愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

学者や研究者が、「社会不適合者」を強いられる理由

 

「偉い学者や教授のプレゼンテーションがやる気ない理由」について考察された記事があった。

pipipipipi-www.hatenablog.com 自分の見た目を気にしないで済む人生は、さぞ幸せだろうなぁ。自分もそう思う。

 

ただし自分が知る限りでは、おそらく多くの学者や教授は、そうなりたくてなったわけではない。

他人の目を意識する能力を鍛えることができなかったという事情があると考えている。

そして、学者や教授の持つ地位と名声が、「そんな惨状でも大丈夫」という環境を許しているのだと思う。

 

自分もちょっとはそういう世界を見知っているので、書いてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

 

1.プレゼンテーションというレアスキル

結論から言えば、伝わりやすいようにハキハキ話すということ自体が、すでに割と特殊なスキルなんだと思う。

単に親と学校に育てられるだけの人生では身につかない能力だ。

思い返してみればわかると思うが、ちゃんとしたプレゼンの訓練をしたことがある子供なんてほとんどいないはずだ。

小中学校では、「みんなの前に立って話す」なんてただの罰ゲームにしかならない。

逆に高校生ぐらいになると、みんなの前に立って話せるなんて奴は、イケメン勝ち組リア充である。

小中学校と高校では、スクールカーストの評価項目が変わってしまうからだ。

 

大学になると、授業やゼミなどでプレゼンの練習をすることもあるだろう。また、就職して会社に入ってしまえば、プレゼンの訓練を特別に時間を取ってすることもあるだろう。

しかし、20過ぎた人間がそこから成長できる可能性は必ずしも高くない。ハキハキ話すというスキルはもはや言語中枢の問題であり、人体に根深すぎる身だしなみのセンスだって同様だ。

もはやそれは個人の気質の問題であり、ちょっと小手先で訓練するぐらいでは矯正できない。

 

ちゃんと人前に立ってプレゼンができる人というのは、それだけで割と優秀なコミュ力を持っているといえる。プレゼン能力の多寡はあるのだろうが、少なくとも自分は大丈夫という自信を持っているなら、それはすでに立派なスキルであると思う。

だから、訓練をしていない人のコミュ力を叩くのは、ちょっとかわいそうである。

 

 

2.情熱とアジテーションの線引き

「自分の学問に情熱を注ぎすぎているから」という理由であるケースも、人によってはあるとは思う。

しかしそれは、「好きこそものの上手になれ」という幻想の一部だ。

clacff.hatenablog.comこの記事で言及したような、「先天的な手塚治虫タイプ」だと、そういう結果になりやすい。

こういうタイプの人間は、そもそも偉くなってはいけないタイプだと自分は思っている。

別に地位や名声なんかなくたって、学問の価値は変わらないと思っている。

 

厳密に言えば、本来科学の構築に必要とされるものは、「論理的な正しさ」だけであるはずである。

正しいことさえ言っていればつながっていくのが科学の世界だ。

学問の世界にアジテーションなんて持ち込んではならない。

しかし、「わかりやすいプレゼン」というものを追及してしまうと、割と早い段階でこの問題にぶつかってしまう。

 

 

3.「分かりにくさ」を逆手に取る戦術

個人的には、熱狂させるようなアジは元々の真実を歪めてしまうから危険であるが、簡単にしてわかりやすく伝える、というのは学問には絶対に必要だと考えている。

 

一人でシコシコ論文を書いているだけならば、正しささえ確保できていれば十分であるが、わざわざ時間を割いて他人に話すからには、ちゃんと伝わって理解できる話のほうが絶対に価値があると思っている。

聞いてもよくわからないプレゼンテーションとか、聞く気が起きない論文発表とか、そういうものを無理やり聞かせることは罪であると思っている。

 

しかし、学問の場においてはとても邪悪なことに、分かりにくさそのものがアジテーションの手段として使われるケースがある。

「ボサボサの髪で聞こえない声で延々しゃべる」というスタイルが、逆に演出として有効になってしまってしまう場合がある。

 

学問の発表というシステムにおいては、「わからせる必要性」がそもそも薄い場合が多い。

別に全然わからない下手くそな発表であっても、当人にとっては「~の学会でちゃんと発表した」という実績さえあればそれでいい。

実際に割と偉めな学会などに行ってみても、半分ぐらいの人が寝てたり内職してたりする。そんなものだ。正直、居眠り国会を笑えない状況かもしれない。

 

例え100人や200人の聴衆がいるのだとしても、もともと真面目に話を聞いているのは一握りであり、「話を正しく伝えないとやばい人」はさらにそのうちの数名だけであったりする。しかもその数名が、正しいプレゼンを評価できる人だとも限らない。

 

むしろ、分かりにくくしたほうが有利な部分もある。なんか難解になってすごそうに見えるし、素人の簡単な質問はシャットアウトできる。

「僕はちゃんと言ったのに理解できなかったの~?ア~ン?」という戦術で有利に立つこともできる。

 

そして、わかりやすく話してしまうと、「こいつ異端だな」とか「アジ容認派だな」とか、そういうレッテルを張られてむしろ不利になってしまう。

邪悪なことに、学問とはそういった世界である。

 

 

4.アジテーションの常用化

以上、学者や研究者のプレゼンがクソである原因を述べたが、その世界が維持される要因としては、もっと根本的な理由があるのだろう。

すなわち、冒頭の記事でも触れられていたように、裕福な立場にいる人達だから、特に本気出さなくてものんびりダラダラ発表ができる立場にいるのだろう。

 

研究者が大学で講義をやっても詰まらなくなるのはシステム的な問題があるが、「そもそもなんで研究者が教育者を兼任しないといけないのか」という議論にもつながっている。

ちゃんと教えたいのなら専任の講師というか通訳を用意すればいいのだが、そうしてしまうと、研究者が直々に教えているという権威と信頼性()がなくなってしまう

 

つまり現代の学問の世界においては、もともと正しく教えることなんてものが目的とされていないともいえる。必ずしも全員に伝わる必要などなく、一握りの者にしか伝わらなくても、むしろそれが選別の意味になる。

 

髪がぼさぼさでやる気のない発音というものは、選択的にそういうスタイルの者のみが長年生き残ってきた結果でもある。

「分かりやすさ」というのはリソースを割かなくては実現できない特殊なスキルであり、それに気を払わないものが有利になる世界である。

 

個人的には、リソースを割いてでも分かりやすさは追及しないといけないと思っているが。