愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

「なんでもいいからナンバーワンになれ」という教育を徹底的にこき下ろす

 

“なんでもいいからひとつ、自信を持って自分が一番だと言えるものを持て”

日本の教育現場において、このような思想がよく教育される。

 

あなたも、小学校や中学校で、似たようなことを言われてたはずだ。

大学で就職活動が始まるあたりでも、似たような思想がもう一度語られる。

そして社会人になってからも、なお言い続ける者もいる。

 

この思想は、相当に特殊で危険な思想である。

今日は、この“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想を、徹底的にこき下ろします。

 

 

 1.この思想を強要した場合の未来

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想の教育は、初等教育の割と早い段階からスタートする。

 

この思想のいいところは、アイデンティティを確立させる手段としては有効である点だ。

何かを考えはじめるきっかけになるし、前に進んでより強くなろうという意志を育てることが出来るだろう。そしてその結果成功できれば、当人に自信もつくだろう。

成功すればの話だが。

 

しかし、“なんでもいいからナンバーワンになれ”ということを本気でやらせてしまうと、当然のことながら、たった一人の勝者以外は全員敗者になる。本気でやればやろうとするほど、その事実からは目をそらすことができない。

 

例えば、最後まで努力を続けたが、結局悟空に負けたベジータ

努力と挫折を繰り返しながら、多くのことを成し遂げて、最後には“頑張れカカロットお前がナンバーワンだ”と認める心を育てたベジータ

ヤムチャじゃないよ。ベジータだよ。

そのベジータをカスの敗者として切り捨てようという思想である。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想はこれほどに乱暴で危険だ。

 

ナンバーワンになれなかった人、あるいはナンバーワンになっても認められなかった人が大量に出てくることになり、“自分は価値なんてないんじゃないか”と、心を壊すようになる。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想を本当に信じると、確かにそういう答えが出てくる。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という思想がまかり通る社会では、次に何が起こるのかは自明である。

ライバルがいないようなニッチな世界を探し、そこでナンバーワンの座に座ってしまおうという、卑怯者が育つ社会になる。

自分が戦って勝てる世界を品定めするような広い視線は育つのかもしれないが、本当の強さは育たない。

 

言うまでもないが、人体で一番重要で大切にしなければならない機能は、“心”である。

どんな科学でも人間が扱う以上は心がなければ運用できないし、社会におけるほとんどのシステムは、性善説をすでに利用してしまっている。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という短期的な思想で、子供や大人の心を傷つけるのはあまりに危険である。

完全に論理とシステムだけで生きれるほど、人類はまだ進化しきっていない。

 

 

 2.“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育の嘘

大人たちは“なんでもいいからナンバーワンになれ”と、口ではうるさく言っているが、腹の底では絶対に何でもよいとは思っていない。

この教育を強要する側は、必ずそう思っている。

 

自分は小学生のころ、TVゲームがとても得意だった。

例えばロックマンXがとても上手かった。X4ぐらいまでシリーズはやりこんでいたし、初期装備でムカデやカタツムリが倒せるのは近所では自分だけだった。兄よりも上手かった。

“僕が一番上手い!誰にも絶対に負けない!”と当時は本気で思っていたし、少なくとも自分の周りでは確かにナンバーワンだった。

 

しかしその結果もちろん、“ゲームなんてやってないで勉強しなさい”と言われた。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という言葉が本当に正義だったら、今頃自分はTASの研究者か、eスポーツでプロになったりする未来があったのだろう。

でも大人たちは、それは嫌だったわけだ。

何でもいいとか口では言っていても、結局二枚舌で、選り好みされていたわけだ。

 

じゃあ勉強でナンバーワンになればいいのかといえば、それすらも実は違う。

例えば自分は、小学三年のころに、クラスで一番早くに、都道府県を全部覚えた。先生は褒めてくれたし、最初のテストでも満点がとれた。

確かにナンバーワンになったわけだが、しかしそれまでだった。

それ以降のテストでは都道府県を埋めるような問題は出なかったし、社会の得点は低いままだった。

 

つまりこう言われた訳だ。“それだけナンバーワンじゃ足りない”“もっと広くナンバーワンになれ”と。

結局、“なんでもいいからナンバーワンになれ”という言葉は、ただのケツを叩く鞭でしかなかった。

好き勝手に振り下ろされる暴力であり、痛みと興奮により速度が上がるかもしれない、という無茶な期待でしかなかった。

 

そもそも、本の学校教育のカリキュラムは、何かに特化できるような教育にはなっていない。

確かに理科・社会・体育・音楽と、全般的にはなぞってくれるが、特定の一つだけに傾倒すると、ほかのことを頑張れと言われる。

 

通知表は、最大の評価はたったの5や10であり、ちょっと成果を出せばあっという間に上限に達してしまい、あふれた分は無駄になる。

最終的には合計点で評価されるので、まんべんなくやった方が絶対に得だ。“体育5他1” より、”全部2”のほうが優秀な生徒だとされてしまう。

 

 

3.上位互換の人間、の理解

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育で、自分が一番まずいと思っている点は、“上位互換の人間”の存在を信じれなくなってしまう点だ。

 

パワプロとかスパロボとか、シミュレーションゲームを一つでもやったことがあるならばすぐにわかるはずだが、ステータス的に上位互換の人間なんてものは腐るほどいる。

“お前が二人いるよりあいつが二人いたほうがいい”と言う例は、状況として存在し得る。

“ナンバーワンなんていない、誰もがオンリーワン”とは言うけれど、良いとか悪いとかいう基準を人間が勝手に決めている以上、その基準の中で限ってしまえば、上位互換の人間なんてものは簡単に存在してしまう。

 

“なんでもいいからナンバーワンになれ”という教育を強要すると、上位互換の人間を肯定できなくなってしまう。先の例で述べたように、悟空に負けたベジータを否定する社会になってしまう。

その結果、“ナンバーワンに成れなかった俺はクズだ”という大義名分ができてしまう。

そして、ナンバーワンに成れなかった者は、ナンバーワンの人間を妬み、足を引っ張ることに喜びを見出す。

 

力を合わせる、という人間の機能を忘れていくようになる。

ちょっとゲームをプレイしていれば簡単にわかることなんだが、“一番じゃないとダメ”というのは、代表一人しか戦えない場合にのみ成り立つ話だ。

こんな簡単なことを教えようとしないから、不幸な人間ばかりが増えていく。

 

みんなで力を合わせる場合、あるいは単純な一番じゃなくても勝利になる場合。

オフィスでも工場でもスポーツでも、こういう戦いはたくさんある。

そういうところで活躍すればそれでいいし、本当は誰しもがそのように生きている。

 

“お前はダメだ”という教育など、する意味はない。

“なんでもいいからナンバーワンになれ”とかいうような、無理ゲーかつクソゲーをやらせれば、そりゃほぼすべての人間はダメになる。

 

“ダメかもしれないがそうであってもやりようはある”

こういう教育ができる人間がいないから、いつまでたっても正義が勝てやしない。