表現の自由 VS 後出しジャンケン
先日から話題になっていた記事だが、ついに集英社が件の漫画を取り下げたらしい。
別に、もっとエロい漫画は他にいくらでも掲載されているし、出版もされている。
少年ジャンプを作っているとこなんだから、これぐらいネタに走っても何ら不思議じゃない。
そう思っていたが、結局集英社は謝罪をして、漫画を取り下げた。
論理的に成り立っていなくても、「イメージ」が気に食わなければ潰せてしまう。
そういう前例がまた一つできてしまった。
そして、イメージというものは当人以外には説明開示できないものだから、イメージを訴えるような戦いは必ず後出しジャンケンになる。
有史以来、人類が論理で生きてきた時代なんて多分まだ一度も来ていない。
生きるためには嫌でもこの後出しジャンケン合戦に勝たなくてはならない。
「飛び込みは見てからワンボタン昇竜で迎撃できますwww」
「ガードできても有利フレームはありませんwww」
今日は、こんな無情なゲームに勝つ方法を考えてみる。
目次:
1.絶対勝てない9:1ダイヤ
格闘ゲームに例えるとよくわからない人も多いと思うので、漫画を一枚引用する。
ミソジニー認定しよう pic.twitter.com/XOggm0Y3Q2
— スルメロック (@surumelock) April 21, 2017
多少文字が多いけど、読んでみると酷くて面白い。
押してもダメ、引いてもダメ、黙っていてもダメ。つまりはこういう戦いを強いられている。
出版する側にとっては完全に無理ゲーであり、相手は見てから好きなように対応を変えることができる。
別に、特定の個人がコロコロ意見を変えているわけではなく、たくさんの読者がいて、それぞれが色々な意見を持っているのだろう。こんなサイコ野郎は、そうそう居ないのだとは思う。
しかし、例えば認めなかった人が一人でもいて、その一人がゴリ押しで出版側を屈服させることができるのだとしたら話は別だ。
複数の人間に向けて公表した時点ですでに死亡だということになる。
もうどうやっても勝つことができない。
突き詰めて考えれば、出版業自体が消滅する以外に道はない。
インターネットでは個人が自由に意見を発することができる。
今回の例のように、こういう話は実際に起こってしまう。
ここまでくるともう、「最初は何も感じていなかったけど勝てそうだから叩く」という勢力まで出てくるだろう。
人のイメージというものは、当人の認識範囲すら超えて成長をする。
集英社だって、大衆のイメージに訴えかけることで商売をしているので、最初から全部無理ゲーだったという結論すら出てきてしまう。
この手の話題のときに、よく『エスパー魔美』から引用される画像がある。
意見を言うのは勝手であり、どんどん言えばいい。反論をすることも、無視することも、作品で応えることもできる。
しかし今や、機嫌を損ねてしまったら作品や作者が息の根を止められる時代になってしまった。
2.彼らを倒す方法
こういう後出しジャンケンに対する対処の一つとして、戦い自体をしない、あるいは相手が疲弊するまで待つという戦法がある。
clacff.hatenablog.com以前の記事でも述べた通り、これは一対一ならばかなり有効な戦術だ。
延々待てるだけの体力があることが前提になるが。
しかし今回のケースのように、相手が大多数である場合では無理な戦法である。数で負けている以上体力の差では絶対に勝てない。
また、以前からこのブログで言っている「人間は数が集まると論理を否定するようになる」という原理により、正義はどんどん遠ざかる。
彼らは、論理では動かない。感情で動く。
ではその感情は何によって作られるか?そこに奴らの弱点がある。
彼らは、自らの感情を構築する際に、ほとんどの場合で「他人の権威」を使用する。
自分自身の感覚だけで価値観を構成するような気概は育たない。
彼らが人体で採用しているOSは、クラウド的なものに例えられる。
マシンスペックが貧弱でも、高度なソフトウェアがインストールされていなくても、他人と回線さえ繋がっていれば、その演算結果だけを受け取ることができる。
自らは努力することなしに、高度な機能だけを実現できる。
自分で判断をする必要すらなくなる。他人と同じように生きていれば無難で間違いがない。
「他人と繋がってさえいれば」万事安心であり、それ以外に関心ごとはなくなる。
震災が起これば本能的に安否確認メールなんかを送っちゃう。
絆と共感だけで生きていける。 等々。
そういう思想が育ってきている。
通信回線と相手のサーバーが保証されるような豊かな時代ならば、大衆向けとしては割と理想的なシステムかもしれない。
「嘘やいたずらに弱い」という点も、実際のクラウドと同じであるが。
ちょっと話がそれたけど、そういう彼らを倒すためには、権威で殴ればいい。
このスイスの鉄道の件なんかかがわかりやすい。
しかし、権威で殴るといっても注意が必要だ。
天皇や大統領でもかみつく人はかみつくように、権威とは絶対的な量で表せるものではない。
彼ら自身が使用した、そいつにとっての権威を探して、そこを突くのだ。
3.こんな世界で生きるために
表現の自由を主張する側にとっても、忘れてはならない事実が一応ある。
これは明らかな真実であるが、今社会に出回っている文化は、20年前よりは明らかに刺激が強い。
「昔もエロかったぞ」という声はよく聞くが、「今より昔のほうがエロかったのに嘆かわしい」という声は全く聞かない。
少年ジャンプ一冊に出てくる女の子とパンツの数は、増えているか減っているかと言えば、明らかに増えている。
スマホを使えば簡単にエロ画像が収集できてしまう世の中である。
普通の日常生活においても、LINEや掲示板の複雑な情報戦を生き延びなくてはならない。
何百時間も遊べるようなゲームがタダで手に入る。見なきゃいけない動画が溢れている。
大人に対する信頼感が損なわれるニュースが嫌でも目に入る。
半数以上の人間が常時ビデオカメラを持ち歩いている。
もし今自分が、もう一度小学生や中学生をやれといわれたら、狂わずにいられる自信がない。
こんな世界ならば、自分自身や子供を守るために、気をつかいすぎるなんてことはないのかもしれない。
だが、「悪いものを潰すためなら、後出しジャンケンを使ってもいい」と考えてしまうのは間違っている。
正しくない方法で倒してもすぐに復活してしまうから。
潰したいなら、ちゃんとデータを出せばいい。
教育ケアの数や、性犯罪率や、少年ジャンプのパンツの統計など。
多分、今の社会なら明らかに数値で出せると思うし、その因果を推測して説明すればいい。
データがなかったり、納得できそうな因果が出てこないのだとしたら、今はもうそれが正義だということになる。
大体、今の社会だって本当にやばいものはすでにブレーキが掛けられている。だからこそ成り立っている。
ネットで他人の個人情報をバラせば訴えられるし、幼女にセクハラをしたらもれなく村八分の後刑務所行きだ。警察も出版社もそういう仕事をしている。
ダメなものはダメだというのには理由が必要だ。
「大衆のイメージ」なんてものは、証拠がないから理解ができない。
今の大衆が採用しているOSではこれができないのだろう。
証拠なんてどうでもいい!という文化がある以上、こういった事件は起こり続けるだろう。