愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

「蹴鞠おじさん」と「教養科目」

 

「蹴鞠おじさん」

とても便利で、悲しい言葉が生まれた。

yoppymodel.hatenablog.com

 

自分は、「ネイティブ広告ハンドブック」の内容については特に興味がない。

マクルーハンなんて名前は初めて聞いたというレベルだ。

 

しかし、この「蹴鞠おじさん」という概念については強い興味がある。

自分も頭に来たから、現状の理解をまとめてみる。

 

 

目次:

 

 

 

1.どこにでも、どこまでも、蔓延る「蹴鞠おじさん」

「蹴鞠おじさん」。

ヨッピー氏の表現をお借りすれば、以下のような概念のことを指す。

 古くて、伝統があって普通の人が理解してないもの

 

ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作ってる上に、「俺たちはギョーカイ人なんだぞ!」っていう選民意識がめちゃくちゃ強い。

 こういう輩は、メディアの世界だけではなく、どこの世界にもたくさんいる。本当にいる。

そして嘆かわしいことに、理性的な理論と議論によって成り立つべきである、技術や学問の世界にも、たくさんいる。

「素人が口を出すな、技は見て盗め」とかいったようないわゆる「職人気質」が、この蹴鞠おじさんに本当にそっくりだ。

 

発言した若手が「素人である」ということ自体を問題にして、本質的な議論を全く進めようとしない人だ。

若手がごめんなさいと言ったら、説教の後にようやく話し始めるが、結局は大したことを何も言えない人だ。

 

今回のケースでは、キモい語り口がオタクっぽいと評判だが、これはただのオタクのマウンティングではない。

「おじさん」というところが大事な点で、この硬直したキモさとうざさは、クソ人間を拗らせた上で、適度な権力を与えて数十年間じっくり熟成しないと生み出せない。ある種の芸術品だ。

「蹴鞠おじさん」というネーミングはとても的を射ていると思う。

 

 

2.マウンティングこそが正義、という思想

いろんな業界にいる、こういった「蹴鞠おじさん」は、根本的に人をマウンティングすることしか考えていない。

マウンティングをすることによって、教養がより高いレベルに洗練され、それが業界全体のプラスになる、という思想のもとで行動している。

「蹴鞠おじさん」は、その場その場で各々がマウンティングをすることによってのみ、その世界で正義が生まれて育つと考えている。

マウンティングこそがすべてであり、それ以上のことを考えない。

だから、自分が勝てる世界ならばそれで美しい、という思考に流れていく。

 

まあ、自分の数十年の人生だけですべての世界をくくってしまうのならば、そういう考え方である意味正しい面もある。蹴鞠おじさんの生き方も、一理あるといえば一理ある。

 

こういう「蹴鞠おじさん」は今までマウンティグによってのみ世界を組み立ててきたので、科学や技術などの世界が成り立ったような、そもそもの本質的な意味を知らない。

以前の記事で述べたような、「お前のスマホのために科学をやっている」といったような、馬鹿な傲慢な回答をしてしまうのは、大抵こういうタイプだ。

clacff.hatenablog.comスマホが科学の目的ではないように、マクルーハンだって、別にメディアに携わるための第一の手段などではないだろう。こんな簡単なことにすら気付けない思想だ。

 

人を踏むための武器として、マクルーハンを持ち出している。

そもそも相手が知らないことを期待して、「マクルーハンって知っていますか?」とか切り出している。当人は優雅で優美なつもりでいるのだろうが、そこには最初から悪意しかない。

 

 

3.大卒以上の人間が持っている、「教養」という武器

社会では、このような「蹴鞠おじさん」が大勢、高そうなスーツを着て、毎日偉そうに仕事をしている。というより、本当に偉い。

いい大学を出ていっぱい勉強をしてきているから、無責任なマウンティングができる人間になれた。

 

教養というものは、人を踏むための武器として使われている。

現代の社会においては、少なくともこれは事実である。それ自体は認めざるを得ない。

 

日本の教育カリキュラムにおいては、大学生になったらなぜか突然「教養」というものを勉強する。特に生活や受験に役に立つわけでもないのに、なぜか優雅に、今まで目も向けてこなかった雑学科学や、歴史や哲学についてかじり始めることになっている。

 

本当は「教養」には、自分の知っている世界を広めること、その知った新しい世界観を利用して、本来の専門分野を世界を広げること、そういう目的があったはずだ。

だからこそ、大学4年間の約半分もの時間を、本来の専門とは関係のない分野でわざわざ「教養」として勉強してきたはずだ。

 

そのはずだったのだが、教養というものは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質上、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあいをするのに非常に便利なツールである。

だからこそ、大学生は教養の勉強をすることになった。現在においては、本来の教養の意義はとっくに失われて、このような目的のために「教養」を勉強をしている。

これと同様に、世間の大人たちが、「本を読め」とか「ニュースを追え」とか小言を言い始めるのも、なぜか大学生になったあたりからである。

本当に世界を広げたいだけだったら、もっと早くから勉強していてもいいはずだ。

 

 

4.「教養」で殴り合う社会の問題点

例えば、「お嬢様がやる和琴のお稽古」は教養であるが、「スラムの餓鬼がやるロックバンド」は教養ではない。

例えば、「ジェンダーの視点から考える21世紀の日本社会講座」は教養であるが、「BLAZBLUE初心者立ち回り講座(起き攻め対応)」は教養ではない。

 

教養とは、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあうためのツールであるので、「様々な分野を幅広く」という目的だけでなく、「優雅に優美に」という条件も達成していなくてはいけない。

 

そんな事情で文化の貴賤が決定されてしまうのは問題だが、それ以前にもっと大きな問題がある。

そもそも教養とはそれ単体では無力であり、何の論理も達成できないことだ。

そんな役に立たない「教養」なんてもので、他人を踏もうという思考が、そもそも問題である。

 

教養とはその世界だけで勝手に設定された真実であり、目の前の問題が解決してくれるものではない。

経済学の概念と理論を述べたところで、外注先の納期を一日でも縮めることができるのか?

コンピューターサイエンスの歴史と偉人が言えたからといって、目の前のスクリプトを一行でも進めることができるのか?

 ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作っている。そのギョーカイからは一歩も出ることができない。

 

もう一つの大きな問題は、「教養でバトったところで、結局は権力の勝負にしかならない」という点である。

教養とは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質があるため、絶対的な真実の基準がないし、いくらでも後出しジャンケンが可能だ。

その当人の立場と権力が許す限り、真実の基準を勝手に定めて、後出しジャンケンをすることができる。

結局は権力が足りない側には最初から勝ち目はない。また、逆に権力のある側が確実に勝つために必要な戦場が「教養バトル」であるともいえる。

このバトル戦う方法、すなわちこのバトルに「正しく負ける方法」は、これから社会の大人と戦う大学生たちにとっては必須科目であるわけだ。

 

今回のケースでのバトルを観察してみても、この人は権力については非常に慎重に話をしている。

例えばこの人は、マクルーハンは語ることができても、アスラン・ザラは語ることはできないだろう。

もしそれを切り出したら、「アスラン・ザラはメディアには関係ない」といって当人は逃げるはずだが、あれだけ売れて長く続いているテレビシリーズの話なんだから、関係ないことはない、と言い切ることだって可能なはずだ。

しかしその論理の余地を握りつぶして、「(自分には)関係ない」と言い張って制定できる権力があるから、ああいったマウンティングが成り立っていた。

また、「メディアの話をさせたら長いですよ」という切り口で話していること自体が、人を踏むことを第一目的にしている証拠であり、内容自体には実は自信がないということを表している。本当にすぐに十分語れるのならば、こんな前置きはしないで語り始めているはずだ。

まずは権力差をわからせたうえで、慎重に話を始めようとしていることが観察される。

 

 

5.それでも「蹴鞠おじさん」は生きる

togetter.comインターネットの言論において、「僕に「○○」の話をさせたら長くなりますよ?」という伝説が生まれた。

 

それでちょっと気になっていることがある。

世間の「蹴鞠おじさん」達は、今回ボコボコに馬鹿にされているけれど、言い返したりはしないのだろうか。

インターネットで自分たちがここまで言われていたら、見て見ぬふりをすることは結構難しいと思う。自分だったら恥ずかしくて枕の中に頭突っ込んでいると思う。

 

「蹴鞠おじさん」のほうに、本当に真実があるならば、だんまりなんてしてないで、コメント欄に乗り込んで全員たたき伏せるぐらいのことできるはずだ。

それができないということが、つまり奴らが真実ではなく権力で動いているという証拠だ。

正論で説き伏せることはできないと自分で分かっているから、自分が不利な状況ではガン逃げを決め込む。

 

結局のところ、この蹴鞠おじさんたちは、自分が持っている武器が蹴鞠しかないと、とっくに認識している。いい大学を出て無駄な勉強を重ねてきた人生しか持っていないと、とっくに気付いている。

だからこそ、その無駄な勉強で無双ができる蹴鞠の世界は、死ぬ気になって維持しようとするだろう。

 

あと20年ぐらい待っていれば、「蹴鞠おじさん」達は死滅してくれるかもしれないが、奴らは、自分の弟子にも同じような思考を伝授しているだろう。

この連鎖を断ち切るためには、弟子のほうが目を覚まして意識しないといけないと考える。

  

「現在、社会で幅を利かせている大人たちなど、この程度である」。

次の世代の若者たちには、ぜひともそれをブッ倒してもらいたい。

 そんな未来を期待したい。