自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法
「自動車免許を取る時の学科試験って、ひどいひっかけ問題ばっかりだったよね?」
こういう話題が、免許を取ったことのある人には誰でも通じてしまうという異常事態が、放置され続けている。
例えば、このようなクソ問題だ。
Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。
答:×30km/h以上で走ってはならないから
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答:×昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
Q3.標識のない道路を運転する時、100km/h以上で走行してはいけない。
答:×原付は30km/hまでだから
Q4.公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。
答:×一般自動車でなくてもシートベルトをしなくてはならないから
Q5.制限速度30km/hの道路では、その制限速度を超えて走行することは許されない。
答:×非常時はその限りではないから
たったの5問だが、初見で満点取るのは確実に無理な問題群だ。
教習所に行って免許を取ったのはもう何年も前だ、という人も多いだろう。しかしこれは昔話などではなく、現在においても、当時と変わらぬクソ問題が量産されている。
若者たちの答案にバツ印がつけられて、一方的に裁かれている。
今日は、こうした悪問が「なぜ許されているのか」を書いてみる。
また、その悪問に「対処して生き延びる方法」も模索してみる。
目次:
1.理不尽で読めない後出しジャンケン
今回あげたような自動車免許の学科試験に限らず、「理不尽な後出しジャンケン」や、「どうやっても能動的に正解を選べない」といったような事態は、人生においては様々な場面で直面する。
子供から大人まで、学校生活・受験勉強・入社試験・昇格試験など、どのような場面においてもそれが出てくる。
受験などの、何か試験をするタイミングだけではなく、先日の記事に書いたように、権力で上回っている人が近くにいればそれだけで、「理不尽な後出しジャンケン」は許されてしまう。
今回の自動車免許の学科試験のように、権力を握った側は、明らかな嘘の答えですら通すことが出来る。
そしてその上で、「こんな簡単な問題で100点が取れないのか」というマウンティングまで出来てしまう。
「人生に一回ぐらいなら、ちょっと理不尽な問題をやらされたっていいじゃない。最終的には免許もとれたんだし。」といったような言葉では済まされない結果であるし、許してはならない。
「昔は日付変わるまでサビ残して会社に泊まりこんだものだ」とかいうブラック自慢を強要するのと同程度には、有害で邪悪な風習である。
2.なぜこのようなクソ問題が許されているのか
例えば先の問題のQ2を見てみよう。
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答え:×
理由:昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
100%疑いなく日本語が不自由であり、誰がどう見ても悪問である。
一応この問題の主張としては、「問題文をきちんと読まない受験生を落としたい」とか、「ひっかけ問題にしてでも原付は30km/hまでと深く印象付けたい」といったものがある。しかし、それらの理由は全部後付である上に、方法も結果も間違っている。
「普通にやると簡単に100点とれちゃうから意図的に不可能な問題を作って平均点を調節している」という説もある。
だから、100点はもともと無理なのでこんな問題は考えないで飛ばすべき。ほかのところで合格点を確保すればいい。という意図が出題側から出てくることもある。
しかし、考えなくていい問題なんて一つもないんだよ。
「どこまで考えるべきか?」がクソになっているからそもそも困っているわけで。
全部の問題で「よく考えて」しまえば、0点にだってなってしまう。
このように、こういった問題はどうやって言い繕っても悪問でクソ問題である。
問題製作者は一体何を考えているのだろうか。
「もちろん何も考えてない」。
過去の問題と同じようなクソ問題を継続することだけに心血を注いでいる。
とにかく前例に倣い続けることで、不公平感を出さないように頑張っている。
自動車免許は、現在ものすごい数が発行されている。
https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
もし、学科試験のクソ問題を改善したことで、何か効果が起こってしまったら、取り返しがつかなくなる。
仮にそれが良い効果であったとしても、それを証明するのにものすごい手間がかかる。
関わる人口が多すぎて、メンテナンスのコストが改善のメリットを上回っているため、全く身動きが取れないという状態になっている。
何か本当に良い改善ができるのだとしても、自動車の免許であるため、何かあれば命にかかわる問題になる。そのため判断には高いコストを支払わなくてはならない。
運転免許の利権や、免許人口の調節も、動けない理由の一つであろう。
一番最初に「クソ問題を作って合格率を操作しよう」という横着をしたツケを、未来永劫払い続けなければならない状態だ。
大体、クソ問題を絶対に作らないというのはかなり難しい。
問題は過去問と一つもかぶってはならないし、その上で、正当かつ測定効果がある問題を作り続けなければいけない。練習問題も含めれば膨大な量の問題を作らなくてはならない。
そんな難しい問題を、教習所の教官達が、サビ残して日々作り上げている訳だ。
そりゃあ間違いの10や20は存在するに決まっている。
以上のように、学科試験のクソ問題を改善することは、システム的にも現場的にも土台無理な話である。
そして、それを当然の事として運転免許の関係者たちは日々働いている。
奴らは永久に反省できない。
3.「クソ問題」を生き残る方法
このように、運転免許の学科試験のクソ問題は、現在の社会では回避不能なコストである。
そして人生においては、運転免許に限らず学校や職場等でも、同様のクソ問題は何度も解かされるだろう。
それに対処して生き残る方法も、一応いくつかはある。
まず一つ目は、正攻法と言っていいのかどうかは不明だが、例えば先のサイトでも紹介されていたような、「問題文に必ずとか絶対とかって文言が入ってたら大抵×が正解」といったテクニックを積み重ねることである。
文系の受験問題や公務員試験のように、こういった戦法が前提となっているような戦いもある。
しかし、こういうテクニックをいくら積み重ねたところで、それでも潰せてしまうところがクソ問題のクソたる所以であるが。
次に、「その一問の結果で一喜一憂するような状況がそもそもダメ」だという考え方もある。本当にちゃんとできる人間ならば、ほかの部分で合格点が取れるから、クソ問題にいくつかあたったところで死にはしない、という理論だ。
クソ問題を出題する側も、アリバイとしてよくこの理論を使うが、やはりそれでも正しくはない。
たとえ一問の得点であっても、タダで奪っていい理由などあるはずがない。
それに、そもそもクソ問題においては「考えるべき範囲」というものすらクソになっているため、そのたった一問と同じ方法で、残りの99問も不正解になり得てしまう。
こういったクソ問題においては、考えれば考えるほど損になる。そして、そのような試験で選ばれた社会では、まじめにものを考える人間などいなくなるだろう。
しかし、実際にそういう社会になりつつあるし、もともと社会はそういう人間こそを望んでいたのだとも考えられる。そういう意味では、テストとしては正常に機能しているのかもしれない。
クソ問題に翻弄されて、どうしても正解できない人は、まず人間の思考をやめてみよう。
人間として理性的に推論するのではなく、「求められている受験生」として機械的に判断してみよう。
この社会における勝者たちの多くは、そうやって正解率を上げてきた。