【運転免許】選ばれし人間になるために【受験勉強】
春先だからだろうか。 以前書いた“自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法”の記事が人気であるようだ。
この記事では、“なぜ自動車免許の学科試験はクソ問題になってしまうのか”を解説した。
しかし、“じゃあそれをどうやって生き延びればいいのか”という点については、あまり詳しい話ができていなかったと思う。
“人間の思考をやめること”と書いたが、それについて、自分が知っていることを詳しく書いてみようと思う。
先の記事でも書いたように、これは自動車免許の学科試験だけの話ではない。
受験勉強における文系科目や、就職活動における圧迫面接など、現代人は人生において多くの場面でクソ問題を強要される。
試験に合格した者。社会に許された者。
そんな“選ばれし人間”になるための方法を、書いてみる。
目次:
1.嘘が通せているという現状
“論理的に考えればどう考えても矛盾していること”は嘘であり、通してはならない。
例えば、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは「無理だよ」と訴える権利があるだろう。
まともな思考をしていれば当然そうなる。
論理的であるということは、“人間が今思いつく範囲では一番効率的であり正しいものである”ということに他ならない。
実際に、あらゆる科学や文化はそのように作られている。
論理とは、人間の生態的な感情も処理できる上位互換のメソッドである。
人間が正論を振りかざすことには何の罪も存在しない。もし存在するとしたら、それを踏まえたものが新たな正論になる。
だから、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは無理だといえる。正解が存在しないようなクソ問題を解かされたら、「こんなの解けるかボケ」と言い返す権利がある。
本当はそのはずなのだが、実際に向こう側にはそれを許さないことができるという、新たな正論がすでに生まれている。
例えクソ問題であっても、不正解の者は一方的に落とすことができる。
受験側はほかの企業や試験を選ぶことはできるが、退路が一つ残らず断たれるという状況は成立する。
現実的に自動車運転免許を取得できるのは自分の自治体だけであるし、就職活動で受けれる企業も無限ではない。
自動車免許の学科試験も、受験勉強の文系科目も、就職活動の圧迫面接も、すべては明らかに矛盾していて、嘘である。
二次方程式の解が存在しないなら、虚数を定義すればいいじゃない?
そのような、新たな正論により、この矛盾は贖われている。
2.矛盾を贖う方法
それでは、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、その矛盾をどうやって贖えばいいのか。
もう答えは分かってきているはずだ。
何食わぬ顔で自分の財布から900円出せばいい。
相手側が裏で望んでいる虚数解とは、これのことである。
“Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か”というクソ問題を贖うには、100人で受験して50人ずつ〇と×で回答すればいい。50人は生き残る。
「そんなことやってたら自分の財布が空になっちゃうじゃないか!」
「問題が100問あったら一人も合格できないじゃないか!」
その矛盾もまた同様に贖うことができる。
金持ちだけが生き残ればいい。
受験者を10万人用意すればいい。
実際に、社会におけるクソ問題では、人はこのような手法で生き残っている。
クソ問題はクソ問題のままだけど、教習所に通い続けて結局免許は取得できたでしょう?
大学受験だって70万人ぐらいは受験者がいて、その中で生き残った一握りが、“選ばれし人間”になっている。
社会はこうやって生き残ってきた人ばかりだから、新しい虚数解が正義になっていく。
生存者バイアスであっても、信じ込むことによって正義として採用される。
すなわち、命という通貨で、足元を見られている。
自分の財布なり人生なりを、投げ捨てて初めて突破口が見えてくる。
“人間の思考をやめる”といったのは、こういう意味である。
ぶっちゃけ、ある意味運である。
サイコロを振って6が出た人間だけを選別して、そうじゃなかった人間を全部不合格で落とせば、その選別後の人間の集団の中では、6が出た人間が100%である。
サイコロで確実に6を出す方法というのはこれだ。
運ゲーであるという矛盾は、このように死体の数で贖うことができる。
3.戦士たちの軌跡
矛盾を贖う方法とは、死体の数で押し切ることであり、すなわち命を燃やすことである。
受験させる側としても、現代の人口と受験のシステムでは、そうやって裁くしかマシな方法が見つかっていないから。
社会はこのような手法で運用されている場面が多々あり、クソ問題とはそれを生き残るための試練である。
そんなクソ問題でも、解いて合格すると言う意志。
選ばれし人間になるという器が試されている。
偏差値の高い大学の受験生は、みんなこのようにして生き残ってきている。
ひとりの人生においては、免許の取得も普通は一回だし、高校受験も大学受験も普通は一回だけであるが、その一回だけにすべての願いを込めて、突破してきている。
そういう結果論で集められた戦士たちだ。
社会は、そのような戦士を求めている。
クソ問題の試験は、頭いい奴ほど損をする試験であるが、そういう能力はいらないから落としている。
何も考えない優等生が大量にいてくれれば、最強の軍隊になれる。と、彼らはそう思い込んでいる。
そのようにして、社会は最強の軍隊を作ってきた。
長い歴史の中では、人間もそれに適応するように進化をする。
例えば、以前から自分のブログで言及している“理屈を否定して愛で生きる”といった手法もそれである。
“死体の数で正義を維持する”という点が共通していて、論理的な矛盾は“他人の感覚で生きること”によって贖わせている。
こんな思想が現代になって急に頭角を現してきたのも、クソ問題を強いる社会が影響しているのかもしれない。
人体と言うのは不思議なもので、他人の感覚を覚えて再現する能力がある。
ある種の超能力と言っていいのだが、この能力によって、クソ問題はサイコロに頼らなくてもほぼ100%正解できるようになる。
例え「Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か」といったクソ問題でも、何週間もずっとそのことを考えていれば、自分の頭の中が相手と同じようにクソになる。
だから、こんなクソ問題出した教官は自分で問題を解けるのか?といったら、実際奴らはちゃんと解ける。
似たような問題を混ぜて迷彩しても、奴らは的確にそれを見抜く。何がダメなのかは明確に答えることはできないが、不思議なほどに完全回避をする。(何度も試したことあるから間違いない)
クソであるとわかっている問題を、何週間も考え続けて、命を投げ捨てているという感覚を忘れること。
それこそがクソ問題に立ち向かうための武器であり、試験勉強の際には、それぐらいの時間を使っていて欲しいという願望があるのだろう。
もちろんそんなオカルトじみたことをやっていても能動的な勝ち目はゼロのままであるが、死んだときのコストを無視できるだけの金持ち人間が、求められているのだろう。
大学受験は、必要なものは受験勉強だけであり、失敗しても何度でもチャンスがある。
就職活動も、不合格になったら次の企業に行けばいいし、来年に持ち越してもいい。
資源は無限ではないが、どれだけの資源を用意できるかを問われている。