有給休暇の消滅はなぜ許されるのか
会社で勤務しているサラリーマンには有給休暇が与えられるが、2年以内に使用しないと消滅する。
それは何故かと言ったら、労働基準法115条で決まっているからだ。
社内規定にもそのように書いてあるからだ。
法的にそうなっているというのはその通りなのだが、心情的な納得には至らない。
労働者がもらった権利なのになぜ一方的に奪えるのか。
それに、有給休暇は一年で15日~20日ぐらいは貰える。一か月に一日使っていても余裕で余る計算だ。
しかし社内の業務量や雰囲気によって、簡単に休みを取ることが実質的にはできない。
じゃあ休みじゃなくてもいいから買い取って欲しいと訴えても、なぜかこれも労働基準法39条で禁止されている。
「有給休暇はお金をあげるためでなく休んでもらうために与えている(キリッ」と言い張っているわけだが、なんでこんなペテンが社会でまかり通っているのか。
この有給休暇に対するクソルールは、普通に考えればまったくもって納得いかないことだが、一応はそれなりの理屈がある。
「法律でそうなっているから」以外に納得できる理由を探してみた。
目次:
1.有給休暇が消滅する理由(ペテン)
「有給休暇が消滅するのは仕方ないだろう」という主張として、よく使われる理屈を上げる。
なお、これらは全部ペテンであり納得のしなくていいことだから安心して良い。
初級としてよく使われるものは以下の二つだ。
・「何年も使っていない有給休暇を管理するのは事務的なコストがかかるから」
・「5年ぐらい貯めておいて100連休とかやられてしまうと困るから」
まあこれは大嘘だとすぐにわかる。
事務処理的には2年で消滅するという処理をする方がよほど大変だ。
5年ぐらい貯めておいて100連勤とかも、やって何が悪い?という話になる。
有給休暇の連続取得を制限する法律など存在しない。どんな理由でも会社側から有休の取得を却下することは出来ない。
それこそ、「法律でそう決まっているから」である。
そこで、次にはこんな理屈が述べられる。
会社側と親密になって「口では言えない心情」みたいなものを引き出すと、大抵このような答えが出てくる。
・「有給休暇をどれだけ返上するかを社員の評価の一環として使っているから」
・「有給休暇は急病や冠婚葬祭などの非常時に使うものであり、一定以上の日数は持っていても意味がないから」
「有給休暇を使わないで働くのは頑張っているから偉い」という価値観である。
日本で古くから使われている価値観だが、今それを口に出して認めることはハイリスクである。
だから、こっそり使っている。有給休暇の消滅という制度はこの価値観の運用に不可欠なものだ。
別に、消滅させなくても貯めたままの状態でカウントすれば優劣はつけれると思うんだけどね。
そうして論理に詰まってくると、有給休暇そのものの意義について口を出してくる。
急病や冠婚葬祭などの非常時に使うものだから、何十日も持ってても意味がない。逆に、何十日も非常時で休んでしまうのは問題だ、と。
これは言うまでも無く、有給休暇を非常時にしか使えないような現状が問題だ。
もちろん、有給休暇は自由に使えるということも「法律でそう決まっているから」である。
2.有給休暇の買取が禁止されている理由(ペテン)
有給休暇が消滅する理由は、みんなペテンである。
しかし有給休暇の買い取りが禁止されている理由については、いくらかの意義がある。
有給休暇が金に変換できてしまうと、その分だけ元の給料を安くするクソ企業が出てくる。
有給返上を前提にした給与しか払わない企業が出てくる。
確かに有給休暇買取禁止のルールによって、こういう企業の発生が防止されていると思う。
日本だったらこういう企業が出てくるであろうことは容易に想像できる。
だって有給休暇買取のルールがあったらみんな大量に売り飛ばすと思うから。
それぐらい、使うことができない有給がたくさんある。(それがそもそも問題だが。)
そしてその有給の代金の支払いが困難になってきたら、今度は有休の値下げが始まる。
「有給は一日1円でしか買い取りません!有給休暇はちゃんと取得してね?」とか言い出すに決まっている。
結局はこうなるんだから、最初から買取を禁止してしまった方がまだ話が楽だというのはわかる。
ならば法律で最低価格を決めればいいのでは?例えば日当の5割とか。
日当の金額はもちろん完全に把握できているのだから、別に難しいことは何もない。
いくらそれっぽい論理を並べても、そういわれてしまったらアウトである。
それに「例え100円でもどうせ消えるなら買い取ってほしい」という主張も当然のことだ。
一応現行法では会社側と同意すれば買い取りも可能だが、会社側としては何のメリットも無いので多くの企業は断っている。
有休を買い取ってくれと労働者の側から頼んでいるのに、「休みとして使ってほしいから」といって却下するのはどう考えてもペテンである。
休みとして使ってほしいと言いながらも、その有給を消滅させている。
3.唯一正当だと思える理由
そういうわけで有給休暇の消滅・有給休暇の買取禁止はペテンであるが、一つだけ正しいと思える論理はある。
それは「永続した事実状態の尊重」である。
法律に「時効」というものがなぜあるのかを考えると思い当たる。
例えば、「泥棒が警察から50年間逃げきったら無罪になる」というルールが時効である。
こんな犯人に有利になるルールが制定される理由の一つとして、「泥棒さんが50年間も捕まらずに逃げたんだったらそれはそれで一つの人生じゃない?」という解釈だ。
例え法律違反であっても、その状態で長い期間を過ごしたのなら、その期間自体が法律で保護されるべきなんじゃないかという考えである。
Wikipediaには重婚罪の例が載っていた。
例え重婚であっても、何十年も夫婦としてやってきたならそれはそれで歴史を持った夫婦だからだと。もしかしたら1年しか経っていない普通の夫婦状態より尊いものかもしれない。
それを考えてみると、有給休暇の消滅については一応論理は成り立つことになる。
・休みを取らない状態がずっと続いているなら、それが「正常な状態」だと考えることができる。
・無理して休ませることよりも休みなく働き続けることの方が重要だ、という事実が客観的に積みあがる。
日本ではこんなに有給休暇が取得されないかというのは、こういうことだと思った。
逆に保護しなくてはならないぐらい、有給休暇を取らないことが常態化しすぎたから。
そう考えると、組合と結託してでもまとまった有休をとらないとヤバいのかもしれない。
「次に提出するときはAではなくBにしてください」という対応に潜む嫌味っぽさの正体
例えば、会社の上司が部下から書類を受け取ったときに、何か小さなミスを発見したとする。
それで
「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」
と指導をする。
これがかなりの愚策であるということを、今日の記事で主張したい。
この手の「今回は失敗してもいいけど次からは失敗をするな」というやり方は、何も考えずに何となく運用してしまっているケースが多い。
実際、「良い上司」であるための定番手段だ。
管理職研修でも「部下の失敗は強く責めない」というのは必ず教えられる。
それで生まれる、一度目の失敗を大丈夫だと許して次の機会に失敗を活かして学習させるというこの手法。
実に理想的でいい上司であるように思える。
しかしそこに罠がある。
なぜなら、重大な真理をいくつか投げ捨ててしまっているからだ。
目次:
1.一言で言えば「独善的」
何か小さなミスを「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」として一時的に許す行為であるが、それはすなわち失敗を確定させてしまっているという行為と表裏一体である。
本来Aであるものを、Bとして持ってきてしまった。
本当にそれは失敗なのか?
そして失敗だとしたらなぜAの方が正しいのか?
そういう議論が十分になされているケースは実に少ない。
上司が「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」という手段を使ってしまうときは、いつだって上司側に余裕がない。
余裕がないからこそ、「今回だけは許す」として片付けてしまう。
「次回から何とかしろ」というのは先送りであり、「今回から何とかする」ことができていなかった。
だから、AとBは本当はどちらが正しいのか?という議論に割く時間も大抵の場合で十分ではない。
部下の方だって、一長一短を考えた結果Bを選択したのかもしれない。
というより、誰だってタダで選択肢を選ぶわけがない。
「楽をしたかったから」「よく知らなかったから」と言うのでも立派な理由だ。
AとBが、両人がすぐに間違いだと納得できるような単純なものだとしたらどうだろうか?
これはこれでもっとまずいことになる。
AとBの差が「小さなミス」であること自体が不幸であり、小さいミスだからこそ、部下はケチをつけられたような気分になってしまう。
これさえ何とかできていれば完璧だったというケースを台無しにされてしまう。
「小さなミス」と「簡単なミス」を混同する(あるいはされる)リスクも背負うことになる。
例えば、「158+43=211」という間違いをしたのならば、「足し算もできない小学生以下の人間」という評価が成り立ってしまう。
また、「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」という評価はいつだって、上司の側が独断で下す。
これは無意味でハイリスクである場合が多い。
下手をすると、「俺は気に入らないな!」ということをことさらに強調しているだけになる。
常識的な人間関係から考えれば、こういった主張は信頼関係の無意味な浪費であり、黙っていたほうが人間関係は円滑に進む。
小さなミスというものは、こんなに危険で繊細なものである。
「小さなミスを許す寛大な俺」を演じて、そう簡単に確定させてしまってはならない。
2.(一度しか入れないダンジョンで宝箱を取り逃す行為)
部下の側からしてみれば、なんか納得いかない理由で、今回は失敗だということにされてしまった。
上司は「次回から何とかしろ」というが、それは圧力になる。
次こそは失敗してはならないという枷になる。
そもそも理由だって納得できてないケースならばもうこれで詰みであるし、例え簡単な理由であっても、次回まで覚えておいて全く同じタイミングで修正をするのはそう簡単なことでもない。
「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」というのは単純な指令ではあるが、実際のところこれには大きな負担がかかる。
こんな精神状態で、「次」まで上司と一緒にやっていかなければいけないのだ。
上司の方としては、ミスを寛大に許すことで信頼関係をつないでいるつもりになってしまう。
しかし部下の方の心理からすれば、時間の数だけ疑心暗鬼が積もることになる。
例えば、何か単純労働を外部企業に委託するみたいな場合には、「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」という手法が救いになることはあるだろう。
次も発注してもらえる、という期待で塗りつぶすことも期待できる。
例えば、郵便局の受付に座っている口をへの字に曲げた女が「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」と言ってくれたらそれは救いになるだろう。
もう二度と会わないような相手であり、ミスを見逃してくれるのならばありがたいから。
しかし、相手は自分の部下であり、これから一緒になって戦っていかなければならない仲間である。
自社の正社員とは、長い間力を合わせなくてはいけない家族である。
少なくともそういう建前で雇用してサビ残をさせているはずである。
3.本当にやらなければいけないケア
大体、「失敗」とはなぜ起こるか。
内容を知っていて気を付けていれば回避できて当然なのか?
「言うは易し、行うは難し」であることが、そこら辺の本屋に行けばすぐにわかる。
安全工学とか品質工学の本が山ほど並んでいるから。
「失敗から学習し、次からは失敗しない」。
これを繰り返せば10割打者になれるだろうか。
そんな単純じゃないことぐらいは上司の側だってとっくに知っているはずだ。
「次から提出するときはAじゃなくてBにしてね!」というのは愚策である。
次回からではない。今回から直さないといけない。
一緒になって理由を考えてだ。
丁寧なケアをして再提出させなければいけない。
そうはいっても、時間がないから「今回だけは」といって許してしまう。
そういう状況ならば、もういっそ無視してしまったほうがいい。
あるいは、自分で勝手に手を加えて直した方がいい。
次の機会のときに、改めて「今回から」直せばいい。
言うまでもないが、「あの時は俺が手を加えてやったけど」と主張するのはもっと愚策である。
【絵師】能力者という自負・信仰【プログラマー】
このような記事があった。
ここで扱われているような「絵師に向かってタダで絵を描くことを要求する心理」を、自分はよく知っている。
なぜなら、「俺様は何でも絵が描けるんだぜ」といって喜んで絵を描くような人を大勢見てきたから。
まあ例によって、自分が実際に大勢見たのは絵師ではなく、学術や技術の分野のことだが。
少し前の記事だがこれと全く同じ現象が話題になっている。
今日はこういった記事で扱われている、
・「技術を持った者」(能力者)へ勝手な要求
・能力者に代金として支払われる信仰
・能力者になりたいと憧れてしまう心理
と言ったものを記述する。
目次:
1.能力者という神への信仰
最近、インターネットで「絵師にタダ同然でCGを描かせる事例」みたいなものがよく出てくる。
絵が可愛いくてなおかつチャンスに飢えてそうな絵師をPixivで検索する。
二束三文(あるいは無償)で絵を描かせてスマホゲーの材料にするケース。
あるいは、契約書もロクに取り交わさないで納品されたらドロンするケース。
なお、この手の搾取はフリーランスだけに限らない。サラリーマンでもよくある。
無思慮なリテイクを繰り返して「すぐ終わるでしょ?プロなら月曜日までに終わらせてよ」などと押し付けるケース。
あるいは、プログラマーに向かって「パソコンでちょっといじるだけでしょ?簡単だからタダでやってよ」などと言うケースも歴史が深い。
自分が知っている限り、こういった事例において「技術者がタダ」だと思っているクライアントはほぼいない。
・彼らは素晴らしい絵を描くことができる!
・彼らは高度な知識をもっていてプログラムを書くことができる!
このように、能力や経験に対するリスペクトは確かに持っている。
だからこそ「そんな簡単だと思うなら自分でやれやコラ」という反撃は通用しない。
「私たちはできないけどあなたはプロだからできるんでしょ?」
という論理の下で動いている。
こういうクライアントは、「技術者がタダ」だとは思っていない。むしろ手が届かないほど高価だと認識している。
そうではなくて、「技術力がタダ」だと思っている。
「そんな優れた技術者様ならばすぐに簡単にこなせてしまうんだろう?」
という(とても都合のいい)解釈を採用している。
神だったら杖を振るだけで何とかしてくれるものだと思っている。
優れた絵師ならば、何もないところからタダで絵を生み出せると思っている。
優れた技術者ならば、難しい問題をあっという間に解決して形にできると思っている。
そういった能力があるからこそ、能力者は素晴らしいのだと思っている。
「黒人は素晴らしいんだぞ!粗食を与えるだけでこんなに力いっぱい労働してくれるんだぞ!」みたいな頭の狂った白人のメンタリティ。
そしてこのメンタリティを「きちんと技術者を評価して活用できる素晴らしい経営者」みたいに称賛する文化がある。
彼らは、「なぜそれができるのか」という論理を考えない。
「~さんだからできる」という風に人で物を考える。それが彼らのOSだ。
なぜなら、「論理は難しいから分からん」という点はよく理解してしまっているから。
2.奴隷仕事を喜んでしまう中二病
彼らにとって、技術者とは「電車の定期券」みたいなものだ。
最初の一枚はとても高価で貴重だが、それを手に入れたのならばあとは使い放題というアイテムだと思っている。
一枚限りの「切符」ではなく、何度も使えて夢がある「定期券」。
そういう存在になるために技術者は人生を投げうって難しい勉強をしてきた。
…と、彼らにそう思われている。
そして、自分の方からこれを肯定してしまう技術者が大勢いる。
「俺様は何でも絵が描けるんだぜ」といって喜んで絵を描くような人が大勢いる。
「プロだからこれぐらいできるっしょ?」と一人で鎖自慢を始めてしまう奴隷が大勢いる。
俺は一枚限りの「切符」なんかではなく、何度も使えて夢がある「定期券」だ!と誇りを覚えてしまう技術者が大勢いる。
多くの技術者がこう考えてしまうには、いくつかの事情がある。
まず一つ目の事情は、そういった能力が「万能」であることが多いからだ。
例えば、絵を描くという能力。
紙と鉛筆さえあれば、どんな広い宇宙も描くことができる。
大勢の人間の心に深い感動を生み出すことができる。
こんな素晴らしいことが、紙と鉛筆と、自分自身が居れば達成できてしまう。
いやむしろ紙も鉛筆も必要ない。砂絵だって切り絵だってなんでもできる。
それだけ絵を描くという芸術は万能で素晴らしいものだ。
人類にとって強大な力である。そんな芸術を行使することができるという恍惚。
例えば、プログラミングと言う能力。
コンピューターという人間より遥かに強大な能力を自由に扱えるという才覚。
思いついたことはあれもこれも何でも実行できてしまうという興味。
現代のこの社会は、実際に金融だろうと軍隊だろうとコンピューターによって制御されている。
普段みんなが使っているゲームもスマホもパソコンも、全部プログラミングである。まさに無敵の能力である。
こういった能力を、若いうちから獲得している者は例外なく皆、こう考える。
・普段は冴えない僕でも、この力があれば逆転ができる。
・こんな素晴らしい能力が得意な僕はいつか天下を取れる。
そういった万能感。すなわち中二病。
「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくるスタンド能力を想像してみればいい。
誰だって、中学二年生のころには「僕が持つならこんな能力」というのを妄想したことがあるだろう。
中学生にとって、絵描きやプログラミングのような「万能の能力」はスタンド能力に等しい。
万能であり、未来を切り開くことができる、周りのやつらとは違うアイデンティティ。
そしてここでもう一つ想像してみて欲しい。
例えばあなたが「東方仗助」だったとしたら。
ちょっと念じるだけで人でも機械でもなんでも一瞬で治せる「能力者」だったとしたら。
「スタンドでちょっと治すだけでしょ?簡単だからタダでやってよ」
こういった奴隷仕事を、引き受けてしまうんじゃないかな?
能力に誇りを感じて、内心喜んでしまうんじゃないかな?
以上に述べたように、未熟な技術者は「誇り」というワードにとっても弱い、というのが二つ目の事情だ。
中学生のころからこのアイデンティティだけで戦ってきたのだから。
だからこそ、奴隷の仕事でも喜んで引き受けてしまう。
3.中二病も貫き通せば天才扱い
このようにして、「能力者」は自らの能力に誇りをもって、奴隷みたいな仕事を引き受けてしまう。
万能で強力な技術を身に着けてしまったものは皆、多かれ少なかれこういう心理がある。
そういう心理を、誇りとか名声とかいうワードを使って、手玉に取られてしまう。
若いころから能力がある技術者ほどこういった罠に陥りやすい。
絵描きでもプログラミングでも、レベルの高いところに行けば行くほどこういう人間がゴロゴロ居る。
こういう人たちは、いわゆる「個性的で能力の高い変人」である。「天才」だとよく言われる。
「僕はこの能力で何でも切り開くことができる!」という状態のまま大人になってしまって、それを仕事にしてしまう。
本人も周りも天職だと思うだろう。
こういった天才たちは、「奴隷労働で能力を安売りすべきでない!」ということに死ぬまで気付けない。
しかし、「奴隷労働で能力を安売りすべきでない!」というスタンド能力に目覚めることはある。
「奴隷労働で能力を安売りすべきでない!」ということを論理的に考えて採用した者ではなく、あくまで常識としてカッコいいから「奴隷労働で能力を安売りすべきでない!」という論理を採用している者。
「正当な報酬を受け取らないと描かない!!」と断固決めているにも関わらず、他人がやっている仕事に「絵師として恥ずかしい」などという指摘をしてしまうタイプ。
自分が面倒な時には「工数と納期を明確にしろ!!」と息巻くが、自分がノっているときには無駄なコードをどんどん書いてしまうタイプ。
結局中二病にしか根付いていないから、いつも主張がちぐはぐになる。
ハッと気づいたように、好きな時に手の平を返す。
こういう人たちを、自分は大勢見てきた。
「相手の気持ちになって考えましょう」の前にやらないといけないこと
「相手の気持ちになって考えましょう」という思考方法がある。
自分が相手だとしたらどう思うかをまず最初に考える。
嫌だと思うことはやらない。嬉しいと思うことはやっていい。
このように考えて行動すれば、相手も同じ人間である以上命中率が高くて捗るぞという教えのことだ。
この思考方法は幼稚園や小学校のころから教育される。
それぐらい簡単で、なおかつ有効な思考方法だ。
たった一つの原理を教えるだけで、大多数の子供を安全な方向に制御することができるから。
しかし、教えられた原理がこれ一つだとすぐに矛盾が見つかる。
それこそ幼稚園児でも見つけれるようなバグがある。
「俺はいいと思ったから殴った」
「俺は明らかに嫌がっているのになぜ先生は俺を叱るんだ?」
例えばこういうものである。
これらは「相手の気持ちになって考えましょう」というだけでは絶対に説明がつかない。
こういうのを無理やり「でもこれはダメ!」と押さえつけることも問題だが、「相手の気持ちになって考えましょう」というのをゴリ押すのはもっと問題だ。
「私は何も間違ったことを言っていないのに、何であいつはできないのだろう」
相手の気持ちになって考えた結果、こういう傲慢な思考をする人間が育つ。
目次:
1.「他人のことをちゃんと考えました」というアリバイ
「相手の気持ちになって考えましょう」というのは単純で有効な思考法ではあるが、それだけでは明らかに不十分である。
なぜなら、相手の気持ちを考えるとはいっても、自分で想像するだけだったらいくらでも適当なことが言えてしまうからだ。
いくらでもサボることができてしまうからだ。
例えば、どこかでこんな結論を採用したことは無いだろうか。
「あいつ等は自分で望んでこれをやっているんだ!だから知ったことではない」
こんな言説。
現代で言えば、いじめられっ子・ブラック企業の従業員。
歴史的に言えば、市民で組織された特攻隊など。
この人たちは皆、この言説で正当化されている人たちである。
「相手の気持ちになって考えました」というアリバイだけで済ませてしまうと、いとも簡単に人を陥れることができる。
他にも、こんな例がある。
「こんな簡単なことなのになぜできないのだろう。あいつにとっても簡単なはずなのに。」
こういう思考を押し付けてしまっている状態。
「相手の能力は信頼しているんだよ」という無邪気な悪意が事態をより最悪にしている。
なぜそれが自分にとって簡単なのか?
相手にとっても簡単だというのに何か保証があるのか?
こういう思考をすっ飛ばして「相手の気持ちになって考えました」というアリバイだけを手に入れてしまう。
「相手の気持ちになって考えましょう」という考えは、これ単体では少なくとも味方に対して使っていい手段ではない。
2.一旦、自分のレベルを下げる
「相手の気持ちを想像して自分で考える」からダメなのである。
あくまで、「相手の気持ち」に考えてもらわないといけない。
だからまず最初に、「自分の気持ち」を「相手の気持ち」に合わせないといけない。
ぶっちゃけて言えば、相手と同じレベルにまで自分を下げないといけない。
逆に、相手の方がレベルが高いのなら、何とか形だけでもレベルを近づけないといけない。
この手順を飛ばしてしまうから、「相手の気持ちになって考えましょう」という思考方法が破綻する。
「相手がいいと思ったから殴りました」ということが通ってしまう。
「相手の気持ちを考えてやってるのだけど何故かダメだ」ということが事実になってしまう。
この「自分の気持ち」を「相手の気持ち」に合わせるという手順は、小学校では教えてくれない。
下手すると大学を卒業しても教えてもらえない。
ここで、価値観という言葉が必要になる。
学校の先生のほとんどは教えてくれない言葉である。
うっかり教えて生徒たちが勝手に別のことを考えてしまったら統率が取れなくなるから。
価値観と言う言葉が分かりにくいなら、「判断基準」という言葉の方が分かりやすいかもしれない。
何が良いと感じて何が悪いと感じるか。それは人によって違う。
「相手の気持ちになって考えましょう」という思考法は「相手も同じ人間であるから」という前提のもとに成立していた思考法であるが、いきなりそれが無効になった。
相手と自分は、肉体も脳味噌も全く別物なのだ。
相手のことを考えるためには、相手の価値観と自分の価値観を合わせないといけない。
相手の肉体や脳味噌なんてすぐにわかるものではないが、何とか一部だけでもよく観察してエミュレートしないといけない。
「共感を持つ」というのはこういうことだと思う。
3.他人を味方にする技能
例え実力がない馬鹿であっても、組織で下の立場にいる冴えない他人であっても。
彼らには彼らなりの思考がある。環境と人生がある。
これを認識してエミュレートできるようになると、人間関係はずいぶん上手くいくようになる。
もっと大げさに言えば、相手と同じ馬鹿にならなければいけない。
相手を味方につけたいのならば、この「馬鹿になる」というプロセスを絶対に踏まないといけない。
これを実行するのはプライドが邪魔をするが、それ以前に能力が必要だ。
教育者とか上司とか管理者とか、人の上に立つ人間・正しいことを言わないといけない人間にとっては必須の技能である。
だからこそ、実力や好奇心だけが強い人間にはリーダーが務まらないわけだ。
「相手の気持ちになって考える」という基本的で有効な手段を実行できないから。
大人数少人数関わらず、こういう人間は必ず組織の中で孤立してしまう。
まあ、組織のトップになって、普段話をするのは数名の役員達だけ。下々の者には目も合わさない、と言ったような組織が確立されているのならば話は別だが。
「スキル」ではなく「スキル(笑)」を信じよう
この記事が話題になっている。
やっぱりインターネットは低コストで完結できるツールだからみんな不登校とかニートとかの話題には敏感なんだね
(追記:ツイート削除されてたからこっちを参照)
この娘さんは優秀なのだと思うし、その行動を後押しできる親もいい人なのだと思う。
学校がクソなのかどうかは見ていないのでわからないが。
この話自体はそれでいい話として終わるべきものだが、自分は少し別のことを思い出してしまった。
この娘は、不登校という逆境に堕とされてしまったが、その逆境において裁縫という「スキル」を手に入れることができた。
自分は今はサラリーマンをやれているが、自分も昔似たようなことで悩んだことがある。
つまり「俺は~というスキルがあるんだ!」という呪い。
そして、それを手に入れなければならないという圧力と空回り。
今の年齢になって、この手の足掻きに対して自分は結論をつけた。
「スキル」という単語は、「スキル(笑)」と表記するべきだと。
ほら、「コミュ力」という概念が数年前まで信仰されていたように。
今はコミュ力という言葉は(笑)として認識されるようになってきている。
新卒の大学生だって自分から主張する人は少なくなってきた。
これと同じで、「スキル」なんて概念はフワフワしたもので何の定義も正当性も無いものだと自分は考えている。
今日はこのことについて書いてみる。
目次:
1.「裁縫が上手い娘」についての話の続き
この娘は小学二年生だが、不登校になって家にいる間にもともと好きだった裁縫に時間を使うようになった。
それで大人顔負けの作品を色々作るようになった。
しかしこれは、「学校に行かなくても将来役に立つスキルを身に着けれたからよかったね」という話では断じて無い。
仮に裁縫が上手かったとして、それで将来困らないかと言えば全くそんなことは無い。
服を作る工場に就職できるかといえばそんなことは無い。
自分が作る作品と製品として作らなければいけない作品には多くの違いがある。
実際に、工場で採用される人間の履歴書ではそんな実力なんてものは見ない。
特に実力や実績がなくても、興味と学歴があればそれだけで正社員になっていく。
それとも、プロになって個人で作品を売る未来でも見えているのだろうか。
これだけで生きていける人間など一握りだし、仮にそんな実力があったとしてもこうやって生きなければいけないという未来を縛り付けることになる。
夢を見る前に、子供のスポーツ選手や小役俳優がどれだけ人生壊れているのかを見た方がいい。
子供の人生を使ってギャンブルをすることになる。
裁縫なんてものができたからと言って、将来安心な訳がない。
元々そういった「安心ルート」なんてものは存在しない。
生きているだけで丸儲け、という言葉があるが、自分はこういう意味だと思っている。
「読み書きと会話ができて、毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力があれば相当強い」と。
別に能力なんかに頼らず、普通に勉強して生きていればちゃんとした人生にはなる。
変なことを言えば、そういう焦らない心と冷静さこそが真に重要な「スキル」である。
「裁縫」だとかの具体的なスキル。
他人に自慢できるような「外面」がいいスキル。
こういった具体性自体をありがたがってしまうと、判断をミスするようになってしまう。
「もし仮に、裁縫できなかったらこの娘はクズなのか?」
この判断を間違えるようになってしまう。
周囲の人間は「この子何もやってないから何かやらせなきゃ!」と考えてしまう。
当人自身も「自分が他人に潰されないように何か能力を手に入れなくては」と考えてしまう。
そうやって全員が焦燥していき、最後は全員腐って死ぬ。
今回の娘はたまたま「裁縫」という外面のいい当たりのスキルを引けたから運が良かったが、そうじゃない者は右往左往する。
どういうスキルならば外面がいいだろうかと試行錯誤をする。
英語とか、音楽とか、イラストとか、プログラミングとか、料理とか、数学とか、将棋とか。(今だったらSNSで一旗揚げる、なんてものも候補に挙がるのだろう。)
一人でローコストで出来るものでなおかつ外面がいいものを探す。
もちろんそんなものは難しかったり才能が必要だったりするので挫折する。
おいしい話などそう転がってはいない。
自分もそういう経験があるから分かる。
2.「スキル」で始まるマウンティング合戦
このように、特定の「スキル」というものをありがたがってしまうと、判断を誤って人間は焦燥するようになる。
破滅する前に悟りを開くことができればいいのだが、そうならなかった場合は破滅する。
とても危険なギャンブルだ。
そしてこのギャンブル、勝てばそれでいいかと言えばそれも違う。
仮にギャンブルに勝って、すなわち「他人に潰されないような能力」を無事に手に入れたとしても、次はもっと悲惨なことが起こる。
簡単に言えば、人がマウンティングに走るようになる。
こういう「スキル」を持たない者をクズだとして見下すようになってしまう。
先ほど述べた「判断ミス」を、自分自身で正当化するようになってしまう。
何度も見たことがあるはずだ。
「これだけは誰にも負けないという技術を身につけなさい」とか抜かすサイコ教師を。
「お前も早く手に職つけろよ?」とか言ってドヤ顔をする高卒のオヤジを。
海外・人脈・リーダーシップとかいった言葉を振りかざす意識高い大学生を。
彼らが言っている「スキル」なんてものは、先の娘が使っていた「裁縫」と同じで、それがあるから何か安心ができるというものではない。
でもそのことはなんとなくわかってしまっているから、意識高い系の人は勲章を増やしたがる。
コミュ力とかいう意味の分からないものまで「スキル」としてカウントしたがる。
ゲームのキャラ育成でステータス欄を埋めるような感覚で。
アイデンティティーの確立なんて仕事は、本当は10代のうちに終わらせておかねばならない。
しかし自分の中学や高校の卒業生何百人かを見渡してみても、そんな夢みたいな「尖った」スキルを持った人はほとんどいない。
みんな、普通の真人間として卒業していった。それで正解なのだ。
しかし、何を間違ったか「尖った」スキルを実際に手に入れてしまった者。
別に当面で何かできる程度の能力でしかないのだが、それ手に入れるというギャンブルに勝ってしまった者。
そういう者がドヤ顔でマウンティングをする世界がやってくる。
大多数の「普通の卒業生」が全員踏みつけられる未来がやってくる。
大した意味のない能力が「印籠」になってしまう世界がやってくる。
先に述べたような、サイコ教師・高卒オヤジ・意識高い大学生が幅を利かせる時代がやってくる。
そしてそんな悪意に対抗するために、「普通の卒業生」たちもマウンティングのための「スキル」を探そうとする悪循環が始まる。
そんなものどこを探してもありはしないのにね。
3.次に求める悪魔の力
社会の大人が所属する大抵の企業・組織・コミュニティにおいては、「スキル」による戦国時代がすでに始まっている。
しかし不思議なことに、もともとそんな「スキル」なんてものは存在していないのだ。
ギャンブルに負けた「普通の卒業生」はそれに苛立つようになるし、ギャンブルに勝った側の意識高い系も「これだけじゃ戦えなくね?」と薄々感じている。
すると次はもっと面白いことが起こる。
「自分を持っているスキルをより確かなものにしたい!アピール力がある資格を取ろう!」
アピール力www
いよいよマウンティング合戦になりふりが構わなくなってくる。
真実を語ることができないから名声に頼るという戦法を選ぶようになる。
「お前が持っている者は偽の実力、俺が持っているのは真の実力」といったことを真顔で語るようになる。
このアピール力というのは、別に資格だけの話ではない。
コンテストなどの入賞経験がそれを語ってくれる。
先の娘の例でも、例えば「裁縫のコンテストで優勝できるようになれば」と希望を持ってしまうようなケースが実にありがちだ。
そういう入賞実績があれば、履歴書に書いて裁縫をやる会社に就職だってできるかもしれない?
そんな虚構にすがって、金や時間で名声を買うようになる。
すると元々持っていた実力の方が腐っていく。
コンテストに勝つための戦いを追求するようになるからね。
これだ。
「スキル」を求める者の末路は。
ありもしないマウンティング合戦で、本人も周りも業界も全部破滅していく。
4.×量産機になるな 〇量産機で戦え!
以上のような戦いを、自分は10年20年続けて悟った。
「スキル」という言葉は「スキル(笑)」であると。
そうして冷静になって周りを見てみると、別の解決法に気付く。
スキルなんてものは、個人が所有して張り合うものではなく、必要な時に必要なだけ探してきて装備するものだと。
今回の記事の最初の方にこのような結論を書いた。
「読み書きと会話ができて、毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力があれば相当強い」と。
人間にとって本当に重要なものは、学ぶ気概と能力があることである。
そして、それを運用するために「学べる環境」を用意することである。
教育体制が整っている世界を作れば、現状のスキル有り無しは大した問題ではなくなる。
武器が必要ならば倉庫からとってこればいいだけのことになる。
小中学校みたいに、一人で何十人も一から教えないといけないというのなら無理だろうが、企業やコミュニティの数人のチームならば、十分に可能な範囲であると考える。
だからこそ、教育という手法が大事だと思っている。
一度使っても無くならない科学や技術という「蓄積」が大事だと思っている。
まあ、フリーランスで一人で求職をしているときだったら話は別かもしれない。
確かに「スキル」とかいうものがあれば、見てもらえる機会は多くなるだろう。
でも、そうやって集めたスキルとやらは所詮見栄え重視である。
ディスプレイ用であり実用には堪えないし、系統だっていないから役に立たない。
「現場では使えないから」の一言で吹けば飛ぶような幻想だ。
例えTOEICが900点あったからと言って明日から通訳として雇ってもらえるか?
「俺は950だからお前らとは違う」というつもりか?
それとも「990点じゃないと意味がないんだぜ」というつもりか?
大体、何か独創的で尖ったスキルがないとできない仕事なんてものはそう多くない。
「読み書きと会話ができて毎朝学校や会社に遅刻せずに行ける能力」程度があれば十分に活躍はできる。
不足しているのはそういう人材だ。
余計なことに労力を使わずにこういう方向に邁進できる人間だ。
スキルで争ってもどうにもならない。
必要なものは目の前の実務である。
それは山積みだ。
自分はそう結論付けた。
なんで漫画家は人生を棒に振らないといけないのか
一年ぐらい前に読んだ「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」を急に思い出した。
漫画という文化が生まれた歴史。アニメという文化が生まれた歴史。
この本からはそういうものが読み取れた。
それを作ったことは確かに素晴らしいと思う。
個人的にも、手塚治虫の作品は面白いし好きである。
この本の内容について、検索してみたら以下のような感想が見つかった。
こういった世間の感想を読んでみて、やはり自分はこう思うんだ。
「省みない天才」というものをシンボルとして持ち上げるのはダメなことであると。
このブログで何度も書いているように、必ず業界の死を招くと思っている。
なお、今回の記事で扱われている漫画という言葉は、「工業技術」や「学術の研究」と置き換えてもそっくりそのまま成り立つ。
業界の最先端においては、「職人気質」や「優れた研究者」という人材がいつも求めてられている。
色々言葉を濁しているが、結局のところ欲しいのは「手塚治虫みたいな個性的な人」である。
今回は、この危険性についての話をしたい。
目次:
1.手塚治虫は、宗教だ。
冒頭に述べたサイトでの感想をもう一度見てみよう。
一つ目の方が分かりやすい。
手塚治虫は、変人だった。
仕事中に急に「浅草の柿の種を食べないと描けない!」と言い出したり、突然「スリッパが無いから探せ!」と言い出したりする。
別のエピソードでは、「目覚まし時計のスヌーズ機能の言葉について」を突然他人に熱く語りだしたりする。
一度気になったら止められない、一度語りだしたら止まらない。
手塚治虫は、最強だった。
自分の描いた作品のことは前頁のコマ割りと背景を暗唱できるほどの能力を持っていた。
小さいころから死ぬ直前までどんなことでもどん欲に学習した。
漫画のことならば無給でも何十時間でも不眠不休で働き続けた。
そんな人が、苦労をしながら多くの人と協力して、最高の作品を生み出した。
漫画という文化の黎明期から現代にいたるまで、多くの人に語り継がれる名作を生み続けた。
こういうストーリーである。
手塚治虫という人間をこのようにして消費する筋書きになっている。
奇才とか天才とか。
そういった言葉は自らが理解できないもの・理解しないものに対してつけられる。
「こんな素晴らしい作品なのだからよほど変な人が書いたに違いない!」
最初に、こう仮定して話を進めてしまった。
どんな風にやればこんな面白い作品が生まれるのかが全然分からなかったから、作者を奇才天才だということにしてしまった。
作品の面白さと作者の変人さを比例させてしまった。
そして次にはこんなことを思いつく。
「こんな変人だからあんな素晴らしい作品を描けるんだ!」と。
そういう理解で、「変人≡名作」という合同の式を証明してしまった。
そういう自己理解で納得してしまった。
この手塚治虫というケースに限っては、結果的に大部分は事実だったのだろう。
「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」に挙げられていたエピソードには大きな嘘は含まれていないと思う。
変人だから名作が描けるのか。
名作を書くような人は変人でしかありえないのか。
手塚治虫という一つの事例が心地よくてぴったりだったために、この根本的なテーマを考えることを放棄してしまった。
「名作=変人。変人=名作」としてしまった。
こうして、手塚治虫という宗教が生まれた。
よく分からないものには「天才だから」という言葉で片付けるメソッドが生まれた。
そうやっておだてて出てきた名作を、おいしくいただくシステムが出来上がった。
そして手塚治虫の時代においては、この宗教は上手く働いてしまった。
とても成功してしまった。
だって実際にそうやって手塚治虫は名作を大量に生み出したのだから。
手塚治虫本人も割と変な人だったから。
この成功をもとに、「名作を書くんだからこんな人であるべきだ」という想像がデフォルトになった。
更生に出てきた優れた漫画家も、手塚治虫という宗教で説明するようになってしまった。
能力のある人に対して、そういうキャラクターを強要するようになった。
プロフェッショナル。
聖人君子。
職人。
~屋。
こういった、「誇りを駆り立てるような言葉」の裏にはいつもそういう悪意が潜んでいる。
それを信じ込まされてしまうと、そんな虚構よりもずっと大切で簡単なことを見失う。
2.死体の上に成り立つ城
手塚治虫は、宗教だ。
そうだとして、次にこれを考えてみよう。
「手塚治虫」という宗教で、何人死んだ?
何人殺した?
別に人殺しなんてしてないでしょ!とかいう安い話はしていない。
ようするに、何人の人生がゴミになった?と聞いている。
もう少し詳しく言えば、「手塚治虫ひとりを支えるのに何人の常人が犠牲になったか?」この部分にとても邪悪なテーマが潜んでいると考える。
「手塚治虫と一緒に働けて、みんな幸せだった」と手塚治虫のアシスタント達は言う。
この「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」でも、手塚治虫を愚痴る人はいても否定する人はいなかった。
しかし当然その栄光の陰には、そういった活動に適応できなかった戦士が大勢いた。
無茶な労働についていけずに人生をあきらめさせられた戦士が大勢いた。
人生を潰されて殺された負け犬が大勢いた。
手塚治虫は人気漫画家であり、アシスタントの応募はよりどりみどりであった。
そういう立場を武器として使ってしまっていたことは事実ではある。
常識的に考えて、まともな労働環境ではなかった。
しかしその異常性も、手塚治虫という「宗教」によって許されてしまっている。
別にそう珍しい意見ではないのだが、現代で言うところの「やりがい搾取」とか「ブラック企業」と何ら変わりないと思うんだ。
なのになぜこれが「理想の天才」として扱われているのか。
成果物が名作漫画であれば許されるのか?
こんな判断もつかないような人たちが本当に美しい作品を作ることができるのか?
「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」の4巻で、こんなエピソードが取り上げられていた。
多くの連載を抱えて締め切りが過ぎても描き続ける手塚治虫に対して、壁村耐三が怒りながらこう言った。
「先生は漫画家の手本でしょう」
「毎週こんな状態じゃ人が悪いとこばかりマネします」
「しっかりしてください」
「手塚治虫は漫画家の手本です」と言われているが、それは決して「手塚治虫は素晴らしい漫画家です!」という意味ではなかった。
このことをちゃんと書いてくれていたのはとてもよかったと感じた。
3.要するに:「特攻隊を編成して敵艦に突っ込ませるお仕事」
漫画家という厳しいプロの世界では、「弱いものが去るのは当然」である。
それでも残った者は皆幸せだと言っている。
だから問題ないと。
こういった理論が成り立つのは、それを信じて実行できる若者が枯渇していない場合のみである。
人生を投げ捨てれるほど社会の景気が良くて、自らを騙しきるほど学がある若者が大勢いる時代にだけ使っていい理論である。
手塚治虫の漫画を夢見てトキワ壮に来た若者たちは、みんなそういう環境に適応できる人間だったから、美談になっているわけだ。
「残った者は皆幸せだと言っている」というのは当然である。だってそういう人を集めたのだから。
以前も自分のブログに書いた文言だが、また書きたくなった。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、これは種族の強さを維持するための行為ではない。
まして親の愛情から生まれる行為でもない。
ただの間引きである。
自分が扱いきれないものをごみ箱に捨てて忘れる行為である。
でもそういうエリートが実際に生き残って集まったのだからいいじゃん?といわれても、いいわけがない。
なぜならば、社会の人材は有限だからだ。
適性が無い者は帰れ!という殿様商売が続けれるのは、資源が枯渇するまでの間である。
漫画への愛があったから無給でも不眠不休でも働けたのだ!というが、愛は有限である。
愛というとても貴重なリソースを独り占めしたからそういうセリフがはけるのだ。
何十年も前の文化が未成熟な時代ならともかく、現代でこれと同じことを繰り返すと、かならず「常人」が不足する。
「愛を持ったエリート」は「大勢の常人」の死体がないと抽出できないからだ。
無茶な仕事で人生が潰された負け犬が大勢いないと成り立たないビジネスモデルだからだ。
それに気づいた彼らが次に打つ手は以下のようなものである。
「最近の若者はたるんどる!手塚治虫のようになれ!」と。
「こういう人たちが素晴らしい漫画家だ!お前らもそれを目指せ!」と。
足りないからといって死体を補充しようとする。
4.もう修羅の時代を終わらせるべきだ
犠牲と不幸が生んだ、漫画という素晴らしい文化。
2017年の現代にいたるまで、その悪習は続いている。
なぜ、漫画家志望は人生を棒に振らなければいけないのか。
なんでユンケル飲んでまで4時間睡眠にしないといけないのか。
なんで2000円の原稿料で生きないといけないのか。
なんで親に泣かれないといけないのだろうか。
苦労はあるけど売れてしまえばスターになって大金持ちだから?
・愛を痛み止めにしたブラック労働
・それに耐えうるエリートの選別と独占
・そうした漫画家をおだてて駒に使う出版社と編集者
その売れるために使っている手段というのがこういうものなのだから笑えない。
これ以上何を搾り取ろうというのか。
手塚治虫の技術力自体は、何の罪もない。
愛に走るとほぼ例外なく指導力がそがれるからトップに立つべき人ではなかったのかもしれないが、まあ能力の向き不向きもあっただろう。
「手塚治虫」を強要する支配者こそが一番の害悪だ。
一時の花火が見たいだけで、若者も業界もみんな殺そうとしてくる。
例えば漫画だったら、現代ならばもっとローコストで安全に描くことができるはずである。
ネットの文化によって、いい作品を描けば皆に読んでもらって称賛を得ることができるはずである。
同人もできる。片手間にだってできる。出版もできる。
多くのリソースが揃っていてプロの技術をみんなが学べる。
漫画家が生きるか死ぬかだった時代は、ようやく乗り越えたはずである。
逆に言えば、こういった一握りの天才奇才に頼る時代は終わりつつある。
「大勢の常人たち」によって勝たなければいけない時代が来ている。
本当はもうみんなとっくに気付いている。
人海戦術・特攻戦術から抜け出すために必要なものは、十分なリソースと技術の伝承であると。
人は愛さないといけないが、技術は愛してはいけない。武器を愛してはいけない。
さもなくば、いとも簡単に判断ミスを犯す。
若者を特攻して死なせるようなミスを。
誰だ教師が聖職者なんて言ったやつは
とても直接的で欲望にまみれている案件が出てきた。
教師・医者・公僕・軍人・警官・スポーツ選手といった職業は、いわゆる「聖職」として扱われている。
犯罪者が出たら「~という職に就いているのに犯罪をするとはけしからん!」という感情が出てくる職業だとして認識されている。
前の記事で述べた、「政治家とはいえ十分な人間ではない」という話と同じ理論であるが、聖職者だからといって人間的に完璧であるわけがない。
保育士だからと言って、報酬を求めずに愛だけで子供の面倒を見てくれる聖人君子であるわけがない。
もうみんな心の底ではわかっていることだから断言してしまった方がいい。
聖職とは、「無茶な仕事を押し付けたから聖職なのである」と。
その申し訳なさを、勲章という形で誤魔化しただけなのであると。
教師とか公僕については、自分も少しだけ知っているから書いてみる。
「腐ってないわけがないだろう」と。
目次:
1.「聖職者だから」という隙だらけの思想
ちょっと前にも、こういう直接的な事件があった。
修学旅行中の教師が夜にデリヘルを使った!けしからん!という事件だ。
まあ、保護者という存在は教師にとっては取引相手と同じである。
客の言い分は神の言い分であるのかもしれない。
しかしけしからんと言ってみたはいいが、藪を突いて蛇を出してしまった。
・教師を24時間休みなく働かせて手当も払っていないというのは正しいのか
・というかデリヘルだって本番強要とかしなければ普通で正当なサービスだろう
自分たちが今まで踏み倒してきた問題が表面化してしまった。
自分たちがこういう問題から目を背けてきた、という事実を簡単に忘れてしまっている。
聖職という言葉で思考停止をしているから、ちょっとつつくとすぐにボロを出す。
聖職者は給料なんて求めないし清廉潔白である、と勝手に定義して信じている。
アイドルはウンコなんてしない、と同レベルのことを本気で信じている。
それ以前に、金も十分でない教師や保育士に自分の子供を見てもらいたいのか?
という単純な話にも気づかない。
2.「強いものが勝つ」である訳がない。
大体、なんで腐ってないと思うんだ。
人や論理が動かない環境は、よどんで腐る。
縛りが多くなって成果が挙げられなくなる。
別に聖職で無い普通のサラリーマンとかもそうやって腐っていくんだから、簡単に分かりそうなものだ。
しかし、聖職を信じる者は一つだけ心の拠り所がある。
聖職は「難しい試験を突破しないと成れない」。だから安全だという期待である。
多くの人生を投げ捨てないと聖職者にはなれないのだから、それによって安全性が担保されていると思っている。
大勢の脱落者が出ているのだから、それによって正義が担保されていると思っている。
聖職なんてものを信じているお花畑は、戦いというものを知らない。
目を背けているから、「強くて正しい者だけが勝つんだろう」という浅はかな想像しかできない。
だからこそ「試験を突破したなら正義だ」なんて論理を採用してしまう。
前の記事で散々書いたことだが、「戦い」なんてものは全く信用がならない基準である。
本当に戦士として戦ってきた人ならだれでも分かる。
勝負は偶然や策略によっていとも簡単に決まってしまうと。
生死を賭けた戦いにおいて、理不尽ではない勝ち負けなど一つもない。
強いだけで勝てるのならば誰も苦労しない。
教職だって、大学で授業を取って教員試験と採用試験に受かればそれでなれてしまう。
「この過程を突破すれば必ず心清い人間が出来上がる」という自信はどこから来るのだろうか。
だからこそ、学校の教師には世間知らずや間違いをする者だって混ざってしまう。
というか、普通の真人間で構成されてしまう。
3.「聖職者様は命を捨てて戦ってくれる」
聖職なんてものは何の根拠もない幻想だということははっきりしているが、ただの夢や娯楽だとして信じているのだとしても、その罪は重い。
聖職だと決めつけることが、業務の柔軟性をスポイルしてしまうからだ。
聖職者を演じるために余計な苦労をしないといけないし、行使できる選択肢が限られてしまうからだ。
例えば医者だったら、分からない時には分からないと言ってしまいたい。それが事実なのだから。
しかし、医者というものを絶対的な聖職者だと思っていると、こういう時に意地を張らないといけなくなる。togetter.com
冒頭のこの案件も全く同じである。
お金が無くて辛い!時間が無くて辛い!という人間として凄く当たり前の苦しみを表明しているだけなのに、「聖職者だから」といってその声が封殺される。
医者や教師の仕事が縛られるということは、下手をすれば医学的な生命に関わることだ。
でも難しくて責任が重い仕事だから、能力のある人間に丸投げしたい。
その後ろめたさを、聖職という「勲章」を与えることで誤魔化した。
しかし勲章を与えてくれると言っても、縛る義務を与えるばかりで、表彰してくれるわけでもないし金だってくれない。
(軍人の二階級特進は少なくともメダルと恩給はくれるというのに。)
4.聖職者というヒーローを勝手につくり、勝手に期待する
「聖職者による決死の献身」をタダで強いると、騙しきれなくなったときにゆがみが出てくる。
具体的に言うと、教師や警官の犯罪が頻発するようになる。
そういう事件をニュースで見て「けしからん!」というところまでがエンターテイメントなのだろう。
社会の腐敗を嘆く聖戦士の気分になれる。
社会は手を打たなければ実際に腐っていく、という事実はみんな分かっている。
一般市民には何をする力も無いということも分かっている。
そこで、聖職者というヒーロー性に頼ってしまう。
聖職者がもっと心を入れ替えてしっかり働いてくれればいいじゃん!と考える。
清廉潔白な人間が総理大臣になれば日本が救われる!と夢見てしまう。
「きっとこういうすごい人間が舞い降りてきて私たちを救ってくれるはずだ!」と思い込んでしまう。
確かにフィクションの世界ではヒーローが解決してくれる話ばかりだし、実際の例も無いわけではない。
自分が考えるに、腐敗する社会を救うのは、一握りのヒーロー、それも勲章で祭り上げられた聖職者ではない。
「特に能力を持たない大量の一般兵」が戦って逆転しないとダメなんだと思う。