愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

【正しさハラスメント】中二病のまま大人になってしまった技術者の末路

 

 

emokuaritai.hatenablog.jp

d.hatena.ne.jp

こんな記事を読んだ。

 

「正しさハラスメント」という概念!

セクハラとかアルハラとかと同じで、これをやってて満足している側の人間は絶対に気付かないし気付こうともしないという意味で、非常に上手い言葉だと思う。

 

自分の仕事はプログラミングにはあまり関係していないから深くは言えないのだが、情報系の分野になると、特にこういう人が多くなるよね。

物理的な面ではほぼパソコン一つだけで完結して、それ以外は知識量と作業量でものを言える分野だからだろうか。コンピューターの処理能力は、扱い方次第では人間のそれをはるかに超える。それゆえに万能感に浸りやすいのだろうか。

 

昔の記事でも書いたが、例えば「プログラミングの基本を教えるスレ」みたいなものが立つと、おじさんたちがありとあらゆる手で即死させようとして大量に沸いてくる。

例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。

 

今日は、「正しさハラスメント」をやってしまう人間の心理について、書いてみようと思う。

マサカリを投げるプログラマーに限らず、もっと広い分野の技術者が対象の話になる。

今まで自分が見てきた人間に対する経験談で話すことが多いが、20年はこういう人間を相手にし続けているから、それなりに叫びたいことはある。

 

 

目次:

 

1.愛で生きる人間と、理屈で生きる人間

以前の記事で、「愛で生きる人間」と「理屈で生きる人間」のことを書いた。

clacff.hatenablog.com

 正しさを否定する人間とは、「愛で生きる人間」の方だといえる。

「『みんな』で盛り上がっているのに水を差すなんて無粋な!」という思想。

あるいは、「『自分』がせっかくいい気持になっているのに余計なことを言うな!」という思想。

人間至上主義であり、他人至上主義である。そしてこれは、人間の生存本能に近い思想であり、歴史が長いのは断トツでこちらの方だ。

人間はサルの一種に過ぎない、ということで目標を確定してしまうのならば、「愛で生きる」と言う選択肢を採用することも、アリだとは思う。個人的には嫌だけど。

 

それに対して正しさを求める人間とは、「理屈で生きる人間」の方だといえる。

一つでも間違っていればそこから先に積みあがることは全部間違っている、という思想。

議論と記録によって、人類は無限に進化ができる、と考える思想。

実際に、今までの人類の科学や技術は、このような思想で作られている。

 

愛で生きる人間は、人間という種の本能を最高裁判所にしているが、理屈で生きる人間は、今まで人類が積み上げた知恵と実績を最高裁判所にしている。人類の知恵はすべての宇宙・概念にまで及ぶため、人間と言う種だけに限定した愛よりは、確実に正しい結論は出る。

 

「正しさハラスメント」をする人間は、理屈で生きる人間の方なのだろう。

気付いて指摘ができる以上はそれは正義であり、議論だけがすべての正義を作る。

「理屈で生きる」という思想においてその姿勢は正しいし、自分もそう思う。

 

 

2.「成長したくない」という中二病

正しさは、正義である。理屈を振りかざすことは正しいことであり、どんどんやればいいと思う。

しかし、その振りかざしている理屈が未熟であり、それを反省する気もないというならば、それは害悪だ。

 

clacff.hatenablog.com以前、理屈と中二病に関する記事を書いた。ここでも、「技術的な正しさを押し付ける人」の卑小さについて書いている。

・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?

・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?

「正しさハラスメント」をするような者は、こういった「次に当然出てくる問い」に答える能力すらもっていない。だから、中二病だと言うんだ。

 

自分のブログに、未熟で危険なプログラムを載せて、「よくわからないけどこんなの作ってみたよ!コピペするなら自己責任でね!」と書く行為。

この行為自体は、何一つ間違っていないし何の罪も規定されていない。

「よくわからない」ということも、「自己責任だ」ということも、すべて完璧に事実なんだ。

 

「間違ったことは即座に指摘する。その上でしか正しい世界は作られない。」という思想は正しいが、「議論だけがすべての正義を作る」という思想が意図的に無視されている。

マサカリはいい。いいんだけど、「もっと大きなマサカリ」を認めることができなければ何の意味もない。自分がおこずかいで買ったナイフよりも、大きくて鋭い刃物があれば、それを認めて取り入れる度量がない場合、どんな刃物も偽物になる。

普段プログラミングとか難しいことを考えているくせに、こんな簡単なことにだけは絶対に気付こうとしない。

 

そりゃ確かに、仕事の上のプロダクトで間違ったコードを書いているならば問題であるし、正しいと勝手に保障して使用を推奨したりするのは問題であろうが、「正しさハラスメント」をするような人間にはそんな判断力はない。自分のパソコンでオフラインでやっているだけでもなお、対面で躊躇なくハラスメントを繰り出してくる。

 

 

3.中二病が振り回せる正義の限度

「正しさハラスメント」が中二病の産物になりやすい理由として、「正しさの上限を一人で勝手に決めれてしまう」というものがある。

 

セクハラとかアルハラとか、そういうハラスメントでは線引きが難しいという事実はあるが、それでも一応、定義に限度はある。全く近寄らずに話さずにいればそうそうセクハラはならないし、アルコールも対象がはっきりしているだけに分断することは可能だ。

 

しかし、「正しさハラスメント」の場合は、そいつの知性のレベルに合わせて限界が勝手に決まってしまう。これが恐ろしいところだ。

例えばセキュリティ的に正しいとか危険だとか言っても、じゃあそれで完璧かといったらもちろん完璧ではない。その処置も別のベテランから見ればハラスメントの対象になる。

それに、技術の世界においては、そもそも一つの処置だけが正解だといえるほど単純でもない場合がほとんどだ。また、後出しで突っ込みを入れる方が絶対に有利という条件も大抵の場合で無視されている。

 

科学も技術も、一人の人間だけが完璧に知ることなどできはしない。というか、完璧に知ることが不可能であるから、進化がいつまでも続いていくわけであって。

自分の理解がすべてである、と言い切って議論を否定するならば、それですべての理屈を否定することになる。

・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?

・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?

という簡単な問いにすら答えることができていないというのに。

 

なお自分の経験上、「正しさハラスメント」をする者に対してこういう問いを突きつけると、大抵の場合でファビョるか白痴化する。答えを聞いてから意見を曲げる後出しジャンケンすら平気でやる。

 

「正しさハラスメント」に耽る者は、無知の知を理解しようとしない。

自分がものを知らないということを絶対に認めようとはしない。

マウンティング合戦で勝つことでしか心の平静を保つことができない未熟な精神だから。

他人を踏めるような信頼関係もないのに、自分の持っている正義だけが言語だと思っている。

こんな人間に、自らの礼儀を鑑みる能力などありはしない。

 

 

4.自分の経験則を勝手にまとめると

clacff.hatenablog.com

以前の自分の記事で述べたように、インターネットは、最初は弱者のものだった。だから弱者の言論が優勢になる。

冒頭の記事から引用して、

・現実に差別が多いからポリティカル・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実に違法行為があるからリーガル・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実にニセ科学が蔓延してるからサイエンティフィック・コレクトネスを声高に叫ぶ。

・現実に非効率的なことが多いからコスト・コレクトネスを声高に叫ぶ。

 現実で弱者の立場に追いやられて、こういった「嘘の矢面」に立たされてきた人達だから、貪欲に病的に正義を求め続ける。

 

そうした不幸な生まれがあるゆえに正義を求めるのだが、しかし、そのやり方が未熟すぎる。

正義で生きているくせに、自分が負けるのが怖いから、より正しい正義を認めようとしない。

 

それどころか、本当は虐げられた記憶すら持っていないのかもしれない。「正しさハラスメント」を繰り返してきた人生なら、その場だけなら一方的に殴り放題で負けることは絶対にないから。自分が未熟で弱かった歴史を「黒歴史」として隠してしまうなら、そりゃそこから先は常勝無敗に決まっている。

それゆえに、何が間違いかもわからずに、叩けるところだけを叩き続ける。

それが、正しさハラスメントをする人間の正体だ。

 

例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。

危険なことなら厳しくして当然とか、指摘してもらえるうちが花とか、そういう古いことを言ってて本当に信頼関係が築けると思っているのだろうか?

 

「本当に自分は威張れるほど他人のことを考えた指導ができているのか?」と、よく考えてみてほしい。どうせできないだろうし、義務もないけどさ。