なんで漫画家は人生を棒に振らないといけないのか
一年ぐらい前に読んだ「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」を急に思い出した。
漫画という文化が生まれた歴史。アニメという文化が生まれた歴史。
この本からはそういうものが読み取れた。
それを作ったことは確かに素晴らしいと思う。
個人的にも、手塚治虫の作品は面白いし好きである。
この本の内容について、検索してみたら以下のような感想が見つかった。
こういった世間の感想を読んでみて、やはり自分はこう思うんだ。
「省みない天才」というものをシンボルとして持ち上げるのはダメなことであると。
このブログで何度も書いているように、必ず業界の死を招くと思っている。
なお、今回の記事で扱われている漫画という言葉は、「工業技術」や「学術の研究」と置き換えてもそっくりそのまま成り立つ。
業界の最先端においては、「職人気質」や「優れた研究者」という人材がいつも求めてられている。
色々言葉を濁しているが、結局のところ欲しいのは「手塚治虫みたいな個性的な人」である。
今回は、この危険性についての話をしたい。
目次:
1.手塚治虫は、宗教だ。
冒頭に述べたサイトでの感想をもう一度見てみよう。
一つ目の方が分かりやすい。
手塚治虫は、変人だった。
仕事中に急に「浅草の柿の種を食べないと描けない!」と言い出したり、突然「スリッパが無いから探せ!」と言い出したりする。
別のエピソードでは、「目覚まし時計のスヌーズ機能の言葉について」を突然他人に熱く語りだしたりする。
一度気になったら止められない、一度語りだしたら止まらない。
手塚治虫は、最強だった。
自分の描いた作品のことは前頁のコマ割りと背景を暗唱できるほどの能力を持っていた。
小さいころから死ぬ直前までどんなことでもどん欲に学習した。
漫画のことならば無給でも何十時間でも不眠不休で働き続けた。
そんな人が、苦労をしながら多くの人と協力して、最高の作品を生み出した。
漫画という文化の黎明期から現代にいたるまで、多くの人に語り継がれる名作を生み続けた。
こういうストーリーである。
手塚治虫という人間をこのようにして消費する筋書きになっている。
奇才とか天才とか。
そういった言葉は自らが理解できないもの・理解しないものに対してつけられる。
「こんな素晴らしい作品なのだからよほど変な人が書いたに違いない!」
最初に、こう仮定して話を進めてしまった。
どんな風にやればこんな面白い作品が生まれるのかが全然分からなかったから、作者を奇才天才だということにしてしまった。
作品の面白さと作者の変人さを比例させてしまった。
そして次にはこんなことを思いつく。
「こんな変人だからあんな素晴らしい作品を描けるんだ!」と。
そういう理解で、「変人≡名作」という合同の式を証明してしまった。
そういう自己理解で納得してしまった。
この手塚治虫というケースに限っては、結果的に大部分は事実だったのだろう。
「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」に挙げられていたエピソードには大きな嘘は含まれていないと思う。
変人だから名作が描けるのか。
名作を書くような人は変人でしかありえないのか。
手塚治虫という一つの事例が心地よくてぴったりだったために、この根本的なテーマを考えることを放棄してしまった。
「名作=変人。変人=名作」としてしまった。
こうして、手塚治虫という宗教が生まれた。
よく分からないものには「天才だから」という言葉で片付けるメソッドが生まれた。
そうやっておだてて出てきた名作を、おいしくいただくシステムが出来上がった。
そして手塚治虫の時代においては、この宗教は上手く働いてしまった。
とても成功してしまった。
だって実際にそうやって手塚治虫は名作を大量に生み出したのだから。
手塚治虫本人も割と変な人だったから。
この成功をもとに、「名作を書くんだからこんな人であるべきだ」という想像がデフォルトになった。
更生に出てきた優れた漫画家も、手塚治虫という宗教で説明するようになってしまった。
能力のある人に対して、そういうキャラクターを強要するようになった。
プロフェッショナル。
聖人君子。
職人。
~屋。
こういった、「誇りを駆り立てるような言葉」の裏にはいつもそういう悪意が潜んでいる。
それを信じ込まされてしまうと、そんな虚構よりもずっと大切で簡単なことを見失う。
2.死体の上に成り立つ城
手塚治虫は、宗教だ。
そうだとして、次にこれを考えてみよう。
「手塚治虫」という宗教で、何人死んだ?
何人殺した?
別に人殺しなんてしてないでしょ!とかいう安い話はしていない。
ようするに、何人の人生がゴミになった?と聞いている。
もう少し詳しく言えば、「手塚治虫ひとりを支えるのに何人の常人が犠牲になったか?」この部分にとても邪悪なテーマが潜んでいると考える。
「手塚治虫と一緒に働けて、みんな幸せだった」と手塚治虫のアシスタント達は言う。
この「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」でも、手塚治虫を愚痴る人はいても否定する人はいなかった。
しかし当然その栄光の陰には、そういった活動に適応できなかった戦士が大勢いた。
無茶な労働についていけずに人生をあきらめさせられた戦士が大勢いた。
人生を潰されて殺された負け犬が大勢いた。
手塚治虫は人気漫画家であり、アシスタントの応募はよりどりみどりであった。
そういう立場を武器として使ってしまっていたことは事実ではある。
常識的に考えて、まともな労働環境ではなかった。
しかしその異常性も、手塚治虫という「宗教」によって許されてしまっている。
別にそう珍しい意見ではないのだが、現代で言うところの「やりがい搾取」とか「ブラック企業」と何ら変わりないと思うんだ。
なのになぜこれが「理想の天才」として扱われているのか。
成果物が名作漫画であれば許されるのか?
こんな判断もつかないような人たちが本当に美しい作品を作ることができるのか?
「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」の4巻で、こんなエピソードが取り上げられていた。
多くの連載を抱えて締め切りが過ぎても描き続ける手塚治虫に対して、壁村耐三が怒りながらこう言った。
「先生は漫画家の手本でしょう」
「毎週こんな状態じゃ人が悪いとこばかりマネします」
「しっかりしてください」
「手塚治虫は漫画家の手本です」と言われているが、それは決して「手塚治虫は素晴らしい漫画家です!」という意味ではなかった。
このことをちゃんと書いてくれていたのはとてもよかったと感じた。
3.要するに:「特攻隊を編成して敵艦に突っ込ませるお仕事」
漫画家という厳しいプロの世界では、「弱いものが去るのは当然」である。
それでも残った者は皆幸せだと言っている。
だから問題ないと。
こういった理論が成り立つのは、それを信じて実行できる若者が枯渇していない場合のみである。
人生を投げ捨てれるほど社会の景気が良くて、自らを騙しきるほど学がある若者が大勢いる時代にだけ使っていい理論である。
手塚治虫の漫画を夢見てトキワ壮に来た若者たちは、みんなそういう環境に適応できる人間だったから、美談になっているわけだ。
「残った者は皆幸せだと言っている」というのは当然である。だってそういう人を集めたのだから。
以前も自分のブログに書いた文言だが、また書きたくなった。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、これは種族の強さを維持するための行為ではない。
まして親の愛情から生まれる行為でもない。
ただの間引きである。
自分が扱いきれないものをごみ箱に捨てて忘れる行為である。
でもそういうエリートが実際に生き残って集まったのだからいいじゃん?といわれても、いいわけがない。
なぜならば、社会の人材は有限だからだ。
適性が無い者は帰れ!という殿様商売が続けれるのは、資源が枯渇するまでの間である。
漫画への愛があったから無給でも不眠不休でも働けたのだ!というが、愛は有限である。
愛というとても貴重なリソースを独り占めしたからそういうセリフがはけるのだ。
何十年も前の文化が未成熟な時代ならともかく、現代でこれと同じことを繰り返すと、かならず「常人」が不足する。
「愛を持ったエリート」は「大勢の常人」の死体がないと抽出できないからだ。
無茶な仕事で人生が潰された負け犬が大勢いないと成り立たないビジネスモデルだからだ。
それに気づいた彼らが次に打つ手は以下のようなものである。
「最近の若者はたるんどる!手塚治虫のようになれ!」と。
「こういう人たちが素晴らしい漫画家だ!お前らもそれを目指せ!」と。
足りないからといって死体を補充しようとする。
4.もう修羅の時代を終わらせるべきだ
犠牲と不幸が生んだ、漫画という素晴らしい文化。
2017年の現代にいたるまで、その悪習は続いている。
なぜ、漫画家志望は人生を棒に振らなければいけないのか。
なんでユンケル飲んでまで4時間睡眠にしないといけないのか。
なんで2000円の原稿料で生きないといけないのか。
なんで親に泣かれないといけないのだろうか。
苦労はあるけど売れてしまえばスターになって大金持ちだから?
・愛を痛み止めにしたブラック労働
・それに耐えうるエリートの選別と独占
・そうした漫画家をおだてて駒に使う出版社と編集者
その売れるために使っている手段というのがこういうものなのだから笑えない。
これ以上何を搾り取ろうというのか。
手塚治虫の技術力自体は、何の罪もない。
愛に走るとほぼ例外なく指導力がそがれるからトップに立つべき人ではなかったのかもしれないが、まあ能力の向き不向きもあっただろう。
「手塚治虫」を強要する支配者こそが一番の害悪だ。
一時の花火が見たいだけで、若者も業界もみんな殺そうとしてくる。
例えば漫画だったら、現代ならばもっとローコストで安全に描くことができるはずである。
ネットの文化によって、いい作品を描けば皆に読んでもらって称賛を得ることができるはずである。
同人もできる。片手間にだってできる。出版もできる。
多くのリソースが揃っていてプロの技術をみんなが学べる。
漫画家が生きるか死ぬかだった時代は、ようやく乗り越えたはずである。
逆に言えば、こういった一握りの天才奇才に頼る時代は終わりつつある。
「大勢の常人たち」によって勝たなければいけない時代が来ている。
本当はもうみんなとっくに気付いている。
人海戦術・特攻戦術から抜け出すために必要なものは、十分なリソースと技術の伝承であると。
人は愛さないといけないが、技術は愛してはいけない。武器を愛してはいけない。
さもなくば、いとも簡単に判断ミスを犯す。
若者を特攻して死なせるようなミスを。