【ガチなら許す】夏休みの自由研究
夏休みシーズンだということで、自由研究の宿題のことが話題になった。
「ミニ四駆は自由研究として有りか無しか」ということが議論されているが、自分は小学生のころ、自由研究ってそもそも何をやっていいのか全くわからなかった。
何を出せば怒られないのかが分からなかったから、人にアドバイスをされるまで自分では手を付けなかった。
自分も研究者をやっていたことがあるから、今なら分かるんだ。
「研究とは何か」なんて高度な問答に小学生も先生も答えられるわけがない。
自由研究の宿題はクソゲーである。
今日は自由研究の宿題がいかにクソゲーであるかということと、許されざるオタクの思想のことについて書こうと思う。
目次:
1.自由研究という禅問答
自由研究の宿題が出るときは、「自由だ」とは先生から聞かされる。
しかし実際にはダメなことがたくさんあることをすぐに学ぶ。
真面目なものじゃないとダメ。苦労していないとダメ。
なんとなくこういうルールがあることぐらいまでなら、怒られながら覚えることができる。
そもそも何をやればいいのか、小学生にはわからない。
だって先生も真面目に説明してないし、「研究とは何か」ということを教えれる人間なんて一握りも存在しないから。
何か新しいことを調べればいいのだろうか。小学生はそう考えるが、何が新しいのかを調べるためには既存の本を読むことになる。それじゃあ「新しくない」よねこれ。
最初から自分一人で考えれば「新しい」は達成できるが、「真面目なもの」という縛りがある。もし仮に何か教師受けしそうなことをたまたま自分が知っていたとしても、次は「苦労しないとダメ」という壁が立ちふさがる。
自由研究は、もはや禅問答である。
先生の話を聞く限りでは、抜け道は何とか見つけれてもすべての選択肢に返し技が設定されているから一歩も動けない。
恐る恐る提出しても「こんなんじゃダメだ!」と突き返される。
何がダメかもわからないし、先生がこれにしろと言ったものもなぜそれがいいのかわからない。
そうやってすべての活路をふさがれているから、小学生は持ち前の明るさを使ってネタに走る。一発ギャグに等しいノート数枚を提出して許してもらおうとする。
自分が使える武器が無いから、不正に走るようになる。すでに本にまとまっているようなものをいかにも自分で調べましたみたいな細工をして、デコレーションして苦労しました感を演出する。
「いかに上手く誤魔化すことができるか」を競争するようになる。
研究の意味も必要性も理解することなく、「何も手掛かりがないところでお茶を濁す力」だけが鍛えられる。
以上が、自分の「自由研究」に対する記憶である。
知性と科学が腐っていく過程は小学校のころから始まっているのだと思い知らされる。
2.タブーの存在
まあ答えとしては、先生の逆鱗に触れないようなものを、規定されたフォーマットで一定量以上書いて持ってくればそれでクリアーとなる。
宿題としてはそれだけのミッションだ。
しかし「先生の逆鱗に触れないようなものって何?」というトラップは切り抜けないといけない。
公表しないものをルールにすることは間違っているし、そもそも研究内容に貴賤など存在しないのだが、先生のタブーを踏んでしまった場合はアウトになる。
そのタブーに「ミニ四駆」が含まれているのかいないのかというのが、冒頭の記事での議題だった。
元々が先生のさじ加減一つで決まるクソゲーだから「その学校の先生に聞け」というのが唯一の答えなんだけど、大人としてはいろいろ意見を述べたくなるようだ。
3.「ガチなら許す」という大罪
今日の記事で一番言いたいことなので、ちょっと乱暴な言葉を使う。
AをBに認めるか否かという議論において、「ガチなら許す」という判断を出した人は、全員氏んだ方がいいと思うんだ。
「ミニ四駆が先生に認められるか」という話をしているときに、
「モーターの慣らし方でデータを取って回転速度と空力を計算して理想的なパーツ配置を表にしてタイムを計測してその試行錯誤をレポート形式にしてボディの重さとスピードの相関とかミニ四駆進化史とかベアリングの脱脂とかマスダンパーの効果とか…これぐらいやれば先生も認めてくれるよ!」
という話を少しでもしてしまった人は、ダメだ。
冒頭のまとめでは、そんな意見を述べている人が大勢見受けられた。
口ではそう言ってるけど実際にはそう考えていない、という人もいくらかは居たのだろうけど、結果的に「ガチなら許す」という結論を発信させたのならばもう赤信号だ。
「ガチなら許す」という判決は、知識を持ったオタク特有の上から目線の乱暴で傲慢な判決である。
認めるとか認めないとかって話題がどれだけエゴイスティックになるかは簡単に想像ができるだろう。
「ガチなら許す」ってことはすなわち「ガチじゃないなら許さん」ってことを言っているのと同じだ。
もともと自由研究がルールの無いクソゲーだということを無視してまでも、知識量でマウンティング合戦に誘っている。
「これだけの知識と本気度を先生に見せつければ大丈夫だよ!」などとキラキラしながら宣う。
研究に貴賤などない。
カッコよくないと許されない研究なんてものは無い。
知識を並べた量が評価される研究なんてものも無い。
自分が「語れる」分野になるとすぐに熱くなり、こんな基本的な原則すら忘れてしまう。
「ガチ度」というステータスに何の判断基準もないくせに、他人を「ガチ度」で評価する。
何様のつもりだろうか。
「詳しいオタク様」のつもりなんだろうね。
誰だって、「詳しいオタク様」が知識量でマウンティングを始めて「にわか」を叩き殺す風景を何度も見たことがあるはずだ。
作ったプラモの写真を自分のツイッターにアップロードしたら「下手くそ」とか言っちゃう系。
「絵が下手な奴は同人誌を出すな」とか言っちゃう系。
何を根拠にそんなことを言ったのかと問い詰めてみれば、結局のところは「モデラーとして認めない」「絵描きとして恥ずかしい」「誇りや意識が足りない」といった程度のことしか言っていない。
自分が詳しい分野で「ガチだ」とキュンときちゃえばもうそこで思考停止。
どんなに汚くて間違った思想でも「オタクの誇り」で許しちゃう。
クソゲーの自由研究みたいなものでも、「人にお披露目できる貴重な機会」だったら舞い上がっちゃう。
そういうチョロくて危険なオタクを何人も見てきた。
こういう隙だらけの思想を持っている者は必ずミスをする。
いつでも足元を掬われる。自分が好きなその分野の中でさえも。
普通の食塩水の実験とかなら自由研究に持っていっても何も言われないのに、ミニ四駆にだけ厳しい条件が付けられているという不公平に気付いていない。
4.(差別されて当然だろ)
「ガチであろうとなかろうと、やるべきことや楽しめることは誰にだってある」。
世界には頂点などない。
ガチでない者も世界を支えている。
自分の知識量に酔ってしまったオタクは、こんな大事なことをいとも簡単に忘れる。
普段よっぽど難しくて高度なことを考えているくせに、自分自身のオタクの思想にだけは本気で向き合ったことが無い。
なぜならば、「ガチ度」でマウンティングをしていれば大抵の相手には負けないから。
素人を叩いていれば気持ちを保てるし、自分の好きな世界の中で思考停止ができるから。
こういった弱い心が、「オタク」を社会の敗北者にした。
・知識量でマウンティングをするのが大好きで、必要もないのに勝手に語りだす。
・知識の量はすごいのだけどそもそも知らないニッチな分野。
・的外れな押し付け、猿山のキモい仲間意識。
・それでいて本人はすごくキラキラした目をしている。
ステレオタイプな「オタクの気質」を列挙したけど、なんでこういう評価が生まれて根付いてしまったのかをよく考えた方がいい。
2010年代になってオタクは社会に受け入れられてきた!なんて調子に乗っている場合ではない。