愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

なんで簡単に他人の顔写真をアップロードできるのか

 

 

togetter.com

インターネットに他人の顔写真や個人情報を勝手にアップロードするのはとても危険だという話がまとめられていた。

 

フォトハラという簡単な言葉で片付けられているが、これはとてつもなく危険な行為であり、自分だったら絶対にやられたくない。

インターネットにおいてはどういう事件が起こりうるのか、ということは簡単に想像ができるし、実際に破滅的な事件も起きている。

 

しかしそういう話をすると、「なんで危険なの?ちょっとぐらい関係無いじゃん」という解釈をする勢力(というか人種)が必ず一定数いる。

実名で顔を売りたい政治家とか、仕事上目立たないといけない芸能人などではなく、ただの一般人であるのに、他人の顔写真や個人情報をアップロードしてしまう人種がいる。

 

彼らがこのような思考を採用するまでには、どのようなプロセスをたどっているのか。

自分も知っていることを書いてみようと思う。

 

 

 1.「他人主義」と「自分主義」

他人の写真を勝手にアップロードしちゃうような人種に困っているというのが始まりだが、自分が考えるに、人間には二つの人種がある。

 

これを読めば雰囲気は大体わかると思う。

 

「情愛」・「つながり」・「共感」といった、他人を基準にして生きる人たち人種A

「議論」・「経験則」・「真実」といった、自分を基準にして生きる人たち人種B

こういった人種の違いがある。

 

人種A:「他人がどう感じているか」で真実を作る。

人種B:「自分がどう判断したか」で真実を作る。

 

人種A:権力や肩書、あるいはそれと繋がるための人脈が人間を作る。

人種B:当人の知識・知性・実力が人間を作る。

 

人種A:人のコミュニティに所属するという手段で、心地よく生きようとする者。

人種B:自らが正しい判断をするという目的で、情報や力を集める者。

 

人種A:人間関係はうつろなものであり、真実もそれに伴って変化していくと信じている者。

人種B:人間が認識していることは全て論理的に説明ができると信じている者。

 

人種A:宗教上の制約と慣習から、天動説を信じる者。

人種B:観測結果と理論から、地動説を信じる者。

 

人種A:「正論」という言葉が悪口だと思っている者。

人種B:「正論」という状態が最低条件だと思っている者。

 

人種A:寿命は短い。喉元過ぎれば熱さ忘れる。上書き保存。

人種B:寿命は永遠だ。人間一人が死んでも歴史や財産は残り続ける。別名を付けて保存。

 

人種A:ウェイ系。リア充

人種B:オタク系。陰キャ。

 

人種A:女性的。

人種B:男性的。

 

人種A:iPhone

人種B:Android

 

人種A:文系。

人種B:理系。

 

以上のような、判断基準の違いが人間にはある。

他人を行動原理にするか、自分を行動原理にするか。

光の人種と闇の人種は、人体を動かすOSが違う。

 

他人を行動原理にすることは、人間の本能に近い。

原始時代から人間は群れを作って生きてきた。そのコミュニティで地位を確保することこそが生存戦略であり、思考や判断にコストを使わない効率的で期待値も高い生き方だ。

 

それに対し自分を行動原理とすることは、「他人が何と言おうと自分のことを信じる」という強い心が必要だ。

その判断材料を得るために、議論をして理論を積み重ねなければいけない。

その結果の解釈が他人と一致しない場合は、コミュニティからはじき出されることになる。

このように高いコストと能力が必要とされる生き方であるが、より正しいものを探し出して成長進化することができる。

 

以前の記事でも、こういった人種の違いについて書いている。

clacff.hatenablog.com

 

自分は、愛は理屈の一部であると考えるし、すなわち人種A<人種Bだとは考えるが、何も考えないでAの方を採用することにもメリットがある。

別に完全に1かゼロかという訳でもないので、判断した上で使い分けるのがいいと、自分は考えている。

 

 

2.人種Aの頭の中について

さて、他人の写真を勝手にアップロードしちゃうような人種はすなわち人種Aである。

先ほどまでで延々述べていたように、人種Aは「なんで危険なの?ちょっとぐらい関係無いじゃん」という結論を採用する。

人種Bならば、危険だということが判断できるから軽率にアップロードはしない。

 

人種Aは、そもそも他人が写った写真をアップロードしたいという欲求が桁外れに強い。むしろ「やらなければ損をする」という答えを出す。

 

人種Bの人種がネットで正論を吐くことが大好きなように、人種Aは「自分はこの人と友達である!」ということを主張することが大好きなのだ。

他人との愛を語ることが、正しい事をすることと同じレベルで自然な行為になっている。

愛=真実が成り立ってしまっている。

 

顔写真なんかアップロードしてストーカーとか悪徳業者とかに狙われたらどうなるのか考えないのか!と人種Bが訴えたところで、人種Aはそれを考える動機が無い。

OSからして違うので、そんなことを言われてもエラーしか吐かない。

「写真撮られるのが嫌なら外に出なきゃいいじゃん」などと意味不明な解決策を吐くが、人種Aはそれを真顔で言っている。それか、人種Bに邪魔された!という別件で怒り狂って言っている。

 

また、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という答えを人種Aは採用している。

なぜこのようなものが採用できるのか。

それはすなわち「誰かに」嫌われなければそれでいい、という判断基準から導かれた答えだからだ。

 

ショッキングな例を挙げる。

万引きをしたら警察に捕まることは彼らも知っているが、「なぜ捕まるか」という解釈が違う。

「日本に住んでいて窃盗罪になるから捕まる」という解釈をしていない。親や教師に尋問されているときは嫌々そう答える知能はあるが、心の底ではそうは思っていない。

 

「店員が怒ったから、警官に目をつけられたから」という「理由」で、捕まると解釈している。

だからこそ、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という理論が成り立つ。

店員に見つからなければ万引きはしてもいいことになっているし、被害額が少額ならば万引きをしてもいいことになっている。

相手が金持ちで大きな店ならば、自分が商品を一つとったぐらいなら「相対的に」小さな被害だから「いいじゃん」となる。

 

人種Aは、何もかもが「相対的」なのだ。

議論をする必要が無いから、絶対的な基準を持つ必要が無い。

 

人種Bは絶対的な基準で動いているため、「ちょっとぐらいならいいじゃん」という答えは一切採用できない。

理論や科学の世界がそうであるように、一つの嘘の上に積みあがるものは全て嘘である。

 

すなわち人種Aには、法律・倫理・科学といった既存の正義が通用しない。

どんなに正論を述べようと、コミュニティを害すものは悪である。

どんな嘘っぱちであろうと、心地よいコミュニティを作るものは善である。

全ての正義はその場で相対的に作られる。

 

だから、他人が写った写真をアップロードしてしまう。

その写真に写っている仲のいい友達(こいつも人種A)は同じことを考えているため、アップロードされても別に構わないと思っている。

そんなA的な写真の中に人種Bが紛れ込んでいたから、注意されてうぜぇと思っている。

 

 

3.ほとんどの「馬鹿」は人種:Aで説明ができる。

以上のように、社会には人種Aという人たちが居る。

理論や実証に基づいた知性では生きていない人たちが居る。

 

このOSのシェアは、社会においてはそれなりに高い。

このAとBという人種の区別は、便利だ。

なぜならば、インターネットで見かける「なんでこんなに頭悪いの」という炎上案件は、7割がたは人種Aによって引き起こされたことだから。

 

例えば、冒頭の記事にあった「何も考えないで他人の写真をアップロードする者」。

よその犬に勝手にエサをあげてしまうこと。

これは、人種Aが「ちょっとなら誰にも怒られないから」という理屈で採用した正義である。

 

例えば、「なんで子供作らないの?」だとか「友達と旅行とか行かなくて寂しくないの?」とか無神経に聞いてしまう田舎者。

彼らは無邪気であり、何の害意も持たずにこのような発言をする。

ムスリムに向かって「豚肉旨いよ?家畜としても高効率だよ?」と親切に教えているようなものだ。

ちょっと考えれば「人にはいろんな事情がある」ということは分かるはずなのだが、人種Aの間では「とにかく他人といれば良い」というのが普通であり当然のこととなっている。

 

例えば、店の冷蔵庫に入って調子に乗るような馬鹿が、昔はツイッターにたくさんいた。

これも当時は「(俺らの周りでは)怒る人がいない」から実行されたことであり、人種Aにとっては生産的な行動であった。

ただ、時代が進んで人種Aですらも飽きて怒るようになってきたから最近は見かけなくなっただけで。

そのかわりに、今は平気で嘘のことを書いて承認欲求を稼ぐという「嘘松」というものが流行している。

人種Aによる愛の欲求は着実にステージを上げている。

 

例えば、理屈の通らぬポリコレ棍棒を振り回すものや、感情に従うラディカルフェミといった存在。

彼らは立派な大人であり、多くは結婚だってしている。そして高学歴ですらあったりするため、馬鹿ではない。

にもかかわらず、人種Aであるからこのような理屈の通らない活動ができる。

疑似科学だろうとなんだろうと、「それで心地よく信じれた」という結果さえ満たしていれば、もうそれを正義として採用できる能力を持ってしまっている。

最たるものは左翼政治家だろうか。

お花畑平和や反権力というものが「信じ込めばとても心地よい」ということを知ったうえで、大衆の感情を煽って富や権力の欲を満たそうとしている。

 

少し前に話題なったこのまとめで、「真実の安さ」という言葉が出てきた。

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今回の記事で述べていることは、まさにこれである。

人口の多数派を占める人種Aの間では、多数決は絶対的な真実である。

他人の意見は自分の意見であり、そのような形でコミュニティを維持しているから。

見方を変えれば、それは「愛」と呼べるのだろう。

 

人種Aの文化のなかでは、「自分一人が出した意見」というのは、最も信用がならないものである。

例え「ルート2」だとか「10cmの正方形で測ったら」だとかそういう言葉を並べたところでまやかしであり、森に棲む魔女が持ってきた怪しい薬でしかない。

 

今回の「正方形の対角線」というテーマにおいては、中学生でも理解できるような簡単な理論だから、大人である先生が理解できないのはおかしいと思うだろう。

しかし、人種Aの文化では真実を理解する能力がどんどん衰退していく。

より成熟した人種Aの文化だからこそ、まともな判断能力は残されていない。

 

逆に、「他人の目や意見を尊重する能力」だけは強大に進化する。

例えばこんな例の様に。

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 4.人種Bという社会の敗北者

まあ散々人種Aのことを馬鹿にしたが、これら人種Aが引き起こす事件の多くは、貧困とポピュリズムが元凶であるとの分析がある。

 

その貧困とポピュリズムは人種Aを容易に生み出す。

だって、人種Aは楽だもの。コストがかからないのだもの。

 

正直なところ現代の社会は人種Aの方が生きやすい。

簡単な仕事でもやれば金と食料が手に入る豊かな社会であり、無理に理論を積み立てなくても生きていける。

 

実際に、人種Bは今までの人生のどこかで相当な苦労をしているはずだ。

コミュニティから弾かれて、血を吐く思いをして生き延びてきたはずだ。

頭を使うのには高い能力とコストが必要なのだから。

 

そうやって、コストを払って「失った」者が人種Bである。

高い金を払って闇の剣を買わざるを得なかった敗北者である。

森に追いやられ、怪しい薬を作ることでしか生計を立てられなかった魔女である。

 

平和な村人である人種Aは、モンスターに村が侵略される日までは、何の苦労も心配もなく生き続ける。