【絵描き】専門家に「愛」を強要する人たちへ【楽しんで描け】
ネットを巡回していたら、本当に心から同意できる意見を見つけた。
こういう話は、実際に上を目指して戦っている当人達にとっては、割と重大なテーマであるのに、こういう風に言及されているのをほとんどみない。
だから、自分がもっと書いてみる。
目次:
1.「楽しんで描け」の強要パターン
例えば絵画のような分野において、
- あるところに、才能や環境だけでは説明しきれないような、「別次元のパフォーマンス」を発揮している人間がいる。
- そいつの実力の秘密は、その分野に対する「無意識で深い愛」であった。
- 美しい、素晴らしい、だから強い!
簡単に表すと、今回取り扱われているのは以上のような話である。
こういう話は、絵や音楽のような芸術に関する分野だけでなく、専門家が存在する分野ならばどこでも生まれてくる。スポーツ選手や、手工業の職人など。
それどころか、科学や学問の分野でさえも、こういう話は用いられる。
こういった話は、美談としてはものすごくキャッチーで分かりやすい。
しかし、専門家の全員がこういう思考をしているに違いない!という発想は危険である。特に、実際に上を目指して戦っている当人たちにとっては。
2.なぜ、そういった形を求めてしまうか
例えば、「サッカーボールは友達」であり、部屋がごらんのありさまな、翼くん。
実在人物の例を挙げれば、子供の頃から昆虫のスケッチを続けて、死ぬ間際でもベッドで漫画を描き続けた、手塚治虫。
第三者が、「天才」というものを表現して、多くの人に伝えなければならないとしたら、とりあえず思いつく手法が、こういった「異常なレベルの愛」をプッシュすることなのであろう。
そしてそれはとてもキャッチーで分かりやすい。量産がしやすく、人気も出るのであろう。
難しくて理解できない専門分野であっても、愛や暗記量ならば理解できるから。
理解できないものであっても、そうやれば楽しむことができる。
どのような形であれ、「すごい専門家」が、一般人から注目されるということ自体には、よい効果はあるのだろう。
だが、もう一度冷静になって考えてみてほしい。
そこで「さかなクンみたいなのが真に素晴らしい海洋学者だろう?」とかいう暴論を、無意識で支持してしまっている人間が、まだ結構な割合で存在している。
ある分野で命を懸けている天才は、誰かのエンターテイメントのために戦っているわけではない。
3.なぜ「愛の強要」が恐ろしいのか
「さかなクンみたいなのが真に素晴らしい海洋学者だろう?」と言ったような恐ろしい誤解をかましたところで、誤解をした側の人間は痛くもかゆくもない。
一番ひどい目に合うのは、誤解された天才の方だ。
「愛」の誤解は、そのまま全否定へと繋がる。
自分が愛しているその分野で、滅茶苦茶な役を強要されてしまうのだ。
自分がその分野で上を目指して戦っている、と仮定すれば、そのヤバさが分かるはずだ。
よくある事例を述べる。
例えば、「プログラマーの恋人はパソコンである」と決めつけてしまうと、とてつもなく残酷なことが起こる。
「いかにもプログラマーっぽい人」を見ると、結構な割合の人間が、意識の底ではそう思ってしまう。「ああ、あの人はパソコンが恋人なのかな」って。
場合によっては、当のプログラマー自身でそう思っているケースもあるだろう。
大学教授とかプロスポーツ選手とか、その職業に権威があるならば、それで被害が出ることなく終わる話だろう。室伏広治を、「筋肉を愛する変態」だと馬鹿にする人は、一人もいないように。
しかし、プログラマーみたいに珍しくない職業なら、特に社会的な地位が高くない人なら、その扱いはいくらでも差別にエスカレートする。
- 恋人がパソコン
- 話が通じない
- 一日中パソコンで仕事をさせれる
こんなふうに扱うことが、可能になってしまう。
これはプログラマーの一例であるが、多かれ少なかれ、こういう扱いを受けたことはありませんか?愛を勝手に強要されて、無茶なキャラクターを演じさせられたことはありませんか?
一つの世界において、自分の意志で本気で戦ってきた人ならば、こういった誤解から始まる差別的な扱いを、何度も見てきている。
自分自身の本気が馬鹿にされた経験がある人も多いだろう。
ステレオタイプで的外れなキャラクターを強要された人も多いだろう。
そして、そんなキャラクターを本気で演じるバカにすべてを台無しにされたことがあるだろう。思い返してみてほしい。
4.本当に恐ろしいのは、そいつが頂点に立ってしまったとき
こういった的外れで無責任な「愛の強要」であるが、そのキャラクターを天然でこなせてしまう人間は、一定割合で存在する。
先述の手塚治虫のように、「本当に絵を描くのが好きでたまらない」と言い切ってしまって、それで結果を残せる人もいる。
その当人にとっては、「楽しんで描け」という手法が有効だった、という結果である。
それによって無理なく上達ができるのならば、それに越したことはない。
しかし、本当に恐ろしいのはこれからだ。
その天然クンが、その世界でトップに立ってしまった場合、その世界はもれなく破滅する。「楽しんで描け」という歪んだ正義が、大義名分を持ってしまう日が来る。
「翼くん」でないサッカー選手はすべて偽物であり、「手塚治虫」でない漫画家は二流であると扱われてしまうようになる。愛には様々な形や感じ方があるのは明白であるのに、そんな簡単なことすら信じてもらえなくなる。
結果が数値として分かりやすい、スポーツ等の分野ならば、まだマシかもしれない。愛があろうとなかろうと、結果は嘘をつかないから。
しかし、絵や音楽と言った芸術のように、結果が分かりにくい分野だと最低だ。
「楽しんで描け」という精神でトップまで進んでしまった人間に、「愛の強要」の是非を鑑みる能力など有りはしない。そして、専門家でない外部の人間は、その天然クンをこれ以上ないぐらいほめたたえるだろう。
5.まとめ
「愛」≒「強さ」
この式自体は、いくらかは正しいのだろう。
大抵の場合、その世界でプロになっているような人なら、愛はあるのだろう。
「楽しむこと」自体に、いいエネルギーが伴うのだろう。
人間の脳の作用には、おそらくそういう機能もある。
しかし、だからといって嘘をつくのは絶対にダメだ。「楽しんで描けないのは才能がないから」などといった思想は、どう考えても暴論であり、嘘だらけである。
自分の意志で戦い、その世界で上を目指すために日々努力する人間であればあるほど、その価値観は複雑だ。うかつに愛を語ると、その世界における当人の価値観を、全否定することになる。