【手洗い】感情という名の思考停止【清潔】
言論とか科学とか、そういったテーマだととっつきにくいが、“トイレで手を洗う”といったテーマなら、誰もが理解できる。
“人は感情で生きるか理屈で生きるか”
自分は過去に何度もこのテーマで記事を書いているが、今回ピピさんが書いた記事は、このテーマを説明するのに非常に良いモデルになると思った。
勝手に利用させていただきます。ありがとうございます。
まあ自分自身のことを言えば、手は大体洗っている。洗濯も歯磨きもしている。
しかしもちろん完璧ではない。
指先から手首まで石鹸で20秒以上、とかは正直やっていないし、歯磨きだって歯医者から見たらたぶんアウトだと思う。
完璧ではない。誰だってそうである。
そして心の底では、その罪がいつ暴かれるかということに戦々恐々としている。
だって、普段職場や学校で人と出会うときに、“わたし手なんて洗ってないよー”って言ったことがありますか?聞いたことがありますか?
これはだいぶ勇気がいる発言だ。ネットですらカミングアウトする人はなかなかいないというのに。
今日は、その恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法を紹介する。
目次:
1.自らの判断力で事実を理解すること
まず、先に紹介したピピさんの記事に書いてあることは、すべて事実である。
主張も筋は通っている。一見めちゃくちゃなことを書いているように見えるかもしれないが、理屈を並べて説明すれば子供でも納得できる内容である。
風呂には毎日入っていても、スマホを毎日お湯と石鹸で洗っている人間がどれだけいるだろうか?
トイレで手を洗うといっても、蛇口に触って水で濡らして適当に乾かすだけなら、むしろもっと汚れているのではないか?
というか、細菌の数だけで清潔度合いを測るのは正しいのだろうか?人体の中なんて細菌だらけだというのに。
例え病院や飲食店であっても、これらの事情は完璧にはクリアされていない。
アルコールスプレーだけで安心な訳がないだろう常識的に考えて。
すくなくとも自分のバイト先では、モップの柄もレジのボタンも、洗ってはいなかった。
なお、学生バイトの分際でパートのお姉さんにこういう話をもちかけると一発で基地外認定だから気を付けよう!
2.矛盾を自分の力で説明すること
“清潔だとか言ってるけど、話としてはちょっと怪しいよね”。
そんなことは誰でも馬鹿でもわかる。
そして、こういった問いを人に突きつけると、割と面白いことが起こる。
その人の知性の本性が見える。
例えば学校の先生に、“あれれ~?手を洗わないと不潔だと言ってるくせに自分のスマホは石鹸で洗わないんですか~?”と言ってみよう。
知性と感情がエラーを起こして、その人は豹変する。
明らかに事実だとわかることなのに、感情のほうを採用している自分自身に気付かされてしまう。嘘を一つでも通しているならそこから積み上げられる論理は全て嘘になる、という危険性に気付いてしまう。
それを説明できずに苦し紛れの言葉で逃げるか、“だからお前もスマホを石鹸で洗え!”という無茶な論理を即席で作り上げるか。
その人が感情で生きる人間であるならば、大体この程度が関の山だ。
大昔にも、このように感情を正義として生きる人はいた。
19世紀にルイ・パスツールが微生物と病気の関係を発見して、多くの人が発狂したといわれている。目に見えずに、食べ物どころか空気まですべてを警戒しなければならなくなったからだ。
「発狂しちゃうから微生物なんて発見されなければよかったのに!」
心の底ではこう思っているが、それを口に出す勇気もない。学術を認めれないバカだと思われるのも嫌だ、というジレンマに勝手に苦しんでいる。
3.”感情によって通せる嘘”を警戒すること
人は、感情で生きるか理屈で生きるか。
どちらの方式も一長一短であり使い分けるべきものであるが、感情のほうだけで生きてしまうと、人類はかなり危険である。
感情には、きりがないからだ。
どこまで洗えばいいのかもわからないし、どこまでなら洗わなくていいかも確定しない。
他人の感情の積み重ねで収束はしていくが、そこには確定した答えはどこにもない。
マーケティング一つで手の平を返す程度の正義しか生まれない。
ある程度の金をかけて、例えば「手なんて洗ってはダメですよ!時間と水資源の無駄を削減しましょう!」とCMを流してしまえば、もうそれが正義になってしまう。
現代社会の生活習慣なんて、ほとんどがそうやって作り上げられたものだ。
“みんな洗っているのに洗ってないの~?”という思考と、“そんなに洗ってバカじゃないの~?”という思考。人口と感情によってしか成り立っていない正義で、人はマウンティングを行う。
まあ今回はトイレと手洗いの話だから、みんな軽く考える。
感情で済ませてしまっても、あとは忘れてしまえばどうとでもなるだろう。
しかし、それ自体がすでに感情に根差した感覚であり、理屈で考えれば話はこれだけでは済まない。
ちょっと突き詰めて考えてしまえば、社会における嘘は、みんなこうやって人口と感情で許されてしまうからだ。
例えば、ブラック企業だってこういうことを言っている。
・みんなサビ残しているよね?
・月の残業時間は45時間までだよね?
・残業代が出るのは申請した分だけだよね?
・申請なんかしないよね?
こんな話は、いくら並べても嘘だということは子供でも分かる。
にもかかわらず、人口と感情によってそれが許されている。
4.ショートカットの採用に判を押すこと
本当に理屈で生きるのならば、手は一切洗わないはずだ。
洗濯も歯磨きもほとんどしなくなるはずだ。
にもかかわらず、自分含めて大体の人がやっているのは、結局は感情で生きているからだといえる。
人間である以上どうやっても、どこかで感情は採用している。
本当に理屈だけを採用していたら、目が覚めた瞬間に脳がオーバーフローを起こして死ぬ。
感情とは、理屈のマインドセットである。
“他人と同じだったらとりあえず大丈夫だろう”という思考停止であり、思考のショートカットである。
感情という判断を、理屈の上で採用すればいい。
ショートカットをしてもいい場所かどうか?ということを事前によく考えることも重要であるが、それ以上に、“今はショートカットを使っている”という事実を反故にしないで覚えておくことこそが重要だ。
これが、“手を洗っていない”という恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法である。
今の自分は感情を使っている、ということを忘れないで立ち向かえばいい。
世界にはたくさんの嘘が横行しているが、理屈によって感情を肯定することでしか、その矛盾は贖えないと思う。
忘れきってフタをするという手段を選ぶなら、人間は辞めたほうがいい。