社会において、「馬鹿に期待する」という戦法の有効性
人間は、知性で生きるのか、本能で生きるのか。
すなわち、理屈で生きるのか、愛情で生きるのか。
理屈も愛も、根っこは同じなのだとは思うが、以前にこんな記事を書いた。 clacff.hatenablog.com
愛で生きることは、人間の本能としては正しい。
理屈だって愛がなければ運用はできない。
自分はそう考えている。
しかし、いくら本能だからと言っても、愛だけで生きることは相当にヤバい。
本能だけで生きて、何も考えないで満足して、寿命で死んでいくことは心地よいのだろう。
しかし人間は、なるべく急いで本能から脱却して、知性で生きることを覚えなくてはいけない。
今日はそんな記事を書いてみる。
目次:
1.(過去の記事のリライト)
冒頭に紹介した、以前自分が書いた記事でも、一つの答えは出している。
すなわち、愛だけで生きることは相当にヤバい。その理由の一つは、「人間が行使できる愛が有限であるから」だ。
人間は、目は二つ・頭は一つしかない。
他人に配慮をする余力や、愛を確かめるための貢物も、決して無尽蔵ではない。
例え家族であっても、精神的に安定して暮らせるのはせいぜい5~6人までであるし、世界各国の陸軍における一班の人数もそれぐらいまでだ。
10人ぐらいの友達グループを作ったら、必ず一人二人は「付き合いの薄い人」が出てくるでしょう?
そこで次は100人の友達グループを作ったとしたら、顔と名前がすぐに一致させれる人数は、多くてもせいぜい60~70人程度ではないだろうか。
何か契約とか目的意識を共有しているならともかく、人間が運用できる愛なんてものはこれぐらいが限度だ。
100人のグループを作ってしまった時点で、すでに3割の人間は敗北者になって死亡している。「愛で生きる」世界においてはそういうことになる。
現代の社会を見てみると、「愛で生きる」という方式を採用している人が、割合的には多いが、人間が行使できる愛には上限がある。
差別・恋愛・見栄の張り合い・学歴マウンティングといったような活動は全て、人が人を対象に取る行為である以上、「愛の奪い合い」であると言える。
3割の人間が死亡しないためには、理屈と言う武器を取らざるを得ないんだ。
ジョージ・バーナード・ショーと言う人が、こんな言葉を残している。
もし君と僕がりんごを交換したら、持っているりんごはやはり、 ひとつずつだ。
愛や資源は有限であるが、知識や情報は無限である。
いくらコピーしてもなくならない、無限のエネルギーである。
2.「愛で生きる」ことの、もう一つのヤバさ
人間が複数集まった場合、手の数や労働力は、その人数だけ倍加するだろう。
太古から、人類はそうやって群れを作って、数の力によって自然の中で生き延びてきた。
それゆえに、人間は本能的に愛を肯定するように進化した。
しかし、意識や知性は、人数が集まっても倍加しない。
端的に言えば、人間は集まれば集まるほど、頭は悪くなる。
ウェイ系の馬鹿大学生や、群れないと静かになるDQN高校生を見ていればよくわかることであるが、これにはちゃんとした原理がある。
人間の知性は、人数が集まっても最小公約数でしか発現しないからだ。
人の集まりを一つの活動体とした場合、考えが複数あったところで、実際に採用できるのは一つだけである。
じゃあその中で「一番いい考え」を選べばいいはずだが、実際に採用されるのはその中で「一番悪い考え」である。
だって、一番いい考えを採用することは、一番悪い考えをしてしまった人を、否定することになるから。誰かの意見を無視して踏みつけることになるから。
例え馬鹿であっても、「無視されて馬鹿にされるのは嫌だ」という人間の本能は残っているから。
暴力や強制を使用するなら話は別だが、人が愛を求めて全員で行動しようとする以上は、誰かを否定して置いていくことはできない。
だから、一番レベルの低い考えで動かなければならない。
逆に言えば、組織においてまともな考えを採用しようとするならば、何らかの形で否定と言う名の暴力や強制を使用するしかない。
この社会において、「集まれば集まるほど馬鹿になっていく人たち」というのを、何度も見たことがあるはずだ。
学校のクラス・クソ文系・中二病技術者・左翼のデモ・独裁国家・田舎の親戚集団・PTAのBBA・体育会系・ウェイ系・日本・カルト宗教・ブラック企業、など。
現代の社会において、不幸と名がつく大抵のものは、愛を肯定することによって生み出された馬鹿が、作り出している。
人が組織を作る際は、よほど注意してマネージメントに力を割かないと、みんな馬鹿になっていく。どんな軍隊でも大企業でも、これは同じ苦労だ。
人間は、集まれば集まるほど、頭は悪くなる。
しかし、インターネットという場では、他人の目を気にせず、一人だけで真実を発信することができる。インターネットの言論にはそういう強さがあると思っている。
3.「馬鹿に期待する」という戦法
人間は集まれば集まるほど腕力は増えるが、知性は下がる。
まあこれは仕方ない原理と言うか、人間と言うシステムの仕様であると思う。
この愛の機能がなければ、おそらく人類はここまで生存できなかったから。
こういった人類のシステムの仕様をついた戦法で、非常に強力なものがある。
次のアップデートではおそらく修正される、バグレベルの壊れ技だ。
「人口が多ければ、数撃ちゃ当たる戦法」。
例えば、割と最近の例ではこういう戦法。
togetter.com確かに日本には1億人も有権者がいるんだから、大ボラ吹いておけば何割かは騙せてしまう。
そしてそれは、割と期待値が高い。社会には愛だけを肯定する馬鹿が大勢いるから。
いつかの民主党政権も、間違いなくそうやって誕生した。
また、この案件もそんな戦法の一例だ。*1
togetter.com「タダでプログラミングを教える仕事をやれ」という主張は明らかなる嘘であるが、人類の社会がより発達して人口が多いほど、こういう嘘が通しやすくなる。これだけ人があふれている社会なら、誰か一人ぐらいはホイホイついて行ってしまう。知ってか知らずかは分からないが、一人でも釣れればそれで勝ちになってしまう。
人口が多くなればなるほど人間は馬鹿になり、嘘を通すことができるようになる。
すなわち、社会は成長すればするほど、真実は失われていくんだ。
人間社会の進化は、このような矛盾を抱えている。
そういえば、自分が高校生の時に、クラスメイトがこんなことをやっていた。
「10円ちょうだい!」全員に声をかけながら、と、学校中で歩き回る。
すると1クラスで一人ぐらいは、本当に10円をくれるやつがいる。
10クラス回れば100円になる。100円あれば、昼食にパンを買うことができる。
馬鹿な高校に通っていたものだとつくづく思うが、そこには愛の真実もあった。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、確かにその社会では正義を持ってしまっている。納得しているのは馬鹿だけであっても、そもそもの社会大多数を馬鹿が構成しまっている。
「多数決は必ずしも正義ではない」ということは、理屈で考えれば当然のことなんだけど、愛で考えるならば、多数決は全ての正義である。
「みんな納得してるんだからいいじゃん」という思想。愛はそのような思想を生み出し、「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」を肯定する。
こんなことばかりをやっていると、どんどん世界が腐っていく。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」とは、馬鹿から脱却しようと成長している人間を切り落とす戦法だ。
成長している芽を切り落としたなら、残った根は衰弱して死んでいく。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」を使えば、ブラック企業も簡単に作れる。
ひどい条件でも募集すれば何人かは集まってしまうからだ。
鬱病にして使い捨てたとしても、また集めれば何人かは集まってしまうからだ。
clacff.hatenablog.com以前の記事に書いた「社会のチェックメイト集」の、大体がこの手法を使用している。
社会における大体の嘘は、人口と言う盾を持っているから成り立つ戦法だ。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、一見すると誰も困っていないし、どんな嘘でも通すことができる、魔法の戦法だ。
しかしその戦法を許すと、社会や人間はどんどん腐っていく。
社会が、自分の方から馬鹿になるのを期待するようになる。
だから、使ってはならない。
スパムメールや迷惑電話を想像してみればいい。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、これと同レベルの外道迷惑戦法だ。
「みんな納得してるんだからいいじゃん」という論理は、絶対に許してはならない。