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愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

なぜ歴史学者は写真を使わずに、手でのスケッチにこだわるのか

科学

2016年2月のことであるが、2007年に福井県で発見された化石が、新種の恐竜のものであることが確認された。

 

www.itmedia.co.jp

そしてこの解明をした、東京学芸大の佐藤たまき准教授が、優れた女性科学者をたたえる「猿橋賞」を受賞することとなった。

贈呈式と受賞記念講演は、5月28日に都内で開かれる。

http://mainichi.jp/articles/20160419/k00/00m/040/039000c

 

ラジオでそのインタビューをやっていたから聞いていたが、その中でとても興味深い話をしていた。

 

 

 1.「スケッチ」は特別に重視される

例えば、歴史学者が地層を掘って、何か新しい化石を発見したとする。

その場合、写真を撮るだけで済まされることは決してない。

歴史学者は手と目によるスケッチを必ず行う。わざわざ黒鉛筆とスケッチブックを用意してだ。

 

もちろん、「あとで手書きの解説図を書くからちょっとメモっておく」、とかそういったレベルのスケッチではない。ある種の学問においては、「白紙に鉛筆を走らせたもの」それ自体が、「証拠写真」と同列に扱われる。

 

何故たかだか人間の一人が、完璧に写実的な観察眼と、それを全て表現する素晴らしい画力をもっていることが前提になっているのだろうか。

(もちろん、発掘の際には横に専門の画家がついているとか、そんなことはない。今回の件では、佐藤たまき准教授が当人の手によりスケッチを行っている。)

 

写真で撮ればそれでいいのではないか?という疑問が当然出てくる。

確かに、写真ならば完璧に記録できるというわけではない。

デジタルカメラの画素数も感度も、数値の上限がある。

 

しかし、「カメラの正確さ≦人間の目と手」ということが立証されなければ、科学の証拠として弱い方が採用されるのは間違っていることになる。

 

 

1-1.わざわざ手書きのスケッチをする理由

写真で撮ればそれでいいのではないか?という疑問について

今回のインタビューで、その理由を、全部ではないのだろうが、話していた。

大体以下の1~3が理由らしい。

1.カメラのフラッシュで発掘物が痛む可能性があるため

2.カメラの画素で感知できる情報には限りがあるため

3.一方向からの二次元画像では、影が出来たりして見えなくなるところが出るため

 

1.については、確かにこれはもっともな理由だ。フラッシュを焚いたら見えなくなってしまう部分も、ある場合がある。

(それじゃあ普通に目でも見えないんじゃないかと思わないでもないが)

 

しかし2.と3.については、どうも理由が弱いように思う。

2.については、先述したように、確かにカメラとて完璧ではない。しかし、「カメラの正確さ≦人間の目と手」が成り立たなければ、わざわざスケッチの方を採用する理由にはならない。

「リアルな感触」とか、「写真では伝わらない特色」とか、そんなスピリチュアルな要素は科学に持ち込むべきではない。

そもそも、手書きならば正しく表現しきれる、という根拠すらない。

 3.についても、どうも現場の作業量の都合ではないかと考える。見えない部分があったとしても、別に全方位から何枚も写真を取れば解決できてしまうことだと思う。画素も光度も、人間が識別できるレベルまでなら、好きに調節ができる。

 

 

1-2.研究者に強要される神秘性

確かに、人が化石の研究を始めたころは、カメラなんて便利な道具はなかったのだろう。しかしその当時の学者たちは、手書きでスケッチをして、立派に名前を残した。

 

「過去の偉人たちと同等のスキルを持ちたいor持っていてほしい」

根本には、こんな動機があるのではないかと考える。そして現在の学者を評価する社会の側も、それを強要している面があるのではないかと思う。

 

 「あの人は過去の偉人達と同等のスキルを持っている」→

「ならばあの人のスケッチは手書きでも十分な証拠たりうるだろう」

という妙な納得が、評価としてまかりとおってしまっていないだろうか。

 

考古学に限らず、科学や学問は、基本的に難しくて一般人にはよくわからないものである。そんな難しい専門分野において、専門家たる学者様がその手で書いたスケッチだから、それは信用せざるを得ない。

こういう納得をしてしまっていないだろうか。

 

まるで、インフォームドコンセントが成り立つ前の医療のように

実際、自分の肉体のことでなければ、科学や学問に対する十分な説明など、あまり聞く暇はないのかもしれない。

(医者が神妙な顔で書いているカルテをチラ見してみると、結構適当書いてあるぞアレ。つーか字が速筆過ぎて読めない。

 

医者も患者も、学者も、同じ人間なのだから、なるべく同じ理解ができるまで追求したいものだ。

 

 

2.保守的科学教育

少し話は戻るが、小学校の理科の教科書を見返してみると、確かに「発見したもの、観察したものにはスケッチを残しましょう」ということが書いてある。

 

しかし、特にそれ以上の教育内容があるわけでなかった。

小学校中学校では、理科の時間に絵の下手さをダメ出しされて、高校になったら受験重視でぱったりとスケッチなどしなくなる、というのがよくあるパターンだと思われる。

 

自分は当時、「理科の授業のたびにクラス全員がデジカメを持たないといけなくなるから」という理由で、スケッチが推進されているのだと思っていた。それと、適当に絵心を刺激して興味を持たせよう、という意図があるのだと思っていた。

 

そんな教育のままで、今でも教科書通りの「スケッチ」を信じている人は割と多いのではないか?

 

・小学校中学校で、何かむやみにスケッチすることを強要された記憶がある人。

・その結果を、絵の上手い女子が贔屓されるアリバイに使われてムカついた人。

・「スケッチ」のことをよく考えないまま大人になってしまって、そのまま教科書どおり子供に教えてしまっている人。

ちょっと今一度思い返してみよう。

少なくとも自分の場合は、「スケッチ」の意味を正しく議論できた機会なんて、学校では一度もなかったから。

 

 

3.スケッチは手段の一つ

手書きスケッチは写真並みに重視される、ということは、歴史学者に限ったことではない。生物学や医学の分野でも、「手書きのスケッチ」というものは、特別に重要視されている。

 

例えば、去る2014年に小保方晴子氏一連の騒動でも、「手書きノート」「マウスのスケッチ」といったものが出てきた。

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小保方晴子、ねずみの落書きの驚愕の実験ノート公開!!小保方擁護派までもが「これ見たらSTAPなんてないわ!」「こいつは本当にバカだったのか!」と言いだす始末。 - 涼のブログ - Yahoo!ブログ

(このノートが画像が見つかったのはここしかなかった。)

 

科学者にとっては、実験や調査をした際に、記録をつけるという行動はとても重要な仕事だ。しかし、「スケッチが完璧でなくてはならない」という主張はナンセンスである。そもそも完璧になりようがないのだから。

むしろ、単に一つの現象だけをを記録しよう、という意図があったのなら、件のマウスのスケッチでも充分正当であったのだと思う。

 

 

以上のように、スケッチという行為は、元々完璧な行為ではない。

写真のほうが優れている場合もある。

しかし、記録を残す手段の一つとしては、ある種のケースにおいては、未だに有用な手法である。