愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

【戦いこそがすべて】何故政治家がマトモだと思うのか

 

もうすぐ衆議院総選挙が始まる。

今年は希望の党という新党が何としてでも現政権を奪取しようと躍起になっているようだ。

  

news.livedoor.com「私は本気で政党を狙う」「国盗り」といったワードを、オブラートも無しで発言している。

 

誰もが子供のころから思っていることだが、政治家ってなんでこんなに下品なんだろう。

政治家と言われても、金に汚い禿オヤジか嫌味面をしたババアしかイメージされない。

「永田町には魔物が潜む」とドヤ顔で言われても、悪魔なんてそもそもいちゃいかんだろう。

 

誰だって、劇場型政治やワイドショー政治にうんざりしている。(国家転覆と反権力に夢中になる人たち除く)

こんな大人たちの何を信用すればいいのだろうか。

本能的にそう感じるからこそ、政治とは腐ったものであり選挙など茶番だと考える。

せっかくの国民のほぼ全員が選挙権を持っているのに、投票率はダダ下がりである。

 

そして、与党も野党も結局はそのイメージでおおむね正しかったりする。

むしろ一応形としてちゃんと政治が運営されているだけでも、国家的にはすごかったりする。

今の状況が腐っているのではなくて、その腐った状況に対応して生まれてきた戦術が現在である。

 

今日は「政治家がなぜ下品に見えるのか」を書いてみる。

結局はクソしかない、という結論を導いてみる。

 

 

目次:

 

 

 

1.すべてはルールの上である。

現在の日本国は間接民主主義と政党政治を採用している。

どちらも憲法レベルで合法である。

 

この間接民主主義なんてものがあるから、「選挙の時だけ調子のいいことを言って勝ってしまえばこっちのもの」という思想が成り立つ。

また、政党政治なんてものがあるから、「特定の国民から支持と金を集めてそいつらに利益を誘導する政治を行う」という戦術が生まれる。

 

この間接民主主義と政党政治が、現在の政治腐敗の根本的な原因ではある。

選挙の時だけ調子のいいことを言って勝ってしまえばいいのだから、その戦術は先鋭化する。

今回の選挙みたいに、「初の女性首相!」「身を切る改革と福祉の充実!」「対話による世界平和!」とか、刺激的なワードをたくさんしゃべったほうが有利になる。

どうせ嘘だったとしても辞任以外の罰則なんて無いので、風呂敷は大きい方がいい。

 

政党政治についてもそうだ。必要なものは金と票である。

だったら勝利のためには特定の市民団体にすり寄らなければならない。

正しいとか正しくないとかは置いといて、とにかく国民の願いをかなえる存在でなくてはならない。

例えそれが「なんかむしゃくしゃするから反権力をやって気持ちよくなりたい」みたいな下種な願いであっても、それを望む国民から金と票を多く集めることができればそれが正義になる。

それこそが国民主権の意味なのだから。

金と票を効率よく収集して、願いをかなえるための議席を獲得する機構が政党というものだ。

 

大の大人が人生を賭けて勝利を考えるのだから、これぐらいのことは簡単に思いつく。

例え元々の動機が個人の権力欲と金銭欲であっても、「それで戦え」というのがこの国のルールなのだから問題は無い。

 

そして、実際にそれで日本という国が割と先進国でいることに成功しているのだから。

 

 

2.「死人に口なし」なら正しい。

間接民主主義と政党政治が現在の政治腐敗の根本的な原因であるわけだが、じゃあなぜ日本はこんな制度を選んだのか。

 

実務上の手間というのはまあわかる。

この国の国土と人口から考えて、直接民主主義とかは面倒すぎる。

そこら辺のサラリーマンが明日から政治を勉強して責任をもって政策を選べ!とかいわれたら絶対に無理だろう。

 

だから、選挙で政治家を選んで、その人にある程度自由に勝手に政治を運営してくれと委託するのは仕方がない事である。

 

しかし間接民主主義では正義が保障されない。

先述したように、そのシステムでは正義は追及しない方が有利になってしまうからだ。

 

そこで最初に間接民主主義というものを考える際に、正義を確保する機構が別途用意された。

それが、「選挙とは戦いである。間違った者なら勝利はできない」というロジックである。

 

「さあ殺しあえ!本当に強い者のみが生き残る!それだけが正義だ!!」

悪役がよく吐くセリフだが、今の日本ではそれは採用されている。

単純であり割とローコストで真実を選べる方式ではある。

 

だから、禿オヤジや嫌味面をしたババアが全力で戦っているわけだ。

そして大人たちが全力で戦う際に思いつく戦法というものが、現在行われている腐敗政治なわけだ。

 

この「戦いこそがすべて」というルールは、「ルール通りに戦争をしているのならば何をやってもいい」ということも同時に制定している。

国盗りの野望とか、そういう下品なワードを堂々と言えるのはこういう理由である。

 

我が政党は特定の国民と思想に対して利益誘導します!というのも、ルール内だから何も問題は無い。

「その実態をぼかした方がなんか騙されてくれる国民が多い」という戦法を採用するのも合法である。

 

 

3.勝ったものが強い、という思考停止

この「戦いこそがすべて」というシステムは、コストや手間のことまで含めて考えれば、現状では一番合理的で正しいシステムであるように思う。

 

しかし、「本当に強い者のみが生き残る!それだけが正義だ!!」という論理は通常は成り立たない。

あくまでコスト的に有利だから仕方なく選んでいるだけで、決して最強ではない。

 

理由の一つは、「戦い自体が公正ではないから」である。

本当に強い者のみが生き残る、という論理自体がだいぶお花畑なのだ。

 

完全武装した歴戦の武将でも毒の一杯で殺されてしまうように。

力道山でもチンピラのナイフ一本で死ねてしまうように。

戦いなんてものは、強ければ絶対に勝てる・負けないといった単純なものではないからだ。

先述したように、選挙という戦いにおいては「勝てば正義」の名の下で数多くの卑怯な手段が用いられている。

 

国民からとにかく金と票を集めて勝ってしまえばいいという「勝てば正義」理論。

どんなに甘ちゃんでも正しいことを言えば戦いには勝てるという「正義は勝つ」理論。

この二つは絶対的に相反する。

「戦いこそがすべて」というシステムはこれを一緒にしてしまっているから矛盾している。

 

戦って決着をつければ公正。そうじゃなければ卑怯者。

そんなわけがない。

ただ一つ公正なルールがあるとすれば、「死人に口なし」というルールだけだ。

 

 

4.民主主義の限界

理由の二つ目は、「人類最強を選べたところで、そいつでも足りないから」である。

 

確かに、選挙はほぼ全国民に選挙権と被選挙権が与えられるのだから、その戦いでの日本国最強の人間を選ぶことは出来る。

だが、そうやって選ばれた「最強の人間」が内閣総理大臣になったところで、すべての問題が解決できるわけではない。

 

選挙に圧勝をした人間であっても、判断ミスもするし、失言もする。

税収が不足することもあるし、不正だってする。

 

というより、なんで間違えないと思うんだ?

要求される正義は日々増大していくのに、日本の被選挙人口は最大でも7000万人ぐらいしかいない。

まして、その中からちゃんと選挙資金を用意して人生をなげうって出馬してくれる人など一握りである。

 

本当にたまたま清廉潔白な人が生まれてくるまでガチャを回し続けるか?

戦術上清廉潔白な振りをしている人ばかりが来るだろう。

そして、もし仮に来たとしても任期には制限があるので…

 

日本のほぼ全人口から選んだのだからその中には完璧超人がいるはずだ、と期待するところまではいいのだが、いなかったのならばあきらめないといけない。

 

だから、政治家はクソの中から選ばなくてはいけない。

ミスだってするし失言だってする。

そういう理解をしていないと、判断を間違い続ける。

 

政治家ならば清廉潔白でミスなどしてはならない!という論理自体が無駄である。

逆に、そういう路線を強要するとミスを上げへつらって引きずりおろす文化ができる。

実際にそのような文化が運用されているが。

 

そうして無駄になった時間をコストとして払わないといけなくなる。

求めるべき正義からはかえって遠ざかっていく。

 

選挙に参加するからには、人では無く、その人が何をやったか・何をやりそうかで判断をしたいものです。