ゲームセンターで、古くから導入されている科学的なルール
先日の記事で、「ビデオゲームの持つ高潔さ」を書いた。
clacff.hatenablog.comビデオゲームは、科学やスポーツと同じように、追求するためにプレイをしている。
より深い真実に興味があるから、プレイをしている。
人の探究心に貴賤をつけることはできないはずであるが、それでもビデオゲームの趣味としての社会的な地位は低いままだ。
確かに、先の記事でも述べたように、「一つのメーカーが作った一つのゲーム」という範囲では、野球やサッカーよりもランクは低い。
それに金がかからないとはいえ、ほかで役に立つ肉体や技術が鍛えられるわけでもない。
見た目もキモいし、子供っぽい、というも間違いはないだろう。
そういった、「何も知らない人」に向けた人気がないと、金も集まらない。なので、いかに理念が立派であっても意味がない、という意見も正しい。
eスポーツがほかのスポーツと同じように認識されるようになるには、多くの時間と金が必要になるだろう。
そこで今日は、eスポーツの未来の発展のために、ビデオゲームにおける科学の歴史を書こうと思う。
1980年代の、スペースインベーダーの時代から、すでにビデオゲームの科学的なアプローチは始まっていた。
目次:
1.ビデオゲームの追及おける、ルールの厳密さ
先の記事で述べたように、ビデオゲームを追求することは、科学を追求することと同じである。
だからこそ、そこには厳密なルールが決められている。
ニコニコ動画に上がっているTAS動画でも同じで、例えば以下のようなことが議論になる場合が多い。
・本当に実機で再現ができる操作であるか(ex.ロックマン2のメタルブレードその場配置)
・どの地点をクリア画面とみなすか(ex.アイテム欄のバグでエンディング画面を呼び出すFF3)
・スコアが更新されたのはどちらが先か(ex.理論確定と、動画のアップをどちらを優先するか)
こういった事項の是非が、大真面目に議論されている。
「たかがゲームに何マジになってんの」という論理は、そこには含まれない。
ビデオゲームは、科学として追及する価値があり、趣味として高尚なものである。
科学と同じで、議論の余地が少しでも残っているのならば、前に進まなければならない。
面倒だから、という理由で打ち切ってしまった場合は、その世界はすべてが嘘っぱちになってしまうのだ。
2.「ハイスコア集計を打ち切る」という文化の意味
インターネットでTAS動画が出てきたのは2001年頃からだが、街のゲームセンターでは、1980年代からすでにゲームの科学的な追求が既に行われていた。
こういった歴史のある理念の例を一つ挙げてみる。
ゲームセンターでは、古くからある文化として、「ハイスコア集計」というものがある。
詳細は以下のサイトが詳しい。
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インターネットが普及する以前から、全国のゲームセンターの筐体に残されたハイスコアを集めて、ゲーム雑誌の上で毎月ランキングを発表していた。
2015年にアルカディアが休刊してからは一時ストップしていたが、割と最近になって、以下のサイトで同様の試みが再開された。
ハイスコア追求の一例を挙げる。
例えば上の画像はカプコンの魔界村(1985)であるが、画像の上部に「10000」とハイスコアが表示されている。ゲームセンターでこんな感じにゲームをプレイして、スコアの多寡を競っていた。
ゲームのスコアは、内部でカウントできる桁数に限界がある。大体9999万点のものが多い。
しかし、一度でも9999万点のカンストのスコアが記録されてしまった場合は、もうその時点でスコアの集計は打ち切りとなる。その時点で、雑誌にスコアを送っても掲載されることは無くなり、どんなに高得点を取っても無意味になる。
なぜならばゲームの追及は科学と同じで、以前の記事に書いたように、「追求する余地があるから行っている」からだ。
clacff.hatenablog.comスコアの多寡という意味ではもうこれ以上ない、ということが証明されてしまったため、スコアを競うという意味では、もう遊ぶ意味がなくなる。
また、バグやテクニックによって、永久パターンで無限のスコアが取れるということが判明してしまったときも同様である。
例えまだ9999万点が実際に達成されていないとしても、永久パターンが確定してしまったときは、「もう9999万点が取れる」ということが確定してしまっている、スコアを競う意味がその時点でなくなる。
実際に上記の魔界村では、発売後まもなく1面のゾンビ狩りで永久パターンが発覚し、早い段階で修正基板を出す羽目になった。
永久パターンが発覚しただけで、実際に9999万点を取るまでやった者が現れたわけでもない。それに、ゲームの1面以降は楽しむ余地がまだそのまま残っている。
にもかかわらず、カプコンは多大な金額を払って、修正基板を出した。ごく一部分の修正のために、一台何十万円もする全国のアーケード筐体の基盤を交換したのだ。*1
カプコンとしては、コストの問題よりも、ハイスコアを追求する余地が無くなってしまったことが、ゲームとして大問題だったからだ。
こういう例が、下のサイトにいくつかまとまっている。
Old Game Mesuem@@ƒAƒ‹ƒJƒfƒBƒA2001”N2ŒŽ†ŒfÚ•ª
このように、たかがビデオゲームであっても、追求する余地が無くなるか、余地が全て知れてしまえば、ハイスコアの集計は行われなくなる。
そしてハイスコアを目指せなくなったプレイヤーたちは、またあらためて別のゲームでハイスコアを目指してプレイする。あるいは、一度ハイスコアが達成されたゲームでも、「ほかの遊び方は無いのだろうか」と模索する。
今度はタイムアタックに挑戦してみたり、武器を縛ってプレイしてみたり、そういう状況の下で、また新たなハイスコアを追求する。
こういった、明確かつ思い切りのいい原理が、1980年代のゲーム雑誌では既に実行されている。子供が遊ぶようなものであっても、ゲームを本気でプレイするということはこれぐらい厳密で価値があるものである。
- 「今自分たちがプレイしているゲームに意味はあるのか?」
- 「ハイスコアが達成されてしまったのならば、次に自分たちがやるべきことは何か?」
ビデオゲームをプレイする子供たちは、先日の記事で書いた羽生善治の発言と同じ原理を、1980年代にすでに理解していた。
3.ビデオゲームの真実と、現在の地位
この例だけではないが、ビデオゲームのプレイの追及には、長い歴史と科学的なアプローチがある。こんな崇高なことを、大人も子供もやっているのだ。
ビデオゲームをプレイする人は、堂々とプレイしていい。
今は趣味としては地位が低く認められていないが、それは社会の方が無知で未熟だからだ。
真実は十二分に含まれているし、競技人口も相当に多い。
野球や小説が昔は低俗な趣味とされていたように、趣味の価値が逆転することは大昔から何度も起こっている。ビデオゲームが逆転する日が、近いうちに必ず来る。
eスポーツと言う流れも当然で正当なものだ。
現在のところは、野球やオリンピックのように現在のところは大きい金やスポンサーが動いているわけではないが、そこもいずれは成長してくるだろう。
*1:一応、6面の一角獣を2匹から1匹に減らすという難易度調整もついでに行ってはいた