愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

誰だ教師が聖職者なんて言ったやつは

 

とても直接的で欲望にまみれている案件が出てきた。

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教師・医者・公僕・軍人・警官・スポーツ選手といった職業は、いわゆる「聖職」として扱われている。

犯罪者が出たら「~という職に就いているのに犯罪をするとはけしからん!」という感情が出てくる職業だとして認識されている。

 

前の記事で述べた、「政治家とはいえ十分な人間ではない」という話と同じ理論であるが、聖職者だからといって人間的に完璧であるわけがない。

保育士だからと言って、報酬を求めずに愛だけで子供の面倒を見てくれる聖人君子であるわけがない。

 

もうみんな心の底ではわかっていることだから断言してしまった方がいい。

聖職とは、「無茶な仕事を押し付けたから聖職なのである」と。

その申し訳なさを、勲章という形で誤魔化しただけなのであると。

 

教師とか公僕については、自分も少しだけ知っているから書いてみる。

「腐ってないわけがないだろう」と。

 

 

目次:

 

 

 

1.「聖職者だから」という隙だらけの思想

ちょっと前にも、こういう直接的な事件があった。

修学旅行中の教師が夜にデリヘルを使った!けしからん!という事件だ。

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まあ、保護者という存在は教師にとっては取引相手と同じである。

客の言い分は神の言い分であるのかもしれない。

 

しかしけしからんと言ってみたはいいが、藪を突いて蛇を出してしまった。

・教師を24時間休みなく働かせて手当も払っていないというのは正しいのか

・というかデリヘルだって本番強要とかしなければ普通で正当なサービスだろう

 

自分たちが今まで踏み倒してきた問題が表面化してしまった。

自分たちがこういう問題から目を背けてきた、という事実を簡単に忘れてしまっている。

 

聖職という言葉で思考停止をしているから、ちょっとつつくとすぐにボロを出す。

聖職者は給料なんて求めないし清廉潔白である、と勝手に定義して信じている。

アイドルはウンコなんてしない、と同レベルのことを本気で信じている。

 

それ以前に、金も十分でない教師や保育士に自分の子供を見てもらいたいのか?

という単純な話にも気づかない。

 

 

2.「強いものが勝つ」である訳がない。

大体、なんで腐ってないと思うんだ。

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 人や論理が動かない環境は、よどんで腐る。

縛りが多くなって成果が挙げられなくなる。

別に聖職で無い普通のサラリーマンとかもそうやって腐っていくんだから、簡単に分かりそうなものだ。

 

しかし、聖職を信じる者は一つだけ心の拠り所がある。

聖職は「難しい試験を突破しないと成れない」。だから安全だという期待である。

多くの人生を投げ捨てないと聖職者にはなれないのだから、それによって安全性が担保されていると思っている。

大勢の脱落者が出ているのだから、それによって正義が担保されていると思っている。

 

聖職なんてものを信じているお花畑は、戦いというものを知らない。

目を背けているから、「強くて正しい者だけが勝つんだろう」という浅はかな想像しかできない。

だからこそ「試験を突破したなら正義だ」なんて論理を採用してしまう。

 

前の記事で散々書いたことだが、「戦い」なんてものは全く信用がならない基準である。

本当に戦士として戦ってきた人ならだれでも分かる。

勝負は偶然や策略によっていとも簡単に決まってしまうと。

 

生死を賭けた戦いにおいて、理不尽ではない勝ち負けなど一つもない。

強いだけで勝てるのならば誰も苦労しない。

 

教職だって、大学で授業を取って教員試験と採用試験に受かればそれでなれてしまう。

「この過程を突破すれば必ず心清い人間が出来上がる」という自信はどこから来るのだろうか。

 

だからこそ、学校の教師には世間知らずや間違いをする者だって混ざってしまう。

というか、普通の真人間で構成されてしまう。

 

 

3.「聖職者様は命を捨てて戦ってくれる」

聖職なんてものは何の根拠もない幻想だということははっきりしているが、ただの夢や娯楽だとして信じているのだとしても、その罪は重い。

 

聖職だと決めつけることが、業務の柔軟性をスポイルしてしまうからだ。

聖職者を演じるために余計な苦労をしないといけないし、行使できる選択肢が限られてしまうからだ。

 

例えば医者だったら、分からない時には分からないと言ってしまいたい。それが事実なのだから。

しかし、医者というものを絶対的な聖職者だと思っていると、こういう時に意地を張らないといけなくなる。togetter.com

 

冒頭のこの案件も全く同じである。

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 お金が無くて辛い!時間が無くて辛い!という人間として凄く当たり前の苦しみを表明しているだけなのに、「聖職者だから」といってその声が封殺される。

医者や教師の仕事が縛られるということは、下手をすれば医学的な生命に関わることだ。

 

でも難しくて責任が重い仕事だから、能力のある人間に丸投げしたい。

その後ろめたさを、聖職という「勲章」を与えることで誤魔化した。

 

しかし勲章を与えてくれると言っても、縛る義務を与えるばかりで、表彰してくれるわけでもないし金だってくれない。

(軍人の二階級特進は少なくともメダルと恩給はくれるというのに。)

 

 

4.聖職者というヒーローを勝手につくり、勝手に期待する

「聖職者による決死の献身」をタダで強いると、騙しきれなくなったときにゆがみが出てくる。

具体的に言うと、教師や警官の犯罪が頻発するようになる。

 

そういう事件をニュースで見て「けしからん!」というところまでがエンターテイメントなのだろう。

社会の腐敗を嘆く聖戦士の気分になれる。

 

社会は手を打たなければ実際に腐っていく、という事実はみんな分かっている。

一般市民には何をする力も無いということも分かっている。

そこで、聖職者というヒーロー性に頼ってしまう。

聖職者がもっと心を入れ替えてしっかり働いてくれればいいじゃん!と考える。

清廉潔白な人間が総理大臣になれば日本が救われる!と夢見てしまう。

 

「きっとこういうすごい人間が舞い降りてきて私たちを救ってくれるはずだ!」と思い込んでしまう。

確かにフィクションの世界ではヒーローが解決してくれる話ばかりだし、実際の例も無いわけではない。

 

自分が考えるに、腐敗する社会を救うのは、一握りのヒーロー、それも勲章で祭り上げられた聖職者ではない。

「特に能力を持たない大量の一般兵」が戦って逆転しないとダメなんだと思う。