【戦いこそがすべて】何故政治家がマトモだと思うのか
もうすぐ衆議院総選挙が始まる。
今年は希望の党という新党が何としてでも現政権を奪取しようと躍起になっているようだ。
news.livedoor.com「私は本気で政党を狙う」「国盗り」といったワードを、オブラートも無しで発言している。
誰もが子供のころから思っていることだが、政治家ってなんでこんなに下品なんだろう。
政治家と言われても、金に汚い禿オヤジか嫌味面をしたババアしかイメージされない。
「永田町には魔物が潜む」とドヤ顔で言われても、悪魔なんてそもそもいちゃいかんだろう。
誰だって、劇場型政治やワイドショー政治にうんざりしている。(国家転覆と反権力に夢中になる人たち除く)
こんな大人たちの何を信用すればいいのだろうか。
本能的にそう感じるからこそ、政治とは腐ったものであり選挙など茶番だと考える。
せっかくの国民のほぼ全員が選挙権を持っているのに、投票率はダダ下がりである。
そして、与党も野党も結局はそのイメージでおおむね正しかったりする。
むしろ一応形としてちゃんと政治が運営されているだけでも、国家的にはすごかったりする。
今の状況が腐っているのではなくて、その腐った状況に対応して生まれてきた戦術が現在である。
今日は「政治家がなぜ下品に見えるのか」を書いてみる。
結局はクソしかない、という結論を導いてみる。
目次:
1.すべてはルールの上である。
現在の日本国は間接民主主義と政党政治を採用している。
どちらも憲法レベルで合法である。
この間接民主主義なんてものがあるから、「選挙の時だけ調子のいいことを言って勝ってしまえばこっちのもの」という思想が成り立つ。
また、政党政治なんてものがあるから、「特定の国民から支持と金を集めてそいつらに利益を誘導する政治を行う」という戦術が生まれる。
この間接民主主義と政党政治が、現在の政治腐敗の根本的な原因ではある。
選挙の時だけ調子のいいことを言って勝ってしまえばいいのだから、その戦術は先鋭化する。
今回の選挙みたいに、「初の女性首相!」「身を切る改革と福祉の充実!」「対話による世界平和!」とか、刺激的なワードをたくさんしゃべったほうが有利になる。
どうせ嘘だったとしても辞任以外の罰則なんて無いので、風呂敷は大きい方がいい。
政党政治についてもそうだ。必要なものは金と票である。
だったら勝利のためには特定の市民団体にすり寄らなければならない。
正しいとか正しくないとかは置いといて、とにかく国民の願いをかなえる存在でなくてはならない。
例えそれが「なんかむしゃくしゃするから反権力をやって気持ちよくなりたい」みたいな下種な願いであっても、それを望む国民から金と票を多く集めることができればそれが正義になる。
それこそが国民主権の意味なのだから。
金と票を効率よく収集して、願いをかなえるための議席を獲得する機構が政党というものだ。
大の大人が人生を賭けて勝利を考えるのだから、これぐらいのことは簡単に思いつく。
例え元々の動機が個人の権力欲と金銭欲であっても、「それで戦え」というのがこの国のルールなのだから問題は無い。
そして、実際にそれで日本という国が割と先進国でいることに成功しているのだから。
2.「死人に口なし」なら正しい。
間接民主主義と政党政治が現在の政治腐敗の根本的な原因であるわけだが、じゃあなぜ日本はこんな制度を選んだのか。
実務上の手間というのはまあわかる。
この国の国土と人口から考えて、直接民主主義とかは面倒すぎる。
そこら辺のサラリーマンが明日から政治を勉強して責任をもって政策を選べ!とかいわれたら絶対に無理だろう。
だから、選挙で政治家を選んで、その人にある程度自由に勝手に政治を運営してくれと委託するのは仕方がない事である。
しかし間接民主主義では正義が保障されない。
先述したように、そのシステムでは正義は追及しない方が有利になってしまうからだ。
そこで最初に間接民主主義というものを考える際に、正義を確保する機構が別途用意された。
それが、「選挙とは戦いである。間違った者なら勝利はできない」というロジックである。
「さあ殺しあえ!本当に強い者のみが生き残る!それだけが正義だ!!」
悪役がよく吐くセリフだが、今の日本ではそれは採用されている。
単純であり割とローコストで真実を選べる方式ではある。
だから、禿オヤジや嫌味面をしたババアが全力で戦っているわけだ。
そして大人たちが全力で戦う際に思いつく戦法というものが、現在行われている腐敗政治なわけだ。
この「戦いこそがすべて」というルールは、「ルール通りに戦争をしているのならば何をやってもいい」ということも同時に制定している。
国盗りの野望とか、そういう下品なワードを堂々と言えるのはこういう理由である。
我が政党は特定の国民と思想に対して利益誘導します!というのも、ルール内だから何も問題は無い。
「その実態をぼかした方がなんか騙されてくれる国民が多い」という戦法を採用するのも合法である。
3.勝ったものが強い、という思考停止
この「戦いこそがすべて」というシステムは、コストや手間のことまで含めて考えれば、現状では一番合理的で正しいシステムであるように思う。
しかし、「本当に強い者のみが生き残る!それだけが正義だ!!」という論理は通常は成り立たない。
あくまでコスト的に有利だから仕方なく選んでいるだけで、決して最強ではない。
理由の一つは、「戦い自体が公正ではないから」である。
本当に強い者のみが生き残る、という論理自体がだいぶお花畑なのだ。
完全武装した歴戦の武将でも毒の一杯で殺されてしまうように。
力道山でもチンピラのナイフ一本で死ねてしまうように。
戦いなんてものは、強ければ絶対に勝てる・負けないといった単純なものではないからだ。
先述したように、選挙という戦いにおいては「勝てば正義」の名の下で数多くの卑怯な手段が用いられている。
国民からとにかく金と票を集めて勝ってしまえばいいという「勝てば正義」理論。
どんなに甘ちゃんでも正しいことを言えば戦いには勝てるという「正義は勝つ」理論。
この二つは絶対的に相反する。
「戦いこそがすべて」というシステムはこれを一緒にしてしまっているから矛盾している。
戦って決着をつければ公正。そうじゃなければ卑怯者。
そんなわけがない。
ただ一つ公正なルールがあるとすれば、「死人に口なし」というルールだけだ。
4.民主主義の限界
理由の二つ目は、「人類最強を選べたところで、そいつでも足りないから」である。
確かに、選挙はほぼ全国民に選挙権と被選挙権が与えられるのだから、その戦いでの日本国最強の人間を選ぶことは出来る。
だが、そうやって選ばれた「最強の人間」が内閣総理大臣になったところで、すべての問題が解決できるわけではない。
選挙に圧勝をした人間であっても、判断ミスもするし、失言もする。
税収が不足することもあるし、不正だってする。
というより、なんで間違えないと思うんだ?
要求される正義は日々増大していくのに、日本の被選挙人口は最大でも7000万人ぐらいしかいない。
まして、その中からちゃんと選挙資金を用意して人生をなげうって出馬してくれる人など一握りである。
本当にたまたま清廉潔白な人が生まれてくるまでガチャを回し続けるか?
戦術上清廉潔白な振りをしている人ばかりが来るだろう。
そして、もし仮に来たとしても任期には制限があるので…
日本のほぼ全人口から選んだのだからその中には完璧超人がいるはずだ、と期待するところまではいいのだが、いなかったのならばあきらめないといけない。
だから、政治家はクソの中から選ばなくてはいけない。
ミスだってするし失言だってする。
そういう理解をしていないと、判断を間違い続ける。
政治家ならば清廉潔白でミスなどしてはならない!という論理自体が無駄である。
逆に、そういう路線を強要するとミスを上げへつらって引きずりおろす文化ができる。
実際にそのような文化が運用されているが。
そうして無駄になった時間をコストとして払わないといけなくなる。
求めるべき正義からはかえって遠ざかっていく。
選挙に参加するからには、人では無く、その人が何をやったか・何をやりそうかで判断をしたいものです。
医学的に死ななければ許されると思っていないか?
最近の若い者は、死ぬとか殺すとかいう言葉を平気で使う。
ゲームや漫画の文化の悪影響だろう。戦争のゲームだって平気でプレイする。
まったくけしからん。
…という言説が大人の口からよく語られる。
実際に、若者の中には申し訳なさを感じている人も多いだろう。
しかしその割には、この記事を読んでみると「死ぬ気でやる」だとか「死に物狂い」といった姿勢はなぜか称賛されていることが分かる。ずっと昔から。
死を「絶対的にダメなもの」だとしてタブー化するが、その反動で医学的に死ななければそれでOKといった思想が信じられている。
交通事故が起きました。ケガはしましたが死者はいませんでした。
学校で酷いいじめの事件が起きました。でも自殺する寸前で食い止めることができました。
めでたしめでたし。
死は穢れだというが、一体何千年前の宗教で思考停止しているのだろうか。
確かに医学的な死は絶対的なものであるが、それ以外にも生と死の概念は存在する。
今日は、よく使われる「死ぬ」とか「殺す」といった言葉の広い意味を説明する。
目次:
1.「死ななきゃ良い」というは相当な暴論
死刑制度反対派を論破するコピペで、以下の下りがある。
「命は取り戻せない」というが、
取り戻せないことを論点にするなら時間も取り戻せない。
ならば懲役も反対しなければダブルスタンダードである。
「命は有限だが、時間だって有限である」。
この一点のみで死刑制度の是非を語ることは出来ないが、とりあえず事実ではある。
寿命が有限である以上、時間を奪われたらその時間は「死ぬ」。もう取り返せない。
死刑制度とかは抜きにして、これだけ考えると簡単で明らかな論理だ。
絶対なのは医学的な命だけではない。
時間も、金も、例えRPGのアイテムであっても、その存在は同様に絶対である。
失ったものは帰ってこないし、タダで無くしていいものなど一つもない。
大事にしなくてはならないものは医学的な命だけではない。
そのことに気付くと、「死ぬ」とか「殺す」といった言葉を使うべき場所が、日常のあらゆる場面で見つかる。
一応、「命は取り返せないけど懲役だって取り返せないよ」という論説には反論もある。賠償可能性についてだ。
要するに、「懲役は誤審だったらお金を払ってなんとかリカバーできるが、死刑は一度殺してしまったら取り返しがつかない」と言っている。
だから、時間よりも命は特別に尊いものだとしている。
まあそれでも問題の本質は変わっていない。
お金を払って賠償できるのはお金だけであり、失われた時間・立場・心などは、運が良くても「別の形」でしか慰めることができない。
例えば「1億円上げるから寿命を20年くれ」と言われたら納得できるだろうか。
年収で言えば500万円でしかない。
じゃあ2億円ならいいのか?1兆円でないとダメか?
そういう議論を毎回納得するまでやらないといけないことになるが、本人が納得していればそれでいいという訳でもない。
もっと単純に言えば、「治療費出すから殴っていい?」と言われたらどうか。
普通に考えれば誰だって嫌だ。
2.「死ぬ気の努力」をタダで要求する人達
以上のことを鑑みたうえで、もう一度冒頭のまとめを見てみよう。
外野は簡単に死ねという。
支配者にとっては、この「死ななきゃいい」という思想はとても理想的だ。
自分の命は傷つかないし、所有物が能力以上の成果を出してくれる(可能性がある)から。
何も考えさせたくない、という策略が上手く行っているのだろう。
死を「絶対的にダメなもの」だとしてタブー化する教育を施しておけば、乱用とインフレを防止することは出来る。
そして自分たちだけはその力を好きに利用することができる。
一見卑怯だが、正当化する理論はいくらでも作り出せる。
そもそも、「医学的に死ななきゃそれでいい」という価値基準自体がずるい。
時間や給料や健康だって死ねば失われるのに、「医学的な命」という一番高いハードルを勝手に設定することによって、ほかのものをすべて反故にすることができてしまう。
そして、「本当に死んだとしてもそんな例は極僅かだ」と言い張ることができる。何か別の理由があったとこじつけられてしまう。
「どーせ死にはしないだろう?」タカを括るから「死ぬ気でやれ」なんて強要ができてしまう。
そして、「死ぬ気でやれ」という強要をする側は、いつだって賠償をしない。
過労死したところで隠ぺいするつもりでいるし、隠しきれなかったとしても謝罪と葬式の費用だけで済ませようとする。
先の述べた死刑制度の話では少なくとも、冤罪だった時に考えうる限りの賠償をしてくれるという保証があるから「死ななきゃいい」という論理が成り立った。
それで賠償しきれるかどうかは別問題だが、少なくとも国家という巨大で信頼感がある存在がないと成り立たない話だった。
「死ななきゃいい」という言葉を吐くためには、少なくともそれなりの義務と覚悟が必要になる。
3.いつだって死ぬ気で戦っている
自分自身の例を思い返してみると、この「死ぬ気でやれ」というのを最初に言われたときは、大学の受験勉強のときだった。
「死ぬ気で勉強して実際に死んだ人はいない」という話を何度も聞いた。
医学的なことだけを考えれば、もしかするとそうかもしれないのだろう。
しかし大学受験という戦場においては、多くの学生が死んでいる。死屍累々である。
志望した大学に受からなかった者だけではない。
・受かったけれど何年もかかった者
・受かったけれど必要以上の時間と手間を払った者
・受かったけれど後に仮面浪人や再受験を選ばざるを得なかった者
・もっと正しく勉強をしていればより良い大学に合格できた者
彼らは、全員死んだ。
医学的には生きていても、多くの人生を失った。
死ぬ気でやった戦いで負けたり失敗したりしたら、それはその努力の死を意味する。
合格したんだから生きててよかったね、死に物狂いでやっても大丈夫だったでしょ?なんて絶対に言えないはずだ。
戦争と同じで、例え勝ったとしても多くのものを失うし、望んだものが都合よく全部手に入るわけではない。
最近の若者は命の大切さを分かっていない、と大人は言うが、それは違う。
若者にとっては、守るべき命が数多くその目に見えているからだ。
時間やお金や人生など、そういったものだってミスれば死んでしまう。
ゲームや漫画で簡単に死ぬとか殺すといった言葉を使う子供の方が、断然物事をよく理解しているように思える。
100円玉一枚でも、ポーション一つでも、ミスって意図した結果にできなかったのならば、そいつは死んだんだ。
こういう考え方ができる人間には、「死ななきゃいい」という論理は通用しない。
なんで簡単に他人の顔写真をアップロードできるのか
インターネットに他人の顔写真や個人情報を勝手にアップロードするのはとても危険だという話がまとめられていた。
フォトハラという簡単な言葉で片付けられているが、これはとてつもなく危険な行為であり、自分だったら絶対にやられたくない。
インターネットにおいてはどういう事件が起こりうるのか、ということは簡単に想像ができるし、実際に破滅的な事件も起きている。
しかしそういう話をすると、「なんで危険なの?ちょっとぐらい関係無いじゃん」という解釈をする勢力(というか人種)が必ず一定数いる。
実名で顔を売りたい政治家とか、仕事上目立たないといけない芸能人などではなく、ただの一般人であるのに、他人の顔写真や個人情報をアップロードしてしまう人種がいる。
彼らがこのような思考を採用するまでには、どのようなプロセスをたどっているのか。
自分も知っていることを書いてみようと思う。
目次:
1.「他人主義」と「自分主義」
他人の写真を勝手にアップロードしちゃうような人種に困っているというのが始まりだが、自分が考えるに、人間には二つの人種がある。
これを読めば雰囲気は大体わかると思う。
「情愛」・「つながり」・「共感」といった、他人を基準にして生きる人たち。人種A。
「議論」・「経験則」・「真実」といった、自分を基準にして生きる人たち。人種B。
こういった人種の違いがある。
人種A:「他人がどう感じているか」で真実を作る。
人種B:「自分がどう判断したか」で真実を作る。
人種A:権力や肩書、あるいはそれと繋がるための人脈が人間を作る。
人種B:当人の知識・知性・実力が人間を作る。
人種A:人のコミュニティに所属するという手段で、心地よく生きようとする者。
人種B:自らが正しい判断をするという目的で、情報や力を集める者。
人種A:人間関係はうつろなものであり、真実もそれに伴って変化していくと信じている者。
人種B:人間が認識していることは全て論理的に説明ができると信じている者。
人種A:宗教上の制約と慣習から、天動説を信じる者。
人種B:観測結果と理論から、地動説を信じる者。
人種A:「正論」という言葉が悪口だと思っている者。
人種B:「正論」という状態が最低条件だと思っている者。
人種A:寿命は短い。喉元過ぎれば熱さ忘れる。上書き保存。
人種B:寿命は永遠だ。人間一人が死んでも歴史や財産は残り続ける。別名を付けて保存。
人種A:ウェイ系。リア充。
人種B:オタク系。陰キャ。
人種A:女性的。
人種B:男性的。
人種A:iPhone。
人種B:Android。
人種A:文系。
人種B:理系。
以上のような、判断基準の違いが人間にはある。
他人を行動原理にするか、自分を行動原理にするか。
光の人種と闇の人種は、人体を動かすOSが違う。
他人を行動原理にすることは、人間の本能に近い。
原始時代から人間は群れを作って生きてきた。そのコミュニティで地位を確保することこそが生存戦略であり、思考や判断にコストを使わない効率的で期待値も高い生き方だ。
それに対し自分を行動原理とすることは、「他人が何と言おうと自分のことを信じる」という強い心が必要だ。
その判断材料を得るために、議論をして理論を積み重ねなければいけない。
その結果の解釈が他人と一致しない場合は、コミュニティからはじき出されることになる。
このように高いコストと能力が必要とされる生き方であるが、より正しいものを探し出して成長進化することができる。
以前の記事でも、こういった人種の違いについて書いている。
自分は、愛は理屈の一部であると考えるし、すなわち人種A<人種Bだとは考えるが、何も考えないでAの方を採用することにもメリットがある。
別に完全に1かゼロかという訳でもないので、判断した上で使い分けるのがいいと、自分は考えている。
2.人種Aの頭の中について
さて、他人の写真を勝手にアップロードしちゃうような人種はすなわち人種Aである。
先ほどまでで延々述べていたように、人種Aは「なんで危険なの?ちょっとぐらい関係無いじゃん」という結論を採用する。
人種Bならば、危険だということが判断できるから軽率にアップロードはしない。
人種Aは、そもそも他人が写った写真をアップロードしたいという欲求が桁外れに強い。むしろ「やらなければ損をする」という答えを出す。
人種Bの人種がネットで正論を吐くことが大好きなように、人種Aは「自分はこの人と友達である!」ということを主張することが大好きなのだ。
他人との愛を語ることが、正しい事をすることと同じレベルで自然な行為になっている。
愛=真実が成り立ってしまっている。
顔写真なんかアップロードしてストーカーとか悪徳業者とかに狙われたらどうなるのか考えないのか!と人種Bが訴えたところで、人種Aはそれを考える動機が無い。
OSからして違うので、そんなことを言われてもエラーしか吐かない。
「写真撮られるのが嫌なら外に出なきゃいいじゃん」などと意味不明な解決策を吐くが、人種Aはそれを真顔で言っている。それか、人種Bに邪魔された!という別件で怒り狂って言っている。
また、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という答えを人種Aは採用している。
なぜこのようなものが採用できるのか。
それはすなわち「誰かに」嫌われなければそれでいい、という判断基準から導かれた答えだからだ。
ショッキングな例を挙げる。
万引きをしたら警察に捕まることは彼らも知っているが、「なぜ捕まるか」という解釈が違う。
「日本に住んでいて窃盗罪になるから捕まる」という解釈をしていない。親や教師に尋問されているときは嫌々そう答える知能はあるが、心の底ではそうは思っていない。
「店員が怒ったから、警官に目をつけられたから」という「理由」で、捕まると解釈している。
だからこそ、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という理論が成り立つ。
店員に見つからなければ万引きはしてもいいことになっているし、被害額が少額ならば万引きをしてもいいことになっている。
相手が金持ちで大きな店ならば、自分が商品を一つとったぐらいなら「相対的に」小さな被害だから「いいじゃん」となる。
人種Aは、何もかもが「相対的」なのだ。
議論をする必要が無いから、絶対的な基準を持つ必要が無い。
人種Bは絶対的な基準で動いているため、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という答えは一切採用できない。
理論や科学の世界がそうであるように、一つの嘘の上に積みあがるものは全て嘘である。
すなわち人種Aには、法律・倫理・科学といった既存の正義が通用しない。
どんなに正論を述べようと、コミュニティを害すものは悪である。
どんな嘘っぱちであろうと、心地よいコミュニティを作るものは善である。
全ての正義はその場で相対的に作られる。
だから、他人が写った写真をアップロードしてしまう。
その写真に写っている仲のいい友達(こいつも人種A)は同じことを考えているため、アップロードされても別に構わないと思っている。
そんなA的な写真の中に人種Bが紛れ込んでいたから、注意されてうぜぇと思っている。
3.ほとんどの「馬鹿」は人種Aで説明ができる。
以上のように、社会には人種Aという人たちが居る。
理論や実証に基づいた知性では生きていない人たちが居る。
このOSのシェアは、社会においてはそれなりに高い。
このAとBという人種の区別は、便利だ。
なぜならば、インターネットで見かける「なんでこんなに頭悪いの」という炎上案件は、7割がたは人種Aによって引き起こされたことだから。
例えば、冒頭の記事にあった「何も考えないで他人の写真をアップロードする者」。
よその犬に勝手にエサをあげてしまうこと。
これは、人種Aが「ちょっとなら誰にも怒られないから」という理屈で採用した正義である。
例えば、「なんで子供作らないの?」だとか「友達と旅行とか行かなくて寂しくないの?」とか無神経に聞いてしまう田舎者。
彼らは無邪気であり、何の害意も持たずにこのような発言をする。
ムスリムに向かって「豚肉旨いよ?家畜としても高効率だよ?」と親切に教えているようなものだ。
ちょっと考えれば「人にはいろんな事情がある」ということは分かるはずなのだが、人種Aの間では「とにかく他人といれば良い」というのが普通であり当然のこととなっている。
例えば、店の冷蔵庫に入って調子に乗るような馬鹿が、昔はツイッターにたくさんいた。
これも当時は「(俺らの周りでは)怒る人がいない」から実行されたことであり、人種Aにとっては生産的な行動であった。
ただ、時代が進んで人種Aですらも飽きて怒るようになってきたから最近は見かけなくなっただけで。
そのかわりに、今は平気で嘘のことを書いて承認欲求を稼ぐという「嘘松」というものが流行している。
人種Aによる愛の欲求は着実にステージを上げている。
例えば、理屈の通らぬポリコレ棍棒を振り回すものや、感情に従うラディカルフェミといった存在。
彼らは立派な大人であり、多くは結婚だってしている。そして高学歴ですらあったりするため、馬鹿ではない。
にもかかわらず、人種Aであるからこのような理屈の通らない活動ができる。
疑似科学だろうとなんだろうと、「それで心地よく信じれた」という結果さえ満たしていれば、もうそれを正義として採用できる能力を持ってしまっている。
最たるものは左翼政治家だろうか。
お花畑平和や反権力というものが「信じ込めばとても心地よい」ということを知ったうえで、大衆の感情を煽って富や権力の欲を満たそうとしている。
少し前に話題なったこのまとめで、「真実の安さ」という言葉が出てきた。
今回の記事で述べていることは、まさにこれである。
人口の多数派を占める人種Aの間では、多数決は絶対的な真実である。
他人の意見は自分の意見であり、そのような形でコミュニティを維持しているから。
見方を変えれば、それは「愛」と呼べるのだろう。
人種Aの文化のなかでは、「自分一人が出した意見」というのは、最も信用がならないものである。
例え「ルート2」だとか「10cmの正方形で測ったら」だとかそういう言葉を並べたところでまやかしであり、森に棲む魔女が持ってきた怪しい薬でしかない。
今回の「正方形の対角線」というテーマにおいては、中学生でも理解できるような簡単な理論だから、大人である先生が理解できないのはおかしいと思うだろう。
しかし、人種Aの文化では真実を理解する能力がどんどん衰退していく。
より成熟した人種Aの文化だからこそ、まともな判断能力は残されていない。
逆に、「他人の目や意見を尊重する能力」だけは強大に進化する。
例えばこんな例の様に。
4.人種Bという社会の敗北者
まあ散々人種Aのことを馬鹿にしたが、これら人種Aが引き起こす事件の多くは、貧困とポピュリズムが元凶であるとの分析がある。
その貧困とポピュリズムは人種Aを容易に生み出す。
だって、人種Aは楽だもの。コストがかからないのだもの。
正直なところ現代の社会は人種Aの方が生きやすい。
簡単な仕事でもやれば金と食料が手に入る豊かな社会であり、無理に理論を積み立てなくても生きていける。
実際に、人種Bは今までの人生のどこかで相当な苦労をしているはずだ。
コミュニティから弾かれて、血を吐く思いをして生き延びてきたはずだ。
頭を使うのには高い能力とコストが必要なのだから。
そうやって、コストを払って「失った」者が人種Bである。
高い金を払って闇の剣を買わざるを得なかった敗北者である。
森に追いやられ、怪しい薬を作ることでしか生計を立てられなかった魔女である。
平和な村人である人種Aは、モンスターに村が侵略される日までは、何の苦労も心配もなく生き続ける。
「同じことを二回聞く」は有罪か無罪か
今日もまた、主に会社内のOJTなどで必要な素質について書いてみる。
「同じことを二回聞くのは悪いことなのかどうか」。
一度聞いたことはメモをして覚えろ、ということは社会人ならば必ず教育される。
また、「最初はミスしてもいいけど二回目は繰り返すな!」という形の教育もよく採用されている。これも同様の話だ。
ジョルノ・ジョバァーナもこう言っていた。
「1度でいい事を2度言わなけりゃあいけないってのは、そいつが頭が悪いって事だからです」
一度したミスは二度としない。
そういう姿勢でいろんなミスを経験すれば、いずれはミスをしない人間が出来上がる。
これが「ちゃんと経験を活かす」ということであり、一度聞いたことをちゃんとメモするだけで出来る簡単なことである。
教える側としても同じことを何度も聞かれないで済むので手がかからない。
完璧である!
不可能だと言う点に目をつぶればいいとこづくめだから、聞く側としても躊躇してしまう。
「同じことを二回聞くのは悪いな」「一度で学習できなかった自分が悪いな」と考えて、自らの成長の機会をフイにしてしまう。
目次:
1.どういった仮定の下で成り立っている理論なのか
「一度したミスは二度としない、を繰り返していればいずれ完璧超人が出来上がる!」という理論はかなりのお花畑である。
パチンコで毎日勝てば働かなくても大金持ちだよ!という理論と同程度にはお花畑である。
この理論を肯定するまでには、多くの現実を無視している。
大きく分けると以下の二つだ。
・一度ですべての情報が引き出されるはずだという極論
・毎回全数検索をしなければいけないという処理コスト
まず、「一度聞いたことは二度聞く必要は無い」という仮定を成り立たせるためには、少なくとも話している言葉の一語一句をすべて完璧に記録しないと始まらない。
人間が手で文字を書く速度と、人間が口でしゃべる速度はどちらが早いか。
仮に全部ICレコーダーで録音したとしても、テープ起こしをする時間はどれぐらいかかるか。
こんな単純なことを考えるだけでもう矛盾しているのだが、それでもメモを取ることは完璧にできたとしよう。
だがその程度では、すべての情報を記録することは出来ない。
なぜならば、口に出している言葉にはそれ以上の意味が込められているからだ。
声色や音量と言ったものにも多くの情報が含まれていることはみんな知っているが、論理的なことだけに絞ったとしても、言葉には実に多くの面で意味が付加される。
例えば、「言うタイミング」。
たとえ同じ言葉であっても、今言うのと後で言うのでは意味が違う。そういう言葉が山ほどある。
例えば、「同じことを繰り返して強調するという手法」。
その言葉が繰り返されたのが一度なのか二度なのか。その数の違いによっても情報が付加される。
こういった、言葉の複雑さをフル活用して、普段人間は会話をしているはずだ。
そしてそもそも、「一度聞いたことは二度聞く必要は無い」という仮定は、人間の認識力と計算力が無限大じゃないとなりたたない。
一度聞いた情報をすべて完璧に取りこぼさずに記憶できること。
自分が一つ思考をするたびにその内容を一瞬で全数検索できること。
こういうあり得ない仮定の下に成り立っている妄想である。
だからこそ、「よく分からなかったからもう一回聞いた方が早い」という状況が存在しうる。
だからこそ、「分かってはいるけど頭がついていけないからあきらめよう」という状況が存在しうる。
将棋の羽生善治とかが人類最強の天才みたいに思われているかもしれないが、将棋と言うのは完全情報ゲームである。論理的にはもう勝敗が分かり切っているゲームである。
この意味をもう一度考えてから、目を覚ました方がいい。
2.一度聞いたことを二度聞くのは無駄ではない
ジョルノ・ジョバァーナという少年ジャンプのヒーローと真逆のことを主張するのは少し気が引けるが、ちょっと思い出して欲しい。
ジョルノが言っていたあのセリフは、因縁をつけて金を巻き上げようとしたマフィアに向かって吐いたセリフである。
決して、部下や仲間に対して使っていい台詞ではないんだ。
以前、こういう記事を書いた。
「今更聞けない~入門」というタイトルをつけた本は、よく売れる。
今現在まかり通っている「同じことが聞けない」という縛りを打ち破る「裏ワザ」であるように聞こえてしまうから。
しかしそんなものは幻想である。
分からないことは、いつだって何度だって聞かなければいけない。
なぜならば、ただ知らないという理由だけで「分からない状態」になっていることは、ものすごい損失であるからだ。
ただ教えれば済むだけのことに、本人が多くの無駄な労力をかけなければいけないからだ。
企業が社員一人に、一時間当たりいくらの金を払っているか。その社員が上手く動ければいくらの金が儲かるのか。この数値をちょっと想像すれば簡単にわかる。
そして何より、「何がなぜ分からないのか」ということは本人しか知らないからだ。
人間が何かを学習するときに、当人の頭の中では何が起こっているのか。そんなものは外から観察したぐらいでは絶対分からない。
当人なりに高度で複雑なことをたくさん考えて、理解ができずに苦しんでいる。
その末に「もう一度聞けばわかる気がする!」という結論を導き出したのだ。
最終目的は「そいつが理解すること」であるので、これは教える側にとっては値千金の手がかりである。
医者が患者を内科診療するときを想像すればいい。
その患者がよほどの虚言壁や神経異常でなければ、結局は患者自身による「痛い」とか「違和感がある」と言ったような情報が一番有力な手掛かりなんだ。
そのためには、医者と患者の間に信頼関係が無くてはならない。
医者が患者に「一度痛いと言ったらもう二度と言うな!」とか言ってしまったら、もうどうやっても病気を発見することなど出来はしない。
3.ズルを行使する権利
誰もが知っている事実がある。
「人間からミスと言うものを無くす」という使命に成功した人間や組織は存在していない。ただの一例も。
その現実を無視して、「一度したミスは二度としない、を繰り返していればいずれ完璧超人が出来上がる!」という論理を採用すれば、教える側としては非常に楽である。
ミスを分析して経験を活かしている気分になれる。
完璧思考がストイックさを生んでくれる気がする。
一度目のミスは許すことで自分が寛大である気分になれる。
自分は手間をかけずに部下が勝手に育ってくれるような気がする。
こんないいとこづくめだから、目は曇ってしまう。
なぜならば、多くの場合で「一度したミスは二度としない」は自分はできているからだ。疑似的には。
部下に同じことを二度聞いたことなどないという上司は存在するだろう。
そりゃそうだ。握っている情報の量が違うのだもの。
知識なしで動ける権限の量が違うし、ミスをしたときに誤魔化す能力だって違う。
そういう武器が別途あれば、無視してゴリ押すことは可能である。
そういう武器を手に入れて「一人前」になれ!
…という教育をするのならば、まあ間違ってはいない。
真の闘争のプロフェッショナル=武器屋のおっさん
自分は、学校や会社で人を教育した経験がそれなりにある。
そしてそれ以上に、人に教育された経験が多い。
学生をやってた期間が相当長かったし、年を取ってからも色んな先生の元で学んでいる。
だから、良い教師と悪い教師の違いが分かる。
師匠と弟子にはどのような人間関係が有効なのかを知っている。
前回は人に教育に関する記事を書いたので、今回も書いてみようと思う。
日本の企業においてよく行われている、職人気質の「見て盗め」という思想のクソさを解説する。
(なお、今回の記事は主に会社のOJTなどの少人数のことを指している。小中学校のように足りないリソースで大多数の人間を教育しなくてはならない場合は、別の手法が必要になるのでいったん除外する。)
目次:
1.教育という行為の強力さについて
自分は、教育とは以下のようなものだと考えている。
「知性と経験」によって人間と言う生き物が成り立っているとするならば、教育とは、「人間を作り出す活動」である。
教育をすることで、人間が材料も無しに無尽蔵に湧いて出てくる。
ちゃんとした教育をすれば、仲間がタダで手に入るのだ。
もし君と僕がりんごを交換したら持っているりんごはやはり、ひとつずつだ。
でも、もし君と僕がアイデアを交換したら、持っているアイデアは2つずつになる。
ジョージ・バーナード・ショーという人の言葉をまた引用したが、情報と言うものは、人に渡すことによって、何故か増殖するのだ。
情報は、いくらコピーしてもコピー元は一切劣化しない。
情報を受け取る側は学習や理解のコストがかかるが、情報を発信する側はリスクなしで情報を増殖させることができるからだ。
情報とは、人間にとっては「武器」である。
知らない者よりも知っている者の方が有利で強い。
そしてその武器がタダで湧いてくる。武器を持った者があなたの味方になってくれる。
武器をもらった人が感謝してくれて見返りを払ってくれる。
教育とは、こんなに強力な手段なのだ。
小中学校でみんなが経験してきたような、「面倒くさい義務」などではない。
2.いわゆる「師匠キャラ」では不十分
しかし、教育によって情報がタダで湧いてくるといっても、情報を受け取る側にはいくらかの勉強や理解のコストが必要になる。
時間をかけて本を読んだり話を聞いたりする時間を取らなくてはならない。
教育は強力な武器であり、なるべく低コストで使えるようにしなくてはならない。
だからこそ、教える側にはテクニックや心構えが必要になる。
ここで今回の本題だが、人にものを教育する際には「師匠」ではなく「武器屋」にならなくてはいけない。
長年の経験から、自分はそう学んだ。
人に教えるときにはこれをやればほとんどの場合で上手く行くし、これができない者に良い教師は一人もいなかった。
「師匠」というキャラクターは、フィクションの世界では大体以下のようなものを指す。
・高い実力や深い知識経験を備えている
・厳しいが寄り添ってくれる
・最後には乗り越えるべき壁となってくれる
こういうキャラクターならば、それはいい師匠ではあるのだろう。
これじゃあ、ダメなんだ。
こんな師匠では人に効率よく武器を渡すことはできない。
人にものを教える際には、「師匠」ではなく「武器屋」にならなくてはいけない。
3.武器屋の仕事はこんなに大変
じゃあ、その武器屋というのはどのようなものなのか。
今回取り上げる「武器屋の仕事」とは、以下のものを指す。
・モンスターに有効で、なおかつ売れる商品を見つけて仕入れてくる
・注文された商品を即座に取り出して装備させてくれる
・冒険者(客)に似合いそうな装備を見繕ってくれる
一つずつ説明する。
「モンスターに有効で、なおかつ売れる商品を見つけて仕入れてくる」
教育という武器を使って倒さなければならない「モンスター」が、たくさんいる。
例えば、会社にいると次々にエンカウントする、「トラブル・製品開発・納期短縮・コストダウン」といったようなモンスターだ。
武器屋の主人は、どういった武器ならばそのモンスターが倒せるかを熟知していなければならない。
ここまでは簡単だ。武器屋の主人自身に戦った経験があればそれは判断できるだろう。
難しいのは、「買ってもらえる武器」を過不足なく店頭に並べなくてはいけないという仕事だ。
どんなに強力な武器であっても、価格が高ければ買ってもらえない。客が使いこなせないような武器は買ってもらえない。
どの武器を選ぶのかは、決めるのは店の側でなく客の側だ。
実際に良く行われる悪い教育の例として、例えば以下のようなものがある。
・「まずは基礎を身に着けないと話にならない」「睡眠と食事以外の時間は〇〇を毎日やれ!」
・「この本読めば何でも答えれるようになるよ」といって2000p越えの分厚い本を投げつける。
師匠は武器屋の主人である、という前提で考えれば、これがとても駄目な商売であることがすぐにわかるはずだ。
客は寄り付かないし売り上げは上がらない。無駄な在庫だけが貯まっていく。
市場は何を必要としているのか?
顧客はどういう商品を買ってくれるのか?
自分は何をどれだけ用意できるのか?
いくら儲けることができるのか?
人に正しい教育をするならば、実際の商社と同じようなことを考えなくてはならない。
崇高で難しい教育、すなわち「本物志向の商品」ならば高めの値段をつけることも可能だろう。しかしそれを売り抜けるにはブランドいう信頼と顧客側の教養が必要だ。
どの程度の武器ならばモンスターを倒すことができて、なおかつ安く仕入れて安く売れるのか?
こういった判断をギリギリまでしなければいけない。
優れた武器屋の店頭には、ハズレの商品は一つも置いてはならない。
「注文された商品を即座に取り出して装備させてくれる」
いい商品を並べて、その結果めでたく「この武器が欲しい!」と注文を受けたとしよう。
ならば次は、その商品をすぐに取り出して、客に装備させてあげないといけない。
「この剣はこうやって振るんだ!」「炎が来たらこの盾を構えるんだ!」ということをレクチャーしないといけない。
これが最初に言っていた、教育を受ける側のコストである。
教育を受ける側は、時間と手間をかけて勉強をしないといけない。
なのでこれは武器屋の店主としては知ったことのない話題で、客が勝手に試着してくれればそれでいいのだが、そんなサービスの悪い店は絶対に流行らないということは簡単に想像がつくはずだ。
いかに手際よく的確にその商品を試させてくれるのか。
たしかに顧客の側にも少しの動作は必要だが、そこに負担を感じさせないでいかに商品を買ってもらうか。
それが、武器屋の主人の商人としての腕の見せ所である。
「冒険者(客)に似合いそうな装備を見繕ってくれる」
店に来る客は、商品が分かっている玄人や顔なじみばかりではない。
駆け出しのひよっこの冒険者がたくさんくる。
というより、売り上げの大部分はこういう未熟な冒険者だ。
この店にはどのような武器が並んでいるのかといったことは一から説明しないといけないし、店の外ではどんなモンスターが出るのかというところから説明しないといけない。
「そもそも俺はどんな武器が使いやすいと思うのか」という問いを一緒になって考えないといけない。
一見さんお断りの店や不文律が多いような「厳しい店」で、買い物をしたいと思うだろうか。
「分かっている人だけが買え」すなわち「師匠の技を見て盗め」といったスタンスでは、顧客は永久に根付かない。
例えば、店に立派な本を大量に並べていても、資料としての価値があるだけで店としての価値は無い。顧客はそんな分かりにくい店で買い物をしたいとは思ってくれない。
どんなにいい商品をそろえたとしても、それだけで商売は繁盛しない。
買ってもらうためには正しい情報提供とセールストークが必要だ。
4.すでに商品の納入義務を負っている
以上のように、武器屋のサービスにはこれだけの価値がある。
ただ商品を並べただけでは店としては機能しないのだ。
200人の大教室で一斉に講義するのと、2~3人の学生に向かい合って教える少人数教育。
同じ内容の授業ならばどっちを選んでも同じだろ?なんてことは絶対にない。
世間の学習塾や予備校がこういったスタイルを武器にして商売合戦をしているわけだ。
ちゃんとした教育には、それだけの価値がある。
ここまで、教育を商売になぞらえた文章を書いてきた。
するとここで「俺はそこまでサービスをするような代金をもらった覚えは無い!」という反論が当然湧いてくるだろうが、それはほとんどの場合で通用しない。
なぜならば、代金はすでに受け取っているからだ。
会社の業務として、学校の教育として、自分が教えなくてはならない立場に立ったこと。
入社試験を突破してきた者が、生徒として筆記用具をもって着席していること。
この状況は、すでに支払いを完了していることを意味する。
だから、一刻も早く最安値で注文された商品を納入しなくてはならないのだ。
先ほどの話で「どれだけ安く仕入れて安く売れるのか?」と書いたが、誤記ではない。
もう交渉は確定しているので、あとはサービスを良くして顧客の満足を増やすことが命題になっているからだ。
(冒頭で述べたように、例えばもし学ぶ気のない学生が大量に来た場合や、教える義理が無い関係なのだとしたら、武器屋の例は必ずしも成り立たない。小中学校のように足りないリソースで大多数の人間を教育しなくてはならない場合はこれにあたるので、低サービスで大量生産の手法が必要になる)
4.「本当に勝つために必要な手段」に気付いたおっさん
・高い実力や深い知識経験を備えている
・厳しいが寄り添ってくれる
・最後には乗り越えるべき壁となってくれる
先に述べたように、典型的な「師匠」というキャラクターはこういったものだ。
「師匠」でいるための仕事は、とても簡単である。
強いプレイヤーでさえあれば、それだけで大部分はクリアできる。
厳しくすればいうことを聞かせれるし、「寄り添っているだけ」なので教えるテクニックも必要ない。
最後の段階になってもただ普通に敵として戦うだけで済む。
師匠になるための能力は、プレイヤーとしての技術や強さ以外に必要なものは何もない。
だからこそ、単にその師匠がプレイヤーとしての人生を歩むのならばそれが一番効率がいい。
優れたプレイヤーと優れた指導者が違うように、武器屋と冒険者は違う。
武器屋は所詮、商人である。戦士ではない。
言ってみれば、試着室から出てくる客の前で跪いて靴を揃える職業だ。
古来より賤職であり、前線で剣を振るう戦士のほうがずっとかっこいい。
しかし、師匠よりも武器屋の主人のほうがずっと難しい。技術も知識も経験も必要だ。
良い武器屋でありながらも強盗に入られない威厳も必要になる。
社会を闊歩するモンスターどもから組織を救うには、プレイヤーの数を増やさなくてはならないという使命がある。
だからこそ、師匠は武器屋にならなくてはならない。
人として許されない言葉:「5分あればできるだろう」
自分は今、会社で複数名の部下を持っている。
かつては学校で学生たちを抱えていたこともあった。
自分が彼らに接するときに絶対に使わないと決めている言葉がある。
「5分あればできるだろう(だからやってこい)」というものだ。
「1時間で終わるから家でやってこい」といった類の指示も同様だ。
一応、「Aが始まるまでの間にBを終わらせなければならない」という話をすることはある。それは必要なものだ。
でも「Bにかかる時間は~分だからできる」という論理は絶対に他人には使わない。
どうしてもそういう指示が必要な場合は、例え相手がどんなザコであっても、済まないと謝りながら金や見返りを必ず用意する。
(まあ電車の時刻表とかのように相手が自分からできると言っているなら話は別だが)
この「5分あればできるだろう」という指示や、「1時間もあれば終わるから家でやってこい」という指示が、どれほど罪深くて自分の馬鹿さを露呈する指示であるのか。
今日はそれを説明する。
目次:
1.誰もが想像できる分かりやすい例
「5分あればできるだろう」という指示を他人に対して一度でも使ったことがある人は、これを思い返してみると良い。
多分、申し訳なさで胸がいっぱいになるから。
あなたは、朝起きてから家を出るまでに、何分の時間をかけているのか。
多くの人は30~60分ぐらいだろう。
そして、その朝の時間がどれぐらい忙しいのかを思い出してみればいい。
布団から起き上がってトイレに行って、動けるようになるまでに5分。
仕掛けておいた炊飯器からご飯をよそって、冷蔵庫から食べるものを出すのに5分。
それを食べて片付けるまでに10分。
昼の弁当と水筒の用意に10分。
顔を洗って歯を磨いて寝癖を直すのに10分。
吊るしてある服を着てポケットの中身を確認するのに5分。
エアコンの電源を切って靴を履いて出発。これで45分ぐらいだ。
以上は自分の例だが、あなたも自身の時間の内訳を書いてみると良い。
ボケっと考え事をしている時間が、たったの5分でもあっただろうか?
30分や60分という時間は、それほどまでに短い。
自分自身の今日の朝を思い返してみれば、それが簡単にわかるはずだ。
毎朝の食事と身だしなみなんて、自分一人がずっと続けていることで、相当高度にルーチン化されている。それどころかどんどん簡略化されて行っている。
にもかかわらず、ほぼすべての人間が「朝は忙しい」とか「結局~できなかった」と言っているはずだ。
「5分もあればできる」とか他人に言ってしまうあなたは、一体何年敗北を続けているのだろうか?
2.「朝はみんな忙しいだろう」という逃げ
逃げ道を塞いでおくが、これは朝の60分に限ったことではない。
仕事が終わって家に帰ってきた後もこの戦いは続く。
1時間の長さが朝と夜で変わるわけがないのだ。
平日夜に仕事が終わった後に、20時に帰ってきて23時に寝ることがどれほど難しいことなのか。
これが想像できないんだったら氏んだ方がいい。
朝の1時間にくらべて、確かに使える時間は3倍になってはいる。
でもその分、朝よりもずっとたくさんのことをしなければいけない。
摂取しなければならない夕食は、米とインスタント味噌汁だけの朝食とは訳が違う。
今日朝食に使った時間が10分だとしたら、3倍あってもたったの30分しかない。
こんな短い時間で、買い物に行って料理して片付けての作業が終わるわけがない。
明日の朝食の用意だってここの時間に押し込めないといけないのだし。
身だしなみも同じだ。
10分で顔洗って寝癖直しては、手を抜いて急げばできたとしよう。
じゃあ夜になって、風呂に入って体を洗って出てくるのに何分かかるのか?
ちゃんと着替えて体操とスキンケアなんてしてたら3倍の30分でも足りはしない。
こういったように、それぞれの行動にかかる時間を想像すればすぐにわかる。
「毎朝のあの絶望的な忙しさを帰宅してからも続ける」という無茶な前提を使った上でも、「5分もあればできるだろう」という皮算用は成り立ちはしない。
大体だ、食事と身だしなみだけで今日一日を終わらせていい訳がない。
朝のあの時間は、長年のルーチンと徹底的な簡略化によって60分で納めることができているわけで。(だからこそ、たった10分やそこらの電車遅延でも致命傷になる)
家に帰ってきたら掃除も洗濯も公共料金の確認もしないといけない。
テレビやネットなんか見てたらもう間違いなくアウトだ。
週末になっても今度は普段の負債をまとめて返さなければいけないし、出かける用事もできるだろう。
そうやって睡眠時間がギリギリまで削られていく。
今現在の行動メニューで、誰もがすでに限界なんだよ。
30分早起きしてジョギングなんて「言うは易し、行うは不可能」である。
3.何を強要してしまっているのか
たったの5分でも、人には簡単に捻出できる時間などない。
しかし、悪魔の力を使うことによってのみ、この前提は覆せる可能性がある。
例えば、食事は全部外食で済ませること。眠眠打破を飲んで睡眠時間を削ること。
これならば食事を30分で終わらせることも毎日1時間早く起きることも不可能ではない。
(まあ店に入ってから出てくるまでを30分で済ませるのは店を選んで相当に急がないといけないし、ドリンク剤一本で睡眠時間を削ることなんて本当は無理なんだけど。)
それは言うまでも無く、本人の財布や健康を無視した捨て身の戦法である。
長続きはしないし費用だって多くかかる。
他人にタダで強制していいことでは決してないんだ。
あともう一つ、とてもよく使われている悪魔の力がある。
「家事や育児を全部妻に任せて自分は何もしないこと」
確かに、買い物も片付けも全くしなくていいのなら、食事を30分で終わらせることもできるだろう。
風呂掃除が勝手に終わっていて着替えが勝手に用意されているのなら、30分で入浴を終わらせることもできるだろう。
23時には就寝して朝7時に起きるような、模範的で健康的な生活リズムを実現することができるだろう。
早起きしてジョギングなんかして、部下に向かって「俺はちゃんとできているんだ」とドヤることだってできるだろう。
憎しみゼロでこれを許してくれるような家族などいない。
子供だってこんな父親を許しはしない。
毎日こんなことやってる親父に、息子のテストの成績でグチグチいう権利があると思うか?
他人に対して「5分あればできるだろう」という論理を使う前に、今一度思い返してみればいい。
今自分はどの程度の人間であり、毎日どんな手段を使っているのか。
これができない人間を見ると「ああ、こいつの家族関係は糞まみれなんだろうな」といつも思う。
4.限られた資源と皮算用
一時間もあれば日経新聞が読めるだろう?
毎日少しずつでも本を読んで勉強ができるだろう?
5分あれば腹筋30回ができるだろう?
全ては夢物語である。
出来る訳がないと感じつつもマウンティングの材料としてこういった強要を行う。
もし仮に実行出来たらそれはそれでお得だという、絶対負けないクソゲーム。
このクソゲームは、被害者側の「プライベートにこれぐらいの時間を使っているからできませんなんて言えない」という心理に付け込むことによってのみ成立する。
当人に対する信頼関係、社会を維持する個々人の規律といったものを食い物にした戦法である。
「5分あればできるだろう」といっていつも押し切れているのは、決してあなたの論理が正義だからではない。
工場で働いている生産技術の人間と話をしたことがあるだろうか。
「5分もかからないでしょすぐやってよ」なんて言ったらブッ殺されるからね?
「じゃあストップウォッチで時間測ってやるよ ほら4分42秒でできた」なんて言ったらもっとブッ殺されるからね?
時間とはそれほどまでに神聖で余裕がないものだ。
自分自身の今日の朝を思い返してみるだけで、それがすぐにわかる。
その皮算用がどれほど浅はかであり、「今日の朝にやりたいこと」で何年敗北を続けてきたのか。
人間にとって、時間は有限である。
誰が何と言おうと一人に与えられた一日の時間は24時間しかない。
そして、時間とはただ決まった速度で流れていくだけである。
前借することもできないし、貯金することもできない。
一度失ってしまった時間はどんなにお金を払っても絶対に帰ってこない。
偉い人でも金持ちでも、自分一人が持つ時間は平等だ。
どんなにあがいても一人の持ち分は一日24時間だが、他人の時間を奪うことはできてしまう。
これはものすごく危険で強欲な手段だ。
だから、自分は部下や学生に対して、「5分あればできるだろう」という論理は絶対に使わない。
「1時間で終わるから家でやってこい」と宿題を出すことはしない。
仮にするとしたら必ず謝罪と見返りを用意する。
そう決めている。
「理系萌え」と、それを真に受ける理系を徹底的にこき下ろす
「理系萌え」という概念が存在する。
Googleで検索してみたら、トップの2件でこんなサイトが出た。
漫画でも「理系萌え」を扱った作品はたくさんある。
最近少し話題になっている「ガタガール」も含まれると思う。
日本の学校の大体半分は理系なので、現在の人口の約半分の萌えを扱っているならば、それは結構な重要性があるのだろう。
上に挙げた作品も、漫画としてはまあ面白いと思う。
しかし個人的には、この「理系萌え」というやつには最高に反吐が出るし嫌な思い出しかない。
今日はこんなことを主張してみようと思う。
目次:
1.まず目を覚ませ
最初に、有名な例を挙げてみたい。
かつて、小保方晴子という科学者がいた。
科学において、「間違ったことを言う」ということは罪ではない。
絶対的な科学なんてものは存在しないのだから、本当にそんなルールがあったら全員何も発言できなくなる。
ただし、「分かっていて嘘を言う」というのは一応罪になる。
一応と言ったのは、嘘を言っても科学の発展自体にはどのみち無効であり悪影響は無いからだ。
ただ、間違いを暴いて訂正するのに余計な仕事が増えるというだけで。
(仮に間違いを暴けなかった場合は、それが正しい科学となる。)
そう考えるとかつて小保方が起こした事件は、科学の発展の面から考えればそう大した事件ではなかった。
にも拘らず、小保方晴子が絶対悪として唾棄されている理由の大部分に「リケジョ」という概念を祭り上げて誤魔化そうとしたという点がある。
身も蓋も無い話をすれば、小保方は当時の理研という組織の中では一番の美人であり、「リケジョ」という概念を流行らせるためにプロモートされた。
(小保方自身はそんな立場を利用して何か野望を達成しようとしたりされたりしたようだが。)
割烹着を持ち出したり研究室で亀を飼ったり「ありまぁす」とか。こういうしぐさを見てかわいいと思ったり許そうと思ったりしたことがあるだろうか。
自分は全く無い。
2.「理系萌え」という悪意
小保方の例で分かるように、「かわいいは正義」をリアルで実行しようとするのは相当に無理がある。
でもフィクションの世界ではそれが割と簡単に実行できてしまう。
事実として、「理系萌え」というのはキャラクターの記号としては扱いやすい。
ステレオタイプが浸透している割には、ちゃんと調べて科学的に高度なことを言わせておけば陳腐感も出ないからだ。
先に述べた日本の学校の半数は理系だという点があるため、マーケティング的な命中率も高いからだ。
しかしその容易さのおかげで、科学の概念そのものを踏みにじってしまうケースが非常に発生しやすい。
理系萌えを表現する際には、確実に以下の要素が含まれる。
邪悪な点を順番に述べる。
①「分からないことを言っている」というミステリアスな雰囲気
例えば、英字新聞がデザインされたTシャツのように。
日本人にとってはそれでかっこいいかもしれないが、外人にとってはもちろんナニコレとなる。
「フェルマーの最終定理」とか「フィボナッチ数列」とか。
高校までで習わない分野でカタカナ語が入っていれば確かになんかかっこよく見える。
そのセンス自体はまあ本物なのだろう。
しかし、それを科学に持ち込んでしまった時点ですべてが嘘になる。
だって、理解されない科学なんてものには何の正当性もないし価値もないから。
科学の世界においては、「説明が分からない」というのは説明している側の罪になる。
このルールが無ければどんな嘘だって通せてしまうから。
だからこそ科学は、より短い論理で・より多くのルートで説明ができるように日々開発されているわけだ。
「理系萌え」というのは、こんな基本的な原理にすら背いて、一時の「かっこいい」だけに酔ってしまっている。もうこの時点で科学的には正義なんてありはしないんだ。
②「~の話題になるとテンションが上がる」「スイッチが入る」
理系萌えを描く際には、必ず「その分野に対する異常な愛情」が描かれる。
誰が相手でも語り始めてしまう・周りの話を聞かない・街中でも突然議論を始める、といった描写。
断言するけど、これはそいつが幼稚で情緒不安定なだけだから。
こんな人間がまともなわけがないでしょう…理系の人間でも分かるぞ。
こういうキャラクター性は、現実世界の理系にも持ち込まれやすい。
理系の人間がそういうマイナス要素を必ず抱えているように思われてしまう。
そんなマイナス方向をわざわざ同居させるという手法を使ってまで、ギャップ萌えを強化している。そうまでして理系に萌えたいのだろう。
そんな狂った描写こそが美しい?
自分たちは「常人」の立場からからそいつを眺めてニヤニヤしたい?
現実の理系の人間に対しても、こういう役割を期待する人がいるよね。
氏んでしまえばいい。
以前の記事でも書いたが、「ガチなら許す」ってのは絶対にダメな判断基準なんだ。
周りが見えてない時点でもう何も正しくないのだから。
③その分野以外はからっきしであるというギャップ
「理系萌え」とされるキャラクターは、髪の毛はぼさぼさ・その分野以外のことはロクにできない、といったような描写が往々にして含まれる。
「完全無欠の天才」みたいなキャラクター設定である場合もあるが、そういう場合でも「何もないところでつまずいてこけたりするシーン」などは必ず入れたりする。
例に使って悪いが、冒頭で上げたガタガールという作品では「方言が厳しい」というマイナスポイントを入れて、これによって不器用さを表現していた。
方言が悪か?という話には議論の余地はあるが、少なくともこの作品ではマイナスのスパイスとして使用されていた。
で、恋愛も不器用なわけだ。
「理系萌え」を扱った作品では、必ずそういう要素を突っ込んでくる。
結局、主食は愛欲と性欲であり、科学なんてものはお飾りでありスパイスであったわけだ。
まあ最初から恋愛が目的だったというのならば、そういう作品を描いたっていいだろう。
でも、それを表現するためにまず「理系」を貶めてから勝負を始めるというのはいくらなんでも邪悪である。
理系の人って現実の社会にもたくさんいるんだからね?それも、日本の人口の半数。
そういう対象にマイナス描写を押し付けておいて、自分はそのギャップをおいしく頂くというのはちょっと下種すぎると感じる。
昔の記事でも書いたが、実際に理系の人たちには髪がぼさぼさで話が分かりにくい人だってもちろんいるだろう。
しかし、それは理系萌えのために抱えた属性では断じてない。
3.こんな簡単なことにも気付かない奴に科学を?
本当に度し難い事だが、こういった浅くて嘘だらけの「理系萌え」で、満足してしまっている理系の人間が大勢いる。
「言っていることが分からない・その分野以外はからっきし」というキャラクター性をガチで採用してしまっている者がいる。
「もやしもん」「数学ガール」「ガタガール」を聖書だと喜んでしまう者がいる。
科学とは、目的ではなく手段である。
どんな科学だって役に立つ可能性があるからやっているのであり、ロマンだけで成り立っている科学なんてものは一つもない。
「理系萌え」を表現するという描写は、なんか数式をこねているだけだったり細胞分裂を見ていて恍惚としているだけだったりする。
どんなにロマンがあるといっても、単に美しいだけなら映画でも見ていたほうが美しいに決まっている。
なぜならば、現実の科学よりもフィクションの作品の方が制作の条件が緩いからだ。
そういう現実を無視して、細胞分裂に恍惚とする姿が描かれ、馬鹿にされている。
一つでも嘘を通したらその上に成り立つ論理は全部嘘になる。
こんな基本的で重大なことにすら気付いていない。
まあ、具体的な成果や現実を漫画にするのはとても難しいことではあるのだろう。
表面的な「理系萌え」だけを扱っていたほうが楽だし効果も高いからだ。
フィクションの作品ならば、こうやって誤魔化してしまうことが簡単にできてしまう。
そうやって現実を見ないのに理系を気取っている者が大勢いる。