愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を徹底的にこき下ろす

 

4月になって新年度が始まりました。

この度、新入社員になった若者も多いと存じ上げます。

 

新入社員は、OJTを担当する先輩や直属の上司から、以下のような言葉を聞くことがあると思う。

「新人のうちは何でも質問できる特権がある」

「最初のうちはどんどん質問して、立派な~になってください!」

 

最初の研修のときに大抵の職場で高確率で言われることであるし、場合によっては入社式で社長が直々に聞かせてくれるかもしれない。

 

学校では意外と聞かなかった言葉だよねこれ。

これから社会人を頑張るぞ!と意気込むあなたに、ぜひ聞かせたい。

「こんな言葉は大嘘である」と。

 

今日はこの「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を、徹底的にこき下ろします。

 

 

目次:

 

 

 

1.なぜか「三年」

まず、わかりやすい矛盾点を一つ上げる。

 

この「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念は、なぜか「最初の三年は」と区切られているケースが多い。

そしてこの数値に何か意義や正義があるかといえば、ないんだなそれが。

 

一つの道を確実に学ぶのには、三年なんかよりももっと長い時間がかかる。

本当のところは、五年経とうが十年経とうが、上を目指して学び続けなければならない。

というより、普通は三年も経ったら立場も仕事も変わる。また初めからなわけだ。

先輩や上司は、「いつまでも学び続けるように」とも言っていたでしょう?

つまり二枚舌なんだよ既に。

 

逆に、もっと仕事の表面的なことを学ぶだけならば、三年なんて時間はかかり過ぎである。

やることがはっきり固まっていれば、仕事なんてものはたったの一週間でも慣れて飽きてくるはずである。

三年も経ってできていないなら教え方が悪過ぎであると言えるし、三年経ってできない仕事は覚える必要はない仕事だ。ほかの仕事を頑張ったほうが、会社にとっても本人にとっても得だ。

 

すると残る正義としては、「上司や先輩は忙しいから質問には答えたくない。最初の三年だけ我慢してやる」という、一方的な要求だけである。

何か三年たったら試験を実施したり、質問を禁ずるようなルールをわざわざ整備しているならば話は別であるが、そんなケースは皆無である。

 

どれだけ勝手なことを言っているか、わかってきただろう。

ここまでわかったら、いっそ上司に「お尋ねしてよろしいでしょうか!なぜ三年なのでしょうか?」と聞いてみるといい。十中八九、上司はノリで適当言ってただけだから。

「新人のうちは何でも質問できる特権がある」だとか言っておけば、なにか厳しいいい先輩でいられると思っている。その程度だ。

 

なお、覚える仕事が極端に少ない場合や、教育にかける余裕が全く無いような職場の場合は、しれっと「研修期間の間」「1年間」といったように、勝手に期限が縮められる。

もともと正義や真実なんてありもしない言葉だから、ちょっと状況が切迫すればすぐに手の平を返す。


 

2.知識や技術の出し惜しみ

以前もこのブログで引用した、ジョージ・バーナード・ショーの言葉がある。

 

    もし君と僕がりんごを交換したら、持っているりんごはやはり、 ひとつずつだ。

    でも、もし君と僕がアイデアを交換したら、持っているアイデアは2つずつになる。

 

知識や技術というものは、「他人に渡してもオリジナルは無くならない」という点に、一番の価値がある。

一人が技術を教えれば、技術者がそのまま二人になる。

すなわち、無限にコピーができると言っていい。受け取る側には勉強したり理解したりするコストはかかるが、渡す側はノーコストで味方の武器を増やすことができる。

 

あらゆる科学が、「なるべく誰でも理解できるような形で体系化されている」ように、知識や技術は、互いに共有しあうことによってその価値を高めることができる。

敵対関係にあるような人たちならば話は別だが、同じ会社の仲間であるならば、知識や技術は、好きなだけ・使いたいだけコピーしまくるべきであるんだ。

 

ちょっと想像してみよう。「個人によって秘匿される技術」にどれだけの価値があるかと言ったら、その一人の範囲のみでしか役に立たない技術である。

その技術は使いたいだけ広めるべきであるし、広めないというのならばもう人数が足りているから学ぶ必要のない技術だ。

技術なんてものは、使って役に立てなければ意味はない。

 

だから断言しよう。

「質問は新人のうちの特権」とか言っているのは完全に頭が古い。古すぎる。

武器の共有を無意味にストップして悦に浸る馬鹿がいる。

社内が味方同士ではなく敵同士だというならば、チームワーク以前の問題である。

 

質問は特権でもなんでもなくて、必要に応じて好きなだけ行わなければならない。

「青色のボールペンが使いたいから総務部でもらってくる」程度の気軽さであるべきだ。

技術とはそのようなスピード感をもって活用されるべきであると考える。

 

 

3.「甘え」という概念

基本的に、「甘え」という言葉を他人に使う人間に、まともな人間はいない。

 

質問とは「甘え」ではなく、一番早くて便利な解決方法である。

人間の説明能力にはそれだけの価値があり、本や資料で調べるよりも、ほとんどの場合でよほど有効である。

相手のコミュニケーション能力を信頼して、より大きな成果を上げようという手段である。そのためにはチームワークが必要であり、決して怠けや甘えだとかではない。

 

先ほどの技術の共有と同じ話で、もし上司と部下が互いに敵同士だというのなら、話は別だ。

「質問などするな」という言葉だってアリだろう。

が、同じ会社の同じチームにいて、なぜそれが敵同士になるのだろうか?

チームのマネージメント能力がマイナスに振り切れていると言わざるを得ない。

 

なお上司の側からすれば、この「質問という甘え」という言葉は、いつでも簡単に反故にできる。

上司の側は、部下に聞くことは平気で行える。コミュニケーションだとかほうれん草とか、勝手に理屈をつけて強要することができる。

だってもともと正義などないのだから、どのような形にでも取り繕うことができる。

 

もしあなたの上司が、「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を持ち出したのなら、そいつは見限っていい。というか可能なら始末したほうがいい。

 

なんで、「新人のうちは何でも質問できる特権がある」なんてデタラメが流行ったのだろうか。

職人系や体育会系など、そのような空気でこの言葉はよく使われているような気がする。

ならば少なくともそこは、たった三年で一人前に成れてしまうような浅い世界だったのだろう。

 

 

 

 

【運転免許】選ばれし人間になるために【受験勉強】

 

春先だからだろうか。 以前書いた“自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法”の記事が人気であるようだ。

 

clacff.hatenablog.com

この記事では、“なぜ自動車免許の学科試験はクソ問題になってしまうのか”を解説した。

しかし、“じゃあそれをどうやって生き延びればいいのか”という点については、あまり詳しい話ができていなかったと思う。

 

“人間の思考をやめること”と書いたが、それについて、自分が知っていることを詳しく書いてみようと思う。

 

先の記事でも書いたように、これは自動車免許の学科試験だけの話ではない。

受験勉強における文系科目や、就職活動における圧迫面接など、現代人は人生において多くの場面でクソ問題を強要される。

 

試験に合格した者。社会に許された者。

そんな“選ばれし人間”になるための方法を、書いてみる。

 

 

目次:

 

 

 

1.嘘が通せているという現状

“論理的に考えればどう考えても矛盾していること”は嘘であり、通してはならない。

例えば、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは「無理だよ」と訴える権利があるだろう。

 

まともな思考をしていれば当然そうなる。

論理的であるということは、“人間が今思いつく範囲では一番効率的であり正しいものである”ということに他ならない。

実際に、あらゆる科学や文化はそのように作られている。

論理とは、人間の生態的な感情も処理できる上位互換のメソッドである。

人間が正論を振りかざすことには何の罪も存在しない。もし存在するとしたら、それを踏まえたものが新たな正論になる。

 

だから、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは無理だといえる。正解が存在しないようなクソ問題を解かされたら、「こんなの解けるかボケ」と言い返す権利がある。

 

本当はそのはずなのだが、実際に向こう側にはそれを許さないことができるという、新たな正論がすでに生まれている。

例えクソ問題であっても、不正解の者は一方的に落とすことができる。

受験側はほかの企業や試験を選ぶことはできるが、退路が一つ残らず断たれるという状況は成立する。

現実的に自動車運転免許を取得できるのは自分の自治体だけであるし、就職活動で受けれる企業も無限ではない。

 

自動車免許の学科試験も、受験勉強の文系科目も、就職活動の圧迫面接も、すべては明らかに矛盾していて、嘘である。

 

二次方程式の解が存在しないなら、虚数を定義すればいいじゃない?

そのような、新たな正論により、この矛盾は贖われている。

 

 

2.矛盾を贖う方法

それでは、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、その矛盾をどうやって贖えばいいのか。

 

もう答えは分かってきているはずだ。

何食わぬ顔で自分の財布から900円出せばいい。

相手側が裏で望んでいる虚数解とは、これのことである。

 

“Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か”というクソ問題を贖うには、100人で受験して50人ずつ〇と×で回答すればいい。50人は生き残る。

 

「そんなことやってたら自分の財布が空になっちゃうじゃないか!」

「問題が100問あったら一人も合格できないじゃないか!」

 その矛盾もまた同様に贖うことができる。

金持ちだけが生き残ればいい。

受験者を10万人用意すればいい。

 

実際に、社会におけるクソ問題では、人はこのような手法で生き残っている。

クソ問題はクソ問題のままだけど、教習所に通い続けて結局免許は取得できたでしょう?

大学受験だって70万人ぐらいは受験者がいて、その中で生き残った一握りが、“選ばれし人間”になっている。

 

社会はこうやって生き残ってきた人ばかりだから、新しい虚数解が正義になっていく。

生存者バイアスであっても、信じ込むことによって正義として採用される。

 

すなわち、命という通貨で、足元を見られている。

自分の財布なり人生なりを、投げ捨てて初めて突破口が見えてくる。

“人間の思考をやめる”といったのは、こういう意味である。

 

ぶっちゃけ、ある意味運である。

サイコロを振って6が出た人間だけを選別して、そうじゃなかった人間を全部不合格で落とせば、その選別後の人間の集団の中では、6が出た人間が100%である。

サイコロで確実に6を出す方法というのはこれだ。

運ゲーであるという矛盾は、このように死体の数で贖うことができる。

 

 

3.戦士たちの軌跡

矛盾を贖う方法とは、死体の数で押し切ることであり、すなわち命を燃やすことである。

受験させる側としても、現代の人口と受験のシステムでは、そうやって裁くしかマシな方法が見つかっていないから。

 

社会はこのような手法で運用されている場面が多々あり、クソ問題とはそれを生き残るための試練である。

そんなクソ問題でも、解いて合格すると言う意志。

選ばれし人間になるという器が試されている。

 

偏差値の高い大学の受験生は、みんなこのようにして生き残ってきている。

ひとりの人生においては、免許の取得も普通は一回だし、高校受験も大学受験も普通は一回だけであるが、その一回だけにすべての願いを込めて、突破してきている。

そういう結果論で集められた戦士たちだ。

 

社会は、そのような戦士を求めている。

クソ問題の試験は、頭いい奴ほど損をする試験であるが、そういう能力はいらないから落としている。

何も考えない優等生が大量にいてくれれば、最強の軍隊になれる。と、彼らはそう思い込んでいる。

 

そのようにして、社会は最強の軍隊を作ってきた。

長い歴史の中では、人間もそれに適応するように進化をする。

 

例えば、以前から自分のブログで言及している“理屈を否定して愛で生きる”といった手法もそれである。

clacff.hatenablog.com

 

“死体の数で正義を維持する”という点が共通していて、論理的な矛盾は“他人の感覚で生きること”によって贖わせている。

こんな思想が現代になって急に頭角を現してきたのも、クソ問題を強いる社会が影響しているのかもしれない。

 

人体と言うのは不思議なもので、他人の感覚を覚えて再現する能力がある。

ある種の超能力と言っていいのだが、この能力によって、クソ問題はサイコロに頼らなくてもほぼ100%正解できるようになる。

例え「Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か」といったクソ問題でも、何週間もずっとそのことを考えていれば、自分の頭の中が相手と同じようにクソになる。

 

だから、こんなクソ問題出した教官は自分で問題を解けるのか?といったら、実際奴らはちゃんと解ける。

似たような問題を混ぜて迷彩しても、奴らは的確にそれを見抜く。何がダメなのかは明確に答えることはできないが、不思議なほどに完全回避をする。(何度も試したことあるから間違いない)

 

クソであるとわかっている問題を、何週間も考え続けて、命を投げ捨てているという感覚を忘れること。

それこそがクソ問題に立ち向かうための武器であり、試験勉強の際には、それぐらいの時間を使っていて欲しいという願望があるのだろう。

 

もちろんそんなオカルトじみたことをやっていても能動的な勝ち目はゼロのままであるが、死んだときのコストを無視できるだけの金持ち人間が、求められているのだろう。

 

大学受験は、必要なものは受験勉強だけであり、失敗しても何度でもチャンスがある。

就職活動も、不合格になったら次の企業に行けばいいし、来年に持ち越してもいい。

資源は無限ではないが、どれだけの資源を用意できるかを問われている。

 

 

 

【手洗い】感情という名の思考停止【清潔】

 

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言論とか科学とか、そういったテーマだととっつきにくいが、“トイレで手を洗う”といったテーマなら、誰もが理解できる。

 

“人は感情で生きるか理屈で生きるか”

自分は過去に何度もこのテーマで記事を書いているが、今回ピピさんが書いた記事は、このテーマを説明するのに非常に良いモデルになると思った。

勝手に利用させていただきます。ありがとうございます。

 

まあ自分自身のことを言えば、手は大体洗っている。洗濯も歯磨きもしている。

しかしもちろん完璧ではない。

指先から手首まで石鹸で20秒以上、とかは正直やっていないし、歯磨きだって歯医者から見たらたぶんアウトだと思う。

完璧ではない。誰だってそうである。

そして心の底では、その罪がいつ暴かれるかということに戦々恐々としている。

 

だって、普段職場や学校で人と出会うときに、“わたし手なんて洗ってないよー”って言ったことがありますか?聞いたことがありますか?

これはだいぶ勇気がいる発言だ。ネットですらカミングアウトする人はなかなかいないというのに。

 

今日は、その恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法を紹介する。

 

 

目次:

 

 

 

1.自らの判断力で事実を理解すること

まず、先に紹介したピピさんの記事に書いてあることは、すべて事実である。

主張も筋は通っている。一見めちゃくちゃなことを書いているように見えるかもしれないが、理屈を並べて説明すれば子供でも納得できる内容である。

 

風呂には毎日入っていても、スマホを毎日お湯と石鹸で洗っている人間がどれだけいるだろうか?

トイレで手を洗うといっても、蛇口に触って水で濡らして適当に乾かすだけなら、むしろもっと汚れているのではないか?

というか、細菌の数だけで清潔度合いを測るのは正しいのだろうか?人体の中なんて細菌だらけだというのに。

 

例え病院や飲食店であっても、これらの事情は完璧にはクリアされていない。

アルコールスプレーだけで安心な訳がないだろう常識的に考えて。

すくなくとも自分のバイト先では、モップの柄もレジのボタンも、洗ってはいなかった。

なお、学生バイトの分際でパートのお姉さんにこういう話をもちかけると一発で基地外認定だから気を付けよう!

 

 

2.矛盾を自分の力で説明すること

“清潔だとか言ってるけど、話としてはちょっと怪しいよね”。

そんなことは誰でも馬鹿でもわかる。

そして、こういった問いを人に突きつけると、割と面白いことが起こる。

 

その人の知性の本性が見える。

例えば学校の先生に、“あれれ~?手を洗わないと不潔だと言ってるくせに自分のスマホは石鹸で洗わないんですか~?”と言ってみよう。

知性と感情がエラーを起こして、その人は豹変する。

 

明らかに事実だとわかることなのに、感情のほうを採用している自分自身に気付かされてしまう。嘘を一つでも通しているならそこから積み上げられる論理は全て嘘になる、という危険性に気付いてしまう。

 

それを説明できずに苦し紛れの言葉で逃げるか、“だからお前もスマホを石鹸で洗え!”という無茶な論理を即席で作り上げるか。

その人が感情で生きる人間であるならば、大体この程度が関の山だ。

 

大昔にも、このように感情を正義として生きる人はいた。

19世紀にルイ・パスツールが微生物と病気の関係を発見して、多くの人が発狂したといわれている。目に見えずに、食べ物どころか空気まですべてを警戒しなければならなくなったからだ。

「発狂しちゃうから微生物なんて発見されなければよかったのに!」

心の底ではこう思っているが、それを口に出す勇気もない。学術を認めれないバカだと思われるのも嫌だ、というジレンマに勝手に苦しんでいる。

 

 

3.”感情によって通せる嘘”を警戒すること

人は、感情で生きるか理屈で生きるか。

どちらの方式も一長一短であり使い分けるべきものであるが、感情のほうだけで生きてしまうと、人類はかなり危険である。

 

感情には、きりがないからだ。

どこまで洗えばいいのかもわからないし、どこまでなら洗わなくていいかも確定しない。

他人の感情の積み重ねで収束はしていくが、そこには確定した答えはどこにもない。

マーケティング一つで手の平を返す程度の正義しか生まれない。

ある程度の金をかけて、例えば「手なんて洗ってはダメですよ!時間と水資源の無駄を削減しましょう!」とCMを流してしまえば、もうそれが正義になってしまう。

現代社会の生活習慣なんて、ほとんどがそうやって作り上げられたものだ。

 

“みんな洗っているのに洗ってないの~?”という思考と、“そんなに洗ってバカじゃないの~?”という思考。人口と感情によってしか成り立っていない正義で、人はマウンティングを行う。

 

まあ今回はトイレと手洗いの話だから、みんな軽く考える。

感情で済ませてしまっても、あとは忘れてしまえばどうとでもなるだろう。

しかし、それ自体がすでに感情に根差した感覚であり、理屈で考えれば話はこれだけでは済まない。

 

ちょっと突き詰めて考えてしまえば、社会における嘘は、みんなこうやって人口と感情で許されてしまうからだ。

 

例えば、ブラック企業だってこういうことを言っている。

・みんなサビ残しているよね?

・月の残業時間は45時間までだよね?

・残業代が出るのは申請した分だけだよね?

・申請なんかしないよね?

こんな話は、いくら並べても嘘だということは子供でも分かる。

にもかかわらず、人口と感情によってそれが許されている。

 

 

4.ショートカットの採用に判を押すこと

本当に理屈で生きるのならば、手は一切洗わないはずだ。

洗濯も歯磨きもほとんどしなくなるはずだ。

にもかかわらず、自分含めて大体の人がやっているのは、結局は感情で生きているからだといえる。

 

人間である以上どうやっても、どこかで感情は採用している。

本当に理屈だけを採用していたら、目が覚めた瞬間に脳がオーバーフローを起こして死ぬ。

 

感情とは、理屈のマインドセットである。

“他人と同じだったらとりあえず大丈夫だろう”という思考停止であり、思考のショートカットである。

 

感情という判断を、理屈の上で採用すればいい。

ショートカットをしてもいい場所かどうか?ということを事前によく考えることも重要であるが、それ以上に、“今はショートカットを使っている”という事実を反故にしないで覚えておくことこそが重要だ。

これが、“手を洗っていない”という恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法である。

今の自分は感情を使っている、ということを忘れないで立ち向かえばいい。

 

世界にはたくさんの嘘が横行しているが、理屈によって感情を肯定することでしか、その矛盾は贖えないと思う。

忘れきってフタをするという手段を選ぶなら、人間は辞めたほうがいい。

 

 

 

志望動機に「給料」と書いてはいけない理由を、考えた。

 

2017年度の採用活動が6月から始まるというのは、経済産業省の願望である。大本営発表が見せる幻影である。

少なくとも、採用する企業にとってはそんなこと割と知ったことではない。自分の会社も、年中通して採用者確保のために走り回っている。

 

人はなぜ、企業で働くのだろうか?

それは個人が信念として持っていれば十分であり、答えなど存在しない話題である。

社会に貢献するためだの、自分が楽しむためだの、哲学めいた答えは色々ある。

人の考え方は多様であるし自由であろう。

 

しかし社会は、「金のため」という答えだけは、何故か許していない。

志望動機に「給料」と書いてしまうと、必ずハネられる。

 

自分が会社員になってもうずいぶん経つけど、会社の側から、この矛盾の回答を聞いたことが一度もない。

だから、自分が考えてみた。

 

 

目次:

 

 

 

1.逃げられない禅問答

 

 志望動機になんて書こうか。「給料」って書いちゃダメだよね。

 

日本の大学生はみな、就職活動をするときに、このようなことを本気で考える。

そして、各々で何らかの答えを色々考えて、結果的にごまかして突破する

 

そうやっていざ会社員になってしまえば、そんなことは意識せずに日々の仕事に追われるようになる。むしろ会社員だからこそ、こんな禅問答に付き合わない特権を勝ち取っているのであり、今になって同じ問いをされたらまともに答えられる人などいない。

 

なぜならば、大前提として、これは答えなど存在しない問題だからだ。

見返りを伴わない仕事など仕事とは言わない。仕事なら金のためにやっているに決まっている。

 

別に、「給料以外の志望動機を教えてくれ」という話ならば、いろいろ出てくるだろう。

居心地がいいとか、自分が得意そうだとか、善行をしていい気分になりたいとか、そういった理由を次々答えることができる。

 

ちゃんと聞けばいろいろ答えてくれるにもかかわらず、就職活動をする大学生にこんな負け確のクソ禅問答を強要する。大学生は、この問いからどうやって逃げるか、どうやって誤魔化すかだけを本気で考える。それはそれで思考力を鍛えるトレーニングにはなっているのかもしれないが。

 

なお実際のところは、一度就職してしまえば逃げ切れる問題でもない。

転職するときにはもちろん聞かれる。給料が理由に絡んでいない転職者なんてほぼいないはずだが、この無理ゲーをもう一度突破しないといけない。

 

転職しなければ安心というのも幻想だ。社内での昇進試験や、上司とのカウンセリングでももちろん聞かれる。

「給料が低かったらこの仕事やってないの?」とか、「同じ給料を出す会社はほかにもあるでしょ?」とか、こんな幼稚な論理を武器として使う大人は、大勢いる。

 

 

2.会社が抱えている本当の事情

“志望動機に「給料」と書いてはいけない”というルールは、前提が矛盾した禅問答である。

いや、むしろ禅問答のほうがよほど良心的だ。仏教の禅問答は新しい概念に気付かせるための対話であり、決して後出しジャンケンでプゲラするための道具などではないから。

 

なんで企業がこんな禅問答を使用するようになったのかと、企業の側に立って考えてみた。

 

おそらく、「社員にあげられる給料には限度があるから」という事情があるように思う。

企業が社員にあげられるもので、一番明確なものは“給料”であるのは間違いない。

だから、それで満足してくれる人でないと、怖くて社員にできないのだろう。

 

そして、給料だけが欲しいと言っている社員だと、どこまで昇給しなければならないか?”という議論にきりがなくなってしまうからだ。

人の要求というものは、長くいればいるほどエスカレートしていく。

給料だって最初の手取り14万円でずっと満足し続けてくれる人はいない。給料は上げなければならないが、企業が払える給料には限度があるため、その要求にこたえられなくなる日がいつかは必ず来てしまう。

別にただの取引先の一つだったら、値下げ交渉もできるだろうし、気に入らなければ乗り換えだってできるだろう。しかし、何十年も雇う正社員の場合は、そうもいかない。

 

なお、長くいればいるほど要求がエスカレートするという話は、金に限ったことではない。達成感とか知識欲とか、そういう内容でも同じことが起こる。

給料を上げすぎて会社が破滅するまで飼い続けるか。

それとも、達成感を求め過ぎて社員が愛想を尽かすまで飼い続けるか。

この二者択一ならば、後者の方が多分会社は損しないし、まだ御しやすい。

 

 

3.面接ですら正しい言葉で向き合えない

企業は、自社に正社員を迎える際に、満たされてくれる人じゃないと取りたくない”と考えている。

突然離反されたり反乱起こされたりしたら困るし、普段の仕事においても、満たされてくれてないと向上心などが得られないのだろう。

 

正社員を採用する企業には、おそらくそういった心理が働いていると考える。

しかし、採用する側がその心理に向き合おうとしない。

 

自分たちがあまり給料をあげることができない、という事実に目を背けている。

その状況に、“金儲けは悪だ”という儒教的な精神が重なって、意味の分からない思想が出来上がっている。

そうやって結局は、形骸化された禅問答を続ける羽目になるのだ。

 

ツンデレを拗らせすぎて企業の側も元々の理由を見失っている。

満足してくれる社員が欲しいくせに、“給料以外に何をあげれるのか”ということも答えようとしない。

「給料が低かったらこの仕事やってないの?」とか、「同じ給料を出す会社はほかにもあるでしょ?」とか、こんなバカげた問答をやっていても何も気付かない。

 

「君は金が欲しいからと言っているけど、うちの給料は手取り14万だよ?それでもいいの?」ちゃんとそうやって聞けばいい。それでいいと言っているなら、採用すればいい。

別に達成感とか知識欲とかの別の概念に頼ったところで、結局は破滅するまでエスカレートするというのは同じなのだ。

 

正社員のスタートの第一歩を、嘘で固めてしまうことのほうがよっぽどリスクが大きい。

 

 

 

【就職活動】顔採用の極限化と社会への怒り【美人有利】

 

年度末が近づくと、就職活動のことを思い出す。

自分の会社でも、新入社員の話が出てきた。

 

2017年現在での就活のスケジュールは、三年生の3月1日から説明会がスタートして、4年生の6月1日から面接が開始する。ということになっている。

実際には3年生の6月ごろからすでにインターンシップが始まっていて、学生の選考や青田刈りが始まっている。当社も大体そんな感じだった。

 

我が国に70年前からある教訓として、“大本営発表=ロクでもない”というものがある。兵士として最前線で戦うのなら、特に信じてはならない。

 

人も社会も、人体の脳が判断をしている以上、認めたくないものは認めない。

例えば、就職活動では美人が有利”といったこともだ。

 

仕事ができる人は美人が多いだとか、美人でも苦労はしているだとか、そんな話はどうだっていい。

そんな話でごまかさなければいけないほど、ブサイクは不利だという純然たる事実がある。

 

今日はそのことを書いてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

1.企業側の主張と、美人が有利であるという事実

 

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インターネットで毎年議論されている画像がこちらです。

就活生にとってはおなじみの画像であると思う。

 

以前、こんな話を聞いたことがある。

 

あるIT企業は、女性社員を採用する際、美人を優先して採用している。

だって当然だろう?

かわいいほうが男がうれしいし、接待でも取引先でも有利だ。

会社としてもそういう仕事をしてもらいたい。

例え20代後半でやめてもらったとしても、すぐに次のが雇えるから問題ない。

 

多くの企業では、本質的なところでは、このような心理で美人を選んで採用している。

そして、美人がいると社会で具体的に有利になる、という話は事実ではあるとは思う。

 

以前の記事でも書いた通り、こういった顔採用をする企業には、それを行えるだけの体力がある。だから、企業がこういう意思で採用すること自体は自由であり、正義でもある。

 

しかし、それだけでは片づけることのできない、明らかにゲスな点が、三つある。

 

 

2.明らかにゲスな点一つ目「それを公表していないこと」

美人を採用したい、という意思自体は正しい。

しかし、美人以外を採用する気がないくせに、募集要項に容姿のことを書かないのが問題だ。

 

正直なところ、募集要項に“うちは美人を探している!明確な基準は出せないけどブサイクは来るな!”と、書いてしまえばそれだけで多くの人が救われる。

 

自分がブサイクだとわかっている人は、無駄足を強要されなくなる。

途中まで書類を通しておいて、面接になってから「やっぱブサイクだから」で落とされることもなくなる。持ち上げてから落とされたほうが金銭的にも精神的にもダメージが大きい。

 

また、こういった募集要項で合格した人は、自分自身が美人/イケメンだと、自信を持つことができる。社内でも“そういう仕事”をする覚悟ができる。

もともと企業は美人/イケメンには“そういう仕事”をさせるつもりで入社させたのだから、ミスマッチがないほうがいい。

かわいい子をアイドルとして雇って、だんだん露出の高い衣装に着替えさせるために、あの手この手で機嫌を取る。そんな必要がなくなる。当人が最初から”そういう仕事”をする覚悟があるならば。

 

”ブサイクは来るな!”と募集要項に書かれてしまうと、ブサイクな人が受かるチャンスが最初からなくなるというのは問題かもしれないが、全然たいしたことではない。

結局のところ、住所や学歴や能力でも同じように条件は指定されているのだから。これらの事項も、生まれ持った容姿と同じぐらいは変更が難しい。

 

まあ実際にこのような募集要項をかけない理由は、“募集要項に容姿のことを書くと、苦情が来るから”である。

なので現状は募集要項にはきれいごとばかりが書いてあるが、表面を取り繕っただけで本質は何も変わっちゃいない。

たとえ募集採用に“容姿で差別はしません!”と断言したところで、企業側にとっては、“(ある程度以上ならば)どんな容姿でも(圧倒的な能力があれば)採用する(かもね)”という簡単すぎる逃げ道が残っているのだ。

 

別に容姿の問題に限ったことではないが、現実に敗北した者こそが、真実を愛する。

“ブサイクは差別されるから不利である”という事実自体は、当のブサイクならば絶対にわかっていることなんだ。

それを、差別を消し去ろうとするような無思慮な慈悲によって、ブサイクの人生が狂わされている。

 

就職活動以前に、そもそもブサイクは人生において不利すぎる十字架である、といったようなことを、ピピさんが言っていた。

だからこそ、正しい条件の下で公平に戦いたい。ブサイクはそう願う。

中途半端だからこそ、不正が許され、不幸が生まれる。

 

 

3.明らかにゲスな点二つ目「やるならやるで本気を出していないこと」

企業が、美人が欲しがるのはまあ分かる。

だったら、AV女優とか中卒のロリっ子とか整形豊胸サイボーグとか、何で雇わないんだ?

さぞかしすごい効果だろうよ?

 

美人が欲しいという企業の言い分を信じれば、このほうが効果が高いのは間違いない。

なのに企業は、こういう人間は決して採用しようとしない。

 

“学も伴っていないと業務ができないカラー”というのは言い訳になっていない。

ちゃんとした新卒学部生でも、何も教えないでエクセルが使える人なんて多くはない。24歳の新卒院生でも、どうせ最初の一年はお茶くみに等しい仕事しかやってない。

 

今どきの新卒なんて、どんな業種であっても結局最初から教育をするんだ。

最終的な能力の伸びしろの話をするのであっても、別に低くても問題ない。できる仕事もやらせるべき仕事もたくさんある。というか、見た目が劣化してきたら飛ばすつもりだったんだろう?

 

むしろ、中卒のロリっ子を15歳で雇って、7年間社内教育をしたほうが、普通の大学生より役に立つ人材になるのではないか?

多くの大企業は自前で企業内学校を持っているし、7年間も少人数でOJTができるならば、仕事としても教育としても効果は高いと思う。文系職にかぎらず、正直技術者としてでも相当できる人間が育つと思う。野球やサッカーではすでに似たようなキャリアプログラムが運用されているというのに。

 

高校の無駄な受験勉強で人生を賭ける危険もなく、遊ぶばかりの大学に無駄な学費をかけることもない。保護者としても本人としても魅力的な選択肢なのではないか?

一か八かで芸能界にデビューさせるより、大企業で子役アイドルになればいい。

 

しかし結局のところ、企業はそんなドラスティックな戦略をとる勇気がない。

一時期ユニクロが”大学一年生からインターンで青田刈り”ということを行っていたが、それだけのことでも批判が殺到していた。

 「真面目に選考したつもりだけどなんか美人がそろっちゃたなぁ ウヘヘ」

企業は、これ以外の結果を受け入れることができない。まるでハーレムラノベの中学生の主人公のように。

 

現状を変える気がないくせに、いいものを欲しがる。

ここに決定的な甘えがある。

形式的には、真面目な女性を採用したつもりでいたい。大学卒業してリクスー着た女しか採用する勇気がない。

 

 

4.明らかにゲスな点三つ目「そんな要素が有効であることそのもの」

美人が社会において有効と言い張っているが、その状態がそもそも異常である。

 

美人が有利であるということは、現代の社会では悲しいことに事実であるが、自分の男性としての感覚から言うと、それを許したことも求めたこともないんだ。

 

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同僚にかわいい子がいるから何なの?“元気が出る”って、特に出ねぇよ!?

というか、元気が出たから何なの?

やる気がないから業績が上がらないって、女性が一人いただけでやる気が出るわけがないだろう。食えるわけでもないのに。社内恋愛だとしても特殊すぎる。

美人と一緒ならサービス残業ができるとでも思っているのか。美人が相手なら製品価格を下げてもいいとでも思っているのか。

 

“べ、別に自分たちの企業は女性にそんなこと求めてないけど、『接待でも取引先でも有利』なんだから他社のために用意しないといけないんダヨー”

世間の大企業は、こんな言い訳を並べて、求職者の中から美人をあさることをやめない。

 

モラルのデフレーションである。

そんな下種な精神が業界でのさばるから、全体がどんどん腐っていく。

真面目な振りしていても、美人採用に加担していれば同罪だ。

 

大企業のスーツ着たいい大人の集団が、そんな中学生みたいな性欲で仕事をしているという現実が、憎い。

就活生が、そんなやつらに職を乞わなくてはいけないという現実が、憎い。

 

 

 

 

 

 

【尖った個性】技術者とメーカーの処女信仰【ニッチ市場】

 

先日、このような記事を書いた。

clacff.hatenablog.com

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想が日本においては教育されるが、会社に就職した後でも、やはり同じことは繰り返される。

 

例えば、“尖った個性”・“当社しか作れない製品”といった思想である。

 

先日の記事で述べたように、これらの思想も、当然同じように狂っている。

しかし、特に技術系のメーカーで、こういった思想は採用されやすい。

“職人技”といった言葉が出てきたら、危険信号だ。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想は、学校教育において危険なだけではない。企業において運用してしまうと、さらに危険である。

技術者がメーカーにおいて陥りやすい思考を戒めるために、その原理を書いてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

 

1.ブルーオーシャンと処女信仰

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想は、特にメーカーやソフトハウスのような、技術系の職種において神聖視されやすい傾向にある。

 

確かに、“当社しか作れない製品”というものは、市場においては一定の宣伝材料にはなる。

“当社しか作れない製品”でないと、市場で注目されないという主張も正しい。

そして、その“当社しか作れない製品”が一番の高性能で、他社の製品より良い製品である可能性もあるだろう。

 

しかし、“一番だったら本当に売れるのかという議論は、いつも後回しになる。

売れるか売れないかといった決定的な仕事は、結局のところ営業に投げっぱなしだ。

こういうところで思考停止をするから、“技術屋”などと馬鹿にされる。

しかし、当の本人はこの“技術屋”という言葉を誇りに思い、自ら名乗ったりする。

 

 “当社しか作れない製品”を市場に出して儲けたいという考えは、言い換えれば“誰もいないブルーオーシャンを自分一人で蹂躙したい”という、下種な欲望である。

 

確かに、そのブルーオーシャンを見つけることができれば、高い利益率で好き勝手に商売ができるだろう。そして、経済誌にはそれに成功した企業のインタビューが毎週載っている。

“ウチもあんな風に成功しよう!”と夢を見るのも一つの選択肢だが、以下の二つの前提は、意識されないようになる。

・そもそも成功率が高くない夢物語である

・そういった目標に向けた“地道な努力”は、無駄や卑怯で終わりやすい

特に後者の方が忘れられやすい。

 

ブルーオーシャンを蹂躙する”以外の勝ち筋を知らないことは、企業が生き抜くうえでかなりヤバい問題である。

相手が処女だったらセックスが下手でも嫌われないだろう!と夢見る中年のおっさんを想像してみればいい。

 

 

2.技術の多面性に気付かない技術者

そもそも製品において、何をもって“ナンバーワン”などと言えるのだろうか?

値段と機能の両立とか、そういった複合的な評価以前に、一つ一つの項目においても、そう簡単に定義などできない。

 

“見た目”や“高級感”といったものは、言うまでもなく数値では定義不能である。

どんな製品を作ったところで、結局は印象と売り上げから推測する結果論でしかない。そして、その印象と売り上げを作るのは、むしろ広報と営業の仕事だ。

 

軽快性や写真の撮影枚数といった項目ならば、技術的に数値で順位をつけることができる。

しかし、順位をつけられるのは“数値が高いか低いか”だけであり、その内容の是非自体には順位はつけられない。“処理は遅いけど映像がきれい”だとか、“容量は多いけど撮影枚数は劣る”といったように、見方ひとつで評価は全部覆ってしまう。

 

一番売れているスマートフォンiPhoneだが、じゃあiPhoneがほかのすべてのスマホより上位互換であるのか?例え値段を無視したとしても、そんなことは絶対に無い。

ネット通販の最大手はAmazonだが、例えばAmazon以外全部潰れたとしたら、消費者は困るに決まっている。

 

その商品やシステムが、“一番売れた”とか“一番売れている”という話をするならば、確かにナンバーワンは証明できる。

でも、そのナンバーワンを作ったのは、技術者じゃなくて営業である…

自分の技術に酔っているから、こんな簡単なことにすら気付こうとしない。

 

技術や科学に少しでも携わっているなら簡単にわかることであるが、技術なんてものは、一つの見方だけで評価を決めつけることはできはしない。

その原理を無視して、“なんでもいいからナンバーワンになれ”ということを追求してしまうと、また不幸なことが起こる。

 

すなわち、先日の記事でも書いた通り、技術者が屁理屈を探すようになる。

“こんなところどうだっていい”と自分で分かっているようなところを、無理してアピールするようになる。

そしてそれを無理やり営業に売らせてしまうようになる。

そして営業の努力の結果、それがいくらかは売れてしまったとしたら…

次に技術者たちは、“ここはどうでもいい”とした最初の判断を、反故にするようになる。

 

こうして、間違いは蓄積されていって、売り上げはどんどん小さくなっていく。

それでも最後に残った部分は、明確な“尖った個性”だとはいえるのかもしれないが、 “ニッチ市場”とか自分で言い出したらもう終わりである。

元々目指していたブルーオーシャンは、広大だからこそ自分一人で蹂躙したかったはずだ。

それを、“なんでもいいからナンバーワンになれ”という手法で開拓してしまったために、最終的にごく小さい範囲しか自分のものにならない。

 

 

3.“君の個性はなんだ?”という無意味な問い

本当のところは、その製品の“何がナンバーワンなのか”は、作った側が自分で決めればいい。あるいは、売れたという事実で勝手に決まればいい。

その程度のものであると考える。

 

にもかかわらず、“なんでもいいからナンバーワンになれ”といった教育は、今日も続けられている。

“君の個性はなんだ?”と問い詰めて、言葉に窮したものを馬鹿にするような教育が、技術の世界では頻繁に実行されている。

この問い自体は無意味であり、低レベルである。先で述べたような、“なぜその製品が売れるのか”を自分で考えたことがないから、こんな言葉を吐ける。

“絶対に負けないという技術力を身につけろ”とか言ったりするが、そんな技術を持っていたとしても簡単に負けてしまう。だから、技術と社会は奥が深くて油断がならない訳で。

 

“技術一筋でナンバーワンでさえあれば、生き延びさせてもらえる”。

そういった思考は、逃げと甘えである。

こんな思考のもとでナンバーワンになってしまった人間が、教育をする側に立ってしまうと、最悪である。

“君の個性はなんだ?” とか“絶対に負けないという技術力を身につけろ”といった言葉を好んで使う。

とてもニッチで狭い範囲のナンバーワンでしかないのに、それしか生き残る手段を知らない。

そして、自分以外の者は“ナンバーワンじゃない”として、皆殺しにしようとする。

 

人を使う側の立場から見れば、相手がニッチな技術しか持っていないのであれば、理解はしやすいし利用もしやすいだろう。

そして、その技術が“ナンバーワン”であるのならば、利用価値は高いし、よりどりみどりであろう。

技術者一人の人生を、ガチャ一回分程度にしか扱っていない。

 

技術馬鹿って、こんなんばっかりだから文系に利用されるんだよ。

 

 

 

 

「なんでもいいからナンバーワンになれ」という教育を徹底的にこき下ろす

 

“なんでもいいからひとつ、自信を持って自分が一番だと言えるものを持て”

日本の教育現場において、このような思想がよく教育される。

 

あなたも、小学校や中学校で、似たようなことを言われてたはずだ。

大学で就職活動が始まるあたりでも、似たような思想がもう一度語られる。

そして社会人になってからも、なお言い続ける者もいる。

 

この思想は、相当に特殊で危険な思想である。

今日は、この“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想を、徹底的にこき下ろします。

 

 

目次:

 

 

 

1.この思想を強要した場合の未来

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想の教育は、初等教育の割と早い段階からスタートする。

 

この思想のいいところは、アイデンティティを確立させる手段としては有効である点だ。

何かを考えはじめるきっかけになるし、前に進んでより強くなろうという意志を育てることが出来るだろう。そしてその結果成功できれば、当人に自信もつくだろう。

成功すればの話だが。

 

しかし、“なんでもいいからナンバーワンになれ”ということを本気でやらせてしまうと、当然のことながら、たった一人の勝者以外は全員敗者になる。本気でやればやろうとするほど、その事実からは目をそらすことができない。

 

例えば、最後まで努力を続けたが、結局悟空に負けたベジータ

努力と挫折を繰り返しながら、多くのことを成し遂げて、最後には“頑張れカカロットお前がナンバーワンだ”と認める心を育てたベジータ

ヤムチャじゃないよ。ベジータだよ。

そのベジータをカスの敗者として切り捨てようという思想である。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想はこれほどに乱暴で危険だ。

 

ナンバーワンになれなかった人、あるいはナンバーワンになっても認められなかった人が大量に出てくることになり、“自分は価値なんてないんじゃないか”と、心を壊すようになる。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想を本当に信じると、確かにそういう答えが出てくる。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想がまかり通る社会では、次に何が起こるのかは自明である。

ライバルがいないようなニッチな世界を探し、そこでナンバーワンの座に座ってしまおうという、卑怯者が育つ社会になる。

自分が戦って勝てる世界を品定めするような広い視線は育つのかもしれないが、本当の強さは育たない。

 

言うまでもないが、人体で一番重要で大切にしなければならない機能は、“心”である。

どんな科学でも人間が扱う以上は心がなければ運用できないし、社会におけるほとんどのシステムは、性善説をすでに利用してしまっている。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という短期的な思想で、子供や大人の心を傷つけるのはあまりに危険である。

完全に論理とシステムだけで生きれるほど、人類はまだ進化しきっていない。

 

 

2.“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育の嘘

大人たちは“なんでもいいからナンバーワンになれ”と、口ではうるさく言っているが、腹の底では絶対に何でもよいとは思っていない。

この教育を強要する側は、必ずそう思っている。

 

自分は小学生のころ、TVゲームがとても得意だった。

例えばロックマンXがとても上手かった。X4ぐらいまでシリーズはやりこんでいたし、初期装備でムカデやカタツムリが倒せるのは近所では自分だけだった。兄よりも上手かった。

“僕が一番上手い!誰にも絶対に負けない!”と当時は本気で思っていたし、少なくとも自分の周りでは確かにナンバーワンだった。

 

しかしその結果もちろん、“ゲームなんてやってないで勉強しなさい”と言われた。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という言葉が本当に正義だったら、今頃自分はTASの研究者か、eスポーツでプロになったりする未来があったのだろう。

でも大人たちは、それは嫌だったわけだ。

何でもいいとか口では言っていても、結局二枚舌で、選り好みされていたわけだ。

 

じゃあ勉強でナンバーワンになればいいのかといえば、それすらも実は違う。

例えば自分は、小学三年のころに、クラスで一番早くに、都道府県を全部覚えた。先生は褒めてくれたし、最初のテストでも満点がとれた。

確かにナンバーワンになったわけだが、しかしそれまでだった。

それ以降のテストでは都道府県を埋めるような問題は出なかったし、社会の得点は低いままだった。

 

つまりこう言われた訳だ。“それだけナンバーワンじゃ足りない”“もっと広くナンバーワンになれ”と。

結局、“なんでもいいからナンバーワンになれ”という言葉は、ただのケツを叩く鞭でしかなかった。

好き勝手に振り下ろされる暴力であり、痛みと興奮により速度が上がるかもしれない、という無茶な期待でしかなかった。

 

そもそも、本の学校教育のカリキュラムは、何かに特化できるような教育にはなっていない。

確かに理科・社会・体育・音楽と、全般的にはなぞってくれるが、特定の一つだけに傾倒すると、ほかのことを頑張れと言われる。

 

通知表は、最大の評価はたったの5や10であり、ちょっと成果を出せばあっという間に上限に達してしまい、あふれた分は無駄になる。

最終的には合計点で評価されるので、まんべんなくやった方が絶対に得だ。“体育5他1” より、”全部2”のほうが優秀な生徒だとされてしまう。

 

 

3.上位互換の人間、の理解

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育で、自分が一番まずいと思っている点は、“上位互換の人間”の存在を信じれなくなってしまう点だ。

 

パワプロとかスパロボとか、シミュレーションゲームを一つでもやったことがあるならばすぐにわかるはずだが、ステータス的に上位互換の人間なんてものは腐るほどいる。

“お前が二人いるよりあいつが二人いたほうがいい”と言う例は、状況として存在し得る。

“ナンバーワンなんていない、誰もがオンリーワン”とは言うけれど、良いとか悪いとかいう基準を人間が勝手に決めている以上、その基準の中で限ってしまえば、上位互換の人間なんてものは簡単に存在してしまう。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育を強要すると、上位互換の人間を肯定できなくなってしまう。先の例で述べたように、悟空に負けたベジータを否定する社会になってしまう。

その結果、“ナンバーワンに成れなかった俺はクズだ”という大義名分ができてしまう。

そして、ナンバーワンに成れなかった者は、ナンバーワンの人間を妬み、足を引っ張ることに喜びを見出す。

 

力を合わせる、という人間の機能を忘れていくようになる。

ちょっとゲームをプレイしていれば簡単にわかることなんだが、“一番じゃないとダメ”というのは、代表一人しか戦えない場合にのみ成り立つ話だ。

こんな簡単なことを教えようとしないから、不幸な人間ばかりが増えていく。

 

みんなで力を合わせる場合、あるいは単純な一番じゃなくても勝利になる場合。

オフィスでも工場でもスポーツでも、こういう戦いはたくさんある。

そういうところで活躍すればそれでいいし、本当は誰しもがそのように生きている。

 

“お前はダメだ”という教育など、する意味はない。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”とかいうような、無理ゲーかつクソゲーをやらせれば、そりゃほぼすべての人間はダメになる。

 

“ダメかもしれないがそうであってもやりようはある”

こういう教育ができる人間がいないから、いつまでたっても正義が勝てやしない。