人として許されない言葉:「5分あればできるだろう」
自分は今、会社で複数名の部下を持っている。
かつては学校で学生たちを抱えていたこともあった。
自分が彼らに接するときに絶対に使わないと決めている言葉がある。
「5分あればできるだろう(だからやってこい)」というものだ。
「1時間で終わるから家でやってこい」といった類の指示も同様だ。
一応、「Aが始まるまでの間にBを終わらせなければならない」という話をすることはある。それは必要なものだ。
でも「Bにかかる時間は~分だからできる」という論理は絶対に他人には使わない。
どうしてもそういう指示が必要な場合は、例え相手がどんなザコであっても、済まないと謝りながら金や見返りを必ず用意する。
(まあ電車の時刻表とかのように相手が自分からできると言っているなら話は別だが)
この「5分あればできるだろう」という指示や、「1時間もあれば終わるから家でやってこい」という指示が、どれほど罪深くて自分の馬鹿さを露呈する指示であるのか。
今日はそれを説明する。
目次:
1.誰もが想像できる分かりやすい例
「5分あればできるだろう」という指示を他人に対して一度でも使ったことがある人は、これを思い返してみると良い。
多分、申し訳なさで胸がいっぱいになるから。
あなたは、朝起きてから家を出るまでに、何分の時間をかけているのか。
多くの人は30~60分ぐらいだろう。
そして、その朝の時間がどれぐらい忙しいのかを思い出してみればいい。
布団から起き上がってトイレに行って、動けるようになるまでに5分。
仕掛けておいた炊飯器からご飯をよそって、冷蔵庫から食べるものを出すのに5分。
それを食べて片付けるまでに10分。
昼の弁当と水筒の用意に10分。
顔を洗って歯を磨いて寝癖を直すのに10分。
吊るしてある服を着てポケットの中身を確認するのに5分。
エアコンの電源を切って靴を履いて出発。これで45分ぐらいだ。
以上は自分の例だが、あなたも自身の時間の内訳を書いてみると良い。
ボケっと考え事をしている時間が、たったの5分でもあっただろうか?
30分や60分という時間は、それほどまでに短い。
自分自身の今日の朝を思い返してみれば、それが簡単にわかるはずだ。
毎朝の食事と身だしなみなんて、自分一人がずっと続けていることで、相当高度にルーチン化されている。それどころかどんどん簡略化されて行っている。
にもかかわらず、ほぼすべての人間が「朝は忙しい」とか「結局~できなかった」と言っているはずだ。
「5分もあればできる」とか他人に言ってしまうあなたは、一体何年敗北を続けているのだろうか?
2.「朝はみんな忙しいだろう」という逃げ
逃げ道を塞いでおくが、これは朝の60分に限ったことではない。
仕事が終わって家に帰ってきた後もこの戦いは続く。
1時間の長さが朝と夜で変わるわけがないのだ。
平日夜に仕事が終わった後に、20時に帰ってきて23時に寝ることがどれほど難しいことなのか。
これが想像できないんだったら氏んだ方がいい。
朝の1時間にくらべて、確かに使える時間は3倍になってはいる。
でもその分、朝よりもずっとたくさんのことをしなければいけない。
摂取しなければならない夕食は、米とインスタント味噌汁だけの朝食とは訳が違う。
今日朝食に使った時間が10分だとしたら、3倍あってもたったの30分しかない。
こんな短い時間で、買い物に行って料理して片付けての作業が終わるわけがない。
明日の朝食の用意だってここの時間に押し込めないといけないのだし。
身だしなみも同じだ。
10分で顔洗って寝癖直しては、手を抜いて急げばできたとしよう。
じゃあ夜になって、風呂に入って体を洗って出てくるのに何分かかるのか?
ちゃんと着替えて体操とスキンケアなんてしてたら3倍の30分でも足りはしない。
こういったように、それぞれの行動にかかる時間を想像すればすぐにわかる。
「毎朝のあの絶望的な忙しさを帰宅してからも続ける」という無茶な前提を使った上でも、「5分もあればできるだろう」という皮算用は成り立ちはしない。
大体だ、食事と身だしなみだけで今日一日を終わらせていい訳がない。
朝のあの時間は、長年のルーチンと徹底的な簡略化によって60分で納めることができているわけで。(だからこそ、たった10分やそこらの電車遅延でも致命傷になる)
家に帰ってきたら掃除も洗濯も公共料金の確認もしないといけない。
テレビやネットなんか見てたらもう間違いなくアウトだ。
週末になっても今度は普段の負債をまとめて返さなければいけないし、出かける用事もできるだろう。
そうやって睡眠時間がギリギリまで削られていく。
今現在の行動メニューで、誰もがすでに限界なんだよ。
30分早起きしてジョギングなんて「言うは易し、行うは不可能」である。
3.何を強要してしまっているのか
たったの5分でも、人には簡単に捻出できる時間などない。
しかし、悪魔の力を使うことによってのみ、この前提は覆せる可能性がある。
例えば、食事は全部外食で済ませること。眠眠打破を飲んで睡眠時間を削ること。
これならば食事を30分で終わらせることも毎日1時間早く起きることも不可能ではない。
(まあ店に入ってから出てくるまでを30分で済ませるのは店を選んで相当に急がないといけないし、ドリンク剤一本で睡眠時間を削ることなんて本当は無理なんだけど。)
それは言うまでも無く、本人の財布や健康を無視した捨て身の戦法である。
長続きはしないし費用だって多くかかる。
他人にタダで強制していいことでは決してないんだ。
あともう一つ、とてもよく使われている悪魔の力がある。
「家事や育児を全部妻に任せて自分は何もしないこと」
確かに、買い物も片付けも全くしなくていいのなら、食事を30分で終わらせることもできるだろう。
風呂掃除が勝手に終わっていて着替えが勝手に用意されているのなら、30分で入浴を終わらせることもできるだろう。
23時には就寝して朝7時に起きるような、模範的で健康的な生活リズムを実現することができるだろう。
早起きしてジョギングなんかして、部下に向かって「俺はちゃんとできているんだ」とドヤることだってできるだろう。
憎しみゼロでこれを許してくれるような家族などいない。
子供だってこんな父親を許しはしない。
毎日こんなことやってる親父に、息子のテストの成績でグチグチいう権利があると思うか?
他人に対して「5分あればできるだろう」という論理を使う前に、今一度思い返してみればいい。
今自分はどの程度の人間であり、毎日どんな手段を使っているのか。
これができない人間を見ると「ああ、こいつの家族関係は糞まみれなんだろうな」といつも思う。
4.限られた資源と皮算用
一時間もあれば日経新聞が読めるだろう?
毎日少しずつでも本を読んで勉強ができるだろう?
5分あれば腹筋30回ができるだろう?
全ては夢物語である。
出来る訳がないと感じつつもマウンティングの材料としてこういった強要を行う。
もし仮に実行出来たらそれはそれでお得だという、絶対負けないクソゲーム。
このクソゲームは、被害者側の「プライベートにこれぐらいの時間を使っているからできませんなんて言えない」という心理に付け込むことによってのみ成立する。
当人に対する信頼関係、社会を維持する個々人の規律といったものを食い物にした戦法である。
「5分あればできるだろう」といっていつも押し切れているのは、決してあなたの論理が正義だからではない。
工場で働いている生産技術の人間と話をしたことがあるだろうか。
「5分もかからないでしょすぐやってよ」なんて言ったらブッ殺されるからね?
「じゃあストップウォッチで時間測ってやるよ ほら4分42秒でできた」なんて言ったらもっとブッ殺されるからね?
時間とはそれほどまでに神聖で余裕がないものだ。
自分自身の今日の朝を思い返してみるだけで、それがすぐにわかる。
その皮算用がどれほど浅はかであり、「今日の朝にやりたいこと」で何年敗北を続けてきたのか。
人間にとって、時間は有限である。
誰が何と言おうと一人に与えられた一日の時間は24時間しかない。
そして、時間とはただ決まった速度で流れていくだけである。
前借することもできないし、貯金することもできない。
一度失ってしまった時間はどんなにお金を払っても絶対に帰ってこない。
偉い人でも金持ちでも、自分一人が持つ時間は平等だ。
どんなにあがいても一人の持ち分は一日24時間だが、他人の時間を奪うことはできてしまう。
これはものすごく危険で強欲な手段だ。
だから、自分は部下や学生に対して、「5分あればできるだろう」という論理は絶対に使わない。
「1時間で終わるから家でやってこい」と宿題を出すことはしない。
仮にするとしたら必ず謝罪と見返りを用意する。
そう決めている。