愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

医学的に死ななければ許されると思っていないか?

 

最近の若い者は、死ぬとか殺すとかいう言葉を平気で使う。

ゲームや漫画の文化の悪影響だろう。戦争のゲームだって平気でプレイする。

まったくけしからん。

…という言説が大人の口からよく語られる。

実際に、若者の中には申し訳なさを感じている人も多いだろう。

 

しかしその割には、この記事を読んでみると「死ぬ気でやる」だとか「死に物狂い」といった姿勢はなぜか称賛されていることが分かる。ずっと昔から。

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死を「絶対的にダメなもの」だとしてタブー化するが、その反動で医学的に死ななければそれでOKといった思想が信じられている。

 

交通事故が起きました。ケガはしましたが死者はいませんでした。

学校で酷いいじめの事件が起きました。でも自殺する寸前で食い止めることができました。

めでたしめでたし。

 

死は穢れだというが、一体何千年前の宗教で思考停止しているのだろうか。

確かに医学的な死は絶対的なものであるが、それ以外にも生と死の概念は存在する。

 

今日は、よく使われる「死ぬ」とか「殺す」といった言葉の広い意味を説明する。

 

 

 1.「死ななきゃ良い」というは相当な暴論

死刑制度反対派を論破するコピペで、以下の下りがある。

 

    「命は取り戻せない」というが、

    取り戻せないことを論点にするなら時間も取り戻せない。

    ならば懲役も反対しなければダブルスタンダードである。

  

「命は有限だが、時間だって有限である」。

この一点のみで死刑制度の是非を語ることは出来ないが、とりあえず事実ではある。

 

寿命が有限である以上、時間を奪われたらその時間は「死ぬ」。もう取り返せない。

死刑制度とかは抜きにして、これだけ考えると簡単で明らかな論理だ。

 

絶対なのは医学的な命だけではない。

時間も、金も、例えRPGのアイテムであっても、その存在は同様に絶対である。

失ったものは帰ってこないし、タダで無くしていいものなど一つもない。

 

大事にしなくてはならないものは医学的な命だけではない。

そのことに気付くと、「死ぬ」とか「殺す」といった言葉を使うべき場所が、日常のあらゆる場面で見つかる。

 

一応、「命は取り返せないけど懲役だって取り返せないよ」という論説には反論もある。賠償可能性についてだ。

 

要するに、「懲役は誤審だったらお金を払ってなんとかリカバーできるが、死刑は一度殺してしまったら取り返しがつかない」と言っている。

だから、時間よりも命は特別に尊いものだとしている。

 

まあそれでも問題の本質は変わっていない。

お金を払って賠償できるのはお金だけであり、失われた時間・立場・心などは、運が良くても「別の形」でしか慰めることができない。

 

例えば「1億円上げるから寿命を20年くれ」と言われたら納得できるだろうか。

年収で言えば500万円でしかない。

じゃあ2億円ならいいのか?1兆円でないとダメか?

そういう議論を毎回納得するまでやらないといけないことになるが、本人が納得していればそれでいいという訳でもない。

 

もっと単純に言えば、「治療費出すから殴っていい?」と言われたらどうか。

普通に考えれば誰だって嫌だ。

 

 

2.「死ぬ気の努力」をタダで要求する人達

以上のことを鑑みたうえで、もう一度冒頭のまとめを見てみよう。

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 外野は簡単に死ねという。

支配者にとっては、この「死ななきゃいい」という思想はとても理想的だ。

自分の命は傷つかないし、所有物が能力以上の成果を出してくれる(可能性がある)から。

 

何も考えさせたくない、という策略が上手く行っているのだろう。

死を「絶対的にダメなもの」だとしてタブー化する教育を施しておけば、乱用とインフレを防止することは出来る。

そして自分たちだけはその力を好きに利用することができる。

 

一見卑怯だが、正当化する理論はいくらでも作り出せる。

そもそも、「医学的に死ななきゃそれでいい」という価値基準自体がずるい。

時間や給料や健康だって死ねば失われるのに、「医学的な命」という一番高いハードルを勝手に設定することによって、ほかのものをすべて反故にすることができてしまう。

 

そして、「本当に死んだとしてもそんな例は極僅かだ」と言い張ることができる。何か別の理由があったとこじつけられてしまう。

「どーせ死にはしないだろう?」タカを括るから「死ぬ気でやれ」なんて強要ができてしまう。

 

そして、「死ぬ気でやれ」という強要をする側は、いつだって賠償をしない。

過労死したところで隠ぺいするつもりでいるし、隠しきれなかったとしても謝罪と葬式の費用だけで済ませようとする。

 

先の述べた死刑制度の話では少なくとも、冤罪だった時に考えうる限りの賠償をしてくれるという保証があるから「死ななきゃいい」という論理が成り立った。

それで賠償しきれるかどうかは別問題だが、少なくとも国家という巨大で信頼感がある存在がないと成り立たない話だった。

 

「死ななきゃいい」という言葉を吐くためには、少なくともそれなりの義務と覚悟が必要になる。

 

 

3.いつだって死ぬ気で戦っている

自分自身の例を思い返してみると、この「死ぬ気でやれ」というのを最初に言われたときは、大学の受験勉強のときだった。

「死ぬ気で勉強して実際に死んだ人はいない」という話を何度も聞いた。

医学的なことだけを考えれば、もしかするとそうかもしれないのだろう。

 

しかし大学受験という戦場においては、多くの学生が死んでいる。死屍累々である。

志望した大学に受からなかった者だけではない。

・受かったけれど何年もかかった者

・受かったけれど必要以上の時間と手間を払った者

・受かったけれど後に仮面浪人や再受験を選ばざるを得なかった者

・もっと正しく勉強をしていればより良い大学に合格できた者

 

彼らは、全員死んだ。

医学的には生きていても、多くの人生を失った。

死ぬ気でやった戦いで負けたり失敗したりしたら、それはその努力の死を意味する。

 

合格したんだから生きててよかったね、死に物狂いでやっても大丈夫だったでしょ?なんて絶対に言えないはずだ。

戦争と同じで、例え勝ったとしても多くのものを失うし、望んだものが都合よく全部手に入るわけではない。

 

最近の若者は命の大切さを分かっていない、と大人は言うが、それは違う。

若者にとっては、守るべき命が数多くその目に見えているからだ。

 

時間やお金や人生など、そういったものだってミスれば死んでしまう。

ゲームや漫画で簡単に死ぬとか殺すといった言葉を使う子供の方が、断然物事をよく理解しているように思える。

100円玉一枚でも、ポーション一つでも、ミスって意図した結果にできなかったのならば、そいつは死んだんだ。

 

こういう考え方ができる人間には、「死ななきゃいい」という論理は通用しない。