【入試の不平等】教育の機会均等について
4月になって入学シーズンだということで、「教育の機会均等」に関する話題を、ラジオでやっていた。
別に、日本に暮らしていれば中学まではむしろ義務教育であるし、高校も大学も余るほどある。社会人になってから学びなおす制度も整備されている。
不登校や障碍者だって、サポートはされているだろう。形だけなら。
だが実際には、望んだところで学ぶことができない者が、大勢いる。
偏差値というシステムが存在しているからだ。
高校や大学の入試で、裁かれてしまった者が大勢いる。
「教育の機会均等」自体はとっくの昔に達成されているが、実際にはまだ戦争は終わっていない。
多分、例え少子化がもっと進んでも状況は大して変わりはしないと思う。
今日は、偏差値と教育についての自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1. 現在の入試における不平等
学校には物理的な定員があり、その定員以上に希望者が来ているから、偏差値を使って選別をしなければならない。
元をたどって考えてみればそういうことだ。
「教育の機会は均等だよ♪ 合格できるかどうかは知らないけど」ということで話は進んでいるが、その合格できるかどうかのところで、不平等がある。
過去問と同じ問題を出すことができない以上、入学試験の難易度はインフレし続ける。
塾や予備校に小さいころから通わせておかないと勝負にならないため、結局家庭環境や親の所得による勝負になっている。
田舎者や貧乏人は東大で学ぶ資格がない、というのが統計的な事実としてすでに通ってしまっているんだ。
それに、たとえそういう問題を個人の努力で何とかしようとしても、次の問題が立ちはだかる。
大学入試の問題がどれだけクソ問題だったかを思い出してみればいい。
運がよくないと生き残れない、というのも差別の一種であろう。
クソ問題であるが、実際にはそれしか解決方法がない。
入学前の学力で合格不合格を決めているという事実は、「将来性を見ている」ということで正当化されていると思う。
個人的には、学問に素質なんてものは特に必要ないと思うが。
学問はそんなに崇高なものではなく、教えて理解すれば誰だって出来るべきだと考えている。
当人の意思だって必要ないと思っている。そんなものは親や教師の一言で簡単に変わってしまうものだから。
むしろ、本当に指導する内容が同じで教育が平等なのだとしたら、入試なんてものは別にくじ引きで選ぼうがサイコロで選ぼうが大して変わりはしないはずだと思う。
いくらクソ問題だとは言っても、実際に役に立つ科学や文学をエミュレートしてくれているだけまだマシである。
なお、一時期流行った「学生個人の内面で見る」なんてものはもっとクソゲーだ。
勉強できないけど内面には自信ある、なんて奴がどれほどいる?
強烈なウソつき合戦が始まるぞ。
慶応のAO入試なんてすでにそういう戦いだ。
2. なぜ偏差値というものがあるのか
なぜ一つの学校にそんなに希望者が集まってしまうのか?
それはもちろん、その学校に行きたい人が多いからだが、なぜ行きたいのか?
ここにちょっと、考えなければいけないことがある。
学習指導要領はどの学校でも同じ内容だろう?
だからこそ、教育の機会均等が達成されているわけであって。
学費や通学時間で差があるといっても、わざわざ親元を離れて早稲田慶応に通うことが憧れになっている時点でお察しだ。
一応大学になれば、「自ら掲げる教育理念・目的に基づき、自主的・自律的に編成すること」となっているが、実際には結局どこも似たり寄ったりである。
グローバル、新エネルギー、福祉社会、情報通信、クリエイティブ、リーダーシップ。
どの大学のパンフレットを見ても、そんな流行のワードが並んでいるだけである。
まるで政治家のHPに書いてあるマニフェストのように、主張する安全牌がすでに決まり切っている。
「~先生の授業が聞けるからこの大学じゃないとダメ!」なんて寝言は基本的にフィクションである。
どうしても参加したいのだったら、潜りや個人インタビューでもやればいい。正直簡単である。
また、単純な教員の数で選ぶのだとしても、別にそう変わりはしない。
むしろ田舎の人気のないところのほうが学生一人当たりの教員人数は多いだろう。
そこら大学生に、自分の大学の教育理念を喋れるかをどうか試してみればいい。
100%無理だから。(いや、今の時期なら面接対策で暗記した者が少しは残っているかも。)
教育内容に特色が欲しいのならば、専門学校に行けばいい。
しかし大抵の人は教育内容なんてものに興味はないのが現実だ。
合格してよい人生を送ることと、それを許してくれるブランド力。
あとは得意な科目を決めて、結局みんなこのように学校を選んでいる。
偏差値それ自体がブランドになる。
社会という闇において、思考停止を許してくれるのが、ブランドである。
求められているものは、教育ではなくブランドである。
例えば、東京大学のキャンパスと設備をすべて、東京都小笠原村硫黄島に移設したとしたら、どうなるか。
本当に教育や学問が目的で入学するのなら、それでも偏差値は変わらないはずだよね?
それとは別の例えで、試しに全部の二次試験を全国同じ問題にすればどうなるか。
たとえそんな状況になったとしても、大学生はみんな東京に集まるに決まっている。
既成事実によるブランドを抜きにすれば、大学の偏差値は、人口と立地条件で決定されるから。
高校の偏差値は、その大学への入学実績の数で決まる。
なぜなら、東京には会社が多くて就職活動で有利だから。
人が多いからイケてるキャンパスライフが楽しめるから。
ブランドによる虚構を完全に抜きにしたとしても、結局はこうやって選ばれる。
教育なんて関係ないんだよ。
3. 彼らが望んだ社会
「教育の機会が平等に欲しい!」「学びたい!」という言葉は、嘘だ。
そんな言葉で飾ってはならない。
本当のところは、他人を踏みつけたいというエリート精神が、偏差値を必要としている。
人が多くてにぎやかなところに住みたい。
いい企業に就職できる可能性を維持したい。
そういった虚栄心(というか現代社会における死活問題)の結果が、偏差値である。
ブランドという言葉はこういう意味であり、企業としても新入社員を選ぶ際に大いにそれを活用している。
教育機会の不平等の現況たる偏差値は、必要だから運用されている。
そしてそのゲームの勝者は、その状況を心の底では楽しんでいるから、こういう差別的な社会が肯定された。
論理ではなく愛を肯定するOSや、運転免許学科試験のクソ問題のように、現代社会における正義は、死体の数で構成されている。
「反例を必要としない人たち」の思考と生き方
「A=Bでないこと」を証明するためには、それの反例を一つ挙げればいい。
あらゆる科学には反証可能性が必須であり、見えている土地すべてを反例で埋め尽くすことによってのみ、残った部分が真実として確定される。
人類の知恵は全てそうやって積み重ねられているはずだが、その方式を採用しないで生きることを選んだ人たちがいる。
例えば、「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!これは差別だ!」などと言っている人がいたとする。
というか、実際にいた。戦隊じゃなくて仮面ライダーの例だが。
ツイッターの界隈ではこの手の主張をしている人は良く見かける。
今日はこのケースを使って、「反例を必要としない人たち」のことを書いてみる。
目次:
1. 詳しい解説
「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!」と言われたところで、実際には全くそんなことはない。明らかに反例はある。
忍者戦隊カクレンジャーでも、未来戦隊タイムレンジャーでも、リーダーは女性だった。
また、(別にレッドがリーダーであるとも限らないが)侍戦隊シンケンジャーでは女性がレッドになった例もある。
同じく日曜朝にやっている仮面ライダーでもそうだ。
女性の仮面ライダーは今やたくさんいるし、設定上だけならば1975年の仮面ライダーストロンガーから存在している。
別にこの程度のことは、オタクめいた細かい知識を出すまでもないことである。ウィキペディアでちょっと調べれば誰でも簡単にわかる。
しかし、「これは差別だ!」と言われたら、確かにそう解釈できる事実もある。
スーパー戦隊の初期メンバーで女性が過半数を超えたことは一度もないし、第一話で出てくる主役ライダーが女性だったことも一度もない。
そして、もし仮にそういう女性キャラが登場するとしたら、東映もバンダイも間違いなくそれを「珍しい材料」としてアピールする。
マーケティング上、戦隊や仮面ライダーは男の子向けにしたほうが売れるという、統計的な確信があり、視聴者のほうもそれを求めている。そういう事実は確かにある。
2. 彼らの方式
「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!これは差別だ!」と叫ぶ人がいる。
スーパー戦隊の女性がどうだとか言う話はただの一例であるが、この手の主張をする人間は、もっといろいろな場面で見かける。
例えば、「オタクは犯罪者だ!ペドフィリアは犯罪だから処罰するべきだ!」といったような主張。少し前にこのような記事が話題になった。
もっと簡単なところでは、「日本では殺人のような凶悪犯罪が増加している」みたいな話もそうだ。統計的にはとっくに嘘が暴かれているのに、いまだに根強く支持されている。
「日本軍はひどいことをした!反省しなければならない!」も、手法としては同じだ。これは正直探すのも面倒なぐらいたくさん聞くから、記事は貼らないけど。
彼らは、正論が通じない人たちである。しかし、正論を理解しなくてもいい生き方を選んだ人たちだともいえる。
彼らは全員、滅茶苦茶なことを言っている。しかしそこには、確固たる意志がある。
彼らは実際のところ、馬鹿ではない。むしろ高学歴だったりする。
指摘された事実は、わかっていないはずはない。
彼らは事実と戦っているのではなく、イメージと戦っている。
現実ではなく、イメージが憎いから戦っている。
イメージは幻想ではなく、確かに存在している。自らの心の中に。
反例を挙げて倒せるのは、人が書いて記録した理論だけである。
理論は経験でできているから、反例で倒すことができる。
しかしイメージは、自らの心の中にいるから、外部からでは決して倒すことができない。
本気の感情論を理論で倒せるケースなんて、普通無いでしょう?
その証拠に、彼らの側からの反論というものは全く出てこない。
「デタラメ言ってんじゃねぇよ」と指摘されても、その場を逃げて納めるだけで、ほとぼりが冷めたらまた同じ主張を始める。
デジタルディバイドもあるのだろうが、彼らが論理的な言い分を出しているのを見たことがない。なぜなら最初から論理なんかで動いていないから。
「嘘だというのなら証拠を出してみろよ」という手法自体が、彼らの文化とは異なっているんだ。
理論なんてものは元々、その当人の理性に「お願いして採用してもらう」しかない程度のものだ。
3. 「嘘を通せる強者」の世界
彼らの生き方は、いつも引用しているこの記事で説明される。
理論ではなくイメージを信じて生きることは、すなわち愛を信じて生きること。
他人(や自分)がどう感じているかが重要であり、事実などはどうでもいい。
理論や経験則も、どうでもいい。今現在、他人や自分が何を感じているかだけを判断して生きる。
彼らが採用しているのはこういった生き方だ。
こういう人種に対しては、通常の歩み寄りは不可能だと考えたほうがいい。
人体の判断力を運用しているOSからしてすでに違う。
このOSは、機能が制限される代わりに、マシンパワーが足りなくても軽快に生きていけるという特徴がある。
すなわち、自分の頭が弱くても、他人の感覚に従って生きていれば、(現代の豊かな社会でなら)自由に生きれて飢えもしない。自分の勝手な感情も生かすことができる。
現代社会においては割と理想的なOSかもしれない。
結局は、人間の意識の違いなのだろう。人間の能力の違いなのだろう。
頭を使って自分で納得しなければならないことを、途中で放棄してしまった人たちなんだろう。
このOSがシェアをとった市場においては、すべての事実は反故にできる。
例えばもし仮に、次のスーパー戦隊が「女性4人、ホワイトだけが男性、追加戦士も女性」みたいな構成だったとしよう。
こういう事実が仮にあったとしても無駄である。
「女性がメインのスーパー戦隊が42年の歴史で一つだけしか存在していない!」
「映画の過去作品オールスターでは男性ばかりしか出てこない!」
「過去のほかの戦隊に比べてグッズの売り上げが芳しくない!差別だ!」
などと言い始める。
もともと、イメージだけを判断の基準にしているから、どんな理論や事実があろうと、好きなようにしか解釈をしない。
さすがにここまで馬鹿ではないって?
実際に彼らは、上記の女性戦隊に対する差別と同じレベルのことを言い続けている。
太平洋戦争が終わってから70年は経っているのに、「日本軍は反省を!」とか言っている人がいまだにたくさんいるでしょう?
感情論ならば、例えどんな話でも有効性をもって通せてしまう。
そして、イメージなんてものは簡単に作れてしまう。バカが多ければ多いほど。
それは恐ろしい社会であるが、強者にとっては居心地の良い社会だ。
声が大きい者、手駒が多い者、あるいは、嘘を通されても実害がない立場である者。
そういったものが得をする社会になっている。
「嘘をつく権利」が、流通して消費される世界である。
石油資源の消費や、地球環境問題のように、根本的な解決は何もなされていないのに、目をつぶる能力を行使しあっている。
「こういう社会でも俺は構わない」というのが、多くの人が採用した答えなのだと思う。
「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を徹底的にこき下ろす
4月になって新年度が始まりました。
この度、新入社員になった若者も多いと存じ上げます。
新入社員は、OJTを担当する先輩や直属の上司から、以下のような言葉を聞くことがあると思う。
「新人のうちは何でも質問できる特権がある」
「最初のうちはどんどん質問して、立派な~になってください!」
最初の研修のときに大抵の職場で高確率で言われることであるし、場合によっては入社式で社長が直々に聞かせてくれるかもしれない。
学校では意外と聞かなかった言葉だよねこれ。
これから社会人を頑張るぞ!と意気込むあなたに、ぜひ聞かせたい。
「こんな言葉は大嘘である」と。
今日はこの「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を、徹底的にこき下ろします。
目次:
1.なぜか「三年」
まず、わかりやすい矛盾点を一つ上げる。
この「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念は、なぜか「最初の三年は」と区切られているケースが多い。
そしてこの数値に何か意義や正義があるかといえば、ないんだなそれが。
一つの道を確実に学ぶのには、三年なんかよりももっと長い時間がかかる。
本当のところは、五年経とうが十年経とうが、上を目指して学び続けなければならない。
というより、普通は三年も経ったら立場も仕事も変わる。また初めからなわけだ。
先輩や上司は、「いつまでも学び続けるように」とも言っていたでしょう?
つまり二枚舌なんだよ既に。
逆に、もっと仕事の表面的なことを学ぶだけならば、三年なんて時間はかかり過ぎである。
やることがはっきり固まっていれば、仕事なんてものはたったの一週間でも慣れて飽きてくるはずである。
三年も経ってできていないなら教え方が悪過ぎであると言えるし、三年経ってできない仕事は覚える必要はない仕事だ。ほかの仕事を頑張ったほうが、会社にとっても本人にとっても得だ。
すると残る正義としては、「上司や先輩は忙しいから質問には答えたくない。最初の三年だけ我慢してやる」という、一方的な要求だけである。
何か三年たったら試験を実施したり、質問を禁ずるようなルールをわざわざ整備しているならば話は別であるが、そんなケースは皆無である。
どれだけ勝手なことを言っているか、わかってきただろう。
ここまでわかったら、いっそ上司に「お尋ねしてよろしいでしょうか!なぜ三年なのでしょうか?」と聞いてみるといい。十中八九、上司はノリで適当言ってただけだから。
「新人のうちは何でも質問できる特権がある」だとか言っておけば、なにか厳しいいい先輩でいられると思っている。その程度だ。
なお、覚える仕事が極端に少ない場合や、教育にかける余裕が全く無いような職場の場合は、しれっと「研修期間の間」「1年間」といったように、勝手に期限が縮められる。
もともと正義や真実なんてありもしない言葉だから、ちょっと状況が切迫すればすぐに手の平を返す。
2.知識や技術の出し惜しみ
以前もこのブログで引用した、ジョージ・バーナード・ショーの言葉がある。
もし君と僕がりんごを交換したら、持っているりんごはやはり、 ひとつずつだ。
知識や技術というものは、「他人に渡してもオリジナルは無くならない」という点に、一番の価値がある。
一人が技術を教えれば、技術者がそのまま二人になる。
すなわち、無限にコピーができると言っていい。受け取る側には勉強したり理解したりするコストはかかるが、渡す側はノーコストで味方の武器を増やすことができる。
あらゆる科学が、「なるべく誰でも理解できるような形で体系化されている」ように、知識や技術は、互いに共有しあうことによってその価値を高めることができる。
敵対関係にあるような人たちならば話は別だが、同じ会社の仲間であるならば、知識や技術は、好きなだけ・使いたいだけコピーしまくるべきであるんだ。
ちょっと想像してみよう。「個人によって秘匿される技術」にどれだけの価値があるかと言ったら、その一人の範囲のみでしか役に立たない技術である。
その技術は使いたいだけ広めるべきであるし、広めないというのならばもう人数が足りているから学ぶ必要のない技術だ。
技術なんてものは、使って役に立てなければ意味はない。
だから断言しよう。
「質問は新人のうちの特権」とか言っているのは完全に頭が古い。古すぎる。
武器の共有を無意味にストップして悦に浸る馬鹿がいる。
社内が味方同士ではなく敵同士だというならば、チームワーク以前の問題である。
質問は特権でもなんでもなくて、必要に応じて好きなだけ行わなければならない。
「青色のボールペンが使いたいから総務部でもらってくる」程度の気軽さであるべきだ。
技術とはそのようなスピード感をもって活用されるべきであると考える。
3.「甘え」という概念
基本的に、「甘え」という言葉を他人に使う人間に、まともな人間はいない。
質問とは「甘え」ではなく、一番早くて便利な解決方法である。
人間の説明能力にはそれだけの価値があり、本や資料で調べるよりも、ほとんどの場合でよほど有効である。
相手のコミュニケーション能力を信頼して、より大きな成果を上げようという手段である。そのためにはチームワークが必要であり、決して怠けや甘えだとかではない。
先ほどの技術の共有と同じ話で、もし上司と部下が互いに敵同士だというのなら、話は別だ。
「質問などするな」という言葉だってアリだろう。
が、同じ会社の同じチームにいて、なぜそれが敵同士になるのだろうか?
チームのマネージメント能力がマイナスに振り切れていると言わざるを得ない。
なお上司の側からすれば、この「質問という甘え」という言葉は、いつでも簡単に反故にできる。
上司の側は、部下に聞くことは平気で行える。コミュニケーションだとかほうれん草とか、勝手に理屈をつけて強要することができる。
だってもともと正義などないのだから、どのような形にでも取り繕うことができる。
もしあなたの上司が、「新人のうちは何でも質問できる特権がある」という概念を持ち出したのなら、そいつは見限っていい。というか可能なら始末したほうがいい。
なんで、「新人のうちは何でも質問できる特権がある」なんてデタラメが流行ったのだろうか。
職人系や体育会系など、そのような空気でこの言葉はよく使われているような気がする。
ならば少なくともそこは、たった三年で一人前に成れてしまうような浅い世界だったのだろう。
【運転免許】選ばれし人間になるために【受験勉強】
春先だからだろうか。 以前書いた“自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法”の記事が人気であるようだ。
この記事では、“なぜ自動車免許の学科試験はクソ問題になってしまうのか”を解説した。
しかし、“じゃあそれをどうやって生き延びればいいのか”という点については、あまり詳しい話ができていなかったと思う。
“人間の思考をやめること”と書いたが、それについて、自分が知っていることを詳しく書いてみようと思う。
先の記事でも書いたように、これは自動車免許の学科試験だけの話ではない。
受験勉強における文系科目や、就職活動における圧迫面接など、現代人は人生において多くの場面でクソ問題を強要される。
試験に合格した者。社会に許された者。
そんな“選ばれし人間”になるための方法を、書いてみる。
目次:
1.嘘が通せているという現状
“論理的に考えればどう考えても矛盾していること”は嘘であり、通してはならない。
例えば、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは「無理だよ」と訴える権利があるだろう。
まともな思考をしていれば当然そうなる。
論理的であるということは、“人間が今思いつく範囲では一番効率的であり正しいものである”ということに他ならない。
実際に、あらゆる科学や文化はそのように作られている。
論理とは、人間の生態的な感情も処理できる上位互換のメソッドである。
人間が正論を振りかざすことには何の罪も存在しない。もし存在するとしたら、それを踏まえたものが新たな正論になる。
だから、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、それは無理だといえる。正解が存在しないようなクソ問題を解かされたら、「こんなの解けるかボケ」と言い返す権利がある。
本当はそのはずなのだが、実際に向こう側にはそれを許さないことができるという、新たな正論がすでに生まれている。
例えクソ問題であっても、不正解の者は一方的に落とすことができる。
受験側はほかの企業や試験を選ぶことはできるが、退路が一つ残らず断たれるという状況は成立する。
現実的に自動車運転免許を取得できるのは自分の自治体だけであるし、就職活動で受けれる企業も無限ではない。
自動車免許の学科試験も、受験勉強の文系科目も、就職活動の圧迫面接も、すべては明らかに矛盾していて、嘘である。
二次方程式の解が存在しないなら、虚数を定義すればいいじゃない?
そのような、新たな正論により、この矛盾は贖われている。
2.矛盾を贖う方法
それでは、100円しか渡されていないのに1000円のものを買ってこいと言われたら、その矛盾をどうやって贖えばいいのか。
もう答えは分かってきているはずだ。
何食わぬ顔で自分の財布から900円出せばいい。
相手側が裏で望んでいる虚数解とは、これのことである。
“Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か”というクソ問題を贖うには、100人で受験して50人ずつ〇と×で回答すればいい。50人は生き残る。
「そんなことやってたら自分の財布が空になっちゃうじゃないか!」
「問題が100問あったら一人も合格できないじゃないか!」
その矛盾もまた同様に贖うことができる。
金持ちだけが生き残ればいい。
受験者を10万人用意すればいい。
実際に、社会におけるクソ問題では、人はこのような手法で生き残っている。
クソ問題はクソ問題のままだけど、教習所に通い続けて結局免許は取得できたでしょう?
大学受験だって70万人ぐらいは受験者がいて、その中で生き残った一握りが、“選ばれし人間”になっている。
社会はこうやって生き残ってきた人ばかりだから、新しい虚数解が正義になっていく。
生存者バイアスであっても、信じ込むことによって正義として採用される。
すなわち、命という通貨で、足元を見られている。
自分の財布なり人生なりを、投げ捨てて初めて突破口が見えてくる。
“人間の思考をやめる”といったのは、こういう意味である。
ぶっちゃけ、ある意味運である。
サイコロを振って6が出た人間だけを選別して、そうじゃなかった人間を全部不合格で落とせば、その選別後の人間の集団の中では、6が出た人間が100%である。
サイコロで確実に6を出す方法というのはこれだ。
運ゲーであるという矛盾は、このように死体の数で贖うことができる。
3.戦士たちの軌跡
矛盾を贖う方法とは、死体の数で押し切ることであり、すなわち命を燃やすことである。
受験させる側としても、現代の人口と受験のシステムでは、そうやって裁くしかマシな方法が見つかっていないから。
社会はこのような手法で運用されている場面が多々あり、クソ問題とはそれを生き残るための試練である。
そんなクソ問題でも、解いて合格すると言う意志。
選ばれし人間になるという器が試されている。
偏差値の高い大学の受験生は、みんなこのようにして生き残ってきている。
ひとりの人生においては、免許の取得も普通は一回だし、高校受験も大学受験も普通は一回だけであるが、その一回だけにすべての願いを込めて、突破してきている。
そういう結果論で集められた戦士たちだ。
社会は、そのような戦士を求めている。
クソ問題の試験は、頭いい奴ほど損をする試験であるが、そういう能力はいらないから落としている。
何も考えない優等生が大量にいてくれれば、最強の軍隊になれる。と、彼らはそう思い込んでいる。
そのようにして、社会は最強の軍隊を作ってきた。
長い歴史の中では、人間もそれに適応するように進化をする。
例えば、以前から自分のブログで言及している“理屈を否定して愛で生きる”といった手法もそれである。
“死体の数で正義を維持する”という点が共通していて、論理的な矛盾は“他人の感覚で生きること”によって贖わせている。
こんな思想が現代になって急に頭角を現してきたのも、クソ問題を強いる社会が影響しているのかもしれない。
人体と言うのは不思議なもので、他人の感覚を覚えて再現する能力がある。
ある種の超能力と言っていいのだが、この能力によって、クソ問題はサイコロに頼らなくてもほぼ100%正解できるようになる。
例え「Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない 〇か×か」といったクソ問題でも、何週間もずっとそのことを考えていれば、自分の頭の中が相手と同じようにクソになる。
だから、こんなクソ問題出した教官は自分で問題を解けるのか?といったら、実際奴らはちゃんと解ける。
似たような問題を混ぜて迷彩しても、奴らは的確にそれを見抜く。何がダメなのかは明確に答えることはできないが、不思議なほどに完全回避をする。(何度も試したことあるから間違いない)
クソであるとわかっている問題を、何週間も考え続けて、命を投げ捨てているという感覚を忘れること。
それこそがクソ問題に立ち向かうための武器であり、試験勉強の際には、それぐらいの時間を使っていて欲しいという願望があるのだろう。
もちろんそんなオカルトじみたことをやっていても能動的な勝ち目はゼロのままであるが、死んだときのコストを無視できるだけの金持ち人間が、求められているのだろう。
大学受験は、必要なものは受験勉強だけであり、失敗しても何度でもチャンスがある。
就職活動も、不合格になったら次の企業に行けばいいし、来年に持ち越してもいい。
資源は無限ではないが、どれだけの資源を用意できるかを問われている。
【手洗い】感情という名の思考停止【清潔】
言論とか科学とか、そういったテーマだととっつきにくいが、“トイレで手を洗う”といったテーマなら、誰もが理解できる。
“人は感情で生きるか理屈で生きるか”
自分は過去に何度もこのテーマで記事を書いているが、今回ピピさんが書いた記事は、このテーマを説明するのに非常に良いモデルになると思った。
勝手に利用させていただきます。ありがとうございます。
まあ自分自身のことを言えば、手は大体洗っている。洗濯も歯磨きもしている。
しかしもちろん完璧ではない。
指先から手首まで石鹸で20秒以上、とかは正直やっていないし、歯磨きだって歯医者から見たらたぶんアウトだと思う。
完璧ではない。誰だってそうである。
そして心の底では、その罪がいつ暴かれるかということに戦々恐々としている。
だって、普段職場や学校で人と出会うときに、“わたし手なんて洗ってないよー”って言ったことがありますか?聞いたことがありますか?
これはだいぶ勇気がいる発言だ。ネットですらカミングアウトする人はなかなかいないというのに。
今日は、その恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法を紹介する。
目次:
1.自らの判断力で事実を理解すること
まず、先に紹介したピピさんの記事に書いてあることは、すべて事実である。
主張も筋は通っている。一見めちゃくちゃなことを書いているように見えるかもしれないが、理屈を並べて説明すれば子供でも納得できる内容である。
風呂には毎日入っていても、スマホを毎日お湯と石鹸で洗っている人間がどれだけいるだろうか?
トイレで手を洗うといっても、蛇口に触って水で濡らして適当に乾かすだけなら、むしろもっと汚れているのではないか?
というか、細菌の数だけで清潔度合いを測るのは正しいのだろうか?人体の中なんて細菌だらけだというのに。
例え病院や飲食店であっても、これらの事情は完璧にはクリアされていない。
アルコールスプレーだけで安心な訳がないだろう常識的に考えて。
すくなくとも自分のバイト先では、モップの柄もレジのボタンも、洗ってはいなかった。
なお、学生バイトの分際でパートのお姉さんにこういう話をもちかけると一発で基地外認定だから気を付けよう!
2.矛盾を自分の力で説明すること
“清潔だとか言ってるけど、話としてはちょっと怪しいよね”。
そんなことは誰でも馬鹿でもわかる。
そして、こういった問いを人に突きつけると、割と面白いことが起こる。
その人の知性の本性が見える。
例えば学校の先生に、“あれれ~?手を洗わないと不潔だと言ってるくせに自分のスマホは石鹸で洗わないんですか~?”と言ってみよう。
知性と感情がエラーを起こして、その人は豹変する。
明らかに事実だとわかることなのに、感情のほうを採用している自分自身に気付かされてしまう。嘘を一つでも通しているならそこから積み上げられる論理は全て嘘になる、という危険性に気付いてしまう。
それを説明できずに苦し紛れの言葉で逃げるか、“だからお前もスマホを石鹸で洗え!”という無茶な論理を即席で作り上げるか。
その人が感情で生きる人間であるならば、大体この程度が関の山だ。
大昔にも、このように感情を正義として生きる人はいた。
19世紀にルイ・パスツールが微生物と病気の関係を発見して、多くの人が発狂したといわれている。目に見えずに、食べ物どころか空気まですべてを警戒しなければならなくなったからだ。
「発狂しちゃうから微生物なんて発見されなければよかったのに!」
心の底ではこう思っているが、それを口に出す勇気もない。学術を認めれないバカだと思われるのも嫌だ、というジレンマに勝手に苦しんでいる。
3.”感情によって通せる嘘”を警戒すること
人は、感情で生きるか理屈で生きるか。
どちらの方式も一長一短であり使い分けるべきものであるが、感情のほうだけで生きてしまうと、人類はかなり危険である。
感情には、きりがないからだ。
どこまで洗えばいいのかもわからないし、どこまでなら洗わなくていいかも確定しない。
他人の感情の積み重ねで収束はしていくが、そこには確定した答えはどこにもない。
マーケティング一つで手の平を返す程度の正義しか生まれない。
ある程度の金をかけて、例えば「手なんて洗ってはダメですよ!時間と水資源の無駄を削減しましょう!」とCMを流してしまえば、もうそれが正義になってしまう。
現代社会の生活習慣なんて、ほとんどがそうやって作り上げられたものだ。
“みんな洗っているのに洗ってないの~?”という思考と、“そんなに洗ってバカじゃないの~?”という思考。人口と感情によってしか成り立っていない正義で、人はマウンティングを行う。
まあ今回はトイレと手洗いの話だから、みんな軽く考える。
感情で済ませてしまっても、あとは忘れてしまえばどうとでもなるだろう。
しかし、それ自体がすでに感情に根差した感覚であり、理屈で考えれば話はこれだけでは済まない。
ちょっと突き詰めて考えてしまえば、社会における嘘は、みんなこうやって人口と感情で許されてしまうからだ。
例えば、ブラック企業だってこういうことを言っている。
・みんなサビ残しているよね?
・月の残業時間は45時間までだよね?
・残業代が出るのは申請した分だけだよね?
・申請なんかしないよね?
こんな話は、いくら並べても嘘だということは子供でも分かる。
にもかかわらず、人口と感情によってそれが許されている。
4.ショートカットの採用に判を押すこと
本当に理屈で生きるのならば、手は一切洗わないはずだ。
洗濯も歯磨きもほとんどしなくなるはずだ。
にもかかわらず、自分含めて大体の人がやっているのは、結局は感情で生きているからだといえる。
人間である以上どうやっても、どこかで感情は採用している。
本当に理屈だけを採用していたら、目が覚めた瞬間に脳がオーバーフローを起こして死ぬ。
感情とは、理屈のマインドセットである。
“他人と同じだったらとりあえず大丈夫だろう”という思考停止であり、思考のショートカットである。
感情という判断を、理屈の上で採用すればいい。
ショートカットをしてもいい場所かどうか?ということを事前によく考えることも重要であるが、それ以上に、“今はショートカットを使っている”という事実を反故にしないで覚えておくことこそが重要だ。
これが、“手を洗っていない”という恐怖を克服して、理屈と知性で生きる方法である。
今の自分は感情を使っている、ということを忘れないで立ち向かえばいい。
世界にはたくさんの嘘が横行しているが、理屈によって感情を肯定することでしか、その矛盾は贖えないと思う。
忘れきってフタをするという手段を選ぶなら、人間は辞めたほうがいい。
志望動機に「給料」と書いてはいけない理由を、考えた。
2017年度の採用活動が6月から始まるというのは、経済産業省の願望である。大本営発表が見せる幻影である。
少なくとも、採用する企業にとってはそんなこと割と知ったことではない。自分の会社も、年中通して採用者確保のために走り回っている。
人はなぜ、企業で働くのだろうか?
それは個人が信念として持っていれば十分であり、答えなど存在しない話題である。
社会に貢献するためだの、自分が楽しむためだの、哲学めいた答えは色々ある。
人の考え方は多様であるし自由であろう。
しかし社会は、「金のため」という答えだけは、何故か許していない。
志望動機に「給料」と書いてしまうと、必ずハネられる。
自分が会社員になってもうずいぶん経つけど、会社の側から、この矛盾の回答を聞いたことが一度もない。
だから、自分が考えてみた。
目次:
1.逃げられない禅問答
志望動機になんて書こうか。「給料」って書いちゃダメだよね。
日本の大学生はみな、就職活動をするときに、このようなことを本気で考える。
そして、各々で何らかの答えを色々考えて、結果的にごまかして突破する。
そうやっていざ会社員になってしまえば、そんなことは意識せずに日々の仕事に追われるようになる。むしろ会社員だからこそ、こんな禅問答に付き合わない特権を勝ち取っているのであり、今になって同じ問いをされたらまともに答えられる人などいない。
なぜならば、大前提として、これは答えなど存在しない問題だからだ。
見返りを伴わない仕事など仕事とは言わない。仕事なら金のためにやっているに決まっている。
別に、「給料以外の志望動機を教えてくれ」という話ならば、いろいろ出てくるだろう。
居心地がいいとか、自分が得意そうだとか、善行をしていい気分になりたいとか、そういった理由を次々答えることができる。
ちゃんと聞けばいろいろ答えてくれるにもかかわらず、就職活動をする大学生にこんな負け確のクソ禅問答を強要する。大学生は、この問いからどうやって逃げるか、どうやって誤魔化すかだけを本気で考える。それはそれで思考力を鍛えるトレーニングにはなっているのかもしれないが。
なお実際のところは、一度就職してしまえば逃げ切れる問題でもない。
転職するときにはもちろん聞かれる。給料が理由に絡んでいない転職者なんてほぼいないはずだが、この無理ゲーをもう一度突破しないといけない。
転職しなければ安心というのも幻想だ。社内での昇進試験や、上司とのカウンセリングでももちろん聞かれる。
「給料が低かったらこの仕事やってないの?」とか、「同じ給料を出す会社はほかにもあるでしょ?」とか、こんな幼稚な論理を武器として使う大人は、大勢いる。
2.会社が抱えている本当の事情
“志望動機に「給料」と書いてはいけない”というルールは、前提が矛盾した禅問答である。
いや、むしろ禅問答のほうがよほど良心的だ。仏教の禅問答は新しい概念に気付かせるための対話であり、決して後出しジャンケンでプゲラするための道具などではないから。
なんで企業がこんな禅問答を使用するようになったのかと、企業の側に立って考えてみた。
おそらく、「社員にあげられる給料には限度があるから」という事情があるように思う。
企業が社員にあげられるもので、一番明確なものは“給料”であるのは間違いない。
だから、それで満足してくれる人でないと、怖くて社員にできないのだろう。
そして、給料だけが欲しいと言っている社員だと、“どこまで昇給しなければならないか?”という議論にきりがなくなってしまうからだ。
人の要求というものは、長くいればいるほどエスカレートしていく。
給料だって最初の手取り14万円でずっと満足し続けてくれる人はいない。給料は上げなければならないが、企業が払える給料には限度があるため、その要求にこたえられなくなる日がいつかは必ず来てしまう。
別にただの取引先の一つだったら、値下げ交渉もできるだろうし、気に入らなければ乗り換えだってできるだろう。しかし、何十年も雇う正社員の場合は、そうもいかない。
なお、長くいればいるほど要求がエスカレートするという話は、金に限ったことではない。達成感とか知識欲とか、そういう内容でも同じことが起こる。
給料を上げすぎて会社が破滅するまで飼い続けるか。
それとも、達成感を求め過ぎて社員が愛想を尽かすまで飼い続けるか。
この二者択一ならば、後者の方が多分会社は損しないし、まだ御しやすい。
3.面接ですら正しい言葉で向き合えない
企業は、自社に正社員を迎える際に、“満たされてくれる人じゃないと取りたくない”と考えている。
突然離反されたり反乱起こされたりしたら困るし、普段の仕事においても、満たされてくれてないと向上心などが得られないのだろう。
正社員を採用する企業には、おそらくそういった心理が働いていると考える。
しかし、採用する側がその心理に向き合おうとしない。
自分たちがあまり給料をあげることができない、という事実に目を背けている。
その状況に、“金儲けは悪だ”という儒教的な精神が重なって、意味の分からない思想が出来上がっている。
そうやって結局は、形骸化された禅問答を続ける羽目になるのだ。
ツンデレを拗らせすぎて企業の側も元々の理由を見失っている。
満足してくれる社員が欲しいくせに、“給料以外に何をあげれるのか”ということも答えようとしない。
「給料が低かったらこの仕事やってないの?」とか、「同じ給料を出す会社はほかにもあるでしょ?」とか、こんなバカげた問答をやっていても何も気付かない。
「君は金が欲しいからと言っているけど、うちの給料は手取り14万だよ?それでもいいの?」ちゃんとそうやって聞けばいい。それでいいと言っているなら、採用すればいい。
別に達成感とか知識欲とかの別の概念に頼ったところで、結局は破滅するまでエスカレートするというのは同じなのだ。
正社員のスタートの第一歩を、嘘で固めてしまうことのほうがよっぽどリスクが大きい。
【就職活動】顔採用の極限化と社会への怒り【美人有利】
年度末が近づくと、就職活動のことを思い出す。
自分の会社でも、新入社員の話が出てきた。
2017年現在での就活のスケジュールは、三年生の3月1日から説明会がスタートして、4年生の6月1日から面接が開始する。ということになっている。
実際には3年生の6月ごろからすでにインターンシップが始まっていて、学生の選考や青田刈りが始まっている。当社も大体そんな感じだった。
我が国に70年前からある教訓として、“大本営発表=ロクでもない”というものがある。兵士として最前線で戦うのなら、特に信じてはならない。
人も社会も、人体の脳が判断をしている以上、認めたくないものは認めない。
例えば、”就職活動では美人が有利”といったこともだ。
仕事ができる人は美人が多いだとか、美人でも苦労はしているだとか、そんな話はどうだっていい。
そんな話でごまかさなければいけないほど、ブサイクは不利だという純然たる事実がある。
今日はそのことを書いてみようと思う。
目次:
1.企業側の主張と、美人が有利であるという事実
インターネットで毎年議論されている画像がこちらです。
就活生にとってはおなじみの画像であると思う。
以前、こんな話を聞いたことがある。
あるIT企業は、女性社員を採用する際、美人を優先して採用している。
だって当然だろう?
かわいいほうが男がうれしいし、接待でも取引先でも有利だ。
会社としてもそういう仕事をしてもらいたい。
例え20代後半でやめてもらったとしても、すぐに次のが雇えるから問題ない。
多くの企業では、本質的なところでは、このような心理で美人を選んで採用している。
そして、美人がいると社会で具体的に有利になる、という話は事実ではあるとは思う。
以前の記事でも書いた通り、こういった顔採用をする企業には、それを行えるだけの体力がある。だから、企業がこういう意思で採用すること自体は自由であり、正義でもある。
しかし、それだけでは片づけることのできない、明らかにゲスな点が、三つある。
2.明らかにゲスな点一つ目「それを公表していないこと」
美人を採用したい、という意思自体は正しい。
しかし、美人以外を採用する気がないくせに、募集要項に容姿のことを書かないのが問題だ。
正直なところ、募集要項に“うちは美人を探している!明確な基準は出せないけどブサイクは来るな!”と、書いてしまえばそれだけで多くの人が救われる。
自分がブサイクだとわかっている人は、無駄足を強要されなくなる。
途中まで書類を通しておいて、面接になってから「やっぱブサイクだから」で落とされることもなくなる。持ち上げてから落とされたほうが金銭的にも精神的にもダメージが大きい。
また、こういった募集要項で合格した人は、自分自身が美人/イケメンだと、自信を持つことができる。社内でも“そういう仕事”をする覚悟ができる。
もともと企業は美人/イケメンには“そういう仕事”をさせるつもりで入社させたのだから、ミスマッチがないほうがいい。
かわいい子をアイドルとして雇って、だんだん露出の高い衣装に着替えさせるために、あの手この手で機嫌を取る。そんな必要がなくなる。当人が最初から”そういう仕事”をする覚悟があるならば。
”ブサイクは来るな!”と募集要項に書かれてしまうと、ブサイクな人が受かるチャンスが最初からなくなるというのは問題かもしれないが、全然たいしたことではない。
結局のところ、住所や学歴や能力でも同じように条件は指定されているのだから。これらの事項も、生まれ持った容姿と同じぐらいは変更が難しい。
まあ実際にこのような募集要項をかけない理由は、“募集要項に容姿のことを書くと、苦情が来るから”である。
なので現状は募集要項にはきれいごとばかりが書いてあるが、表面を取り繕っただけで本質は何も変わっちゃいない。
たとえ募集採用に“容姿で差別はしません!”と断言したところで、企業側にとっては、“(ある程度以上ならば)どんな容姿でも(圧倒的な能力があれば)採用する(かもね)”という簡単すぎる逃げ道が残っているのだ。
別に容姿の問題に限ったことではないが、現実に敗北した者こそが、真実を愛する。
“ブサイクは差別されるから不利である”という事実自体は、当のブサイクならば絶対にわかっていることなんだ。
それを、差別を消し去ろうとするような無思慮な慈悲によって、ブサイクの人生が狂わされている。
就職活動以前に、そもそもブサイクは人生において不利すぎる十字架である、といったようなことを、ピピさんが言っていた。
だからこそ、正しい条件の下で公平に戦いたい。ブサイクはそう願う。
中途半端だからこそ、不正が許され、不幸が生まれる。
3.明らかにゲスな点二つ目「やるならやるで本気を出していないこと」
企業が、美人が欲しがるのはまあ分かる。
だったら、AV女優とか中卒のロリっ子とか整形豊胸サイボーグとか、何で雇わないんだ?
さぞかしすごい効果だろうよ?
美人が欲しいという企業の言い分を信じれば、このほうが効果が高いのは間違いない。
なのに企業は、こういう人間は決して採用しようとしない。
“学も伴っていないと業務ができないカラー”というのは言い訳になっていない。
ちゃんとした新卒学部生でも、何も教えないでエクセルが使える人なんて多くはない。24歳の新卒院生でも、どうせ最初の一年はお茶くみに等しい仕事しかやってない。
今どきの新卒なんて、どんな業種であっても結局最初から教育をするんだ。
最終的な能力の伸びしろの話をするのであっても、別に低くても問題ない。できる仕事もやらせるべき仕事もたくさんある。というか、見た目が劣化してきたら飛ばすつもりだったんだろう?
むしろ、中卒のロリっ子を15歳で雇って、7年間社内教育をしたほうが、普通の大学生より役に立つ人材になるのではないか?
多くの大企業は自前で企業内学校を持っているし、7年間も少人数でOJTができるならば、仕事としても教育としても効果は高いと思う。文系職にかぎらず、正直技術者としてでも相当できる人間が育つと思う。野球やサッカーではすでに似たようなキャリアプログラムが運用されているというのに。
高校の無駄な受験勉強で人生を賭ける危険もなく、遊ぶばかりの大学に無駄な学費をかけることもない。保護者としても本人としても魅力的な選択肢なのではないか?
一か八かで芸能界にデビューさせるより、大企業で子役アイドルになればいい。
しかし結局のところ、企業はそんなドラスティックな戦略をとる勇気がない。
一時期ユニクロが”大学一年生からインターンで青田刈り”ということを行っていたが、それだけのことでも批判が殺到していた。
「真面目に選考したつもりだけどなんか美人がそろっちゃたなぁ ウヘヘ」
企業は、これ以外の結果を受け入れることができない。まるでハーレムラノベの中学生の主人公のように。
現状を変える気がないくせに、いいものを欲しがる。
ここに決定的な甘えがある。
形式的には、真面目な女性を採用したつもりでいたい。大学卒業してリクスー着た女しか採用する勇気がない。
4.明らかにゲスな点三つ目「そんな要素が有効であることそのもの」
美人が社会において有効と言い張っているが、その状態がそもそも異常である。
美人が有利であるということは、現代の社会では悲しいことに事実であるが、自分の男性としての感覚から言うと、それを許したことも求めたこともないんだ。
同僚にかわいい子がいるから何なの?“元気が出る”って、特に出ねぇよ!?
というか、元気が出たから何なの?
やる気がないから業績が上がらないって、女性が一人いただけでやる気が出るわけがないだろう。食えるわけでもないのに。社内恋愛だとしても特殊すぎる。
美人と一緒ならサービス残業ができるとでも思っているのか。美人が相手なら製品価格を下げてもいいとでも思っているのか。
“べ、別に自分たちの企業は女性にそんなこと求めてないけど、『接待でも取引先でも有利』なんだから他社のために用意しないといけないんダヨー”
世間の大企業は、こんな言い訳を並べて、求職者の中から美人をあさることをやめない。
モラルのデフレーションである。
そんな下種な精神が業界でのさばるから、全体がどんどん腐っていく。
真面目な振りしていても、美人採用に加担していれば同罪だ。
大企業のスーツ着たいい大人の集団が、そんな中学生みたいな性欲で仕事をしているという現実が、憎い。
就活生が、そんなやつらに職を乞わなくてはいけないという現実が、憎い。