愛と怒りと悲しみの

とある理系サラリーマンのばら撒き思想ブログ

「いまさら聞けない~入門」とかいう大嘘について

 

本屋で技術書や入門書を探してみると、多くの本でこういうタイトルがついている。

「いまさら聞けない~入門」

 

何かおかしくないだろうか。

「常識」だとか「当然」だとかいう言葉でムカついている人は多いのに、この「いまさら聞けない」という言葉はなぜか受け入れられているように思う。

「いまさら聞けない」で検索をしても言論が全然出てこない。むしろ「簡単にわかりやすく教えてくれる!」ということを意味している言葉になっている。

 

まあ、こういうキャッチーなタイトルをつけた方が売り上げはいいのだろう。統計的にそういう結果が出ていることは納得できる。

「いまさら聞けない」という言葉にもはや大した意味なんて持たされていないのだろう。

 

しかしもちろんこの言葉は、間違った概念である。

「いまさら聞けない」という言葉は本のタイトルとしては機能するのかもしれないが、人と人との対話や技術そのものには決して使ってはいけない概念だ。

 

インターネットや会社や学校で、「いまさら聞けない」という概念を使って知識のマウンティングを行う風景がよくみられる。

今回はそのことを書いてみようと思う。

 

 

目次:

 

 

 

1.知恵を共有する間柄

もう結論だけを先に書いてしまおう。

「いまさら聞けない」ではない。

「いつでも何度でも聞かなきゃいけない」のだよ。

 

このブログで何度も言っているように、情報や技術は伝承して拡散できるところに価値がある。

機密にしなければならない競合他社とか、情報を有料で販売して生計を立てているとか、そういう状況を除けばどんな基本的なことでも必要ならば教えあわなくてはならない。

「知らないことが恥」という概念自体がもはや古い。

 

これができないという間柄は、すなわち「敵同士」である。同じ業界・同じ会社・同じコミュニティにいる仲間同士ならば、これらのことは当然できなくてはいけない。

どんなに実力があったとしても、これができない時点で老害であり敵同士である。

 

 

2.~を知らなきゃ「ヤバい」

「業界人なら~を知らないとヤバい」という概念を用いて人を叩くケースがある。

以前ちょっと話題になった、「蹴鞠おじさん」という存在と同じだ。

 

この「ヤバい」という価値観自体が、作りだされた優越感である。

ありもしない同調圧力に屈した弱い心である。

 

誰にとって、何がヤバいのか。その説明が全くなされていない。

「素人は叩ける」という目先の快楽だけにとらわれてしまっている。

どの程度知っていないとヤバいのかだって曖昧すぎる。

殆どの場合で当人が勝手に判断して、ヤバいなどと喚いている。

 

この思想は、当人の優越感以外に意味がないくせに、人を踏むという浅ましい心だけは大きく成長させる。

 

確かに、現在進行形で間違いを広げて被害を出しているというのならば、確かにそれはヤバいといえるだろう。

その時はそこを直せばいい。敵ではなく仲間であるならばだが。

ヤバいなどと言っている暇があれば教えて直してやれば済む話なんだ。

 

 

3.「知っている」という嘘

今、自分が自身の仕事をできているか否か。大事なことはこれだけであり、それ以外に大事なものなどない。

情報が足りないならば補充すればいいだけのことだ。

 

なぜならば、人間一人が把握できる範囲などたかが知れているからである。

絵描きであっても工業であっても金融業界であっても、一人でその業界や技術のすべてが理解できると思っているのだろうか?

今までに人類が積み上げてきた知識や技術は膨大だ。どんなに詳しいつもりであっても完全に知ることなどは絶対にできない。

 

だからこそ、人類は知識や技術を「いつでも参照ができるように」体系化して保存した。

「知らないことが恥ではない。知ろうとしないことが恥である」と紀元前から言われているが、表面的な理解しかなされていない。

「知識の量で殴りあうことは馬鹿なことである」と早く気付かなくてはならない。

 

大学に行けば全員が学ぶことであるが、「分からない」という状態は基本であり原動力である。何でも知っている博士なんてものは存在し得ないんだ。

 

「蹴鞠おじさん」が実は物理攻撃に弱いように、どんな熟練者であってもこの「実はあんまり知らない」という原則からは逃れることができない。

ただ、弱点を隠して虚勢を張るのが上手くなるだけであって。

「実はあんまり知らない」というギャップを、権力で埋めるようになる。

 

そして大抵の場合では、「案外知らなくても問題なく事は進む」という事実に気付く。

どんな熟練者だって、どこかでその事実に救われている。