愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

【人間】愛で生きるか理屈で生きるか

 

面白い記事が書かれていた。

pipipipipi-www.hatenablog.com

 

人間は、愛情が足りないとおかしくなる。

自分も似たような理論を考えたことがあるので、便乗して記事を書いてみようと思う。

 

人間は、「愛情で生きる」という方式を採用した人と、「理屈で生きる」という方式を採用した人の、二種類に分けられる。

そして愛情の世界から切り捨てられた敗者が、「理屈で生きる」という方式を採用するまでの、道筋を示す。

 

 

 1.人間にはなぜ愛情が必要なのか?

正しいか正しくないかというだけならば、愛情よりも理屈のほうが勿論正しい。

なぜならば、愛情は人体の内部だけで定義された事象であるからだ。

それに対して理屈は、全ての宇宙・概念にまで広がっているからだ。

人間が手に取る武器としては、理屈は愛情の上位互換、といっても差し支えない。

愛情と理屈は、どちらを採用するかというのにはまだ議論の余地があるが、どちらがより広くて正しいかといえば、間違いなく理屈のほうが広く、正しい。

 

しかし、人類は何万年か前に誕生した時は、愛情の方を採用していた。

多くの人間が群れを作って、食料を集めて労働力を確保していた。

そうした本能が何万年も続いたため、現代の人間にも、「愛情で生きるべき」という本能がいまだにプリインストールされている。

 

愛情と比べて、理屈は成長するまでに長い時間と手間暇が必要だ。

現代のように、情報を保存してコピー・洗練させる時代になったのはせいぜい1000年前ぐらいからであって、人類の今までの歴史に比べればずっと短い。

 

現代人の肉体も、愛情が足りないと危険信号を出す仕様が残っている。

だから、いかに金や正義を十分に持った現代人であっても、誰からも認められずに愛情も受けずにいると、おかしな行動をとるようになる。周りの人や自分の持ち物や自分自身を、壊して回るようになる。

 

正義とは完全に理屈によってのみ作り上げられるものであるが、人間自身は完全に理屈だけでは生きることはできない。どんなにため込んだ理屈であっても、最後は「当人の信じる力」がないと運用できないのだから。

 

 

2.愛で生きることを採用した人たち

人体には愛情が必要だという歴史と本能があったわけだが、愛情で生きればいいかといえば、そうでもない。

 

「愛情は理屈に比べて範囲が狭く、愛情の方を採用していると人類の進歩が遅くなるから」という理由はそこまで重要ではない。

別に人類の進歩の速度が一定以上でなくてはならないなんて理由はないし、理屈を考えないで本能で生きていられるというのは、理屈の側から考えても、それなりにユートピアであるといえる。

 

愛情で生きることの何がヤバいって、人間が行使できる愛情が有限であるからだ。

 

無償の愛はあったとしても、「無限の愛」というものは基本的に無い。

人間が他人を配慮できる数には、精神的にも物理的にも限度がある。

他人へ意識配分も、愛情を確かめるための貢物も、人口の欲求に対して総量が不足している。

 

人間は、目は二つ・頭は一つしか持っていない。

家族であっても、たった十人かそこらで目が届かなくなる。恋人なら三人もいれば頭はぶっ壊れる。

つながりの薄い友達組織ならば、100人ぐらいまで大丈夫かもしれない。ということはつまり、人口を増やすためには愛情を薄めないといけないというわけで、人体が愛情を求めるのならば、人口を減らさなくてはいけない時が必ず来る。

組織を分割するという手段を使ったとしても、愛情の効率が悪くなるだけで必要な愛情の総量は変わらない。

ドラクエ3のパーティーに5人目を入れようとするときのように、必ず誰かを不採用にして切り捨てなければいけない。弱くてどうでもいいやつから順番に。

 

学校の先生も、クラブの先生も、研究室の教授も、会社の部長も、国の大臣も。

本当に愛があるんだったら非リアもオタクもワープアも低学歴も全員救ってくれるはずだろう!?

「全部は無理だね仕方ないね」という事情を一つでも通した時点で、愛情は敗北している。

愛情とは、生と殺に向かって同時に走りださないといけないという、矛盾を抱えたシステムだ。

 

切り捨てられた者にとっては、愛情とはこのように残酷無残なものである。

だがそれでもなお、現代においても多くの割合の人が、愛情で生きる方式を採用している。

 

たぶん、人類はもともと群れで生きる猿であり、現代においても完全に進化しきってはいないのだと思う。

頭脳から発せられる「理屈を求めよ」という好奇心や使命感を遂行するためには、まだ人体の方の進化が追い付いていないのだと思う。

 

 

 3.「愛情で生きる」の真の姿

愛情で生きるという生き方は、すなわち「人間至上主義」だと言い換えることができる。

そして、この「人間至上主義」というのはだいぶ危険な思想だ。

自分や他人の人体が愛で満足できれば、それ以上の理屈は必要がない、ということを意味している。

 

愛が満たされていれば理屈はどうでもいい。

例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という標語がある。この標語はもちろん理屈としては間違っていて、トラックが突っ込んで来たら全員死亡する。

しかし、みんなと一緒ならば死んでもいいという思想がこの標語の意味だ。

「人間至上主義」を信じてしまうと、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という嘘の理屈を通してしまうことができる。

 

さらに「人間至上主義」は、そのまま「他人至上主義」になり得る。

愛情は自分だけでなく他人にこそ向けるものだから。人口が増えれば増えるほど、他人の割合が増えていくから。

思考を他人に委託すれば、自分は思考停止ができる。

「~さんが言っていたから正しい」。「周りの人が買っているから買う」。

こういった正義も、「他人至上主義」ならば採用されてしまうわけだ。

 

愛情で生きるというのはこのような考えであるが、人間が本能にしたがって生きるのならば、これはこれで正しい生き方だともいえる。

愛情で生きるということは、満たされなかった人を切り捨てるということだが、自分だけは絶対に切り捨てられないカーストの上位である、という前提を信じ込めば、「人間至上主義」も胸を張って誇れるだろう。

「自分は人間なのだから人体以外のことは知ったことではない」という考えも、採用するのはアリだろう。

 

 

4.「理屈で生きる」という生き方について

愛情で生きる、という生き方を突き詰めてしまうと、このようなことになってしまうし、実際にこういうことになっている。

 

このように愛情による世界の運用を強行すると、愛情の世界から切り捨てられた者がたくさん現れる。

そしてそのうちの何割かが、「愛情なんかで人間の価値を決めるのはおかしくねぇ?」と言い出した。

 

だって自分が特に劣っているわけでもないのに、なぜか世界から切り捨てられて、本能を満たせないみじめな状態に陥っている。

自分が切り捨てられたことも含めて、現代における大抵の不正・ルール違反は、「人間至上主義」と「他人至上主義」から生まれていることにも気付いてしまった。

 

切り捨てられた者たちは、その状況に至って、彼らの不正を証明するために「理屈」という武器を持ち出した。

「なんでやつらに俺たちを切り捨てる権利があるのか」ということを考え始めた。

すると、割と早い段階で気付く。「愛情なんて所詮人体だけの現象じゃね?」と。「俺たちはこの程度の奴らに裏切られたり許されたりしていたのか」と。

 

そうして、愛情ではなく理屈で生きる方式を採用した者たちが誕生した。

理屈は、自分たちを裏切った愛情と違って、嘘をつかない。例え「自分が死ぬべきダメ人間であった」という理屈だったとしても、納得して死ねるなら満足ができる。

理屈は、コピーしてもなくならない。愛情と違って無尽蔵である。これならば、奪い合うこともなく正義に向かってのみ走り続けることができる。

 

「愛情」に切り捨てられた者。「理屈」で生きる者。

すなわち、現代における孤独でキモいオタクや、危険思想をばらまくブロガーなどがその「理屈で生きる者」にあたる。

彼らはこのようにして「理屈」という危険で崇高な武器を取った。自らが生き残るために。

自らが生き残るためならば、理屈という武器のもとで、テロや迷惑行為だって平気でやるだろう。

 

逆に、愛情に裏切られたという経験が無いまま理屈という武器を使い始めた者は、ニセモノである可能性が高い。いつでも「理屈」を裏切って「愛情」の方に逃げれるというのならば、そこですでに「理屈」が成り立っていないからだ。

 

 

5.愛情の世界で理屈が生きるために

以上、自分が考えた「なぜ理屈っぽい人間は孤独でキモくて危険なのか」という理論を綴った。

人間には、愛情を信じる人と理屈を信じる人の二種類がいる。言い換えれば、正論という言葉を悪口として使う人と、神として尊ぶ人の二種類がいる。

 

現在のところは、社会を支配しているのは「愛情」を信じる人の方が優勢である。以前の記事でも述べたように、日本では7割の人間が「ものを考えない人」であり、上流階級の人間も、その7割の人間をどのように利用しようか、ということしか考えない人である。

 

しかし「理屈」を信じる人間であっても、愛情を信じたいという本能はいまだに残っている。それを解消できないからイライラしているわけで。

敗北を一部認めてでも、7割の人間の方に入っていかないと、このイライラは一生消えない。

 

自分は、愛情も理屈の一部なんだと思う。

それを認めて、理屈を持って愛情の世界に入っていけば、人生ははかどるし、理屈はさらなるパワーアップができる。

そう考えている。