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【Wikiは】「参考文献」の意義を今一度考えてみる【NG?】

 

何か学術的な主張をする際の、「参考文献」というルールは、大学の授業でレポートを書くときに、その存在を学ぶ人が多いのではないだろうか。

 

レポートや論文の、一番最後のページにずらりと書いてあるアレだ。

パワーポイントの資料のグラフの下に、一行黒文字で書いてあるアレだ。

 

 そして、レポートや資料を作るとき、以下のルールを教えられるはずだ。

ウィキペディアは参考文献に使ってはいけません」

 

自分が考えるに、この指導は、半分は正しいが半分は間違っている

 

今回の話は、学術上の参考文献だけに関する話ではなく、ブログでも新聞でもどこでも、「引用されているもの」に全般に通じる考えだと思う。

 

 

 目次:

 

 

 

1.参考文献を書かなくてはならない理由

そもそも参考文献というものを使わなくてはならない理由として、とりあえず確実なものは、簡単に言ってしまえば紙面と手間の問題だ。

 

例えば、自分が発表内容の一部が、すでに他人が発表したものと同じものである場合。

グラフだけを持ってきて、その下に参考文献を一行書くケースなどがそれに当たる。

こういうときは、参考文献を一行書いておくと、「いちいち書くの面倒だから、このグラフの諸条件を知りたかったら下の~を読んでね!」という意味になる。

 

だから、例えばその「グラフの諸条件」を省略せずに全部自分の論文に書いてしまえば、グラフの作成者も込みでその引用先のグラフと全く同じことを書いてしまえば、参考文献を示す必要はなくなる

 

ブログで記事を書くときに例えてみると、自分のブログの途中に別の小さいウィンドウがあって、その中に引用先のブログがそのまま表示されている、といったイメージだ。

 

こうやってしまえば、参考文献を示す必要はなくなる。伝わる情報としてはより確実になるし、引用元の権利もより強固に守られるだろう。

 

しかしそれができないのは、つまり紙面と手間の問題だ。

ブログの中に別のブログを表示なんかしたら見づらくて仕方ない。一か所だけを示したいのに、丸ごと表示しなければいけないとなると、見る側も書く側もとても面倒になる。

 

 

 もう一つの、参考文献を示さなくてはならないケースは、端的に言えばその情報が無料でない場合である。対価を払った人しか見られない、という性質がないと困る情報である場合である。

 

 対価をおろそかにしてしまっては、もともとの情報を流す人がいなくなってしまう。いくらインターネットの情報が簡単にコピーできるからと言っても、この権利は守られなくてはいけない。著作権法はそのために作られた法律で、ネット上の文章でよく話題になるのはこちらの方だと思う。

 

確かに、ネット上では絵とか文章とかの無断使用がよく問題になる。だから著作権法は大事だが、学術においてのケースを考えると、話は変わってくると思う。

 

学術は公開されるから価値があるのだろう?

確かに、企業が利益のために門外不出にしている研究や、防衛のための軍事技術とか、そういうものならば簡単に公開されたら困る人が多いのだろう。しかし、一般的な自然法則であったり、多くの人類が知ることで初めて価値が出る科学であるならば、いちいち引用される必然性は正直ないと思う。

 

しかし、研究者だって人間だ。研究機関にだってずいぶんなお金がかかっている。

だから、「せめて名声という報酬をくれ!!」と言われてしまったら、仕方ないとは思う。こういう対価をおろそかにしてしまっては、もともとの情報を流す人がいなくなってしまうだろう。

逆に個人的には、研究者に払ってやれる対価というものが、研究の必要経費を除けば、こんな金にならない「名声」とやらしかないのは問題であると思う。

 

 

2.信頼性というあいまいな幻想

以上のように、紙面と手間の問題がクリアーできて、資料の対価もクリアーできているならば、本質的には「参考文献」をいちいち書く必要はない。

すると次に出てくるのは、参考文献の「信頼性」というステータスだ。

「君一人が理論やグラフをただ出すだけでは信頼性がないから、何か信頼性のある参考文献をつけて」という要求をさせることが多いと思う。

 

信頼性の多寡を追い求めるのは、別に正しい行為であると思う。

読む側の理解の手間もタダではないため、他人が理解した、という結果をそのまま流用できるなら、それはとても楽で助かる。そうやって理解で楽をした分は、別の理解に労力を割り当てることができるだろう。

 

確かに、「何人もの人間がチェックした」という事実自体には、それなりの価値がある。しかし、「論文誌の査読に通った論文・出版社が出した学術書ならOK」という考えはあまりに短絡的だ。

なぜなら、「論文誌の査読がどのように行われているか」「出版社の編集者がどのように仕事をしているか」が、ほとんど話題に上がらないからだ。

 

 適当に書いている論文でも、ある程度の体裁が整っていれば、ほかの偉い先生の推薦があれば数撃ちゃ通る、という現実も、残念ながら存在する。

出版社が出した本だって、その会社の何人かの人間が、正しいと通しただけのことだ。

 

デタラメを書いた学術論文が後から発覚する例なんて、一度や二度ではない。出版社が出した本に大嘘が書いてある例だって、日常的に見ているはずだ。

あいまいで難しい分野であればあるほど、嘘は通しやすくなる。

  

「信頼性」を求めて、論文誌や出版社というブランドを信じる。しかし、そのブランドを支えている、肝心の人数や人選が分かったものではない。

偉い先生一人か?それともベテラン社員10人か?そのように「信頼性」の多寡を議論するならば、おそらくウィキペディアの信頼性は相当に高いことになる。

もちろん、嘘がつきにくい内容のページであったり、十分な議論と編集がなされている場合に限るが。

 

「信頼性」の多寡という議論において、結果の区別を一律につけるのは難しいので、ただ単純に、「ウィキペディアは参考文献に使ってはいけません」というルールだけが先行したのだろう。

 そして、全体の結果としてまとめて見れば、その慣習によってそれなりに正しい選択はできているのだと思う。

サボって楽をする学生も弾けるだろうし。

 

 

3.読む側が本当にやらなくてはならないこと

「信頼性」は、すなわちブランドである。しかし、そのブランドが本当に正しいものかどうかは分かったものではない。

 

こういう時の対処法は、すでにみんな知っているはずだ。ブランドバッグや高級肉を買うときと変わらない。

すなわち、自分の感覚によって、採用するか否かを判断すること。

自分で文章を読んでみて、正しいと思えばブランドにかかわらず納得すること。

間違っていると思えばブランドにかかわらず捨てること。

 
自分でものを考えて判断できない人が、「信頼性ガー」とかいっても、滑稽でしかない。本当に大事なのは、ブランドの信頼性なんかではなく、目の前にある中身だ。

 

 「俺が正しいと感じたからこれは正しい」。

そんなものの積み重ねで、人類の科学は形作られていく。

どんなに偉い先生であっても、この手法は変わらない。

 

難しい話にぶつかっても、投げないで立ち向かってほしい。

自分がすぐに分かる範囲、でいい。

自分が分かる範囲が自分の正義なんだから。