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愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

理論の「強者」と「ニセ強者」

科学

 

弱者に対しての意見が書かれた記事があった。

pipipipipi-www.hatenablog.com

ikedayuuto.hatenablog.com

 

例えば小中学校の学級会において、陰キャでナードな自分がなぜか指名されて、論理的で妥当な意見を述べたとする。

すると、頭の悪い女子が「そんなの良くないよ!みんなの意見も考えて!!」とか言い出す。

そこで無駄に時間を使った挙句に、結局は先生やイケメンの意見をそのまま採用することになる。

それが結果的には自分と大して変わらないことを言っていたら。

そもそもどっちでもいい話で、意見を聞いて判断しなきゃいけないことでもなかったら。

 

これ小中学校の話じゃないよ!大学や会社においても大体こんな感じだよ!!

 

今日は、「強者と弱者の義務」について、自分の考えを書いてみようと思う。

 

 

 1.弱者の生き方

自分の経験上、たぶん多くの人はネットの言論なんて見ていない。

青息吐息で年収200万円で働いていて、睡眠時間の確保もままならない状態になっている。

高校を卒業した後に工場で働いて、昼休みにたばこを吸ってパチンコの話をしている。

田舎で暮らして軽自動車に乗っている。少し離れた実家の農業を手伝っている。

子育てしながらテレビドラマを見て、今日の夕食のメニューを考えている。

 

本人たちは、それで割かし幸せに暮らしているのだと思う。

彼らにとってみれば、おそらく日本なんてどうでもいいのだろう。選挙には行く気がないというより、選挙に行く必要がない人たちだ。例え国政が変わったところで、自分の寿命と生活は大して変わりはしない。

そういう見込みがすでにできている人達だ。

言論で正義を追い求めることより、今の日常のほうが楽しい人たちだ。

たぶん、日本の7割はそういう人たちで構成されていて、彼らが日本を支えている。

 

ある意味彼らは、すでにゴールしている。

「ものを考える必要がない」というのは、それなりにユートピアであるのかもしれない。

例えば、大昔の人類には、肉体が強くなければ狩りができずに飢えて死ぬ時代もあったのだろう。しかし時代が進んで食べ物が市場で手に入るようになり、弱者でも飢えないようになった。人類の能力としては弱くなっているのだろうけど、社会としては進歩をしているのかもしれない。

 

 

2.強者が生まれた意味

それに対して、残りの3割の人間は、ネットの言論を見ている。先の例えでいえば、肉体が強い恵まれた狩人の方であるといえる。このブログを見ている人なら、たぶん全員その3割のほうに属しているのだと思う。

 

そして、その選ばれし3割の人間に問うが、他人の言論を追って、その内容を判断できるような人間になるまでに、随分な手間暇をかけてきたのではないか?

今使っている「考える力」を得るためには、これまで人生で割と大きな部分を割いてきたのではないか?

科学も言論も、全部そうだ。そういったものについては考えないでも本当は生きていけたはずなんだけど、素晴らしい好奇心によって理性的な判断力を、今まで鍛え上げてきたのではないか?

「正しいことを考えるのは人として当然」だとは言っても、心の底ではこう思っているはずだ。工場で働いているあの低学歴連中が、一昼一夜でこんな人間になれるわけがない、と。

 

自分が思うに、強くなってしまった強者には、真実を追い求める義務があるのだと思う。

7割の弱者の方だって、3割の強者が生み出した成果がなければ、安心して生きることができないはずだ。

損な役目であるのか得な役目であるのかは当人が決めればいいが、強者はそういう役目を背負っているのだと思う。

 

 

3.言論や科学で、「真実を構築する」という仕事について

自分は、以前の記事に書いたように、「ネットは貧者の核兵器」であると思う。

clacff.hatenablog.com

ネットの言論は核兵器ではあっても、環境が汚染されたり国が消滅したりするわけではない。

自分が思うに、弱者だろうが強者だろうが、意見はどんどん出していいと思う。

例え貧者であっても、自分から意見を発信している時点で、3割の方の強者に位置していると思う。

 

それに、科学も言論も同じであるが、考えることや発信すること自体のコストは、タダでなければいけない。何か自分の意見を発信するのに権威や手形が必要なのだとしたら、真実を追い求める言論が育つことはない。

 

間違った言論を発信した場合、その当人の名誉や給料のことは別問題だが、真実の構築する作業においては、「間違ったことを言ってはならない」なんてルールもない。

科学も言論も、間違いの可能性を本気で恐れたら、何一つ発言は出来なくなる。

「間違ったことを言ったら即座に訂正される」というルールが正しい。

 

 

4.強者の義務と、弱者の義務

  1. 自分が考えた意見を言う。
  2. その中から正しいものを判断する。
  3. 判断した結果を積み上げてまとめる。
  4. 次のことを考える。

1.においては、自分が思ったことは何の縛りもなく発信できるべきであるし、間違ったことならば2.で弾かれるからそれで問題はない。3.においては「分かってる嘘」を一つも含ませてはいけないし、4.にたどり着けないのなら、その真実はそこで終わりだ。

 

真実とは、そのようなルールで構築されている。

自分から意見を発信できる人間は、3割の選ばれし人間であり、1.を始める資格があるが、2.~4.のルールに従えない奴は害悪だから出ていくべきだ。

7割の方の人間に戻って、おとなしく平和にしているべきだ。

 

自分の意見が間違っているとわかったならば、2.で引き返さないといけない。

気付かないフリして3.や4.に進むニセ強者が、世間には多い。

言ってないことを言ったことにしてはならない。

1.から始まっていないサイレントマジョリティなんてものは、言論の世界において存在が許されない概念だ。

 

間違いだとわかっている意見を1.に流すのは、厳密には悪だと判定はできないが、2.で無駄な作業が増えるから害悪である。人類の進歩を妨げる悪性ガン細胞だ。

 

 

5.エリートの邪魔をする、「ニセ強者」

「常に世の中を動かしてきたのは 一握りの天才だ!」と、パプティマス=シロッコが言っていた。

それに対して、「そのために大勢の人が死ぬなんて間違っている!」とカミーユ=ビダンが言っていた。

 

エリートは数が少ないからエリートという。

例え弱者が数の暴力であろうと、それ自体に正義はあるのかもしれない。

例えば、世界がみんな愚民ならば、愚民向けの政治が必要だろう。

 

しかし、その頑張っている3割のエリートの中に、ルールに従っていない偽物が混ざっている。

真実の構築のルールに従えないならば、別に死ねなんて言ってないから、7割の人間に戻って大人しくしていてほしい。

 

これが出来なければ、人間は感情で動く猿と変わらない。

人か獣か。今の社会はその瀬戸際である。