芸術や科学を、「最後の秘境」に誰がした?
こんな本が発売されているということを知った。
中身はまだ読んでいないが、レビューや感想文などは見てみた。
娯楽としてはなかなか面白そうな本だ。
それと同時に、このような記事も発見した。
moro-oka.hatenablog.comこの方は芸術分野のことについて書いているが、自分は自然科学の分野において同じような経験があり、記事を書いている。
自分自身、いまだに嘆き悲しんでいる差別問題であるので、今一度書いてみようと思う。
目次:
1.専門家に対する、「愛の強要」
自分が以前に書いた記事というのがこちら。
この記事を大体要約すると、
・何かの専門家は、「その分野への異常な愛」を持っていなければならない、という偏見。
・その分野が専門的で理解できないから、その説明として愛を強要する。
・愛だけの天然クンを祭り上げてトップに立たせてしまうと、その分野が崩壊する。
今回の記事で挙げられていた、「芸大生は天才変人奇人である」という決めつけは、自分が言いたい話と同じ話である。
彼らが言う、「天才変人奇人である」とは、「人生・人間性・社会性をかなぐり捨てて、芸術のみに生きる人間である」という一方的な決めつけである。そういった「すべてを捨てて凝縮された愛」という武器を使って、芸術という世界に生きているのだと思い込んでいる。
ハンターハンターに出てくる「制約と誓約」みたいなものだろうか。人生の条件を縛り、多くのものを捨てたことにより、残った愛が常人では考えられないほど強くなる。難しい分野で超人的な活動をしている(ように見えている)から、こういった犠牲的な手法を用いているに違いない、と思い込んでいる。
2.もともと、変人奇人である必然性がない
こんな誤解が生まれるのも、その専門的な分野が理解されていないのが原因だ。
「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいる
芸大生だって、他人の表現を勉強して、自分が考えたより良い表現を突き詰めているだけだ。その結果作品が出来上がったわけであり、決して変人奇人が口からタマゴを吐いて産み出したわけではない。
科学者も芸大生同じぐらいの割合で天才・変人・奇人扱いをされる。
しかし科学はもともと、「発見した経験則を全員に説明できるようにまとめること」を目的とした活動である。
というより、「発見した経験則を説明できるようする」という行為は全て、科学であると言っていい。
大げさな話、家庭の主婦が昨日より上手に目玉焼きが焼けて、自分の娘にその焼き方を教えることができたのならば、もうその主婦は科学者だと言っていい。医学や物理学だって、結局は全部こういう風に作られている。科学の内容に貴賤などありはしない。
「理解できないレベルの愛」とか、必要ないし肯定してもならない。
あまりに世間から愛を強要されるに至って、当の科学者でさえも科学の目的を忘れている。
バラエティ番組でいじられる科学者・知識人しか、世間の目には映っていない。
確かに、相対的にみれば、こういった芸術や科学の分野にはそれなりに高い能力や珍しい才能を持った人間が集まっているのだろう。
能力の高い者や才能を持ったものが、こういう生き方を選択しやすいような社会になっているのだろう。その事実自体はいくらかは正しいと思う。
しかし、科学者や芸大生は、本質的には天才・変人・奇人などではない。
なぜならば、その分野を開発するに当たっては、そんな人間である必要はないからだ。
数学パズルが楽しくて数学の道に進んだ、という数学者はいるだろう。
しかし、魔法陣の計算なんかしているより、プレステの方が楽しいに決まっている。
確かに北極のオーロラは美しいだろう。
しかし、美しいものが見たいだけなら学者なんかにならなくても旅行で北極ツアーに行けば事足りる。
地質学者が、地震が起きるたびにウキウキしてテレビの速報をチェックしたりするだろうか?
しないよそんなこと。
科学者や芸大生だって、こういった当然の感覚を持った人間である。
普段もっと頭を使っているんだから、これぐらいのことは簡単に気付いている。
科学も芸術も、変人奇人が遊ぶだけのところではないんだ。
3.ショーを強いられる立場
理解されていないということは、救われていないということだ。
芸術の分野は、いわゆる一般人から見れば、以下のような存在である。
・理解することはできない
・否定することは難しいから怖い
・でもハタから見ていると面白い
これらの傲慢さや無責任さが入り混じった状態が導き出す回答が、「天才だね」という心無い褒め言葉だ。
本当に天才だと思っているのならば、今すぐすべての芸大生を一部上場企業に内定させてみろ!
偏差値高いし勉強してるぞ!?
今回の冒頭で述べた本は、まあ娯楽として読むなら割と楽しいのだと思う。しかし、そんな一時のカタルシスのために、科学や芸術が食い物にされているという現実がある。
その結果、芸大生当人も天才・変人・奇人になりたがってしまう。
というより、勝利の判定をするのは大衆の方であるため、勝つために天才・変人・奇人を目指さざるを得なくなってしまう。
その結果出来上がってしまうのは、「愛しか信じなかった天然クン」であり、こういうやつがその分野を支配してしまうと、芸術の本来の目的すらも自分で言えなくなる。
だが、今日の冒頭の記事を読んで、少しは勇気が出てきた。
この記事を読む限り、少なくとも芸術の世界では、そんな天然クンばかりでもなかったようだ。
正義を信じて戦う人間の意志は、こんな逆境においても残り続けている。