愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

二次元文化の表現規制に対する論法

 

東京都知事選挙が行われている本日だが、それに先んじて表現規制に関することが話題になった。

togetter.comやはり二次元の文化の規制に関することが、関心を持たれている。

 

clacff.hatenablog.com先日の記事に書いたように、やはりインターネットはオタクの文化が成熟しやすいので、ネットの社会において、表現規制は切実な問題である。

 

 二次元文化に対する規制はとても歴史が長い。何度も規制案が出てきては消えてを繰り返している、とても根深い問題である。大体は以下のページにまとまっている。

表現規制の歴史をふりかえってみようか:DDN JAPAN

 

 自分自身は、表現規制にはやっぱり反対の立場である。

ただ不謹慎だから・エロいからというだけでは規制をする理由にならないし、定義もゾーニングもあいまいなままで、感情論以外が全然出てこないからだ。

インターネットの言論においては、大体主流の意見、というより当然の意見だと思う。

 

しかし、表現規制を反対するという意見を述べるにはどういうことを考えないといけないのか?ということに、いくつか思うことがあるので書いてみる。

 

 

 目次:

 

 

 

1.なぜ規制されようとしているのか

いわゆる表現規制の問題は、本来はあらゆる表現に関する包括的な話題であるはずだが、今日の記事ではインターネットで話題になっている部分である、「ゲームや漫画のような、二次元文化のエロ・グロ規制」という部分だけに着目する。

 

表現規制が行われる理由には、特定の選挙アピールと言った理由や、特定団体の利権といったような理由も、存在はしていると思う。

しかしそういったものを抜きにしても、二次元文化が規制される理由は、もちろんある。

 

現在のような成熟しまくった二次元文化を鑑みれば明らかだが、子供の教育・成長には確実に影響が出るだろう。現在の二次元文化のレベルは、何十年か前の水準をどうみても超えている。

例えば、子供がチャンピオンREDのような雑誌を、本屋で何の抵抗もなく買うことができてしまったら、確かにそれは問題だろう。ゾーニング自体はもっと強化するべきだという意見は、表現規制反対派の中でも根強い。

 

このように、確かに二次元文化は規制される理由はある。

本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。

 

 

2.なぜ規制の争いに決着がつかないのか。

繰り返すが、本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。

 

表現の自由憲法により認められているとか、芸術を犯すことは文化の死につながるとか、そういった主張も規制反対派にはあるが、それにしたって限度はある。

例えば、いくら表現が自由だといっても「マンガのセリフの中に誰かの本名や住所を勝手に書いたらマズい」ということならば、納得ができるだろう。

社会を維持するためには、やってはいけない範囲というのは、もちろん定められなければならない。

 

しかし、その範囲の議論がいつまでたっても行われない。

・「漫画はダメです。」

・「ドラえもんはいい。」

とか、その程度の戯言しか規制派は出してこない。

反論に対しては「オタクの意見キモい」と耳をふさいで、これ以上の議論を進めようとしない。そして、規制することだけは進めようとする。

 

これは、行政の判断リソースが全く割かれていないことが原因である。

端的に行ってしまえば、現在議論されている規制の範囲なんてものは、社会で地位を持った、偉いハゲ数人が、適当に身内で選んだ結果でしかないから。

 

当時は、手塚治虫石ノ森章太郎の作品でさえ、校庭で焚書された。しかし2016年の現在だったら、これらの方は神様であるので、焚書なんてとんでもない。むしろ子供に勧めて読ませるだろう。

これは二枚舌ではない。本を燃やすか燃やさないかは、その時の偉い大人の判断で決まるから。

 

「当時は手塚治虫が気に入らなかったから燃やしたけど、今は気に入るから大丈夫。」奴らはこんな言い分すら通すことができる。

「これはクールジャパンだけどこれはクールジャパンじゃない」などといったキャンペーンを好きに設計することができる。

最初から正義など有りはしない。だから、「何を規制するべきか?」という問いに答えられない。

 

大体、芸術と言う深すぎる対象に対して、ちょっと話したぐらいで全員が納得するものを決めるなんてことが土台無理なのだ。

日本が間接民主主義を採用している以上、もともとこのように数人の指導者が多数の民衆の意見を決定することで成り立っていたはずだ。

芸術にかかわる人間の数が増えすぎたことが、根本的な原因でもある。

 

 

3.ここでも起こり得る、「やってはいけない批判」

表現規制に関する議論は、このようなところでストップしている。

筋が通っていないのはどう考えても規制派の方であるが、規制反対派としてできることは、票を与えないことと、正義を唱え続けることぐらいのものだ。

 

規制反対派はそうやって正義を唱え続けているが、やっぱり「間違った批判」をしてしまっているケースが多々見られる。

 

何度でもいうが、「二次元文化には~賞を受賞した素晴らしい人がいる!」という論法は、自爆に等しい。

 

 「賞を取れない漫画は下品だから規制する」という論理を許すことになる。

以前当ブログで書いた、スマホと科学者の話と同じである。 clacff.hatenablog.comスマホが作れるようになる程度の科学だったらやる価値無い」と、無関係の人間が切り捨てることができるようになってしまう。

 

以前当ブログで書いた、断捨離の話でも言っている。

clacff.hatenablog.com「高くないものなら捨てていい」という論理を許すことになる。そして規制派は、この例で行けば大抵「金持ち」にあたるので、あらゆるものが捨てられてしまうようになる。

 

「二次元文化には~様がいる!~様もいる!」というインパクトでゴリ押せるのは、馬鹿な大衆だけだ。

大衆を操るのでは奴らと同じであるというだけでなく、本来の理を無視して大衆という武器で奴らに立ち向かおうというならば、絶対に向こうの方が有利になる。

「~賞を受賞した世界に認められた偉人」だとしても、その賞を発行するのは、どちらかと言えば規制をする側の人間である。

賞は関係なく、売れたかどうかという話だとしてもダメだ。売れたという判定をするのも、実際に売るのも、どちらかと言えば規制をする側の人間である。

 

 

元々正義自体は確実に規制反対派の方にあるのだから、主張するものを間違えてはならない。二次元のエロ漫画を読んでいても罪ではないとそう思うのならば、ちゃんとそうやって言えばいい。

こそこそやっているから、叩く機会を与えることになる。