【趣味】ビデオゲームが持つ高潔さ【eスポーツ】
「ビデオゲーム」には実にいろんなタイプがある。
スマホでダウンロードして動かすもの、自宅のPCやテレビで動かすもの、ゲームセンターで金を払ってプレイするもの、など。
ここ10年ほどで、プレイする人口が一気に増えて、ずいぶん社会に浸透してきた。
togetter.comしかしこの記事でまとまっているように、ビデオゲームという趣味は、社会的な地位がまだ低い。
子供の趣味、オタクの趣味、暇つぶし、などと扱われている。
当然の前提として、趣味に貴賤はない。ビデオゲームだって立派な趣味である。
ただ、それぞれの趣味には損得はあるのだと思う。金・名声・技術・時間等、それぞれをどれぐらい得られるか、どれぐらい失うかは趣味によって違う。
そういう観点で話をすると、ビデオゲームとは、お金も余りかからないし、頭脳や感性を鍛えることができる、文明人らしい有利で便利な趣味であると思う。
自分が考えるに、ビデオゲームの本質はスポーツと同じである。
「プレイする」という言葉が共通して使われているように。
野球や陸上競技などと同じ原理で、eスポーツが行われている。
今日は、ビデオゲームの高潔さを書いてみようと思う。
目次:
1.ゲームを行う意味
ロジェ・カイヨワは「遊び」を「競争、偶然、模倣、眩暈」四つに分類した。
ビデオゲームは、これら「競争、偶然、模倣、眩暈」を全て含んだ総合遊戯である。なので、競争ばかりではなく、単純な「暇つぶし・気休め」というのもゲームの使い方の一つだ。何も考えずにだらだら時間を潰す、という目的のゲームもある。
しかし、多くのゲームでは、ハイスコアや、ネット上のランキングなど、プレイをする目的として、「競争」が採用されている。
対人戦の勝ち負けやネット上での順位を競うものは分かりやすいが、オフラインの育成ゲーや箱庭ゲーなども、そのゲームのルールだけで設定された基準に対して、競争をしているという点では同じだ。
何故競争をするか?というのが、ビデオゲームをプレイしない人にはわからないのだと思う。自分も昔はよくわからなかった。
勝ったところで何か得をするわけでもないし、敗者の顔を見て楽しむという目的があるわけでもない。
ビデオゲームで何故競争をするかと言えば、「どちらがなぜ強いのか」に純粋な興味があるからに他ならない、と自分は考える。
2.「eスポーツ」がスポーツ足りうる理由
陸上競技や球技などのスポーツが、なぜ追求されているかを以下に記す。
例えば、陸上競技の100m走なら、「人類がどれだけ早く100mを走れるか」ということに興味があるからである。
元をたどると、足が速ければ、それだけ自然界で種として生存に有利になるからであろう。そういう意味では、100走は興味の動機としては、もっとも根本的なものの一つだと言える。
それに対して、やり投げやハンマー投げの場合は一段ランクが下がって、「戦争の時により遠くから敵の陣地を攻撃するため」だと言える。
また、野球やサッカーの場合はさらにランクが下がって、「考案された面白いゲームをより楽しむため」に戦術・肉体が追求されている。
そういう話の先に、eスポーツがある。
スポーツとしての根本の動機は、野球やサッカーと同じで、「発売された面白いゲームをより楽しむため」であり、ランクとしては下の方に位置するが、ビデオゲームも本質的にはスポーツと何も変わりはしない。
ビデオゲームで競争をする理由は、どちらがなぜ強いのかに興味があるからであり、人間は最終的にどこまで強くなれるのかを、追求するためである。
繰り返すが、陸上競技や球技は、元の動機はさまざまであるが、どれも「どれだけ強くなれるか?」という純粋な興味によって追求が行われている。
集客によって金を稼ぐためではない。感動的で美しいプレイを楽しませるためでもない。
それは、外部の人間が勝手にそうやって利用しているだけの話で、スポーツの本質ではない。
eスポーツも、全く同じ動機で追求が行われている。マーケティング目的で気取って「eスポーツ」と名前がつけたわけではない。
繰り返すが、eスポーツは、「一つゲームをより楽しむため」「人がその範囲でどこまで強くなれるのかに興味があるため」にプレイされている。100m走や野球と何も変わりはしないから、「スポーツ」という名前が付けられている。
3.ビデオゲームを追求する行為と科学を追求する行為
スポーツを追求することは、科学を追求することと同じである。
以下の記事に、人間が科学技術を追求する意味を書いた。
最終的にはもちろん「人類の役に立つため」に科学を追求しているが、なぜ一見役に立たない細かいことでも追及しなければならないのか、という理由は、以下の二つだ。
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一度気付いてしまった部分は「未開拓」であり、追求する余地が残っているから。
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その未開拓の部分に、何か重要なものが眠っている可能性がゼロではないから。
eスポーツのような、対人戦で勝利することを目的としたものばかりではなく、たとえ一人用のゲームであっても、追求するプレイには科学的な意味がある。
TAS動画が、例としてわかりやすいかもしれない。
例えば、マリオ3やロックマン2を、「理論上どれだけ早くクリアできるのか?」ということを追求・研究している動画が、ニコニコ動画などでアップロードされている。
TAS動画は、すごいプレイを魅せることによるエンターテイメントを目的としたものではない。また、TASのコンテストで相手チームを打ち負かすことを目的としたものでもない。そういうものは、「人力TAS」や「祭りイベント」などで、別のジャンルとして取り扱われる。
TAS動画を研究する本質的な理由は、一つの会社が発売した一つのゲームの中で、「どれだけのことができるのか?」ということを、誰かが興味を持ってしまったからである。
先の記事でも同じことを述べているように、「こうすればもっと早くなるんじゃないか?」ということを、「誰かが気付いてしまったから」である。科学と同じで、「余地がそこにあるから」こそやっている。
科学の追及は、最終的な目的は「人類の役に立つため」とある意味一番上のランクであるが、ビデオゲームの場合は「一つのタイトルをより楽しむため」と、ランクは確かに下の方に位置する。
しかし科学のように包括的な範囲とは違って、ゲームには多くのタイトルがある。
だから、もしその一つのタイトルをやりつくしてしまったら、誰も何も思いつかないようになってしまったら、次のタイトルに移動すればいい。そこでまた、次の「科学」が生まれる。
将棋の羽生善治が、2014年に以下のようなインタビューを受けていた。
www.news-postseven.com「もし人口知能が将棋界を支配したら?」という問いに対して、羽生善治は以下のように答えている。
「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」
別にこれは、「ゼロベース思考」だとか、「将棋に対する努力を惜しまない羽生善治すげぇ!」という話ではない。「天才だけに見えている新たな境地」などでは断じてない。
ゲームを追求する基本的な原理であり、ゲームを追求するものならば、「いい年してなんでゲームやってるの?」とか言われたときに、持っていなければならない矜持である。