「同じことを二回聞く」は有罪か無罪か
今日もまた、主に会社内のOJTなどで必要な素質について書いてみる。
「同じことを二回聞くのは悪いことなのかどうか」。
一度聞いたことはメモをして覚えろ、ということは社会人ならば必ず教育される。
また、「最初はミスしてもいいけど二回目は繰り返すな!」という形の教育もよく採用されている。これも同様の話だ。
ジョルノ・ジョバァーナもこう言っていた。
「1度でいい事を2度言わなけりゃあいけないってのは、そいつが頭が悪いって事だからです」
一度したミスは二度としない。
そういう姿勢でいろんなミスを経験すれば、いずれはミスをしない人間が出来上がる。
これが「ちゃんと経験を活かす」ということであり、一度聞いたことをちゃんとメモするだけで出来る簡単なことである。
教える側としても同じことを何度も聞かれないで済むので手がかからない。
完璧である!
不可能だと言う点に目をつぶればいいとこづくめだから、聞く側としても躊躇してしまう。
「同じことを二回聞くのは悪いな」「一度で学習できなかった自分が悪いな」と考えて、自らの成長の機会をフイにしてしまう。
目次:
1.どういった仮定の下で成り立っている理論なのか
「一度したミスは二度としない、を繰り返していればいずれ完璧超人が出来上がる!」という理論はかなりのお花畑である。
パチンコで毎日勝てば働かなくても大金持ちだよ!という理論と同程度にはお花畑である。
この理論を肯定するまでには、多くの現実を無視している。
大きく分けると以下の二つだ。
・一度ですべての情報が引き出されるはずだという極論
・毎回全数検索をしなければいけないという処理コスト
まず、「一度聞いたことは二度聞く必要は無い」という仮定を成り立たせるためには、少なくとも話している言葉の一語一句をすべて完璧に記録しないと始まらない。
人間が手で文字を書く速度と、人間が口でしゃべる速度はどちらが早いか。
仮に全部ICレコーダーで録音したとしても、テープ起こしをする時間はどれぐらいかかるか。
こんな単純なことを考えるだけでもう矛盾しているのだが、それでもメモを取ることは完璧にできたとしよう。
だがその程度では、すべての情報を記録することは出来ない。
なぜならば、口に出している言葉にはそれ以上の意味が込められているからだ。
声色や音量と言ったものにも多くの情報が含まれていることはみんな知っているが、論理的なことだけに絞ったとしても、言葉には実に多くの面で意味が付加される。
例えば、「言うタイミング」。
たとえ同じ言葉であっても、今言うのと後で言うのでは意味が違う。そういう言葉が山ほどある。
例えば、「同じことを繰り返して強調するという手法」。
その言葉が繰り返されたのが一度なのか二度なのか。その数の違いによっても情報が付加される。
こういった、言葉の複雑さをフル活用して、普段人間は会話をしているはずだ。
そしてそもそも、「一度聞いたことは二度聞く必要は無い」という仮定は、人間の認識力と計算力が無限大じゃないとなりたたない。
一度聞いた情報をすべて完璧に取りこぼさずに記憶できること。
自分が一つ思考をするたびにその内容を一瞬で全数検索できること。
こういうあり得ない仮定の下に成り立っている妄想である。
だからこそ、「よく分からなかったからもう一回聞いた方が早い」という状況が存在しうる。
だからこそ、「分かってはいるけど頭がついていけないからあきらめよう」という状況が存在しうる。
将棋の羽生善治とかが人類最強の天才みたいに思われているかもしれないが、将棋と言うのは完全情報ゲームである。論理的にはもう勝敗が分かり切っているゲームである。
この意味をもう一度考えてから、目を覚ました方がいい。
2.一度聞いたことを二度聞くのは無駄ではない
ジョルノ・ジョバァーナという少年ジャンプのヒーローと真逆のことを主張するのは少し気が引けるが、ちょっと思い出して欲しい。
ジョルノが言っていたあのセリフは、因縁をつけて金を巻き上げようとしたマフィアに向かって吐いたセリフである。
決して、部下や仲間に対して使っていい台詞ではないんだ。
以前、こういう記事を書いた。
「今更聞けない~入門」というタイトルをつけた本は、よく売れる。
今現在まかり通っている「同じことが聞けない」という縛りを打ち破る「裏ワザ」であるように聞こえてしまうから。
しかしそんなものは幻想である。
分からないことは、いつだって何度だって聞かなければいけない。
なぜならば、ただ知らないという理由だけで「分からない状態」になっていることは、ものすごい損失であるからだ。
ただ教えれば済むだけのことに、本人が多くの無駄な労力をかけなければいけないからだ。
企業が社員一人に、一時間当たりいくらの金を払っているか。その社員が上手く動ければいくらの金が儲かるのか。この数値をちょっと想像すれば簡単にわかる。
そして何より、「何がなぜ分からないのか」ということは本人しか知らないからだ。
人間が何かを学習するときに、当人の頭の中では何が起こっているのか。そんなものは外から観察したぐらいでは絶対分からない。
当人なりに高度で複雑なことをたくさん考えて、理解ができずに苦しんでいる。
その末に「もう一度聞けばわかる気がする!」という結論を導き出したのだ。
最終目的は「そいつが理解すること」であるので、これは教える側にとっては値千金の手がかりである。
医者が患者を内科診療するときを想像すればいい。
その患者がよほどの虚言壁や神経異常でなければ、結局は患者自身による「痛い」とか「違和感がある」と言ったような情報が一番有力な手掛かりなんだ。
そのためには、医者と患者の間に信頼関係が無くてはならない。
医者が患者に「一度痛いと言ったらもう二度と言うな!」とか言ってしまったら、もうどうやっても病気を発見することなど出来はしない。
3.ズルを行使する権利
誰もが知っている事実がある。
「人間からミスと言うものを無くす」という使命に成功した人間や組織は存在していない。ただの一例も。
その現実を無視して、「一度したミスは二度としない、を繰り返していればいずれ完璧超人が出来上がる!」という論理を採用すれば、教える側としては非常に楽である。
ミスを分析して経験を活かしている気分になれる。
完璧思考がストイックさを生んでくれる気がする。
一度目のミスは許すことで自分が寛大である気分になれる。
自分は手間をかけずに部下が勝手に育ってくれるような気がする。
こんないいとこづくめだから、目は曇ってしまう。
なぜならば、多くの場合で「一度したミスは二度としない」は自分はできているからだ。疑似的には。
部下に同じことを二度聞いたことなどないという上司は存在するだろう。
そりゃそうだ。握っている情報の量が違うのだもの。
知識なしで動ける権限の量が違うし、ミスをしたときに誤魔化す能力だって違う。
そういう武器が別途あれば、無視してゴリ押すことは可能である。
そういう武器を手に入れて「一人前」になれ!
…という教育をするのならば、まあ間違ってはいない。