「具体例を挙げろ」では論破したことにはなりません
「ソースを出せ」というの言葉は、インターネットの言論においては決まり手になることが多い。
「ソースを出せ」という言葉を相手がソースを出せなさそうなときに使えば、「ソースが出せないなら相手が間違っている」という論理で相手を倒すことができるからだ。
論戦においてはよく見る決着の形であるが、実はこれ論理的にはあまり正しくない。
「現状ではこれで仕方ない」という事情があるからまかり通っている現象であって、「ソースを出せ」という言葉では正義を証明したことには決してならない。
「ソースを出せ」という言葉は、本来は申し訳なさと共に使用しなければならない。
(相手が嘘を広めていることで何か自分に害が出ているならそれは別問題だが。)
現実世界での対話においても、「具体例を挙げろ」という言葉で勝った気になる人は多い。
こういう害悪はインターネット以外にも山ほどいる。
「具体例を挙げれる=正しい」はそれなりに成り立つが、「具体例を挙げれない=間違っている」は多くの場合で成り立たない。
「具体例を挙げれない者は間違っている」という結論を最終的に採用することは可能だが、それを採用するのはあなただけの裁量と責任である。
たったこれだけです。
こんな簡単なことだから、今日の記事で説明してみます。
目次:
1.中学生でも分かる解答解説
「具体例を挙げろ」「ソースを出せ」という言葉ではマウンティングは成り立たない。
なぜならば、正義を証明するのに「具体的な例」だとか「信用できるソース」なんてものが存在しないからだ。
あるとすれば、「あなたという一人の人間だけが具体的だと感じる例」か、「あなたという一人の人間だけが信用したくなるようなソース」だけであるからだ。
どれだけそれっぽいものを積み重ねても絶対的に正しいものなんて存在はしない。
判断基準はあなた自身の中にしかない。
「正義とか関係なく、俺が満足したか否か」だけを追求するならまだ筋は通るが、そんな基準で動いている人間は他人に正義など語れない。
他人に正義を要求するなら、「俺を満足させられなかったからお前は悪い」という傲慢な結論を押し付けれる間柄でないと成り立たない。
他人の意見を採用するかしないかはあなた自身の問題であり、それなりの責任を負わなくてはならない。
よく説明に使われる例を出すが、例えば「水分子」なんてものが本当に存在すると思っているのだろうか?
一番バカな人間は、分子や原子がほんとうに『ある』と思っている。
中くらいの頭の人間は、分子や原子は『概念』だと考えている。
利口な人間は、分子や原子をたんなる『約束』だと信じているのである。
物理学はむずかしくないという1976年のクッソ古典的な本から引用したが、この言葉を本当に自信をもって理解しているだろうか。
水素と酸素が反応して水ができる。
しかし本当にそう断言していいのか?
明日も同じ結果が出るという保障がどこにある?
明後日はどうだ? 一億年後は? あるいは、十億年前は?
追試験をやったヤツ全員が虚言症だったら?
再現性と簡単に言うが、完全に同じ条件を再現して実験をするなんて厳密には不可能だろう?
『あのときの水素』と『今ここにある水素』がまったく同じものであることをどうやって証明したらいい?
水素と酸素の反応にもし空間上の座標軸が関係していたら?
同じ実験をやって地球とM78星雲ではまったく違う結果が出たらどうする?
客観性と再現性を本気で追及しようとしたら、科学は何ひとつ証明できない。
イリアの空 UFOの夏というラノベに出てくる文章だが、中学校ぐらいのときにこういうことを考えたりしたことは無かっただろうか。
全く気付かないで先生の言われるままに暗記をしている者をガキだと笑ったことが無いだろうか。
それとも、気付いたけど分からなかったから無視して今まで生きてきたのだろうか。
というわけでだ、『ある程度の』客観性と再現性があれば、
それは科学的には認められることになっている。
しかしそれは、そういうことにしておかないと何事も進まないから仕方なく、という「ナアナアの決め事」にすぎない。
先の文章はこう続く。
水分子なんてものを見たことがある人はいない。
今用意した物が本当に水分子とやらである保証はない。
仮に見えたのだとしても、自分の目が完璧に正しいという保証はない。
もっと言えば自分の頭が完璧に正しいという保証もない。
そこで、現在大多数の人間がそう錯覚できているのをいいことに、分子論というとりあえずの約束事を仕方なく採用した。
もし何か新しい事実が出てきて、それを大多数の人間が信じることができたなら、この分子論はソッコーで入れ替えられる。
科学における反証可能性というのはこれのことであり、あらゆる論理は不安定な地盤で不安定なつながりをしている。
だからこそ、当人が自分の判断基準で正しいかそうでないかを選んで採用しないといけないわけで。
以上が科学の本質というか、中学生でも気付くような人間の論理の本質である。
これを中二病と言って向き合わなかった者の末路が「俺が満足できるソースを出せ!出せないならお前は間違っている!」である。
自分で判断する力が無いから、相手に判断をさせようとしている。その結果をロクに検証もせずに飲み込もうとしている。むしろ「俺が何も考えずに飲み込めるものをよこせ」と要求している。
ドラクエⅢをプレイして、バラモスを倒したところで世界を救ったと思い込み、アレフガルドの存在に気付かなかった者。
真のラスボスもロトの系譜につながる物語も知ろうとしない者。
科学の本質を理解せずに大人になった者は、これと同じぐらい滑稽である。
2.「証拠を出せ」という不毛さ
そういうわけで、ソースや具体例の有無で他人の正義を語ることは間違っている。
あるのは、その具体例を信じるか信じないかの自分の正義だけである。
絶対的な正義などはないのだから、差し当たって意味を持つものは、当人同士の人間関係や権力の差といったものである。
だから、何をどこまで信じるかの基準は、聞く側が好きに設定できてしまう。
例えばとある会社で、「新しい社内の勤怠管理システムを導入しよう!」という話が持ち上がったとする。
これを導入すれば総務部の作業が楽になり、給与の計算においてもミスをしなくなる期待が持てるものだとする。
ここで、話を聞く側としては「いくらかかるのか、どれぐらいの効果があるのかを具体的に述べよ」と言い放つことができる。
導入に~円必要
作業工数の削減が~円だけ減る
だから年間で~円得をする
と言ったものをまとめてから提案するのが当然だ!と仕事に慣れた人は言うが、それが当然ではないんだ。
なぜなら、~円というだけでは十分な証拠にならないから。作業の時間と正確性も考慮する必要があるかもしれない。
工数が減ったといっても、それはどれだけの正確さをもって算出されたものなのか?普段使っていない工数計算だとしたらそれだけのリスクがある。
そういう事情がある以上、年間で~円得をするというのも皮算用である。来年の今にその~円をここに札束で並べれるか?といったらそんな保証はない。
証拠なんてものには何の正義もなく、「どれのレベルなら納得するか」のさじ加減一つでいくらでも後出しジャンケンができてしまう。
さらに都合が悪いことに、こんな不確かな証拠を集めること自体にも結構なコストがかかる。
「現在いくらのコストがかかっているか述べよ」といわれても、全ての行動のコストを毎日記録することはタダではない。
導入にいくらかかるか?ということを納入業者に聞いても、まず見積もりを取らせてくださいとかえってくるだけだろう。
正確な見積もりを取らせるには買う側の意思決定をして内部調査に時間と工数を割かないといけないわけで。
さもなければあいまいな情報で適当な見積もりを取らせることになるが、そんな「証拠」で納得するということはもともと大して証拠なんて必要としていなかったも同然だ。
結局は、「何も考えていない」という責任を誰かに押し付けたいのだ。
納得する範囲は自分が決めれるので、いつまでも納得しなければ相手をどんどん消耗させることができる。とても有利なゲームである。
小学生がよく、「誰がいつそんなこと言った?何月何日何曜日何時何分何秒、地球が何回まわった時?」などと言う戦法を使っている。
これは、自分自身が判断の決定権を持っている(という勘違いをしている)点を最大限に活用した戦法である。
これと同レベルの戦法を、大人が他人に対して使ってしまっている。
「具体例を出せ」というマウンティングがどれほどアホらしいかが分かるはずだ。
3.馬鹿になるという覚悟
実際には、どれだけ証拠を集めようと絶対的に安心することなどできない。
証拠はないけどやる、という判断をしなくてはならない。
手の届く範囲で使えそうな証拠がないかは探すが、最終的にはどこかでえいやと踏み出さなくてはいけない。
証拠を揃えて理論的な状態を気取るより先に、少ない証拠でも動くことができる信頼関係の構築の方を先に済ませなければいけない。
まあ証拠にこだわることなんて、本当はただの「真面目に検討しています」のポーズで、実際に必要なのは安心感の演出だとどこかで分かってはいるのだろう。
案外みんなそれに気付かない振りをしているだけかもしれない。
水分子の例を出すまでもなく、みんな本当はとっくにわかっているのかもしれない。
ガチで分かってなくて「具体例出せ」のマウンティングに夢中な馬鹿も大勢いるけど。
誤解していた方が気持ちがいいし、有利である。
どうせ何をそろえても正義なんて確定はしないのだから、それっぽい形を取り繕うことが重要なのかもしれない。
だとしたらそれは口に出して認めてしまった方がいい。