愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

ネット言論のアキレス腱

 

先日の記事に、インターネットの言論は、弱者の武器であると書いた。

clacff.hatenablog.com

インターネットの言論は核兵器のように強力であるが、特に環境を汚染するようなものではないので、どんどん使って戦うべきだと書いた。

 

しかしインターネットの言論は、核兵器ほどに強力ではあると言っても、実際のところはとても脆い弱点を抱えている。

 

今回は、インターネットの言論のアキレス腱と、その防御手段を書こうと思う。

炎上を恐れる強者の立場ならば、こういうところを狙うといい。

炎上で戦う弱者の立場ならば、その弱点を知って防御することが必要だ。

 

 

 目次:

 

 

 

1.インターネットの炎上を支えているもの

基本的にインターネットにおいては、掲示板やツイッターのような書き込みやすい媒体ですら8割がROMであり、自分から意見を発信する人間は少ない。

gendai.ismedia.jp

先日取り上げた現代ビジネスの記事でも言われているように、インターネットの炎上で直接的に攻撃力を発揮する人間は、一つの炎上でせいぜい5~6人だと言われている。

 

 ・インターネットに長時間張りつけるほど金と時間に余裕がある人間であること

・社会における人間関係を特定する技術を持っていること

・インターネットの文化やセキュリティに詳しいこと

・それらの成果を発信する気概があり、警察を恐れない人

考えてみれば、以上の条件を全部満たした戦士など、そうそういるわけがない。

だからこそ、そうした人間は昔から「神」と呼ばれてきた。

 

そして、その5~6人の神が、インターネットの言論におけるアキレス腱であるといえる。

 

 

2.インターネットの言論の脆さ

インターネットで言論を展開する弱者にとって、一番怖いのは、その5~6人の神が特定されて潰されてしまうことだ。

 

実際、炎上が完全に終結するパターンの一つは、「警察が介入して犯人と詳細が全部明らかになること」である。

だから、炎上させる側も警察沙汰にはならないように細心の注意を払う。住所の特定もスネークも、ぎりぎりのレベルを狙って行われる。

 

最近では、優ちゃんの遠隔操作事件が(比較的)記憶に新しいかもしれない。

www.sankei.com

この事件も、最後は警察の張り込みによって終結した。

「誤認逮捕されて人生終了した人はどうなる?」という言論は残っていたはずにもかかわらず、炎上はそこで終了した。

 

 インターネットは弱者の武器であるが、リアルの世界においては、やはり世界を支配しているのは強者の方だ。

警察が本気を出せば、5~6人の神を取り押さえることは、少なくとも神がネットを炎上させることよりは簡単であるはずである。どう考えてマンパワーで勝っているとは考えづらい。

また、一定以上の社会的地位を持つ人物であれば、弁護士がきちんと調査したうえで「晒してくれた奴は訴えるぞ」と言い切ることもできる。こうされてしまったら、5~6人の神などひとたまりもない。

それに、もともと5~6人の神は、炎上の加担において反社会的なギリギリの行為を行っている。だからこそ、神と呼ばれているわけで。そのような前提であるから、突かれると非常に脆い存在ではある。

 

 

少し小噺として、「法治社会において最終的に一番強いのは医者」だという話を聞いたことがある。医者ならば、診断書を書いてしまえばどんな人間でも合法的に殺せるから、だと。

どんなに偉い政治家でもヤクザでも、例えば「事務所が火事で全員死亡」とかいう事件があったら、怪しまれるし調査もされる。しかし、ある程度権力を持った医者が、誰かを心不全だと言って診断書を書いてしまえば、完全にそれまでで調査もされないから。

天皇や大統領ですらも、最終的には医者によって殺されていると言える。

 

それと同じで、たとえネットの社会でどんなに強くなったとしても、リアルの社会においてはどんな神でも死の危険性がある。

インターネットを構成する通信や電力といった物理的なインフラは、リアルの社会と不可分であるため、これはそうそう奪われたりはしない。

しかし、たった「5~6人の神」ならば、いざとなれば狙い撃ちされるものだと考える。

これならば失っても特に社会の害にはならないので、強者にとって都合の悪い炎上が起きれば、平気で逮捕されるだろうと考える。

(というか犯罪行為をやってたら普通に逮捕されるよね。)

 

 

3.ネットの言論が負けないために。

社会における弾圧や不当逮捕に対抗し、正義を示すための手段の一つとして、

「たとえ私が死んでも正義は受け継がれる!」

というものがある。

歴史を振り返ってみると、近代的な民主主義や自由主義などは確かにこうやって勝ち取られてきた。

 

しかし、この戦法はインターネットの言論においては多分通用しない。

民主主義や自由主義ならば、学の無いものがそれを聞いても、理解して実行することができる。しかし、インターネットにおける言論については、そうもいかない。

先述したように、「神」になるためにはとても厳しい条件と高い技術力が必要である。

 

「私が倒れても第二第三の神が現れるだろう…!」という期待は多分成り立たない。

たしかに、言論における活動力みたいなものは、おそらく一定量は存在するのだろう。

彼らが全員討ち死にしたとしても、また何十人かは、風紀委員に立ち上がる人が出てくるだろう。逆に神が倒されたことで、義憤に駆られてより力を発揮する人もいるだろう。

でも、その風紀委員が、もといた神より強いかと言われれば、たぶん強くはない。

 

 

本気でインターネットの言論でリアルの強者に勝とうと思うならば、以下のことが必要だ。

・神は死ぬ前に技術を公開すること

・その技術を継承して、洗練させること

次世代の芽が、枯れずに大きくなる方法はこれしかない。

 

例えば、以下のような技術だ。

togetter.com

togetter.co

電車の音で住所を特定するとか、そういった戦うための技術はどんどん公開するべきだと思う。むしろ、向こう側もこういった技術を使って潰そうとしてくるはずなので、身を守る手段としても技術を知ることはとても重要だ。

 

テロリストは手口を秘密にしたほうが有利ではないか?という意見もあるだろうが、おそらく現在ストーカーが知っているようなことは、本職の警察ならばもうとっくに知っている。知らないのは一般人だけなんだ。

 

技術や情報は、潰される前に拡散していかなければいけない。

ノウハウを分かりやすく、伝わりやすくまとめるというのは、ここにおいても必要とされている技術であると思う。

 

 

 

【貧者の核兵器】インターネットにおける「炎上」の正義

 

少し前だが、現代ビジネスで非常に興味深い記事を読んだ。

gendai.ismedia.jp

インターネットにおける、いわゆる「炎上」の話をしている。

そのなかで、「ネットは貧者の核兵器という表現が出てきた。

 

非常にうまい表現で、まさしくその通りだと思う。

今回はその正義の是非について書いてみたいと思う。

 

 

 目次:

 

 

 

1.自分が考える、インターネットでの言論の始まり

もともとインターネットというものは、1960~70年代に、大学や研究所におけるデータベースの共有から始まった。1980年代から商用利用が解放され、現在に至る。

 

インターネットには、生まれつき、以下のような性質が備わっていた。

  • 設備と知識が必要
  • そのかわりに、一度使いこなしてしまえば、とても低コスト

このような性質があるからこそ、学術の場で生まれて、学術の場で便利に使われた。

 

現在では、「設備と知識が必要」という面については、いくらかは緩和されている。

インターネットをやりたいだけなら、auショップスマホを買えば、いくらかの金はかかるが、特に何も考えないで使えるようにしてもらえる。

自宅にネット回線を引くときも、折り込みチラシの番号に電話して、お金を払えば工事をやってもらえる。後は電気屋に行って、ルーターやパソコンを買ってこればいい。今どきの製品なら、どれを選んでも大体は何とかなる。

 

それらはすべて事実だが、それでもなお、インターネットには「設備と知識が必要」という前提は無くなっていない。

 インターネットの接続について、よくわからない人は高齢者だけではない。便利になりすぎた故、ある意味若い世代にとっても、デジタルディバイドは存在している。

何も知らない人がインターネットに接続したところで、ちゃんと使いこなそうとするのには結構な意志力が必要だ。

インターネットにおいては、自分で調べて学習すれば、いくらでも知識を得ることができるが、その差を知識なしで埋めようとすれば、やはり多めの金が必要になる。

 

つまり乱暴な表現をすれば、元々インターネットとはオタクの武器である。

「設備と知識が必要」という前提は2016年の現在でも残っているし、「一度使いこなしてしまえば、とても低コスト」という性質も、オタクという存在にマッチしやすい。実際に2000年以前ぐらいまでは、間違いなくそういった世界があった。

 

そしてオタクの武器であると同時に、弱者の武器でもあった。

言うまでもなく、オタクは社会においては弱者である。また、現在におけるスマホの文化の主役である若者たちも、多くは設備や知識を持たないという面で、弱者だと言える。

 

そんな弱者たちが、「低コスト」で大きな力を発揮することができる武器が、インターネットであった。

 

 

2.弱者はなぜ戦うか?

インターネットが普及する以前は、言論という世界は所謂「社会の強者」だけの舞台であった。

 テレビ、新聞、雑誌。そしてそれに付随する、報道、芸能、文芸。どこにおいても、多くの金と才能がなければ、発言権を得られない世界であった。

 

しかし、インターネットという武器の普及により、情報革命が起こって、金も才能も持たない弱者が、言論という舞台で戦えるようになった。そうして言論の世界の規模が拡大したが、その結果「炎上」という現象が、頻繁に起こるようになった。

 

 

この記事でも述べられているように、なぜか弱者が強者に戦いを挑んでいる。

 

しかし自分が思うに、無意味に起こる炎上などは(ほぼ)存在しない。

炎上には必ず「燃料」が必要である。

例えば未成年が飲酒をしていたり、知識人ぶっている人が二枚舌をさらしていたりする、といった、例が分かりやすい。

 

なお、インターネットの亡者たちは何でもかんでも燃料にできるわけではなく、以下に当てはまるものしか叩けない

  1. 「嘘」であるもの
  2. 「下品」であるもの

これらを叩いてつぶす戦いが「炎上」として結果に残る。

1.2.に当てはまらないケースで暴れている例もないではないが、それはただコメント数が多いだけの現象であり、有効な炎上にはなっていない。

 

途中で新しい証拠が出てきたり話の流れが変わった時に、今まで喜んで叩いていた亡者たちが、ソッコーで手のひらを返す様もよくみられる。これは亡者たちが最初から一貫して1.2.の原理のみを判断して動いている証拠であり、手のひらを返す速度はむしろ正しさと潔さの表れだ。

何とかして別の証拠を見つけようとあがく姿も、正しい論証であるといえる。

 

未成年の飲酒は、すでに犯罪として定義されているから分かりやすい。「犯罪者なんかじゃないですよ」というポーズを取りながら飲酒をかますのは、1.に該当する。

知識人が二枚舌をさらしているケースは、例えば、現役の小学校教諭が「男子は汚くて馬鹿だが女子はかわいくて優れている」とかツイッターで言ってしまうような例だ。

これでも一応意見としては成り立っているため、1.だけでは当てはまらない。

「こういう極論を肯定してしまうような人間が現役教師である」という事実が2.であり、それがギルティとして扱われる。

 

1.と2.に共通している事項であり、最終的な判断の原理は、「自分が損をするかしないか」である。

 インターネットは弱者の武器であり、その弱者は今までの人生において、リアルの世界において何度も損をしてきた。

1.のような、他人の嘘に人生を踊らされてきた。

2.のような、女児を贔屓するような下品さによって差別をされてきた。

そういう憎しみが、インターネットの炎上の源であり、インターネットの言論が弱者の武器である以上、この原理は無くならないと思う。

 

 

3.核兵器を使うことは正しいのか。

「自分の利益のために暴力を振るう」という、かつては強者のみに許されていた手段が、インターネットの普及という革命によって、弱者もできるようになった。

 そういう意味ではインターネットは弱者にとっては救いであり、許されるべき戦いではある。

 

だから、戦う。

インターネットの炎上というものは、この世から嘘が無くならない限り、この世から弱者がいなくならない限りは、終わることがない。

 

【ネットは貧者の核兵器】である。

しかしそれは実際の核兵器と違って、別に環境が汚染されるわけでも、国が消滅するわけでもない。ただ強力で強者を脅かすことができる武器である、という点のみが残っている。

 

核兵器ではあるけど、これは使っちゃダメなわけでは全然ない。

これまでの努力の結果であり当然の権利だと思う。

 

むしろこう言った暴力は、今まで本物の強者のみに許されていた特権であり、それは今までは平然と行われていた。

 

 

 

選挙権が18歳に引き下げられる意味

 

2016年7月10日に行われる、第26回参議院選挙において、選挙権が18歳に引き下げられることとなった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160619-00000004-asahi-pol

 

選挙権を持つ人間が広がったことは、良い結果を導き出せる可能性が上がったことになる。国際的にも、選挙権は18歳からが主流であるし、このルール変更自体には、自分は賛成だ。

 

しかし、現代に日本の政治において、18歳が選挙に行くようになれば、こういうことを第一に学ぶことになると思う。

「やっても無駄じゃんなんだこれ」って。

 

今日はそのことについて、自分の考えを書いてみようと思う。

 

 

 目次:

 

 

 

1.現在の選挙のシステムについて

現在行われている選挙は、システム的な参加のしやすさについては、すでに十分に配慮がなされている。

選挙の日時は飽きるほど告知しているし、実際の作業も非常に簡便だ。

葉書を持って投票所に行って、名前を鉛筆で書くだけ。以上。

期日前投票も、以前に比べてずっと簡単になっている。

 

選挙のことがちゃんとわかるように、こんなビデオすら配られていた。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1001/20/news083.html

こんなレベルにまで落として解説しているんだ。

これ以上どうやって簡単にしろと言うんだ。

 

参加は簡単だ。死ぬほど簡単だ。

しかし、すでに誰もが感じている通り、選挙に参加する意味自体が、もはや弱い。

 

候補者のマニフェストは、分かりにくいというより、無意味である。

なぜならば、誰もかれも、具体的でなく耳障りのいいことしか言っていないから。

  •  経済問題を頑張る
  • 税金の無駄遣いをやめる
  • 地球環境に配慮する
  • 隣国と仲良くする

等々。

こんなものは、いいか悪いかで言ったら、当然やった方がいいに決まっている。何も判断するまでもなく。

これ以上の具体案を出してくれないと、議論のしようがないのだ。

 

そして候補者達は、知られたら困る情報はもちろん隠している。

どの企業から献金を受けているか、誰の命令で動いているか、誰のためにどういう政策を作ろうとしているか。私生活や個人の意思も、分かったものではない。

 

全員が悪いことをしているのなら、議論なんか無視して、ステルス戦法に走った方が当然勝率は高い。政治家も少なくない金と人生を投資している以上、勝つために動くのは当然だ。

 

だから、みんな同じようなマニュフェストしか用意しない。

そして過去の歴史が証明しているように、そうやって並べたマニフェストは、実は破ったところでどうということはない。

どんなに嘘を実行しようと、その一期だけならば与党でいられる。

もちろん次の選挙の時には不利になるかもしれないが、そのときはまたステルス合戦が始まるだけであって、正直者が勝つという未来だけはありえない。

 

それに、議員一匹が別の人間になったぐらいで、何の意味があるのだろうか。

冷静に考えれば、そこのところがそもそも意義が薄い。どうせ考えは政党で共通されているし、採決は最終的には多数決だ。採決の時にここぞというタイミングで、有権者が見込んだ正しい意志が発揮されて、その結果出来上がる法律が変わる、なんてことが、現実にあり得るのだろうか。

 

 

以上のことは、今まで選挙に行ってきた人間ならば、誰しもがわかっていることだ。

投票はできるけど、やったところで特にどうなるわけでもないって。

結局は自分の手が届かないところで、大きな不思議な力によって、政治は決まってしまうって。

 

 

2.大人に対する失望

従来20歳以上が行っていた、この国の普通選挙とは、以上のようなものだ。

 

今18歳である若者たちは、すでに似たような話、身近に見たことがある。

同じような出来事を、すでに経験している。

学校で行われる、生徒会選挙だ。

あれが茶番ではないと思っている生徒なんてなかなかいないぞ。

 

糸を引いているのは結局職員室であり、実務能力は完全に無視されている。

先生に気に入られた極一部の学生による、就職や進学の名声作りでしかない。

 

そして、生徒会の活動によって自分の学生生活が変わるわけではないことも、とっくに知っている。

ただ、人気者がもてはやされたり、死んで行ったりするのを眺める。

その程度の価値のイベントでしかないことを、とっくに知っている。

 

実際の国会選挙と同じような出来事が、すでに学校で起こっている。

結局は自分の手が届かないところで、大きな不思議な力によって、政治は決まってしまうということを、すでに深いレベルで教育されてしまっている。

 

 

それとも、教師たちが選挙の現実を詳しく教えてくれるとでもいうのだろうか。

何が正義でどこを支持するのか、その判断に必要な材料を揃えて考えさせてくれるのだろうか。

それには期待したいところだけど、教師の4割ぐらいが、「まあ行っても仕方ないよね…」と言ってないか?

いや、むしろこう教えてくれる教師はいい教師なのかもしれない。残りの6割の教師は、「国民の義務だから絶対行け!!」とゴリ押すことしかしないから。

 

子供たちは、いったい何を信じろと言うのか。

 

 

3.すでに見透かされている、「18歳選挙」

「生徒会の選挙は茶番であるが、国政選挙も同様に茶番である」。

選挙権が18歳になったからといって、この現実を2年早く学ぶ以上の意味はないと思う。

 

有権者の割合が少し変わったぐらいで、現在の高齢者が増え続ける社会に当たっては、政局には何の影響も及ぼさないだろう。

そして、そういう打算が既にできていたからこそ、導入されたルールなのだろう。

 総務省|「選挙」を知って、実際の選挙に備えよう|18歳選挙

総務省のURLには「将来を担う若者の意見も聞きたいから下げた」と書いてはあるが、「たったの2%で何が変わるの?」という根本的すぎる問題を、意図的に無視している。

本当に「将来を担う若者の意見も聞きたいから」と言うのならば、高齢化がこんなに進む前に、もっと早くに下げててよかったはずだ。

 

 ・千里の道も一歩から!

・ちりも積もれば大和撫子

(※恋愛サーキュレーション(化物語)より)

確かに、あらゆる権利はそうやって勝ち取られてきたのだろう。

最初の権利は小さいものである、ということだけならまだわかるが、最終的に勝ち目がある場合にのみ、その手のセリフを吐くことが許される。

 

正しい情報が開示されていない上に、人口比で負けている。

つまり選挙とは、そもそも能動的なゲームではない。

選挙によって日本を変えるのは、「無理ゲー」である。

当たりが入っていないどころか、自分で回すことすらできないガチャに等しい。

 

ある意味、今の若い世代の方がそういう理解が早いんじゃないのかな。

こんなクソゲーのために、日曜日の午前中を潰すのは、どれだけアホらしいことなんだろう。

その現実を、今の18歳は二年早く学ぶことになる。

 

 

4.それでも選挙は進んでいく

それでも確かに、国民の手による普通選挙は、貴重で尊いルールである。

参政権を平等に薄めてしまうと、一人の影響力は一億分の一になってしまう。これはどうしようもない仕様である。

 

フランス革命以前の社会においては、普通選挙は、あこがれの最強ルールであったはずだ。搾取されている多数の労働者が、ごく一部の金持ちを倒すことができる。数が多くて苦労している人間が報われる、唯一絶対の剣であったはずだ。

 

現在では、その多数の側が老人であった。

そういった内容で、社会は何の問題もなく運用されている。

 

 

科学の意義を間違えるという大罪

 

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先日、「なぜ科学を追求しないといけないのか?」というテーマについて記事を書いた。

clacff.hatenablog.comどんな細かいことであっても、役に立つ可能性がゼロでない以上は、追求し続けないと他の科学が成り立たないから、である。

 

例え金や産業に結びつかない研究であっても、科学を追求する行為には、このように明確な意味がある。

仕事であれ学問であれ、科学に携わっている者ならば、誰しもが答えられなければいけない事柄であると思う。

 

しかし、実際に「~なんてやって何の役に立つの?」と聞かれてしまった場合、多くのケースで間違った回答をしてしまう。

その場しのぎの言葉で、自分の科学の本質を貶めてしまう。

 

今日はこの内容を書いてみよう。

 

 

 目次:

 

 

 

1.間違った回答の例

例えばあなたが、毎日研究室でコツコツ研究を続けている物理学者だとする。

そして、誰かがあなたに「量子効果なんてわかったところで何の役に立つんだよ?」聞いたとする。

ここで、「あなたが持っているスマートフォンはそれがないと動きませんよ!」と答えることが、やってはいけない間違いだと主張したい。

 

 

1-1.解説

確かに、スマートフォンは量子効果を理解した技術の上で成り立っている製品である。そこは間違っていないが、先述したように、それは科学を追求する本質ではない。

 スマホを作るために物理学の研究が始まったのか?

スマホが作れなかったらすべて無駄だったのか?

もちろん違うだろう。

 

何よりも、この答えで最もまずい点は、相手側がスマホができる程度なのか。じゃあいいやと言えてしまうことだ。

「そんな役に立たないものやって馬鹿じゃねーの」という答えを、許すことになる。相手が科学の本質が分かっていないような奴であるならば、こういう答えは平気で出てくる。

 

スマートフォンなんて、10年後には廃れている可能性だってある。過去の歴史を振り返れば、いくらでもそういう例が出てくる。こんな一時のガジェットに、科学の意義を全て背負わせるのはどう考えても間違っている。

 

科学には本来明確で崇高な意味がある。それをうっかり「~に使うから」と言ってしまうべきではない。ゴールというか弱点を勝手に指定してしまった場合、そこが突破されてしまえば、もう終わりなんだから。

 

 

2.間違った答えを運用する罪

物理学の研究の意義を問われて、「あなたが持っているスマートフォンはそれがないと動きませんよ!」と答える悪手。

すなわち、それは「子供だまし」である。

子供に感づかれて否定されてしまえば、ぐぬぬとなるしかない。

 

自分が思うに、もはやこの社会においては、「立派な科学者がそうやって狼狽する姿」が、消費の対象になっている。

 

日常生活でもテレビの中でも、こういう姿は何度も見てきたはずだ。科学的な業績を残した人が、大衆の前に立たされると、必ずこういう役をやらされる。バラエティ番組でも、雑誌のインタビューでも、ニュース特番でも。

それどころか現実の対面のケースにおいてもだ。職場や学校でそういう偉い人に会ったとき、あなたや周りの人は、本当にその人を尊敬していましたか?

 

そのようにして、そういうテンプレートの科学者()が笑われて、もてはやされる。

それはある意味成功と言えば成功だ。注目も集まるし、研究費も人材も集まりやすくなるだろう。

 

そういう正義がまかり通った結果、科学の本来の意味を、とうの科学者でさえも説明が出来なくなってきている。

こんな世界だから、変人しか科学者になれない世界になってしまったのだと思う。

 

 

3.終わりに

今回の話は、別に科学技術に限った話ではない。職場でも、芸術でも、スポーツでも。

 

自分が命を懸けていることぐらいは、自分の意志だけで意義を説明できるようになろう。

 

この記事で本当に伝えたかったことは、せいぜいこれぐらいだったのかもしれない。

 

 

 

【ロマン以外】科学を追求しなければいけない本当の理由

 

何日か前の話だが、理化学研究所において新たな元素が発見され、ニホニウムという名前が付けられた。

このこと自体は素晴らしい功績である。

 

しかし多くの人にとっては、こういったニュースに対しての反応は、おおむね以下のようなものだ。

  • 「寿命が三秒しかないとかwww」

  • 「何に使うんだよwww」

まあもちろんバカにするだけではなくて、「~年もかかって発見したのはすごいね!」「日本の誇りだね!」という論調をオマケでつけて、それで片づけられる。

 

自分が思うに、それこそがバカにされていると思うんだ。

断言するが、科学は、決してロマンが目的でやっているのではない。

ちゃんと意味が合ってやっているということを、書いてみる。

たとえ話を用いてなるべく簡単に解説してみる。

 

 

  目次:

 

 

 

1.序

今回のニュースを検索して、適当に上の方に出てきたものをピックアップしてみた。

webfor40.net

これは一例だが、つまり一般的な理解である。

会社の上司、学校の先生、タクシーの運転手。どの人たちも、ニホニウムの話を振れば、大体似たような反応が返ってくるはずだ。

 

我々一般人にはまったくなんのことやらわかりませんね。

自分は、この言葉だったら言える。

確かにわからんものは分からんし、調べるのにも勉強するのにも時間はかかる。

それ自体は確かに動かない真実だ。むしろ、分からないものにはわからないと堂々と言っていいと思う。

 

科学の進歩はありがたいですが、人類や地球にとってメリットのある発見をお願いしたいものですね。

この発言がダメだ。ダメダメだ。自分だったらこんな恥ずかしいことは口が裂けても言えない。

 

「科学の進歩」という言葉の意味を、もう少し真面目に考えてみよう。

 

 

2.科学の目的=「金」であるか?

科学をやっていて、よく聞かれることは「~なんてやって何の役に立つのか?」ということだ。

そうやって聞かれた場合、質問者の頭の中にあることは、8割方が「儲からないのに馬鹿じゃねーの」という蔑みだ。

 

事実を述べれば、科学はすぐには金にならない。とくに今回のような基礎実験は。

そもそも、基本的に科学の研究というものは、最終的に考えても金にならなそうなことの方が多い。

 

だから、学問=道楽というレッテル張りが、紀元前から存在している。

そして現代になっても、未だにこれを信じている人がずいぶんいる。

 

科学はすぐには金にならない。この前提を覆すために、ロマンという言葉を持ち出す人がいるが、それは危険な発想だ。

 科学は、決してロマンが目的でやっているのではない。

ちょっと考えてみればわかる、明らかにやらなくてはいけない理由がある。

 

結論を先に言ってしまうと、理由は以下の二つだ。

  • 一度気付いてしまった部分は「未開拓」であり、追求する余地が残っているから。
  • その未開拓の部分に、何か重要なものが眠っている可能性がゼロではないから。

 

 

3.科学の研究を、「採掘」に例えてみる。

確かに科学の追及という行為は、「成功して栄光をゲットできるか否か」という一面だけを考えれば、鉱山を掘って金脈を見つける行為に近い。

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端的に言って、勝率の低いギャンブルであると言える。それ自体は間違いない。

 ゴールドラッシュに惹かれた若者たちが、一攫千金を夢見て人生を賭ける。

科学の研究とは、そのような行為に例えることができる。

 

ここで重要なのは、命知らずの人間がいる限りは、あるいはそれに金を出すバカなスポンサーがいる限りは、ゴールドラッシュは終わることはないということだ。

 

現状は、科学に人生を捧げる命知らずも、それに金を出す大学や企業も、どちらも沢山存在している。例えば日本の科学研究費は、少しデータが古いが15兆円ぐらいは使われている。

科学技術要覧 平成23年版:文部科学省

 

科学の研究は、「勝率の低いギャンブル」であるにも関わらず、こんなに金が使われている。本当にこれだけの金が、ただのロマンで動いているように思えるだろうか?

 

 

3-1.「採掘」の中止と再開

スポンサーがいる限りは科学は止まることはない。しかし逆に言えば、もし仮にスポンサーが全部撤退してしまった場合は、その時は確かにゴールドラッシュはストップする。

実際には、例えば世界中のすべての大学が廃止されて、すべての企業と政府が「金は一切出しません」ということを決定したら、確かに科学の追及はストップするだろう。

 

しかし、それは科学の終了を意味するものではない。「科学の追及」というゴールドラッシュは、一時的に中止することはあっても、無くなって消えてしまうことは決してない。

 

なぜなら、「ここの部分はまだ掘れそうだぞ」ということを、気づいて記録してあるからだ。「未開拓」の部分が、まだ残っているからだ。

 

たとえスポンサーが全部撤退して、施設をすべて取り壊して、すべての作業員を解雇したとしても、「まだ掘れそうなところは残っていた」という事実だけは永遠に残り続ける。

それどころか、たとえ当時の作業員を全員殺害して、当時の地図を焼却したとしても、ゴールドラッシュは無くなりはしない。

掘れそうなところがそこに残っている以上は、将来別の誰かが改めて発見するだけだから。

 

 

3-2.科学の鉱山は、どこかでつながっている。

採算が合わないからといって一つの鉱山を廃止したとしても、世界にはほかの鉱山もあり、そっちのほうではまだ採掘が続いている。

「科学の追及」という鉱山は、何も一つの山ではなく、地球上にあるあらゆる鉱山で、つながっている。

 

今回のケースでいえば、ニホニウムという新しい元素を生成することは、物理学だけでなく化学や薬学に応用できるかもしれないし、元素を生成する技術が工学の役立つかもしれない。

 

それぞれ鉱山はどこかでつながっているため、一つの鉱山だけを廃止したとしても、「未開拓な部分が残っている」ということに気付いている以上、それを無しにすることはできはしない。

 つまり、別の鉱山で採掘していて、何か行き詰った時には、こう考えてしまう。

「あの時閉鎖した別の鉱山に、何か重要なものが埋まっているんじゃないか?」と。

 そう考えてしまうと、閉鎖した鉱山でもまた掘りにいかなければいけなくなる。

すなわち、掘れるところが残っている以上、いかに鉱山を閉鎖しても無駄なわけだ。

 

 

4.科学を追求しなければいけない理由

現在使っている科学の正当性は、「前に進み続けること」によって担保されている。思いつく限りのことを全部やっている、という前提がないと、あらゆる科学が根元から崩壊していく。

 

今回のニホニウムの例で行くと、

・陽子と中性子の数で元素が決まるなら、112番目以降の元素ももあっていいだろう。

・113番目の元素と同じ数の元素をぶつけたらもしかして作れるのではないか?

誰かが、そう気づいてしまったのだ。

そこまで気づいてしまったら、

・じゃあ思いつく限り種類と条件で実行してみるとどうなるのか?

ということも、すぐに思いついてしまう。

 

この場合の例で行くと、鉱山を閉鎖して採掘をやめるということは、「全種類の元素をぶつけたらできるかもしれないけど、面倒だからやりません」ということを意味する。

 

「気付いてるけど面倒だからやりません」。

もしそれを一つでも通してしまったら、その瞬間にどんな科学も嘘っぱちになる。

 

 科学の追及を辞めたとき、その理由が「スポンサーがいなくなったから仕方なく」だったら、また再開される余地がある。「気付いているけど面倒だからやめた」のだとしたら、それはそこの鉱山においては二度と再開されなくてもいいことになってしまう。

 

科学においては、「気付いてるけど面倒だからやりません」は、一つでも通してはならない。

科学の鉱山はどこかでつながっているため、鉱山を一か所でも理由なく閉鎖してしまったのなら、ほかの鉱山も理由なく閉鎖できることになってしまうから。

そうして理由なく鉱山を閉鎖してしまうと、ほかの鉱山における「代替不能の鍵」を捨ててしまう可能性があるから。

そして、もし一つでも鍵を捨ててしまった場合、連鎖的にほかの鍵も入手不能になる可能性があるから。

 

 

だから、「科学の追及」という行為においては、

・できる以上は必ずやる。

・金が無くてできないなら、今やらなくても後で必ずやる。

そういうルールにしないと、何も動かない。

 

一言でいえば、「人間が考えなくていいところ」など、存在しない。

 

 

5.科学を追求する気概

以上が、「科学を追求しなければいけない理由」である。

例え微妙で役に立ちそうにないことでも、どこかの鍵になる可能性がゼロでない以上、気付いたならば開拓をしなければいけない。

 

科学とは、

・現在開拓できている部分は~である

・未開拓な部分は~である

それを、読める形でまとめた資料のことを指す。

 

やはり、ロマンなんかではない。

科学者からすれば、「この科学に本当に意味はあるのか?」なんてことは、当人はとっくに考えがついたうえで、追求をしている。

 

こうやってちゃんとした理由があるのに、ロマンだけで片づけるのは嘘である。

そして、科学には嘘は一つも含ませてはいけない

 

 

それぐらいの気概と誇りは、科学をやっているものなら全員が持っている、はずである…

clacff.hatenablog.comこの記事のように、本気でロマンが全てだと思ってしまっている科学者も、いるにはいる。

 

 

 

 

大学生は、絶対にアルバイトをするべきではないだろうか

 

日本の奨学金制度に関する問題は、しばしば話題にあがる。

最近だと、この記事が人気なようだ。

anond.hatelabo.jp

 

自分の、奨学金に対する考えを述べてみる。

 

奨学金は、いかにも苦学生を支援する、みたいなフリをして、実は莫大な借金を負わせている、という論調がある。

しかし自分が思うに、これはもはや過去の風景となっている。

 

奨学金を借りたことのある人なら分かるはずだが、少なくとも育英会の第一種第二種奨学金については、「これは借金です!」「将来こんなに返さないといけないよ!」ということを、とてもしつこく言われる。

奨学金説明会に複数回参加する

・面倒くさい書類を何枚もそろえる

・目の前で話を聞きながら念書に印鑑を押す

ここまで厳重なら、もう文句の言われようはないと思う。

これだけ厳重にした上でなお、人生が悪い方向に転んでしまったとしたら、それはもう「特殊ケースでした」で片づけられる話なのだろう。

 

奨学金は悪くない。

悪いのは、大学に行かないと正社員になれないこの世界だ。

自分の持っている結論は、今のところこれだ。

 

大体ありがちな現実を述べたところで、今日の本題に入ろうと思う。

 「大学生は、絶対にアルバイトをするべきではないだろうか」

 

 

 目次:

 

 

 

1.序

大学生になったら何を頑張ろう、というテーマは、大学生本人だけでなく、家族や友人など、周りの人間にとっても大きな関心がある。

 

勉学に集中するという選択肢がある。部活やサークルに打ち込むという選択肢もある。そして、アルバイトを頑張るという選択肢もある。

この中でもアルバイトを頑張るという選択肢は、一見平凡でつまらなそうに見えるが、反則的なメリットがいくつもある。

 

以下にそれを一つずつ解説していこうと思う。

近所のお子さんにも、是非勧めてあげてください。

 

 

2-1.大学生がアルバイトをする利点:青春編

大学に在学しながらアルバイトをするというのは、言ってみれば「ノーリスクでフリーターになれる」ことと等しい。

 

大学生というジョブに就きながら、フリーターというジョブにもおまけで就くことができる。 二つのジョブの成長率を同時に享受することができる。

二人分の人生を同時に進めることができてしまう、人生でほぼ唯一のボーナスステージであると言える。

 

アルバイトは、サークルと同等以上に、自分を成長させることができる。

アルバイトはサークルよりもずっと種類が多い。体を鍛えることも、頭を鍛えることも、心を鍛えることも、好きに選ぶことができる。

 

それにサークルと違って、必ずしも3年間全部を投資しなくても効果が出る。

表彰やコンクールといった、難しい結果を残さなくてはダメだということもない。ちゃんと出勤して働いて、給料がもらえれば、それだけで成功になる

 

また、アルバイトは乗り換えが自由にできる。

サークルだと、二年目に入ると確実に「負け犬を見るような目」に耐えないといけないが、アルバイトではそんなことはあまりない。

これは、青春とかいうモラトリアムを謳歌する際にも非常に有利なファクターだ。

大学生のサークルには、何か漠然とした素敵なリア充キャンパスライフがあるが、それを享受する難易度は言うまでもなく高い。

アルバイトならば、選択をミスったら簡単に乗り換えればいい。

この身軽さこそが、フリーターの最大の利点だったはずだ。

 

アルバイト先には、若い女の子も若い男の子も、十分にいる。それどころか、高校生やおじさんおばさんと仲良くなることだってできるぞ!

 

 

2-2.大学生がアルバイトをする利点:立場編

「大学生がアルバイトを頑張る」ということは、利点が倍になるだけでなく、欠点を打ち消しあうことだってできてしまう。

 

大学生とフリーターには、もちろんそれぞれの欠点がある。

大学生の欠点は、やはり収入がないこと。授業料や生活費では消費していく一方なのに、給料が出ない。また、特に実務的な能力がつくわけでもないのに、4年間は足踏みをしないといけないこと。

フリーターの欠点は、将来性と社会的な信用が弱いこと。時給あたりで計算すると、短期的にはそこらの正社員よりは効率的に稼ぐことができるが、社会保障が無いし、給料が上がることもない。だから、いい年してフリーターでいると、社会や親戚から猜疑の目で見られる。

 

「大学生」と「フリーター」を同時に行うことによって、これらの欠点を互いに打ち消すことができしまう。

大学生という、夢と将来がある(ことになっている)ジョブについていれば、フリーターをやっていても、誰にも文句は言われなくなる。

それどころか、大学生がアルバイトをしていると、なぜか真面目だというプラスの評価を得ることができる

そして社会保障を気にしなくていいため、効率のいい時給で収入を確保できる。

 

 

2-3.大学生がアルバイトをする利点:金銭編

大学生がアルバイトを頑張るとすると、一年で得る金額は、103万円。

これ以上稼ぐと、両親の扶養から外れてしまう。

ちゃんとしたところでアルバイトをすれば、年末にピッタリこの額になるように調整をしてくれるはずだ。

 

一年で103万円。一月で85,800円。一日で2860円。時給千円ぐらいで働いていれば、大体一日2~3時間。

週末や長期休暇にブーストすれば、これぐらいの時間はアルバイトに割けるはず。サークルとかやってなければ、夏休みとかに拘束されることはないからね!

 

一年で得る金額は、103万円。大学生を4年続けていれば、400万円ぐらいは手に入る。人生の一番重要で厳しい時期に、この武器があるとないとでは大違いだ。

 

この武器を、趣味や勉学に投入するのもいいが、お勧めは奨学金の返済に充てることだ。 奨学金の借金を丸ごと打ち消すことだって可能になる。

卒業した後に人生が詰むことなんてなくなるのだ。

 

まあ、収入が低いことによる奨学金の返済免除を狙っているならば、この辺には少し細工が必要になるけど。

 

 

2-4. 大学生がアルバイトをする利点:就活編

現代の日本においては、大学とはすなわち就職予備校であり、ほとんどの学生は就職をするために大学に来ている。そう仮定して話を進めれるのが、現代の日本だ。

 

その大学生が100万円単位で自由に使える金を持っていると、ここで選択肢や思考の余地が大幅に広がる。卒業後のスタートダッシュで一気に有利になる。

経済基盤がすでにできているので、一人暮らしを前提にした就職活動を展開できる。

また、就職活動に交通費を惜しまず使うことができる。地方で負けても東京や大阪に繰り出すことができるのだ。

 

また、アルバイトの経験自体が、単純に社会勉強にとても有利だ。特定の信仰を抜きにすれば、就活最強種たる体育会系よりも有利だと思う。

プロになるわけでもない軟式テニスなんかより、コンビニバイトの方が確実に社会で働く際に役に立つ。間違いない。

 

インターンが卒業単位に認められるようになってからしばらくたつが、アルバイトも単位になる日が来ないだろうか。

少なくとも、就活予備校としてしか機能していない現在の日本の大学には、有用であると思う。大学生のアルバイトの人手も不足していることだし。

 

 

3.「大学生はアルバイトをした方が絶対に有利」

以上、自分がそう思う理由を挙げた。

青春格差、奨学金、就職活動。

現在大学生が抱えているこれらの社会問題の大部分が、アルバイトというスタイルを選択するによって解決することができる。

 

「学生の本分は勉学であり、アルバイトなどに時間を使うべきではない」という意見は根強く存在する。特に、一世代前の親たちは。

だが、現代の社会を見ていれば、それが寝言でしかないのはもう分かっているはずだ。

 

 

 

 

【絵描き】専門家に「愛」を強要する人たちへ【楽しんで描け】

こういうのよく聞く話。で、ここからの流れが「楽しんで描け」強制パターン

創作世界で楽しめない項目もはっきりある自分にとってあの言葉暴力

好きだったら才能があるという大欺瞞

 

ネットを巡回していたら、本当に心から同意できる意見を見つけた。

 

こういう話は、実際に上を目指して戦っている当人達にとっては、割と重大なテーマであるのに、こういう風に言及されているのをほとんどみない。

 

だから、自分がもっと書いてみる。

 

 

  目次:

 

 

 

1.「楽しんで描け」の強要パターン

例えば絵画のような分野において、

  • あるところに、才能や環境だけでは説明しきれないような、「別次元のパフォーマンス」を発揮している人間がいる。
  • そいつの実力の秘密は、その分野に対する「無意識で深い愛」であった。
  • 美しい、素晴らしい、だから強い!

簡単に表すと、今回取り扱われているのは以上のような話である。

 

こういう話は、絵や音楽のような芸術に関する分野だけでなく、専門家が存在する分野ならばどこでも生まれてくる。スポーツ選手や、手工業の職人など。

それどころか、科学や学問の分野でさえも、こういう話は用いられる。

 

こういった話は、美談としてはものすごくキャッチーで分かりやすい

しかし、専門家の全員がこういう思考をしているに違いない!という発想は危険である。特に、実際に上を目指して戦っている当人たちにとっては。

 

 

2.なぜ、そういった形を求めてしまうか

例えば、「サッカーボールは友達」であり、部屋がごらんのありさまな、翼くん。

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実在人物の例を挙げれば、子供の頃から昆虫のスケッチを続けて、死ぬ間際でもベッドで漫画を描き続けた、手塚治虫

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第三者が、「天才」というものを表現して、多くの人に伝えなければならないとしたら、とりあえず思いつく手法が、こういった「異常なレベルの愛」をプッシュすることなのであろう。

そしてそれはとてもキャッチーで分かりやすい。量産がしやすく、人気も出るのであろう。

難しくて理解できない専門分野であっても、愛や暗記量ならば理解できるから。

理解できないものであっても、そうやれば楽しむことができる。

 

 

どのような形であれ、「すごい専門家」が、一般人から注目されるということ自体には、よい効果はあるのだろう。

  

だが、もう一度冷静になって考えてみてほしい。

 海洋学者は、全員さかなクンみたいであるべきなのか?

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そこで「さかなクンみたいなのが真に素晴らしい海洋学者だろう?」とかいう暴論を、無意識で支持してしまっている人間が、まだ結構な割合で存在している。

 

ある分野で命を懸けている天才は、誰かのエンターテイメントのために戦っているわけではない。

 

 

3.なぜ「愛の強要」が恐ろしいのか

さかなクンみたいなのが真に素晴らしい海洋学者だろう?」と言ったような恐ろしい誤解をかましたところで、誤解をした側の人間は痛くもかゆくもない。

一番ひどい目に合うのは、誤解された天才の方だ。

 

「愛」の誤解は、そのまま全否定へと繋がる。

自分が愛しているその分野で、滅茶苦茶な役を強要されてしまうのだ。

自分がその分野で上を目指して戦っている、と仮定すれば、そのヤバさが分かるはずだ。

 

よくある事例を述べる。

例えば、プログラマーの恋人はパソコンである」と決めつけてしまうと、とてつもなく残酷なことが起こる。

 

「いかにもプログラマーっぽい人」を見ると、結構な割合の人間が、意識の底ではそう思ってしまう。「ああ、あの人はパソコンが恋人なのかな」って。

場合によっては、当のプログラマー自身でそう思っているケースもあるだろう。

 

大学教授とかプロスポーツ選手とか、その職業に権威があるならば、それで被害が出ることなく終わる話だろう。室伏広治を、「筋肉を愛する変態」だと馬鹿にする人は、一人もいないように。

 

しかし、プログラマーみたいに珍しくない職業なら、特に社会的な地位が高くない人なら、その扱いはいくらでも差別にエスカレートする。

  • 恋人がパソコン
  • 話が通じない
  • 一日中パソコンで仕事をさせれる

こんなふうに扱うことが、可能になってしまう。

 

これはプログラマーの一例であるが、多かれ少なかれ、こういう扱いを受けたことはありませんか?愛を勝手に強要されて、無茶なキャラクターを演じさせられたことはありませんか?

 

一つの世界において、自分の意志で本気で戦ってきた人ならば、こういった誤解から始まる差別的な扱いを、何度も見てきている。

自分自身の本気が馬鹿にされた経験がある人も多いだろう。

ステレオタイプで的外れなキャラクターを強要された人も多いだろう。

そして、そんなキャラクターを本気で演じるバカにすべてを台無しにされたことがあるだろう。思い返してみてほしい。

 

 

4.本当に恐ろしいのは、そいつが頂点に立ってしまったとき

こういった的外れで無責任な「愛の強要」であるが、そのキャラクターを天然でこなせてしまう人間は、一定割合で存在する。

先述の手塚治虫のように、「本当に絵を描くのが好きでたまらない」と言い切ってしまって、それで結果を残せる人もいる。

 

その当人にとっては、「楽しんで描け」という手法が有効だった、という結果である。

それによって無理なく上達ができるのならば、それに越したことはない。

 

 

しかし、本当に恐ろしいのはこれからだ。

その天然クンが、その世界でトップに立ってしまった場合、その世界はもれなく破滅する。「楽しんで描け」という歪んだ正義が、大義名分を持ってしまう日が来る。

 

「翼くん」でないサッカー選手はすべて偽物であり、「手塚治虫」でない漫画家は二流であると扱われてしまうようになる。愛には様々な形や感じ方があるのは明白であるのに、そんな簡単なことすら信じてもらえなくなる。

 

結果が数値として分かりやすい、スポーツ等の分野ならば、まだマシかもしれない。愛があろうとなかろうと、結果は嘘をつかないから。

しかし、絵や音楽と言った芸術のように、結果が分かりにくい分野だと最低だ。

「楽しんで描け」という精神でトップまで進んでしまった人間に、「愛の強要」の是非を鑑みる能力など有りはしない。そして、専門家でない外部の人間は、その天然クンをこれ以上ないぐらいほめたたえるだろう。

 

 

5.まとめ

「愛」≒「強さ」

この式自体は、いくらかは正しいのだろう。

大抵の場合、その世界でプロになっているような人なら、愛はあるのだろう。

「楽しむこと」自体に、いいエネルギーが伴うのだろう。

人間の脳の作用には、おそらくそういう機能もある。

 

しかし、だからといって嘘をつくのは絶対にダメだ。「楽しんで描けないのは才能がないから」などといった思想は、どう考えても暴論であり、嘘だらけである。

 

自分の意志で戦い、その世界で上を目指すために日々努力する人間であればあるほど、その価値観は複雑だ。うかつに愛を語ると、その世界における当人の価値観を、全否定することになる。