【入試の不平等】教育の機会均等について
4月になって入学シーズンだということで、「教育の機会均等」に関する話題を、ラジオでやっていた。
別に、日本に暮らしていれば中学まではむしろ義務教育であるし、高校も大学も余るほどある。社会人になってから学びなおす制度も整備されている。
不登校や障碍者だって、サポートはされているだろう。形だけなら。
だが実際には、望んだところで学ぶことができない者が、大勢いる。
偏差値というシステムが存在しているからだ。
高校や大学の入試で、裁かれてしまった者が大勢いる。
「教育の機会均等」自体はとっくの昔に達成されているが、実際にはまだ戦争は終わっていない。
多分、例え少子化がもっと進んでも状況は大して変わりはしないと思う。
今日は、偏差値と教育についての自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1. 現在の入試における不平等
学校には物理的な定員があり、その定員以上に希望者が来ているから、偏差値を使って選別をしなければならない。
元をたどって考えてみればそういうことだ。
「教育の機会は均等だよ♪ 合格できるかどうかは知らないけど」ということで話は進んでいるが、その合格できるかどうかのところで、不平等がある。
過去問と同じ問題を出すことができない以上、入学試験の難易度はインフレし続ける。
塾や予備校に小さいころから通わせておかないと勝負にならないため、結局家庭環境や親の所得による勝負になっている。
田舎者や貧乏人は東大で学ぶ資格がない、というのが統計的な事実としてすでに通ってしまっているんだ。
それに、たとえそういう問題を個人の努力で何とかしようとしても、次の問題が立ちはだかる。
大学入試の問題がどれだけクソ問題だったかを思い出してみればいい。
運がよくないと生き残れない、というのも差別の一種であろう。
クソ問題であるが、実際にはそれしか解決方法がない。
入学前の学力で合格不合格を決めているという事実は、「将来性を見ている」ということで正当化されていると思う。
個人的には、学問に素質なんてものは特に必要ないと思うが。
学問はそんなに崇高なものではなく、教えて理解すれば誰だって出来るべきだと考えている。
当人の意思だって必要ないと思っている。そんなものは親や教師の一言で簡単に変わってしまうものだから。
むしろ、本当に指導する内容が同じで教育が平等なのだとしたら、入試なんてものは別にくじ引きで選ぼうがサイコロで選ぼうが大して変わりはしないはずだと思う。
いくらクソ問題だとは言っても、実際に役に立つ科学や文学をエミュレートしてくれているだけまだマシである。
なお、一時期流行った「学生個人の内面で見る」なんてものはもっとクソゲーだ。
勉強できないけど内面には自信ある、なんて奴がどれほどいる?
強烈なウソつき合戦が始まるぞ。
慶応のAO入試なんてすでにそういう戦いだ。
2. なぜ偏差値というものがあるのか
なぜ一つの学校にそんなに希望者が集まってしまうのか?
それはもちろん、その学校に行きたい人が多いからだが、なぜ行きたいのか?
ここにちょっと、考えなければいけないことがある。
学習指導要領はどの学校でも同じ内容だろう?
だからこそ、教育の機会均等が達成されているわけであって。
学費や通学時間で差があるといっても、わざわざ親元を離れて早稲田慶応に通うことが憧れになっている時点でお察しだ。
一応大学になれば、「自ら掲げる教育理念・目的に基づき、自主的・自律的に編成すること」となっているが、実際には結局どこも似たり寄ったりである。
グローバル、新エネルギー、福祉社会、情報通信、クリエイティブ、リーダーシップ。
どの大学のパンフレットを見ても、そんな流行のワードが並んでいるだけである。
まるで政治家のHPに書いてあるマニフェストのように、主張する安全牌がすでに決まり切っている。
「~先生の授業が聞けるからこの大学じゃないとダメ!」なんて寝言は基本的にフィクションである。
どうしても参加したいのだったら、潜りや個人インタビューでもやればいい。正直簡単である。
また、単純な教員の数で選ぶのだとしても、別にそう変わりはしない。
むしろ田舎の人気のないところのほうが学生一人当たりの教員人数は多いだろう。
そこら大学生に、自分の大学の教育理念を喋れるかをどうか試してみればいい。
100%無理だから。(いや、今の時期なら面接対策で暗記した者が少しは残っているかも。)
教育内容に特色が欲しいのならば、専門学校に行けばいい。
しかし大抵の人は教育内容なんてものに興味はないのが現実だ。
合格してよい人生を送ることと、それを許してくれるブランド力。
あとは得意な科目を決めて、結局みんなこのように学校を選んでいる。
偏差値それ自体がブランドになる。
社会という闇において、思考停止を許してくれるのが、ブランドである。
求められているものは、教育ではなくブランドである。
例えば、東京大学のキャンパスと設備をすべて、東京都小笠原村硫黄島に移設したとしたら、どうなるか。
本当に教育や学問が目的で入学するのなら、それでも偏差値は変わらないはずだよね?
それとは別の例えで、試しに全部の二次試験を全国同じ問題にすればどうなるか。
たとえそんな状況になったとしても、大学生はみんな東京に集まるに決まっている。
既成事実によるブランドを抜きにすれば、大学の偏差値は、人口と立地条件で決定されるから。
高校の偏差値は、その大学への入学実績の数で決まる。
なぜなら、東京には会社が多くて就職活動で有利だから。
人が多いからイケてるキャンパスライフが楽しめるから。
ブランドによる虚構を完全に抜きにしたとしても、結局はこうやって選ばれる。
教育なんて関係ないんだよ。
3. 彼らが望んだ社会
「教育の機会が平等に欲しい!」「学びたい!」という言葉は、嘘だ。
そんな言葉で飾ってはならない。
本当のところは、他人を踏みつけたいというエリート精神が、偏差値を必要としている。
人が多くてにぎやかなところに住みたい。
いい企業に就職できる可能性を維持したい。
そういった虚栄心(というか現代社会における死活問題)の結果が、偏差値である。
ブランドという言葉はこういう意味であり、企業としても新入社員を選ぶ際に大いにそれを活用している。
教育機会の不平等の現況たる偏差値は、必要だから運用されている。
そしてそのゲームの勝者は、その状況を心の底では楽しんでいるから、こういう差別的な社会が肯定された。
論理ではなく愛を肯定するOSや、運転免許学科試験のクソ問題のように、現代社会における正義は、死体の数で構成されている。