おじさんたちが口を酸っぱくして押し付けるルール
問題です。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」。
このルール、イエスかノーか。
・答えはイエス!
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
このように理解している者が大多数だと思う。
何年か前にこんなニュースがあったけど、ここでもそうだった。
でも、この「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、冷静に考えてみればだいぶ怪しいところがある。
というより、歴史を辿ってみても、これは銃を扱う者の共通の憲法などではない。
あるのは、その昔ジェフ・クーパーという偉い人が「軍隊や警察にこう教えたことがある」という起源だけである。それを各団体が必要に応じてアレンジして採用しているだけのものだ。
にも関らず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは絶対のマナーとして神格化され、素人を叩いていい武器だとして行使されている。
この、銃口安全に関するルールは一例だが、このようにモラルや安全を盾に業界のルールを口酸っぱく押し付けられる場面が多くの業界に存在する。
ルールというものは、人間が作って運用するものだから、放っておくと感情に従って暴走する。
今日はその危険性について書いてみる。
目次:
1. 嘘を暴く
まず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールのおかしいところについてだが、「このルールのどこがおかしいんだ?当然だろう!」とベテランのおじさんたちは言うのだろう。
このルールに従うと、砂利ガキがモデルガンでガンマンごっこをやる行為はアウトになる。
たしかにそうだろう。例えおもちゃであっても、銃で遊んではいけないのだから。
この時点で既にだいぶ無理をしている気がするが、そう考えることもできるんだろう。
それならば、じゃあ例えば「映画の撮影」は、いったいどうやって説明をつけているのだろうか。
シュワちゃんが銀幕で動くたびに「銃口ガー」って発狂するの?
それとも、映画はフィクションだとわかっているからセーフなの?
その論理だったら普段悪ふざけをして銃口を向けるのもセーフにならない?
そもそも、どこまでをおもちゃの銃だとみなしているのか?
1. 幽遊白書の霊丸の構えのように、飛び道具を撃つという意思は確かに表しているもの。
2. ロボライダーのボルティックシューターのように、多分本物の銃ではないと気付けるが、実銃だと言い張ることも可能そうなもの。
3. 実物に忠実に作られた発火式モデルガンのように、そのまま実銃だと脅すことができてしまうもの。
これを全部まとめてアウトにするのだとしたら、かなり困る。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、ちょっと考えれば大げさなルールであることが簡単にわかる。
そして、もちろんというかなんというか、ジェフ・クーパーも全米ライフル協会も実は最初からこんなことは言っていない。
「破壊したいもの以外には銃口を向けるな」とは言っているが、これはエネルギーを持った弾丸がでる銃口のことを指して言っている。おもちゃの銃口もダメだとは言っていない。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、どこかの団体がジェフ・クーパーの訓練手法をアレンジして、どこかのタイミングで勝手に追加したルールである。
そして、現在はこのルールを採用している団体ばかりというわけでもない。
2.ルールを作って運用する際に、必要な品性
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
おじさんたちは、いつも口を酸っぱくしてこう言っているが、これらは全部デタラメである。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」というルールを採用しているのは一部の団体のみである。
常識という言葉は、同意と議論の下でしか運用してはいけないはずだ。
このルールを採用している集団の元では、確かに必ずこのような訓練がなされるのだろう。
でも、そこの卒業生が全人類かといえば当然そうではないわけで。
自分たちの訓練がすべての正義だと決めつける思考である。
「常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる」という方針自体は正しいと思うが、ここが一番危ない。
矛盾は矛盾を呼ぶ。一つの矛盾を通した時点で、考えれば考えるほど全ての論理が崩壊する。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールを押し通した場合、このようにちょっと考えてしまっただけで、「じゃあ、あれもこれも全部ダメなんじゃね?」という思考に行きついてしまう。
安全工学をちょっとでも勉強すればわかるはずなのだが、安全のためのルールを作って運用する際には、よほど慎重な管理をする能力が必要である。
自分が知っているルールだけを神格化して、素人を叩いてドヤ顔をするおじさんたちに、そんな能力があるのかどうか。
3.反則技を使ったことを忘れてしまう傲慢さ
まあ、「おもちゃの銃を人に向けていいのかどうか」なんてルール自体は別にどうだっていい。
銃器を扱う際には、それ専用のルールや訓練が別途あるのだろう。
いろいろ屁理屈をこねたけど、本当はただの精神教義だってことぐらいは知っている。
「おもちゃだから人に向けていいんだもーん」と粋がったクソ餓鬼がいたから、こういうルールを作ったのだろう。
多少矛盾したルールでも厳しく押し付けないと事故は撲滅できない、という経験則は実際に存在しているだろう。
問題はそのあとだ。
矛盾したルールのパワーでその場を解決した後、しばらくすれば、そのルールが本当は矛盾しているのだということを忘れてしまう。
そのルールが実績のある正義だと勘違いしてしまい、その後も吟味せずに運用してしまう。
おじさん達は、モラルを盾にルールを暴走させる。
そのうちに、何が正しいのか自分でも説明ができなくなる。
そして、そこを指摘されたら「そんなの常識だろう!」とキレて追い返す。
・FAXをした後はFAX届いていますかという電話確認をすること
・車のエンジンをかける前に、降車して一周確認すること
・goto文は事情があっても使用してはならないこと
・フォークリフトは10km以上の速度を出さないこと
・はんだごてはタイマーがついたコンセント以外で使わないこと
これらは全部、「常識」なのだろう。
しかし、もともと矛盾しているルールだから、当のおじさんたちはこれを好きなタイミングで反故にできる。
注意する者がいなくなったとき、自分が面倒になれば簡単に無かったことにする。
「たとえおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない!」と宣っていながら、コマンドーが再放送されると喜んで鑑賞している。
こうやってやたら強い言葉でルールを押し付ける大人が、どの業界にもたくさんいる。
学校や、家庭や、職場で、そういう大人を何度も見てきている。
・そのルールは意味が明確ではなく、冷静に考えれば多分間違っている。
・でもやたら口を酸っぱくして言っている。
・調べてみると、そのルールは過去の偉い人の言葉を繰り返しているだけだったりする。
・そして、それが常識だとか躾だとかいう。
こういう大人のどこを尊敬すればいいのだろうか。
厳しいルールを強制する手法も無いではないが、社会や人間関係においては、尊敬や信頼なしに成り立つことなんて多分ほとんど無い。
常識・誇り・当然といったようなワードには、有効な真実は何一つ入っていない。
ただのドヤ顔バズワードであり、議論と説明以外に真実などは存在しない。
普段人徳が得られないからって、こういう形で人を踏もうとする精神が危険である。