【極論注意】障碍者スポーツの真の理解
2016年9月8日に、リオデジャネイロパラインピックが開催される。
自分も、身内ではないけど障碍者の方が身近にいるので、なるべくテレビをつけて内容を追ってみようと思う。
パラリンピック開催に伴い、テレビのニュースなどでも特集が組まれていたが、やはりどの特集でも、二言目には「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマが挙げられている。
そういったところが、ゴールに設定されているように思う。
今日はこの、障碍者スポーツへの理解について書いてみようと思う。
そしてその中で、障碍者と言う言葉を根本的になくす方法も思いついてしまったので、書いてみようと思う。
目次:
1.障碍者スポーツへの理解、とは?
「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマを表す具体的な一例として、集客数の話がある。
車いすテニスの国内予選では、入場無料なのに客席がガラガラ、という例がニュースで紹介されていた。
「いかにして集客数を増やすか」と課題に取り組んでいる、とのことだが、「障碍者スポーツへの理解を深める」ことは、その解決策にはなっていないと思う。
確かに、障碍者スポーツへの理解があれば、興味を持つ人も増えて、集客数も増えるのかもしれないが、障碍者スポーツへの理解って、すでに大体十分なのではないか?
障碍者スポーツのルールとか、選手の生い立ちとか、有力選手の力関係とか。大抵の人は、健常者スポーツですらよくは知らない。
例えばラグビーは、女子ラグビーやワールドカップで話題沸騰中であるが、ラグビーのルールをちゃんと知っている人は、そう多くはない。
というか、リオデジャネイロオリンピックでメダルを取った卓球やバドミントンでも、選手の名前を知っているのは、マスコミが取り上げた数名だけではないか?
自分が思うに、スポーツを観戦して楽しむならば、プロの選手がすごい動きをしているのを見て、「すげー!」って言うだけでも十分楽しめるものだと思っている。
そして、そのように「すげー!」と言って楽しむのならば、障碍者スポーツは健常者スポーツよりずっとすごい。個人的にはこっちの方がおすすめだ。
本当にスポーツに「人気」と言うものを出すのならば、野球とかJリーグのように、桁違いの金額をかけてマーケティング・プロモーションをしなければならない。
多分それは、「障碍者スポーツに理解を深める」ぐらいのことでは達成できないのだと思う。
「健常者のスポーツへの興味>障碍者のスポーツへの興味」という構図は簡単には崩れないが、これは別に障碍者スポーツが悪いのではない。
そもそも障碍者と健常者に人口比に差があるので、ポテンシャルで障碍者スポーツと健常者スポーツが並んでいないということだ。
何か障碍者スポーツに、健常者スポーツにはない別に魅力があればいいが、そんなものがあったらあったで、障碍者スポーツへの理解は成り立たないような気がする。障碍者スポーツと健常者スポーツは、どんどん別のものになっていく気がする。
2.障碍者が障碍者でなくなる唯一の方法
前回のロンドンオリンピックで、オリンピックとパラリンピックの両方に出場した、オスカー・ピストリウスという選手がいた。義足で達成したその記録が、当時結構議論になった。
五輪陸上選手になった義足ラガーマン オスカー・ピストリウス|Did you know?|RUGBY REPUBLIC(ラグビー共和国)
今回のリオデジャネイロオリンピックでも、両足が義足のマルクス・レーム選手が出場を見送ったというニュースがある。
健常者超える記録が論争 義足ジャンパー、五輪に壁 - 読んで見フォト - 産経フォト
何故出場を見送ったかと言えば、陸上競技においては健常者より障碍者の方が有利である可能性があるからだ。
上記のリンクを見てもらえばわかるが、陸上競技用に開発された特別な義足であり、バネのように機能して、速くなっているのではないかという懸念がある。
現在のところはまだ科学的に有利だと証明されたわけではないが、義足の技術的な進歩が続けば、いずれは生身の足より義足の方が速くなってしまう日が必ず来る。
生身の選手より義足の選手の方が速いと、いったい何が問題になるのか。
分かりやすい理由の一つとしては、「生身の選手が、速さを求めて脚を切断するようになるから」である。
「そんなバカなことする奴いねーよwww」というのは無関係の一般人の感覚だ。
スポーツ選手は記録を伸ばすために、勝利するために人生すなわち命を懸けている。脚を切れば速くなるならば、当然切断するのが正解だ。たとえ本人が嫌がっても、親やコーチが切断させるだろう。
というより現在のところ、スポーツの世界ではすでに同じようなことが行われている。
小さいころから無理な筋トレや柔軟体操をして体を痛めつけることは、足を切断することと本質的には同じだ。スポーツで記録を残すために、不可逆な変化を肉体に加えているんだから。
そこで考えたのだが、このように「足を切断した方が速くなる」という手段が一般化すれば、障碍者と健常者の区別は無くなるのではないだろうか。
義足の技術が十分に進歩して、健常者の方が「脚などいらない」と言い出したその日が、本当の意味で障碍者という言葉が無くなった日でないだろうか。
元々足がない障碍者ならば、義足をつけるのにむしろ有利であり、それを健常者の方が羨む日が来れば、障碍者という概念が無くなるのではないだろうか。
バレリーナの二重関節のようなものである。
医学的には先天的な奇形であると言えるが、皆が羨む有利な才能であり、二重関節のバレリーナのことを障碍者と扱う者はいない。
3.未来の世界のスポーツ
この例のような、義足の進歩が人体を超えてしまう例は、もう20年ぐらいは未来の話かもしれない。
しかし、陸上選手のスパイクや水泳選手のスイムウェアなど、これと同じような話はすでに現実に起こっている。
器具だけの話ではなく、例えばプロテインが普通に薬局で買えるようになったという話にも、このような側面は含まれている。
陸上競技などのスポーツは、近い将来、モータースポーツのように工業技術を競う場になる。
そしてそのうちに、科学技術によって機械化された選手以外にも興味が向けられるようになる。かつての「パラリンピック」と同じように、生身の選手だけで行う「生身ンピック」が開催されるようになるだろう。
現在は、パラリンピックはオリンピックより競技人口も集客も少ないし、後の日程で行われる。
言い換えれば、「健常者スポーツ>障碍者スポーツ」である。
もし将来、パラリンピックが「生身ンピック」より先に開催される様になったら、その時は「障碍者に対する理解」が真に行われた社会になるのだろう。「健常者スポーツ<障碍者スポーツ」となり、障碍者スポーツに真の関心が寄せられる世界になるのだろう。
そしてその時には、「生身ンピック」の選手が、「健常者スポーツに理解・関心が足りない」とか言い出すのだろう。