「人間至上主義」は、そのまま「他人至上主義」になり得る。

愛情は自分だけでなく他人にこそ向けるものだから。人口が増えれば増えるほど、他人の割合が増えていくから。

思考を他人に委託すれば、自分は思考停止ができる。

「~さんが言っていたから正しい」。「周りの人が買っているから買う」。

こういった正義も、「他人至上主義」ならば採用されてしまうわけだ。

 

愛情で生きるというのはこのような考えであるが、人間が本能にしたがって生きるのならば、これはこれで正しい生き方だともいえる。

愛情で生きるということは、満たされなかった人を切り捨てるということだが、自分だけは絶対に切り捨てられないカーストの上位である、という前提を信じ込めば、「人間至上主義」も胸を張って誇れるだろう。

「自分は人間なのだから人体以外のことは知ったことではない」という考えも、採用するのはアリだろう。

 

 

4.「理屈で生きる」という生き方について

愛情で生きる、という生き方を突き詰めてしまうと、このようなことになってしまうし、実際にこういうことになっている。

 

このように愛情による世界の運用を強行すると、愛情の世界から切り捨てられた者がたくさん現れる。

そしてそのうちの何割かが、「愛情なんかで人間の価値を決めるのはおかしくねぇ?」と言い出した。

 

だって自分が特に劣っているわけでもないのに、なぜか世界から切り捨てられて、本能を満たせないみじめな状態に陥っている。

自分が切り捨てられたことも含めて、現代における大抵の不正・ルール違反は、「人間至上主義」と「他人至上主義」から生まれていることにも気付いてしまった。

 

切り捨てられた者たちは、その状況に至って、彼らの不正を証明するために「理屈」という武器を持ち出した。

「なんでやつらに俺たちを切り捨てる権利があるのか」ということを考え始めた。

すると、割と早い段階で気付く。「愛情なんて所詮人体だけの現象じゃね?」と。「俺たちはこの程度の奴らに裏切られたり許されたりしていたのか」と。

 

そうして、愛情ではなく理屈で生きる方式を採用した者たちが誕生した。

理屈は、自分たちを裏切った愛情と違って、嘘をつかない。例え「自分が死ぬべきダメ人間であった」という理屈だったとしても、納得して死ねるなら満足ができる。

理屈は、コピーしてもなくならない。愛情と違って無尽蔵である。これならば、奪い合うこともなく正義に向かってのみ走り続けることができる。

 

「愛情」に切り捨てられた者。「理屈」で生きる者。

すなわち、現代における孤独でキモいオタクや、危険思想をばらまくブロガーなどがその「理屈で生きる者」にあたる。

彼らはこのようにして「理屈」という危険で崇高な武器を取った。自らが生き残るために。

自らが生き残るためならば、理屈という武器のもとで、テロや迷惑行為だって平気でやるだろう。

 

逆に、愛情に裏切られたという経験が無いまま理屈という武器を使い始めた者は、ニセモノである可能性が高い。いつでも「理屈」を裏切って「愛情」の方に逃げれるというのならば、そこですでに「理屈」が成り立っていないからだ。

 

 

5.愛情の世界で理屈が生きるために

以上、自分が考えた「なぜ理屈っぽい人間は孤独でキモくて危険なのか」という理論を綴った。

人間には、愛情を信じる人と理屈を信じる人の二種類がいる。言い換えれば、正論という言葉を悪口として使う人と、神として尊ぶ人の二種類がいる。

 

現在のところは、社会を支配しているのは「愛情」を信じる人の方が優勢である。以前の記事でも述べたように、日本では7割の人間が「ものを考えない人」であり、上流階級の人間も、その7割の人間をどのように利用しようか、ということしか考えない人である。

 

しかし「理屈」を信じる人間であっても、愛情を信じたいという本能はいまだに残っている。それを解消できないからイライラしているわけで。

敗北を一部認めてでも、7割の人間の方に入っていかないと、このイライラは一生消えない。

 

自分は、愛情も理屈の一部なんだと思う。

それを認めて、理屈を持って愛情の世界に入っていけば、人生ははかどるし、理屈はさらなるパワーアップができる。

そう考えている。

 

 

 

【少年漫画】相手の自信を折れば強く育てれる【読みすぎ】

 

news.livedoor.com

togetter.com

 このような記事が話題になった。

「詐欺師症候群」という言葉は、医学的に認められた症状ではないが、最近になって作られた言葉でもない。1972年から存在しているそうだ。

 

「詐欺師症候群」って、日本においてはかなりの割合の人が、多かれ少なかれ身に覚えがあると思う。

何か成し遂げたら「それが当たり前」と言われる。自信を持ったら「上には上がいる。つけあがるな」と言われる。学校教育においてこういう言葉を必ず聞かされるからだ。

 

他人の「自信を折る」ということには、どういった意味や効果があるのだろうか?

自分の考えを書いてみる。

 

 

 目次:

 

 

 

1.「自信」とは、何に使用するものなのか

自信という言葉は、自分を信じると書く。

自分を信じて何になるかといえば、「自分自身に対する理解」が確かめられることであろう。

自分自身を理解するということは、自分自身が意思や行動を決定する力を意味する。

どんな小さな行動であっても、自分に自信がなければ、自分の意志では行動できなくなる。

 

別にこれは、あいまいな精神論などではない。

例え理数科学であっても、人間が作成して運用している以上は、確実にどこかで「信じてエイヤと踏まなくてはならない部分」が存在している。

「分子は原子の集まりである」だなんてことは、誰も保証などはしていない。

「1+1は2である」というのは、人間自身が勝手に決めたことだから正しいのかもしれないが、それにしたって「この文言を見た人間全員が、今まで全部計算間違いをしていました」という可能性がゼロだとは断言できない。

どんな理論や科学も、その中身は「そう信じるならばこういう結果が導かれる」という例を組み上げた集合体でしかない。

 

人間が行うすべての思考や行動は、「信じること」によってのみ確定される。

自信は、自分が思考をして生きていくためには絶対に必要なものであり、仕事にだってもちろん必要だ。スポーツ選手や創作の分野だけではなく、本当に自信を奪ってしまうと、ただのデスクワークはおろか刺身にタンポポを乗せる仕事すら成り立たなくなる。

 

自信とは、「折るべき天狗の鼻」などでは断じて無い。

 

 

2.「挫折が人を強くした」という例を挙げよ

自信とは、人間が生きて行動をしていくうえでこんなにも大事なものなのに、他人の自信を砕くことで悦に浸るような悪趣味な人間が、多く存在している。あろうことか、教育機関や企業の上層部に。

 

「挫折させれば強くなる」などという思考は、少年漫画の読みすぎだ。

いや、この記事のタイトルにもそう書いたが、本当は違う。少年漫画の内容すら正しく読めていない。

 

いくつか古典的な例を挙げてみよう。

例えば原作8巻の時点で、初めて悟空を完璧に負かした桃白白@ドラゴンボール

この例では、悟空が「今の自分より強い敵を倒さないといけない」と認識し、即座にカリン塔へ修行に向かっている。

これは次の展開に必要な情報が開示されただけの例であり、そもそも挫折などしていない例だ。

 

あるいは、傲慢な心から下半身不随になり、そこから這い上がるためにレースに参加したジョニィ・ジョースタースティールボールラン

挫折がジョニィを成長させたというのは結果論であり、最初から挫折がなかったら、こんな冒険はそもそも始まっていなかった。

「ただマイナスからゼロに戻りたいだけなんだ!」と作中で何度も言われている。

 

後有名な例としては、独房に入れられて「僕はあの人に勝ちたい…!」とこぶしを握るアムロ・レイ機動戦士ガンダムだろうか。

あのときブライト達は、アムロが現状持っていた自信を折るために独房に入れたのでは断じてない。チームワークを乱した罪、ガンダムを勝手に持ち出した罪に説明をつけるために、独房に入れた。

云わば、「よけいなことする」という悪い自信を折ったという処置であり、元々あった自信を折ってどうこうしようという目的ではなかったアムロが独房から出た後だって、「余計なことをしても失敗しないようになった」なんてわけでも全くない。

 

以上、パッと思いついた有名な例をいくつか挙げたが、「挫折したから強くなった」という例は、少年漫画においてすらあまり無いように思うんだ。

間違った自信を折ったことで強くなった、という例はあるが、折ってはいけない自信が折れてしまった場合は、確実に最悪な結果になっている。そのマイナス状態から頑張ってようやくゼロに戻った、という物語になる。

 

まあより高次的な話を無理やりすれば、挫折という特殊な精神状態と、戦っていないという時間と作業の余裕が、何か役に立つことを生み出すということはあるかもしれない。落人群で落ちぶれた剣心@るろうに剣心なんかはそんな例だろう。

 

獅子は千尋の谷にわが子を突き落すという逸話があるが、これは美談ではない。間引きだ。

ただ落とすだけでは危険な思考停止でしかない。そして失敗した結果は落とされた本人が負う羽目になる。戦っていないという時間と作業の余裕も与えないというのでは話にもならない。

 

 

3.折られても成長をしなければいけない被害者たち

もちろん、人が戦士として成長する過程においては、挫折をしてしまうこともあるだろう。

しかし、挫折したからと言って強くなるというのは完全に間違いだ。

もしGP01が最初からフルバーニアンだったら、シーマのゲルググは最初から圧倒できていた。最初からちゃんと自信を持っていれば、大抵のケースで、挫折させられたよりもいい結果が出る。

 

お前より強いやつがいるんだぞなんて情報は、多くのケースで必要ない。

本当の戦士ならば、そんなことはとっくにわかっているからだ。

上がいるからこそ、自分が今まで強くなってきたに決まっているのに、そんな当然の事もわかっていないことにされる。

こんな暴言を吐く相手が、ただの無関係な人間や敵ならば、無視ができるだけまだマシだが、それを師匠や上司が言ってしまうと、相当の失望を向けられることになるし、チームとしてのパフォーマンスも台無しになる。

 

最初の記事でも述べられているように、「助けてくれた人がすごかっただけで、私の実力ではない」と。折られた者は考えるようになる。

もし師匠や上司が、相手の自信を折り続けるならば、これが本当のことになってしまうんだ。折られた者は、その状況で完全に正しい判断をしていることになる。

 

自信という武器を取り上げられたまま戦うことを強いられる被害者たち。

そんな状況で結果が残せるのなら、確かにそいつはすごいやつなんだろう。

「這い上がってくるなら本物です」ってバニング大尉も言っていたが、本物だったらそもそも一人で成長できる。

 

 

 

 

【円グラフ】「あいまいな判断」を武器として逆手に取る戦法【統計の嘘】

 

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先日自分がパソコンを立ち上げてみたら、こんな画面が出てきた。何かをインストールしろと言っているようだが、面倒なのでいつも無視している。 

 

ところでこのグラフは、統計結果を表す際に、一か所ずるい表現が使われていることに気付いた。

この手法について調べても意外と出てこなかったので、その詳細を調べてみた。

 

また、統計データというものとの付き合い方と、その判断をする権利のありかについて、まとめてみる。

 

 

目次:

 

 

 

1.「嘘統計」に対する耐性の進化

ここ10年かそこらで、「統計データの嘘」というものはずいぶん見破られやすくなったと思う。インターネットによる情報革命により、昔は押し通せていた嘘が、すぐに指摘されるようになった。

 

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例えば、ニュース番組でこういうグラフが出てきたら、すぐにツイッターで突っ込みが入るようになった。インターネットの普及により、個々の判断力による正義は着実に育ってきているように思う。

 

統計データで嘘をつく手法の実例は、検索すればたくさん出てくる。

以下のサイトは見やすいしお勧めだ。

id.fnshr.info

 

また、こんな風に偽グラフをでっちあげてくれるような面白ツールも見つかった。

Wonder Graph Generator

 

 

2.円グラフという表現手法について

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そこで改めて今回のグラフをみると、円グラフが0時から始まっていない。

円グラフが0時から始まっていない故に、56%という数値が上からかぶさる形になり、より大きく見えてしまう。56%のピースが、円の90度単位の区切りのなかで一番目に入りやすい0時の線を突破していることで、より大きく見えているように思う。

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例として、同じような5%・9%・30%・56%のグラフを三種類並べてみた。

56%という項目を一番強調したいなら、確かに一番右のグラフがよさそうじゃない?

 

しかしさすがパソコンの会社であるDellが出しているグラフであり、それ以外にはそこまで嘘はないように思う。数値の割合は角度の通りだし、色使いにも不自然な点はない。

項目の分け方が「データ損失に備えてバックアップソフトを用意しろ」という結論に向けているようには見えるが。

 

そこで今回重要な点は、「円グラフは0時から始めないといけない」というルールは実は存在していないということだ。エクセルの機能でも、簡単に回転ができる。

 

円グラフは元々、通常のxyグラフなどのように、科学の世界で定義されたものではない。最初に使い始めたのはコンサル業界であるらしい。

色々調べてみたが、JISや業界規格といった、科学以外で円グラフのルールが定義されている共通の文書も、見つからなかった。

 むしろ、円グラフはあいまい表現だから使ってはならない、という例はいくつか見つかった。コンサル会社などでは、このような教育がなされているらしい。

 

そういうわけで、今回Dellはルール違反もしていないと言えると思う。

「特定の結論に導きたい」という意志は発揮されていたのかもしれないが。

 

 

3.統計結果を表現するルールについて

統計学とは表現手法の研究であり、証拠や経験則を提供する目的の分野ではない。

統計学は数学と同じで、人間がルールを作り、それを解釈して利用する分野である。

自然科学というよりは、文学に近い。

 

大げさに言えば、統計の表現にルールなどない。

円グラフや棒グラフなどは、読者の目に馴染みがありそうだからその場で選んでみた手法、といった程度の意味でしかない。

「円グラフはコンサル会社では使われていないから使っちゃダメ」ということも、そのコンサル会社の範囲の正義でしかない。

 

さらに言ってしまえば、例えばこれのようにデタラメな円グラフであっても、「新しい表現方法のグラフです!名前は”えんぐらふ”です!」と言ってしまえば、問題がないことになる。

一応、判断材料として役に立たないということがすぐにばれてしまうから、表現方法としては定着されないで駆逐されていくが、そうやって駆逐されるまでは有効性を帯び続けるわけだ。

 

 

4.人間の知性に伴う、「判断をする責任」

統計結果は自由に表現が出来るものであり、それ自体は何かを証明する証拠にはならない。

統計結果を見て、それをどう判断するかは別の問題である。

本当に重要なほうは、統計の表現方法ではなく、それをどう判断するかの方だ。

 

例えば、市民の全員にアンケートをして、「喫煙者は~%でした」という統計結果を得られたとする。

この「喫煙者は~%だった」という地点までならば、全員に共通の事実であると仮定できるが、それで「喫煙者が多い」と言う判断をすることは別の問題である。

多いか少ないかの判断は、各自に委ねられるあいまいなものだ。

 

当ブログの参考文献の記事でも書いたように、根拠が示された後に、判断するのは読者の仕事である。例え参考文献がウィキペディアであろうとも、その内容が現状で正しいのならば、それは有効である。

clacff.hatenablog.com

 その判断を他人に委託しようと思うのならば、いくつかの権限は捨てなければいけない。

理解の手間を割くことができない、という事情で、判断をゆだねるということは有りだが、その場合は判断結果に文句を言ってはいけない

判断をゆだねることを辞めるか続けるかは選べるが、判断結果にケチをつけることはできない。

 

 

5.判断をする権限を、武器に転用する者たち

また、統計は判断材料にはなるが、それだけでは完璧な証拠にはならない。

どんなに情報がそろっていても、すべてを完全に証明できるなんてことは自然界にはあり得ないため、最後の判断自体は、誰かがエイヤと踏まなくてはいけない。

 

それはそうなのだが、では誰がその判断をするのか?

先述したように、読者それぞれが判断をすることになっているが、会社などの組織で判断をしなければならない場合は、その役割と権限を委託されている社員が行うことになる。

すなわち大抵の場合で、「上司」が行うことになる。

 

責任を持った上司が「判断」をしなければならないわけだが、統計データというものは、元々絶対的な答ではないため、そのあとの判断については曖昧さを含ませざるを得ない。

そういう状態で、先日の記事で述べたような、権力を持った側の「チート武器」が好き勝手に使われる。

clacff.hatenablog.com

 権力を持った側が、答えを一方的に制定できてしまう。

その一方的な判断をするのに、データが多いとか少ないとか言った要求をすることが出来る

判断の権限を一旦渡しておいて、すぐに取り上げるというカウンターも可能だ。

統計は判断材料にはなるが、証拠にはならない、という事実を意図的に無視できる。

 

 

統計データという判断材料は、「武器」である。

マスコミや上司など、その武器を一方的に取ることが出来る強者も、世の中にはいる。