「スキル」ではなく「スキル(笑)」を信じよう
この記事が話題になっている。
やっぱりインターネットは低コストで完結できるツールだからみんな不登校とかニートとかの話題には敏感なんだね
(追記:ツイート削除されてたからこっちを参照)
この娘さんは優秀なのだと思うし、その行動を後押しできる親もいい人なのだと思う。
学校がクソなのかどうかは見ていないのでわからないが。
この話自体はそれでいい話として終わるべきものだが、自分は少し別のことを思い出してしまった。
この娘は、不登校という逆境に堕とされてしまったが、その逆境において裁縫という「スキル」を手に入れることができた。
自分は今はサラリーマンをやれているが、自分も昔似たようなことで悩んだことがある。
つまり「俺は~というスキルがあるんだ!」という呪い。
そして、それを手に入れなければならないという圧力と空回り。
今の年齢になって、この手の足掻きに対して自分は結論をつけた。
「スキル」という単語は、「スキル(笑)」と表記するべきだと。
ほら、「コミュ力」という概念が数年前まで信仰されていたように。
今はコミュ力という言葉は(笑)として認識されるようになってきている。
新卒の大学生だって自分から主張する人は少なくなってきた。
これと同じで、「スキル」なんて概念はフワフワしたもので何の定義も正当性も無いものだと自分は考えている。
今日はこのことについて書いてみる。
目次:
1.「裁縫が上手い娘」についての話の続き
この娘は小学二年生だが、不登校になって家にいる間にもともと好きだった裁縫に時間を使うようになった。
それで大人顔負けの作品を色々作るようになった。
しかしこれは、「学校に行かなくても将来役に立つスキルを身に着けれたからよかったね」という話では断じて無い。
仮に裁縫が上手かったとして、それで将来困らないかと言えば全くそんなことは無い。
服を作る工場に就職できるかといえばそんなことは無い。
自分が作る作品と製品として作らなければいけない作品には多くの違いがある。
実際に、工場で採用される人間の履歴書ではそんな実力なんてものは見ない。
特に実力や実績がなくても、興味と学歴があればそれだけで正社員になっていく。
それとも、プロになって個人で作品を売る未来でも見えているのだろうか。
これだけで生きていける人間など一握りだし、仮にそんな実力があったとしてもこうやって生きなければいけないという未来を縛り付けることになる。
夢を見る前に、子供のスポーツ選手や小役俳優がどれだけ人生壊れているのかを見た方がいい。
子供の人生を使ってギャンブルをすることになる。
裁縫なんてものができたからと言って、将来安心な訳がない。
元々そういった「安心ルート」なんてものは存在しない。
生きているだけで丸儲け、という言葉があるが、自分はこういう意味だと思っている。
「読み書きと会話ができて、毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力があれば相当強い」と。
別に能力なんかに頼らず、普通に勉強して生きていればちゃんとした人生にはなる。
変なことを言えば、そういう焦らない心と冷静さこそが真に重要な「スキル」である。
「裁縫」だとかの具体的なスキル。
他人に自慢できるような「外面」がいいスキル。
こういった具体性自体をありがたがってしまうと、判断をミスするようになってしまう。
「もし仮に、裁縫できなかったらこの娘はクズなのか?」
この判断を間違えるようになってしまう。
周囲の人間は「この子何もやってないから何かやらせなきゃ!」と考えてしまう。
当人自身も「自分が他人に潰されないように何か能力を手に入れなくては」と考えてしまう。
そうやって全員が焦燥していき、最後は全員腐って死ぬ。
今回の娘はたまたま「裁縫」という外面のいい当たりのスキルを引けたから運が良かったが、そうじゃない者は右往左往する。
どういうスキルならば外面がいいだろうかと試行錯誤をする。
英語とか、音楽とか、イラストとか、プログラミングとか、料理とか、数学とか、将棋とか。(今だったらSNSで一旗揚げる、なんてものも候補に挙がるのだろう。)
一人でローコストで出来るものでなおかつ外面がいいものを探す。
もちろんそんなものは難しかったり才能が必要だったりするので挫折する。
おいしい話などそう転がってはいない。
自分もそういう経験があるから分かる。
2.「スキル」で始まるマウンティング合戦
このように、特定の「スキル」というものをありがたがってしまうと、判断を誤って人間は焦燥するようになる。
破滅する前に悟りを開くことができればいいのだが、そうならなかった場合は破滅する。
とても危険なギャンブルだ。
そしてこのギャンブル、勝てばそれでいいかと言えばそれも違う。
仮にギャンブルに勝って、すなわち「他人に潰されないような能力」を無事に手に入れたとしても、次はもっと悲惨なことが起こる。
簡単に言えば、人がマウンティングに走るようになる。
こういう「スキル」を持たない者をクズだとして見下すようになってしまう。
先ほど述べた「判断ミス」を、自分自身で正当化するようになってしまう。
何度も見たことがあるはずだ。
「これだけは誰にも負けないという技術を身につけなさい」とか抜かすサイコ教師を。
「お前も早く手に職つけろよ?」とか言ってドヤ顔をする高卒のオヤジを。
海外・人脈・リーダーシップとかいった言葉を振りかざす意識高い大学生を。
彼らが言っている「スキル」なんてものは、先の娘が使っていた「裁縫」と同じで、それがあるから何か安心ができるというものではない。
でもそのことはなんとなくわかってしまっているから、意識高い系の人は勲章を増やしたがる。
コミュ力とかいう意味の分からないものまで「スキル」としてカウントしたがる。
ゲームのキャラ育成でステータス欄を埋めるような感覚で。
アイデンティティーの確立なんて仕事は、本当は10代のうちに終わらせておかねばならない。
しかし自分の中学や高校の卒業生何百人かを見渡してみても、そんな夢みたいな「尖った」スキルを持った人はほとんどいない。
みんな、普通の真人間として卒業していった。それで正解なのだ。
しかし、何を間違ったか「尖った」スキルを実際に手に入れてしまった者。
別に当面で何かできる程度の能力でしかないのだが、それ手に入れるというギャンブルに勝ってしまった者。
そういう者がドヤ顔でマウンティングをする世界がやってくる。
大多数の「普通の卒業生」が全員踏みつけられる未来がやってくる。
大した意味のない能力が「印籠」になってしまう世界がやってくる。
先に述べたような、サイコ教師・高卒オヤジ・意識高い大学生が幅を利かせる時代がやってくる。
そしてそんな悪意に対抗するために、「普通の卒業生」たちもマウンティングのための「スキル」を探そうとする悪循環が始まる。
そんなものどこを探してもありはしないのにね。
3.次に求める悪魔の力
社会の大人が所属する大抵の企業・組織・コミュニティにおいては、「スキル」による戦国時代がすでに始まっている。
しかし不思議なことに、もともとそんな「スキル」なんてものは存在していないのだ。
ギャンブルに負けた「普通の卒業生」はそれに苛立つようになるし、ギャンブルに勝った側の意識高い系も「これだけじゃ戦えなくね?」と薄々感じている。
すると次はもっと面白いことが起こる。
「自分を持っているスキルをより確かなものにしたい!アピール力がある資格を取ろう!」
アピール力www
いよいよマウンティング合戦になりふりが構わなくなってくる。
真実を語ることができないから名声に頼るという戦法を選ぶようになる。
「お前が持っている者は偽の実力、俺が持っているのは真の実力」といったことを真顔で語るようになる。
このアピール力というのは、別に資格だけの話ではない。
コンテストなどの入賞経験がそれを語ってくれる。
先の娘の例でも、例えば「裁縫のコンテストで優勝できるようになれば」と希望を持ってしまうようなケースが実にありがちだ。
そういう入賞実績があれば、履歴書に書いて裁縫をやる会社に就職だってできるかもしれない?
そんな虚構にすがって、金や時間で名声を買うようになる。
すると元々持っていた実力の方が腐っていく。
コンテストに勝つための戦いを追求するようになるからね。
これだ。
「スキル」を求める者の末路は。
ありもしないマウンティング合戦で、本人も周りも業界も全部破滅していく。
4.×量産機になるな 〇量産機で戦え!
以上のような戦いを、自分は10年20年続けて悟った。
「スキル」という言葉は「スキル(笑)」であると。
そうして冷静になって周りを見てみると、別の解決法に気付く。
スキルなんてものは、個人が所有して張り合うものではなく、必要な時に必要なだけ探してきて装備するものだと。
今回の記事の最初の方にこのような結論を書いた。
「読み書きと会話ができて、毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力があれば相当強い」と。
人間にとって本当に重要なものは、学ぶ気概と能力があることである。
そして、それを運用するために「学べる環境」を用意することである。
教育体制が整っている世界を作れば、現状のスキル有り無しは大した問題ではなくなる。
武器が必要ならば倉庫からとってこればいいだけのことになる。
小中学校みたいに、一人で何十人も一から教えないといけないというのなら無理だろうが、企業やコミュニティの数人のチームならば、十分に可能な範囲であると考える。
だからこそ、教育という手法が大事だと思っている。
一度使っても無くならない科学や技術という「蓄積」が大事だと思っている。
まあ、フリーランスで一人で求職をしているときだったら話は別かもしれない。
確かに「スキル」とかいうものがあれば、見てもらえる機会は多くなるだろう。
でも、そうやって集めたスキルとやらは所詮見栄え重視である。
ディスプレイ用であり実用には堪えないし、系統だっていないから役に立たない。
「現場では使えないから」の一言で吹けば飛ぶような幻想だ。
例えTOEICが900点あったからと言って明日から通訳として雇ってもらえるか?
「俺は950だからお前らとは違う」というつもりか?
それとも「990点じゃないと意味がないんだぜ」というつもりか?
大体、何か独創的で尖ったスキルがないとできない仕事なんてものはそう多くない。
「読み書きと会話ができて毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力」程度があれば十分に活躍はできる。
不足しているのはそういう人材だ。
余計なことに労力を使わずにこういう方向に邁進できる人間だ。
スキルで争ってもどうにもならない。
必要なものは目の前の実務である。
それは山積みだ。
自分はそう結論付けた。