愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

卒業式を、「練習する」「成功させる」

 

この記事を読んだ。

topisyu.hatenablog.com

自分が小学生だったころを思い出してみたが、卒業式に代表されるような「感謝や感動を強要させる行事」には、やっぱり納得はしていなかった。

 

問題点は二つあると思う。

一つは、何十人も何百人もいる児童の、心や家庭環境が全部同様なものだとして一緒くたに扱われること。

人それぞれ内面は違うに決まっているのに、「大人が考える理想形」のみが押し付けられること。

 

もう一つは、人の心がどうこうできると思っていることそれ自体だ。

到底無理だということは分かり切っているくせに、それでも大人が立場や権力を使って無理やり行っている。

 

卒業式を、「練習する」とか。「成功させる」とか。

当時の自分は、この言葉の意味が分かっていなかった。

というか今でも分かっていないのだが、無理やり説明することはできる。

 

 

 1. おぞましきポルノショー

件の記事では、1/2成人式なる行事を話題に上げている。

www.asahi.com

自分が子供のころも、似たような行事はあった。

 

ほかにも同じような行事として、卒業式や学芸会などが挙げられる。

運動会での危険な組体操なんかも、結局はこういう例に分類されるだろう。

 

なんでこんなことをやらないといけないのか。

当時の自分は分からなかったが、今ならもうとっくに知っている。

大人がクソだったおかげで、理解することができた。

 

つまり、「感動」が、要求されている。

「いいからとにかく鬱憤がたまっている保護者と教育者を楽しませろよ」という要求である。

 

そしてそれは、本質的には「勃起してぇから服脱げよwww」という要求と何一つ変わりはしない。

本来ならば、安全に隔離された密室と高額の報酬を用意してお願いしないといけないようなことである。

しかし大人は子供に対して、平気でこういうことを要求する。学校に通っている者には区別なく全員にだ。

 

 

2. 行使されるのは大人の都合

冒頭に挙げた問題点その1として、「大人が心と向き合う仕事をサボっている」というものがある。

心をケアする専門の教員は用意できない、という事情を述べるが、「じゃあ仕方ないね」という結論を出しているのは大人達の方だ。

 

「こんなことやってなんになるの?」ってことぐらいは小学生でも言う。

感動を要求する行為は、何の根拠もない一時の鬱憤晴らしである。

こんな無意味な行為だからこそ、大人側に事情があれば簡単に反故にされたり後回しにされたりする。

 

例えば、どの学校でも卒業式は「感動」させるが、入学式は「感動」させない。

入学式も卒業式と同じように感動ができると思うが、なぜだかスルーされている。

 

これの答えは簡単で、入学式ではクラスのみんなはまだ知らない人たちばかりで、

「練習」というイベントが成り立たないからだ。

みんなで苦労して理不尽に耐える、という必須の儀式を行う時間の余裕がないからだ。

 

他にも、小学校では「1/2成人式」といった行事で「感動」を要求するが、20歳になったときの本物の成人式では「感動」は要求されないことだ。

成人式は同窓会みたいなもので、親なんて普通は見に来ない。市長の眠たい話を聞いたらあとは飲み会である。

 

本来は、1/2成人式なんかより、20歳の成人式のときのほうが感動させるべきだと考える。

しかし、これも練習の時間などが取れないし、なにより教師の方も何年も会っていない教え子たちなので、統率が取れないから。そういった事情があるから、反故にされている。

 

 

3. 大人たちの的外れな慎重さ

こういった事情を、大人たちは巧妙に隠して、子供たちに強要する。

 

本当はさっさと子供の裸を見ることしか考えていない。

しかし口では「体に悪い菌がついているかもしれない!検査をするから服を脱いでくれ、早く!」みたいなことを言って誤魔化している。

こんな下手な言い訳を信じるのは仕込みのAV女優ぐらいだが、何割かの小学生はこれを信じてしまう。

 

例えば大人達は、絶対に「演出」という言葉は口にしない。

先の記事では普通に「演出」という言葉が出てきているが、これは大人の側が読む新聞記事だから出てきているのであって、彼らは子供の前では絶対に「演出」という言葉は口にしない。

 

なぜならば、出した瞬間にリアリティ(笑)が崩れ去るからだ。

教師はエンターテイナーであり、そういうところにはかなり強い誇りを持っているからだ。

例え子供のほうが「先生、こんなの茶番じゃね?」と言ってきても、殴り返して熱い言葉で黙らせる技術と歴史を持っているからだ。

 

そのショーを観る保護者達もまた、観客としてはプロである。

どうみても茶番であることなんてとっくにわかっているが、それを心に封印してポルノショーを楽しんでいる。むしろ茶番を必死に頑張る子供カワイイ!という方向に進化している。

 

そして、「これ茶番じゃね?」と気付いた子供を、見つけて叩き直すことが教育者の仕事である。こういった不穏分子を排除強制してこそ、真のエンターテイメントが実現するから。

現実を見て斜めに構えることや、自分の意見ばかりを言って大人の意見を聞かないことを、中二病だとして馬鹿にしている。

怒って泣き出した子供を体育館の外に連れ出し、罵倒とビンタとなんか耳障りのいい言葉を駆使して、「更生」させる。

 

心をケアする専門の教員が用意できない、というのがそもそもの発端だったような気がするが、なんてことはない。すでにプロが山ほどいる。

心を治療する医者ではなく、悪い心を切除する処刑人が。

 

 

4. 有効に動けないのなら大事にするしかないじゃない?

「結局感動ポルノじゃないか!」という結論は動かないが、大人がこの手の倫理的な矛盾を説明する手段はある。

例えば、「人間とは感情すらも教育されないと理解できない生き物だから、いろいろな心の経験を積ませてあげているんだ!」という論法である。

小中学生は“未”人間であり心さえも我々が動かしてやらないといけない!という主張だって出来る。そして、いくらかはそれで正しい部分も含まれているのだろう。

 

しかし、そうやって創造主を気取ると、冒頭に上げた問題点その1が浮上してくる。

今の大人たちには、一度に何十人もの心をミスなく組上げることなんて到底できないのだ。

既に手抜きとどんぶり勘定が横行しまくっている。

 

心とは、自由で神聖で、精密だ。

それは大人にとってだけではなく、子供にとってももちろんそうだ。

だからこそ、「心だけは誰にも奪えない」という結論を採用せざるを得ないと考える。

 

漫画やアニメやゲームだけでなく、映画や文学や美術でも、人間を描いた創作物では大抵こういったことが謳われている。それぐらい基本的なことなんだ。

 

心は、強制しても統治することはできない。

体は従っても心は従わない、ということ自体は簡単にできてしまうから。

卒業式の練習とか1/2成人式にムカついている人間が大勢いるように。

だからこそ、憲法で信条の自由が保障されているわけで。

 

どうせ社会は茶番でできているのだから、茶番に適応できるようにならないと生き残れないぞ、というもっと恐ろしい結論にすることもできないではない。