愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

【貧者の核兵器】インターネットにおける「炎上」の正義

 

少し前だが、現代ビジネスで非常に興味深い記事を読んだ。

gendai.ismedia.jp

インターネットにおける、いわゆる「炎上」の話をしている。

そのなかで、「ネットは貧者の核兵器という表現が出てきた。

 

非常にうまい表現で、まさしくその通りだと思う。

今回はその正義の是非について書いてみたいと思う。

 

 

 目次:

 

 

 

1.自分が考える、インターネットでの言論の始まり

もともとインターネットというものは、1960~70年代に、大学や研究所におけるデータベースの共有から始まった。1980年代から商用利用が解放され、現在に至る。

 

インターネットには、生まれつき、以下のような性質が備わっていた。

  • 設備と知識が必要
  • そのかわりに、一度使いこなしてしまえば、とても低コスト

このような性質があるからこそ、学術の場で生まれて、学術の場で便利に使われた。

 

現在では、「設備と知識が必要」という面については、いくらかは緩和されている。

インターネットをやりたいだけなら、auショップスマホを買えば、いくらかの金はかかるが、特に何も考えないで使えるようにしてもらえる。

自宅にネット回線を引くときも、折り込みチラシの番号に電話して、お金を払えば工事をやってもらえる。後は電気屋に行って、ルーターやパソコンを買ってこればいい。今どきの製品なら、どれを選んでも大体は何とかなる。

 

それらはすべて事実だが、それでもなお、インターネットには「設備と知識が必要」という前提は無くなっていない。

 インターネットの接続について、よくわからない人は高齢者だけではない。便利になりすぎた故、ある意味若い世代にとっても、デジタルディバイドは存在している。

何も知らない人がインターネットに接続したところで、ちゃんと使いこなそうとするのには結構な意志力が必要だ。

インターネットにおいては、自分で調べて学習すれば、いくらでも知識を得ることができるが、その差を知識なしで埋めようとすれば、やはり多めの金が必要になる。

 

つまり乱暴な表現をすれば、元々インターネットとはオタクの武器である。

「設備と知識が必要」という前提は2016年の現在でも残っているし、「一度使いこなしてしまえば、とても低コスト」という性質も、オタクという存在にマッチしやすい。実際に2000年以前ぐらいまでは、間違いなくそういった世界があった。

 

そしてオタクの武器であると同時に、弱者の武器でもあった。

言うまでもなく、オタクは社会においては弱者である。また、現在におけるスマホの文化の主役である若者たちも、多くは設備や知識を持たないという面で、弱者だと言える。

 

そんな弱者たちが、「低コスト」で大きな力を発揮することができる武器が、インターネットであった。

 

 

2.弱者はなぜ戦うか?

インターネットが普及する以前は、言論という世界は所謂「社会の強者」だけの舞台であった。

 テレビ、新聞、雑誌。そしてそれに付随する、報道、芸能、文芸。どこにおいても、多くの金と才能がなければ、発言権を得られない世界であった。

 

しかし、インターネットという武器の普及により、情報革命が起こって、金も才能も持たない弱者が、言論という舞台で戦えるようになった。そうして言論の世界の規模が拡大したが、その結果「炎上」という現象が、頻繁に起こるようになった。

 

 

この記事でも述べられているように、なぜか弱者が強者に戦いを挑んでいる。

 

しかし自分が思うに、無意味に起こる炎上などは(ほぼ)存在しない。

炎上には必ず「燃料」が必要である。

例えば未成年が飲酒をしていたり、知識人ぶっている人が二枚舌をさらしていたりする、といった、例が分かりやすい。

 

なお、インターネットの亡者たちは何でもかんでも燃料にできるわけではなく、以下に当てはまるものしか叩けない

  1. 「嘘」であるもの
  2. 「下品」であるもの

これらを叩いてつぶす戦いが「炎上」として結果に残る。

1.2.に当てはまらないケースで暴れている例もないではないが、それはただコメント数が多いだけの現象であり、有効な炎上にはなっていない。

 

途中で新しい証拠が出てきたり話の流れが変わった時に、今まで喜んで叩いていた亡者たちが、ソッコーで手のひらを返す様もよくみられる。これは亡者たちが最初から一貫して1.2.の原理のみを判断して動いている証拠であり、手のひらを返す速度はむしろ正しさと潔さの表れだ。

何とかして別の証拠を見つけようとあがく姿も、正しい論証であるといえる。

 

未成年の飲酒は、すでに犯罪として定義されているから分かりやすい。「犯罪者なんかじゃないですよ」というポーズを取りながら飲酒をかますのは、1.に該当する。

知識人が二枚舌をさらしているケースは、例えば、現役の小学校教諭が「男子は汚くて馬鹿だが女子はかわいくて優れている」とかツイッターで言ってしまうような例だ。

これでも一応意見としては成り立っているため、1.だけでは当てはまらない。

「こういう極論を肯定してしまうような人間が現役教師である」という事実が2.であり、それがギルティとして扱われる。

 

1.と2.に共通している事項であり、最終的な判断の原理は、「自分が損をするかしないか」である。

 インターネットは弱者の武器であり、その弱者は今までの人生において、リアルの世界において何度も損をしてきた。

1.のような、他人の嘘に人生を踊らされてきた。

2.のような、女児を贔屓するような下品さによって差別をされてきた。

そういう憎しみが、インターネットの炎上の源であり、インターネットの言論が弱者の武器である以上、この原理は無くならないと思う。

 

 

3.核兵器を使うことは正しいのか。

「自分の利益のために暴力を振るう」という、かつては強者のみに許されていた手段が、インターネットの普及という革命によって、弱者もできるようになった。

 そういう意味ではインターネットは弱者にとっては救いであり、許されるべき戦いではある。

 

だから、戦う。

インターネットの炎上というものは、この世から嘘が無くならない限り、この世から弱者がいなくならない限りは、終わることがない。

 

【ネットは貧者の核兵器】である。

しかしそれは実際の核兵器と違って、別に環境が汚染されるわけでも、国が消滅するわけでもない。ただ強力で強者を脅かすことができる武器である、という点のみが残っている。

 

核兵器ではあるけど、これは使っちゃダメなわけでは全然ない。

これまでの努力の結果であり当然の権利だと思う。

 

むしろこう言った暴力は、今まで本物の強者のみに許されていた特権であり、それは今までは平然と行われていた。