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愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

「正しいことだけが正しいわけじゃない」という意見の、解答解説

文化

togetter.com

2016年の日本シリーズ、広島VS日ハムにおいて、ビデオ判定の是非が議論されている。

 

1-1の接戦だったところを、広島がビデオ判定により勝ち越してしまったため、日ハムが士気を失い、4点も取られて決着となってしまった。

 

この試合に、せっかくのスーパープレイだったのにビデオ判定で覆されて日ハムがかわいそう、という意見が出てきている。

何人かの日ハムファンがそう嘆いているだけならば、ただの戯言で済む話なんだけど、この試合のコメントで、カープ出身の達川(元キャッチャー)ほかの解説陣が、

「これがセーフなら野球の醍醐味がなくなる」

「ビデオで決めるなら審判いりませんからね」

などという発言を行っていた。

 

これは問題発言であると思う。

こんな主張はもちろん大嘘であり、許してはならない。

今日の記事で言いたいことはつまり大体これなのだが、こんな主張がまかり通る世界、そしてそれを食い止める反抗の意志については、もっと深い事情が関わっている。

 

「正しいことだけが正しい訳ではない」。

この言葉の正義について、考えれるだけ考えてみた。

 

 

 

 1.「醍醐味」の嘘

大体今回の話では、ビデオ判定で決めるというルール自体が野球の中にはすでにある。だからこそ、今回公式戦でこういうことが起きたわけで、こういう時のためにわざわざ作られたルールだ。

 

審判がビデオ見てセーフだと言ったならそれは何と言うとセーフだ。

そういうルールブックの下で戦っている。

ゲームの判定は物理的な証拠と判断によって行われるものであり、醍醐味とか士気とかを考えて判定を変える、なんてルールは全く何も定義されていない。

 

だから、醍醐味を優先してビデオ判定を曲げることは、明らかにルール違反である。

今回の判定は賛否両論というよりは、誰が考えても答えは明らかだ。

「醍醐味ガー」とか言っている人たちも、本当は頭の中ではとっくに分かっているはずだ。

 

 

2.それでも「醍醐味」を求める理由

しかしだからと言って「醍醐味」を野球から切り捨ててしまっていいのだろうか?

「正しいことだけが正しい訳ではない」。そういうことを議論する余地は一応ある。

二次方程式虚数解のように、どう考えても現在の定義からは存在できない答えであっても、そこに目をつぶって新たに定義をつくってしまえば、新しい世界が広がっている。

 

すなわち、今回言われている「醍醐味」とは、

「野球のルールを破ることによって生まれるロマン」のことである。

細かいルールや思想を指摘されてもなお、ロマンをゴリ押す快感のことである。

 

日本の高校野球を見ていればわかるように、野球というエンターテイメントは、昔からこういう商品を観衆に売ってきた。

人生を賭けた球児たちが織り成す渾身のプレイを、絶対的な審判が容赦なく裁く。

あんなに練習した強いチームであっても、ちょっとした拍子で得点が揺れ動く試合展開。

男たちが戦って青春を散らしていく様を、優雅に上から眺める。

野球というコロシアムは、そんな下卑た視線を満足させるエンターテイメントであったわけだ。

 

そしてそれは、野球と言うスポーツが商業的に普及する際には意味がある原理だったのだろう。

野球という活動の目的を、「観客を集めて入場料を取る」と言うことに限定してしまうならば、「野球の醍醐味」とやらを肯定することは可能である。

 

大相撲やテニスは、ビデオ判定は何十年も前から採用しているが、それに対して野球は別の方向での進化を選んでいた。

何割かの観客と、解説の元キャッチャーが「醍醐味」なんて発言をしてしまうぐらいには、そういう進化が及んでいたようだ。

 

 

3.野球と言うスポーツをエンターテイメントにする代償

「野球にはビデオ判定では通せない醍醐味があるよね」という思想を通すならば、野球とはずっと前からスポーツではなくエンターテイメントであった、ということを肯定しなければならない。

 

野球をスポーツではなくショーにしてしまえば、表面的には儲かるし楽しいかもしれないが、それを選んだ場合には、大きな代償を払わなければいけない。

先日の記事に書いたように、スポーツの追及とは科学の追及と同じであり、「余地があるから」こそ日々努力して切磋琢磨をしている。

clacff.hatenablog.com

そういう理由があるから、スポーツのルールは限界まで厳密に設定されていて、運の要素は限りなく排除されている。

そこで一つでも嘘を認めてしまうと、今まで決めてきたルールが連鎖的に全部ウソだと暴かれてしまう。

 

例えば、今回の野球の例のように、「美しければセーフ」というルールを、ルールブックに追加してしまった場合は、選手はこんなことを考えるようになる。

  • 美しければセーフというなら、「カッコよく走る練習」をしないとダメじゃね?
  • 走塁が間に合わなそうなときは、走るの止めて踊った方が得じゃね?
  • 超カッコいいダンスでセーフになれる練習したから、打撃も全部バントでよくね?
  • 相手チームが全部バントしてくるなら、外野守備なんて必要なくね?

まずはこのように、野球と言うゲームの内容が滅茶苦茶に変化する。

こういう風に、既存の世界が崩壊していくスピードは、選手たちがより真剣に勝つ方法を考えるほど、速くなる。もともとの野球の戦術も、同じようにルールを深く解釈することで進歩してきたものだ。

そして、今回追加した「美しさ」というルールは、基準も定義もない。だから、

  • アウトセーフの判定に基準や定義が無くていいのなら、ストライクゾーンの範囲やバットの材質だって定義しなくていいよね。全部ノリで決めていいよね。
  • こんなクソゲーなんかよりサッカーやった方が楽しいよね?

当然こういう考えが、早い段階で生まれてくる。

 

このように、ルールを一つ追加するだけで、野球は別ゲーになってしまう。

なおアメフトは、「キーパー以外もボールを手で持ってよくね?」というルールが追加されたことで生まれたスポーツらしい。そうやって、新しい楽しいスポーツが生まれてくる可能性はある。可能性はあるが、現在まで築き上げられてきた野球と言うスポーツを汚していい理由にはならない。どうしてもやるんだったら「スタイリッシュ野球リーグ」でも新たに作ってもらわないといけない。

 

エンターテイメントを企画しようとするならば、飽きられないようなコントロール、既存のものとの棲み分けといった、コントロールをよほど慎重にやらなくてはいけない。今回の「野球の醍醐味が無くなる」といった発言は、そこでミスった無粋な発言であった。

 

 

4.「エンタメ化」が許せない人が増えた理由

野球がエンターテイメントと化したとしても、実は観客の側はあまり困らない。

楽しみ方の質が変わるだけで、結果的に楽しくなっているならばむしろ歓迎されることもある。

高校野球で、一塁ヘッドスライディングが推奨されて、それを喜ぶ老人がいるように。

 

エンタメ化されて本当に困るのは、それで自分が戦わなくてはならない選手たちの方だ。

選手にとっては、ルール内での勝利こそが全てだ。そういうルールの下で戦っている。

自分たちが命を懸けてきたルールを、外部の勝手な好みで曖昧に書き換えられてしまう。

「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」とか言われて、納得できる選手など、ただの一人もいない。

 

今回の記事のコメント欄を見ても、反対意見ばかりが述べられている。

先日の記事で述べたように、インターネットは弱者の武器である、と自分は考える。

clacff.hatenablog.com

すなわち、インターネットのユーザーには、「戦う側の意見」が理解できる人間が集まってきているのではないのだろうか。

今までの人生の色々な場面で、「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」と言われて、「ふざけるなよこのやろう…!」という経験をしたことのある人が、多いのではないのだろうか。

 

インターネットの言論には、実際に戦う側、真実を求める側の言論が育ってきているのだと思う。