「論理を省略して簡単にまとめる」という責任
「薬の成分に影響するから水かぬるま湯以外で飲んではダメです!」
「お茶や牛乳で飲むのも当然ダメです!正しく飲んでください!!」
自分の知ってる限りでは、薬を飲むときの注意事項には、必ずこんなことが書かれている。
医師の指示に従い正しく服用してください、とは言うものの、その医師の指示というのが頭ごなしであり、水かぬるま湯以外の手段は基本的に邪法として扱われていた。
この頭ごなしには、昔から「良薬は口に苦し」という諺が説明に使われてきたが、なにもこの諺は「薬は苦くていい」ということを許可する言葉ではない。
子供だけではなく大人にとっても、薬は飲みやすいほうがいい。
そういったある意味当然の要求が、ようやく伝わってきたのだと思う。
しかし、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切る方が、薬学的には当然正しいし、責任も負わなくて済む。
実際に、水かぬるま湯以外で薬を飲んで悪い結果になる案件が出てきたから、薬の説明書にもわざわざそうやって書いてあるのだろう。
だがそれでも、「薬は飲みやすいほうがいい」という要求自体もまた、真である。
医者や技術者や教育者など、その世界を切り開く能力を持った人間には、二つの義務がある。その世界を開拓することと、後続の者が通りやすいように道を整備することである。
今日は、その義務について書いてみようと思う。
目次:
1.細かい事項を説明しない、という責任逃れ
「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切ることは、薬学的には当然正しい。
例えば「お茶で飲んでもいい」ということを正式に許可するためには、定義された全てのお茶で全ての薬を試して、結果を保存しなくてはならない。それでもし問題が出てきたら、それはお茶では飲んではダメな薬として除外するか、問題が出ないように薬の組成を変える必要が出てくる。組成を変えたら、また全部のお茶でテストをする必要がある。
こういったテストを、現状の薬ではやっていないから、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切ることは正しい。というより、「お茶で飲んでもいい」と許可することは明らかに嘘になる。
だからこそ、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言っておけば、とりあえずは正しい。
コストや手間の問題もあるため、むしろ現状ではそういっておかざるを得ない。
こういった薬の飲み方の例のように、「細かい事例に対応することを放棄する」、「全部に対応できる説明だけを用意して責任を逃れる」といった手法は、ほかの分野でもよく用いられている。
例えば、最初から最後まですべての定義が書いてあるが、やたら分厚くて説明口調ばかりで、論理の流れをつかむのにすら難儀する学術書。
例えば、全部の機能や特性を記述してはあるが、「じゃあこのピンには何Vまでの電圧をかけていいのか?」といったことすら素人には読み取れないCPUのデータシート。
例えば、全員に同じ給食を食べさせて、好き嫌いはおろかアレルギーも認めようとしない小学校の教師。
「全ての定義を一から全部記述すること」、あるいは「すべてに対処できる一律の手法」は、とても強力である。
ある意味最小限の手間で済ませることができる。
例えば、外国人の留学生に日本語を教えるときには、わざわざ付き添って話して書いて教えるよりも、国語辞典を投げつけて「全部覚えろ」と言うだけ方が間違いなく楽ではある。そして、本当に国語辞典を全部覚えたのならば、付き添って教えた場合よりも、おそらく日本語は上手くなるだろう。留学生の憎しみの感情は溜まるだろうが。
また、「厳密だが分厚くて分かりにくい説明書」というものは、一見の素人をシャットアウトする手法として機能する。
何千ページもある学術書や説明書には、「すべてが書いてある」という安心感があるし、その筋の人間が頑張って書いたものである、という自負もある。それを読んでいない者は全て「不届きもの」として追い返すことができる。
「こんなのも読んでいないのか?ア~ン?」というマウンティングもできる。これは既に読んでわかっている側にとってはとても気持ちがいいし、「楽」もできる。あくまでも、教える方にとってだけだが。
2.論理をアスファルトで埋め立てる、義務と責任
このような、「全ての定義を一から全部記述すること」、あるいは「すべてに対処できる一律の手法」というものは、仕方なく採用されている面も確かにある。
「分かりやすく大雑把に説明すること」には、それ専門のスキルや精神が必要であるからだ。
分かりやすく大雑把に説明してしまうと、そこには正しくない内容も含まれてしまうので、膨大な量の検証も必要だ。
そんな状況だと、後から別の者が、「それは厳密じゃないぞ~?」と突くことも簡単だろう。
あらゆる科学や論理は「必要があるから」「それに気付いたから」構築されている。無視していい論理など、一つだってありはしない。
「薬は飲みやすいほうがいい」という欲求は純然たる事実であり、薬の効能と同じぐらい、薬学が追及しなくてはならない問題である。
例え、今までの薬学と相反するものであっても、見つけて気付いてしまった以上は、そこは開拓しなくてはならない分野である。
薬は患者が飲まなくてはならないものであり、通常の手段では味覚や痛覚に必ず抵触する。
それを「良薬は口に苦し」とかいって薬学を神聖化すれば、元々の「人を救いたい」という薬学の目的が果たせなくなる。
だからこそ、イチゴ味の歯磨き粉や、ゼリー状オブラートなど、そういった製品が研究・開発される必要がある。
決して邪道などではないし、科学に貴賤などそもそもあってはならない。
「苦くて飲みにくい薬」と同じように、「厳密だが分厚くて分かりにくい説明書」も同様に追及・解決されなくてはならない。
そもそも科学や技術といった人類の知識は、お金や食べ物などの物質と違って、全員がコピーして使用できる点にこそ価値がある。「分かりやすさ」という価値を減らせば減らす程、その技術の価値は落ちることになる。
科学を追求することと、後続の者が通りやすいように道を整備すること。この二つの行為を両方行うことにより、初めて人類の知は進歩する。
未知の世界に、ただ行ってみるだけでは本当の「開拓」にはならない。道を敷き鉄道を敷き、街を作って初めて真の開拓になる。
「後続の者が通りやすいように道を整備すること」は、前に進む仕事ではなく、ある意味後ろに進む仕事である。しかし、それも科学の価値を上げる仕事であり、貴賤などはない。
また、「後続の者が通りやすいように道を整備すること」は、多くの場合で「無駄をそぎ落とす行為」であり、言ってみれば、せっかく作られた論理をアスファルトで埋めてしまう行為であるともいえる。ごちゃごちゃした分かりにくいものを一つにまとめて、通りやすい道を作る行為である。
「ここってアスファルトで埋めちゃっていいのかな?」という判断をすることは、とても難しいことであるし、大きな責任が伴う。だからこそ誰かがやらねばならない。未知の世界を開拓できる能力を持った者が。
本当に医学で人を救っているのは、「この薬ならお茶で飲んでも大丈夫だよ。食後ならお茶の方が楽でしょ」と言ってくれる、気のいいおじいさんの医者だ。
3.責任に気付く者と、無視をする者
「プログラミングを学びたい!」という、清い心を持った若者に対し、「まずはこれができるようになれ。話はそれからだ」と言って、JAVAの公式ドキュメントを投げつける行為。
そうやって片づけておけば当人は楽ができるし、気分がいい。「千尋の谷」とか「親方の技を見て盗め」といった伝承に近いメンタリティだ。「厳しい教育を行った先輩」でいることができる。
そしてその中で、本当にドキュメントを読み込んで一人でできるようになった若者が出てくれば、それこそ儲けものだ。むしろ、自分自身もこのような手法で生き残ってきた存在であるため、それ以外の正義を認めることができない。
こういった、間違った論理の進化の中では、この程度の人間性しか育つことはない。
こういう押し付けをする人間は、JAVAの公式ドキュメントを一から読んでできるようになった、という自負があるが、いざ自分が「別の言語の仕様書を一から読め」という状況になった場合は、平気で手のひらを返す。
「一から読んでもわかるはずがないだろう?効率が悪い」とか、「なぜ技術習得のセッションや時間を設けないんだ!」などと喚きだす。
先日の記事でも述べたように、結局は、「自分が勝てるところ」がすべての論理であると思っている。
だが今回の「薬の飲み方」の例のように、いくつかの分野では、この病は治りつつある。
例えば「家電のマニュアル」なんかでは、最初の数ページは「~しないでください」の注意事項のラッシュで言質取りばかりを行っているが、何年か前からは、「すぐに使うには」「こんな機能が新しい」といった説明にページを割いて、なおかつ全体のページ数も最小限になるような構成が主流になった。
「格闘ゲームのコンボ」なんかも、同じような原理が働いていると思う。
「ダメージが低いがほぼ100%安定する妥協コン」と、「ダメージが高いが高難易度の魅せコン」がある場合、実戦で勝つのに必要なのは前者の方だと、格闘ゲーマーたちは気付いている。
練習時間と精神力が無尽蔵であると仮定すれば、高い難易度で一番減るコンボだけを練習していればいいのだが、「実際には練習時間と精神力が無尽蔵ではない」という認識の下で、新しい科学をすでに始めている。
「魅せコンより安定妥協コン」
「より消費者に受け入れられやすいマニュアル」
「薬は飲みやすいほうがいい」
「後続の者が通りやすいように道を整備する」
未熟な学者や技術者は、これらの重要性にいまだ気付いていないが、「ちゃんと自分自身の責任で戦っている者」ならば、こんなことにはとっくに気付いている。