【趣味】ビデオゲームが持つ高潔さ【eスポーツ】
「ビデオゲーム」には実にいろんなタイプがある。
スマホでダウンロードして動かすもの、自宅のPCやテレビで動かすもの、ゲームセンターで金を払ってプレイするもの、など。
ここ10年ほどで、プレイする人口が一気に増えて、ずいぶん社会に浸透してきた。
togetter.comしかしこの記事でまとまっているように、ビデオゲームという趣味は、社会的な地位がまだ低い。
子供の趣味、オタクの趣味、暇つぶし、などと扱われている。
当然の前提として、趣味に貴賤はない。ビデオゲームだって立派な趣味である。
ただ、それぞれの趣味には損得はあるのだと思う。金・名声・技術・時間等、それぞれをどれぐらい得られるか、どれぐらい失うかは趣味によって違う。
そういう観点で話をすると、ビデオゲームとは、お金も余りかからないし、頭脳や感性を鍛えることができる、文明人らしい有利で便利な趣味であると思う。
自分が考えるに、ビデオゲームの本質はスポーツと同じである。
「プレイする」という言葉が共通して使われているように。
野球や陸上競技などと同じ原理で、eスポーツが行われている。
今日は、ビデオゲームの高潔さを書いてみようと思う。
目次:
1.ゲームを行う意味
ロジェ・カイヨワは「遊び」を「競争、偶然、模倣、眩暈」四つに分類した。
ビデオゲームは、これら「競争、偶然、模倣、眩暈」を全て含んだ総合遊戯である。なので、競争ばかりではなく、単純な「暇つぶし・気休め」というのもゲームの使い方の一つだ。何も考えずにだらだら時間を潰す、という目的のゲームもある。
しかし、多くのゲームでは、ハイスコアや、ネット上のランキングなど、プレイをする目的として、「競争」が採用されている。
対人戦の勝ち負けやネット上での順位を競うものは分かりやすいが、オフラインの育成ゲーや箱庭ゲーなども、そのゲームのルールだけで設定された基準に対して、競争をしているという点では同じだ。
何故競争をするか?というのが、ビデオゲームをプレイしない人にはわからないのだと思う。自分も昔はよくわからなかった。
勝ったところで何か得をするわけでもないし、敗者の顔を見て楽しむという目的があるわけでもない。
ビデオゲームで何故競争をするかと言えば、「どちらがなぜ強いのか」に純粋な興味があるからに他ならない、と自分は考える。
2.「eスポーツ」がスポーツ足りうる理由
陸上競技や球技などのスポーツが、なぜ追求されているかを以下に記す。
例えば、陸上競技の100m走なら、「人類がどれだけ早く100mを走れるか」ということに興味があるからである。
元をたどると、足が速ければ、それだけ自然界で種として生存に有利になるからであろう。そういう意味では、100走は興味の動機としては、もっとも根本的なものの一つだと言える。
それに対して、やり投げやハンマー投げの場合は一段ランクが下がって、「戦争の時により遠くから敵の陣地を攻撃するため」だと言える。
また、野球やサッカーの場合はさらにランクが下がって、「考案された面白いゲームをより楽しむため」に戦術・肉体が追求されている。
そういう話の先に、eスポーツがある。
スポーツとしての根本の動機は、野球やサッカーと同じで、「発売された面白いゲームをより楽しむため」であり、ランクとしては下の方に位置するが、ビデオゲームも本質的にはスポーツと何も変わりはしない。
ビデオゲームで競争をする理由は、どちらがなぜ強いのかに興味があるからであり、人間は最終的にどこまで強くなれるのかを、追求するためである。
繰り返すが、陸上競技や球技は、元の動機はさまざまであるが、どれも「どれだけ強くなれるか?」という純粋な興味によって追求が行われている。
集客によって金を稼ぐためではない。感動的で美しいプレイを楽しませるためでもない。
それは、外部の人間が勝手にそうやって利用しているだけの話で、スポーツの本質ではない。
eスポーツも、全く同じ動機で追求が行われている。マーケティング目的で気取って「eスポーツ」と名前がつけたわけではない。
繰り返すが、eスポーツは、「一つゲームをより楽しむため」「人がその範囲でどこまで強くなれるのかに興味があるため」にプレイされている。100m走や野球と何も変わりはしないから、「スポーツ」という名前が付けられている。
3.ビデオゲームを追求する行為と科学を追求する行為
スポーツを追求することは、科学を追求することと同じである。
以下の記事に、人間が科学技術を追求する意味を書いた。
最終的にはもちろん「人類の役に立つため」に科学を追求しているが、なぜ一見役に立たない細かいことでも追及しなければならないのか、という理由は、以下の二つだ。
-
一度気付いてしまった部分は「未開拓」であり、追求する余地が残っているから。
-
その未開拓の部分に、何か重要なものが眠っている可能性がゼロではないから。
eスポーツのような、対人戦で勝利することを目的としたものばかりではなく、たとえ一人用のゲームであっても、追求するプレイには科学的な意味がある。
TAS動画が、例としてわかりやすいかもしれない。
例えば、マリオ3やロックマン2を、「理論上どれだけ早くクリアできるのか?」ということを追求・研究している動画が、ニコニコ動画などでアップロードされている。
TAS動画は、すごいプレイを魅せることによるエンターテイメントを目的としたものではない。また、TASのコンテストで相手チームを打ち負かすことを目的としたものでもない。そういうものは、「人力TAS」や「祭りイベント」などで、別のジャンルとして取り扱われる。
TAS動画を研究する本質的な理由は、一つの会社が発売した一つのゲームの中で、「どれだけのことができるのか?」ということを、誰かが興味を持ってしまったからである。
先の記事でも同じことを述べているように、「こうすればもっと早くなるんじゃないか?」ということを、「誰かが気付いてしまったから」である。科学と同じで、「余地がそこにあるから」こそやっている。
科学の追及は、最終的な目的は「人類の役に立つため」とある意味一番上のランクであるが、ビデオゲームの場合は「一つのタイトルをより楽しむため」と、ランクは確かに下の方に位置する。
しかし科学のように包括的な範囲とは違って、ゲームには多くのタイトルがある。
だから、もしその一つのタイトルをやりつくしてしまったら、誰も何も思いつかないようになってしまったら、次のタイトルに移動すればいい。そこでまた、次の「科学」が生まれる。
将棋の羽生善治が、2014年に以下のようなインタビューを受けていた。
www.news-postseven.com「もし人口知能が将棋界を支配したら?」という問いに対して、羽生善治は以下のように答えている。
「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」
別にこれは、「ゼロベース思考」だとか、「将棋に対する努力を惜しまない羽生善治すげぇ!」という話ではない。「天才だけに見えている新たな境地」などでは断じてない。
ゲームを追求する基本的な原理であり、ゲームを追求するものならば、「いい年してなんでゲームやってるの?」とか言われたときに、持っていなければならない矜持である。
【極論注意】障碍者スポーツの真の理解
2016年9月8日に、リオデジャネイロパラインピックが開催される。
自分も、身内ではないけど障碍者の方が身近にいるので、なるべくテレビをつけて内容を追ってみようと思う。
パラリンピック開催に伴い、テレビのニュースなどでも特集が組まれていたが、やはりどの特集でも、二言目には「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマが挙げられている。
そういったところが、ゴールに設定されているように思う。
今日はこの、障碍者スポーツへの理解について書いてみようと思う。
そしてその中で、障碍者と言う言葉を根本的になくす方法も思いついてしまったので、書いてみようと思う。
目次:
1.障碍者スポーツへの理解、とは?
「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマを表す具体的な一例として、集客数の話がある。
車いすテニスの国内予選では、入場無料なのに客席がガラガラ、という例がニュースで紹介されていた。
「いかにして集客数を増やすか」と課題に取り組んでいる、とのことだが、「障碍者スポーツへの理解を深める」ことは、その解決策にはなっていないと思う。
確かに、障碍者スポーツへの理解があれば、興味を持つ人も増えて、集客数も増えるのかもしれないが、障碍者スポーツへの理解って、すでに大体十分なのではないか?
障碍者スポーツのルールとか、選手の生い立ちとか、有力選手の力関係とか。大抵の人は、健常者スポーツですらよくは知らない。
例えばラグビーは、女子ラグビーやワールドカップで話題沸騰中であるが、ラグビーのルールをちゃんと知っている人は、そう多くはない。
というか、リオデジャネイロオリンピックでメダルを取った卓球やバドミントンでも、選手の名前を知っているのは、マスコミが取り上げた数名だけではないか?
自分が思うに、スポーツを観戦して楽しむならば、プロの選手がすごい動きをしているのを見て、「すげー!」って言うだけでも十分楽しめるものだと思っている。
そして、そのように「すげー!」と言って楽しむのならば、障碍者スポーツは健常者スポーツよりずっとすごい。個人的にはこっちの方がおすすめだ。
本当にスポーツに「人気」と言うものを出すのならば、野球とかJリーグのように、桁違いの金額をかけてマーケティング・プロモーションをしなければならない。
多分それは、「障碍者スポーツに理解を深める」ぐらいのことでは達成できないのだと思う。
「健常者のスポーツへの興味>障碍者のスポーツへの興味」という構図は簡単には崩れないが、これは別に障碍者スポーツが悪いのではない。
そもそも障碍者と健常者に人口比に差があるので、ポテンシャルで障碍者スポーツと健常者スポーツが並んでいないということだ。
何か障碍者スポーツに、健常者スポーツにはない別に魅力があればいいが、そんなものがあったらあったで、障碍者スポーツへの理解は成り立たないような気がする。障碍者スポーツと健常者スポーツは、どんどん別のものになっていく気がする。
2.障碍者が障碍者でなくなる唯一の方法
前回のロンドンオリンピックで、オリンピックとパラリンピックの両方に出場した、オスカー・ピストリウスという選手がいた。義足で達成したその記録が、当時結構議論になった。
五輪陸上選手になった義足ラガーマン オスカー・ピストリウス|Did you know?|RUGBY REPUBLIC(ラグビー共和国)
今回のリオデジャネイロオリンピックでも、両足が義足のマルクス・レーム選手が出場を見送ったというニュースがある。
健常者超える記録が論争 義足ジャンパー、五輪に壁 - 読んで見フォト - 産経フォト
何故出場を見送ったかと言えば、陸上競技においては健常者より障碍者の方が有利である可能性があるからだ。
上記のリンクを見てもらえばわかるが、陸上競技用に開発された特別な義足であり、バネのように機能して、速くなっているのではないかという懸念がある。
現在のところはまだ科学的に有利だと証明されたわけではないが、義足の技術的な進歩が続けば、いずれは生身の足より義足の方が速くなってしまう日が必ず来る。
生身の選手より義足の選手の方が速いと、いったい何が問題になるのか。
分かりやすい理由の一つとしては、「生身の選手が、速さを求めて脚を切断するようになるから」である。
「そんなバカなことする奴いねーよwww」というのは無関係の一般人の感覚だ。
スポーツ選手は記録を伸ばすために、勝利するために人生すなわち命を懸けている。脚を切れば速くなるならば、当然切断するのが正解だ。たとえ本人が嫌がっても、親やコーチが切断させるだろう。
というより現在のところ、スポーツの世界ではすでに同じようなことが行われている。
小さいころから無理な筋トレや柔軟体操をして体を痛めつけることは、足を切断することと本質的には同じだ。スポーツで記録を残すために、不可逆な変化を肉体に加えているんだから。
そこで考えたのだが、このように「足を切断した方が速くなる」という手段が一般化すれば、障碍者と健常者の区別は無くなるのではないだろうか。
義足の技術が十分に進歩して、健常者の方が「脚などいらない」と言い出したその日が、本当の意味で障碍者という言葉が無くなった日でないだろうか。
元々足がない障碍者ならば、義足をつけるのにむしろ有利であり、それを健常者の方が羨む日が来れば、障碍者という概念が無くなるのではないだろうか。
バレリーナの二重関節のようなものである。
医学的には先天的な奇形であると言えるが、皆が羨む有利な才能であり、二重関節のバレリーナのことを障碍者と扱う者はいない。
3.未来の世界のスポーツ
この例のような、義足の進歩が人体を超えてしまう例は、もう20年ぐらいは未来の話かもしれない。
しかし、陸上選手のスパイクや水泳選手のスイムウェアなど、これと同じような話はすでに現実に起こっている。
器具だけの話ではなく、例えばプロテインが普通に薬局で買えるようになったという話にも、このような側面は含まれている。
陸上競技などのスポーツは、近い将来、モータースポーツのように工業技術を競う場になる。
そしてそのうちに、科学技術によって機械化された選手以外にも興味が向けられるようになる。かつての「パラリンピック」と同じように、生身の選手だけで行う「生身ンピック」が開催されるようになるだろう。
現在は、パラリンピックはオリンピックより競技人口も集客も少ないし、後の日程で行われる。
言い換えれば、「健常者スポーツ>障碍者スポーツ」である。
もし将来、パラリンピックが「生身ンピック」より先に開催される様になったら、その時は「障碍者に対する理解」が真に行われた社会になるのだろう。「健常者スポーツ<障碍者スポーツ」となり、障碍者スポーツに真の関心が寄せられる世界になるのだろう。
そしてその時には、「生身ンピック」の選手が、「健常者スポーツに理解・関心が足りない」とか言い出すのだろう。
厚生労働省のストレスチェックに対して考えること
2016年度から、労働安全衛生法により、一定規模以上の企業はストレスチェックを行うことが義務化された。
内容は、厚生労働省の以下の資料に分かりやすくまとめられている。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei12/pdf/150709-1.pdf
自分が働いている会社でも、近々行われることになり、説明会が開催された。
きっとよその会社でも、何らかの形でアクションがとられているのだろう。
今回はこのストレスチェックについて、考えたことや調べたことをまとめて見る。
このストレスチェックに対して、個人的な意見や感想を書いている人は意外と少ないと思ったので。
目次:
1.ストレスチェックは茶番であるのか?
いきなりこんな題名ではあるが、まず一番の論点になるのはここだ。
大前提として、多くのサラリーマンは、ストレスチェックなど茶番だと思っている。
企業が、従業員に対してストレスチェックを行わないことによる直接の罰則は、現状無い。
一応、ストレスチェックを行わないことにより何か裁判沙汰になった場合は、労働契約法の安全配慮義務違反で責任を問われることはあるようだが、どのみち事後の話だ。
そして普通のサラリーマンは、自分の会社相手に裁判を起こすような気概も能力も持ってはいない。
ストレスチェックが義務化されたと言っても、この時点でハイ解散、となっても仕方ない。
厚生労働省が何かルールを義務化したと言ったところで、「どうせ何も変わらないんでしょ?」という失望が先に出てくる状態だ。しかもその予測は大体のケースにおいて正しい。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というルールが、すでに有効性を帯びてきてしまっている。現代の日本の労働環境においては、証拠が明らかなパワハラやサビ残すら、労基は取り締まることができていないんだ。こんな状態で何を信じろと言うのだ。
多かれ少なかれ、パワハラとサビ残を味わったことがない正社員など、この国には一握りも存在していない。もともと現代の日本においては、サラリーマンと企業の信頼関係は、心情には成り立っていない。
今回の「ストレスチェック」のルールには、「人事権を持つ人はその紙を閲覧したり手に取ることはできない」とある。だから、ストレスチェックの結果が当人に不利な結果をもたらすことはない、ということになっている。
が、普通の企業ならば嫌でも目に入ってしまうし、悪い企業ならば積極的に盗んで利用する。間違いなく。
証拠は完全に消すことができるし、もしそれが暴かれることがあったとしても、その時にはすでに原告が死んでいるから無意味だ。
そしてストレスチェックが茶番だと思われる一番の理由は、「面談をしたところで何がどうなるものでもない」という点だ。当然この問題は残っている。
例え、最大限に結果を汲んでくれる超優しい会社であったとしても、ストレスチェックに引っかかった者への対応としては、異動させたり仕事を減らしたり、という内容でしかない。間違っても、サビ残がキツそうだから残業代をちゃんと出そう!という沙汰にはならない。
以上の理由により、ストレスチェックはやはり根本的には茶番であると言えてしまう、と思う。
しかし、一応今回のストレスチェックは、労働者の側からすれば、「タダで降ってきた権利」であると自分は考える。
今回のストレスチェックは、それ自体には一定の効果があるテストだと思う。そのテスト結果を会社が良い方向に利用してくれるかと言えば、8割がたNOなのだろうけど。
したがって、声を出せる元気があるならば、とりあえず訴えるだけ訴えておけばいいんじゃないだろうか。
2.ストレスチェックの効果と対策
ストレスチェックの内容は事前に公開されている。
厚生労働省のサイトで、問題全文をWord形式でダウンロードできる。
大体の流れとしては、以下のような質問を全部で40問行い、そう思うorそう思わない を4段階でチェックシートに書き込む、というものだ。
- 非常にたくさんの仕事をしなければならない
- (最近一か月の間で)活気がわいてくる
- 職場の上司とどのくらい気軽に話ができますか? など
「こんな質問並べたぐらいで人の心など分かるものか」と思うかも知れないが、間違いなく効果はある。
なぜならば、本当にメンタルがやばいことになっている人は、こんなテストもまともに答えられないぐらいの惨状になっているから。
現代社会はそこまで人を追い詰めるものであり、そういう被害者が多発したからこそ、今回のストレスチェックが企画された。
ストレスチェックでよく指摘される問題点の一つとして、「成績が悪かった者はストレス耐性が弱いというレッテルを貼られてしまう」というものがある。それによって、立場が悪くなったり、出世に響いたりするという恐れがある。
しかし先述したとおり、この程度のテストに合格できなければ、レッテル貼りとか心配するまでもなく、本当にまずい。
ストレスチェックを受ける社員の中には、「現状なんとか耐えれるけど弱みを見せたら不利益な扱いを受ける」という微妙な立ち位置にいる人もいるだろう。
そういう心配があるなら、ストレスチェックは拒否できるルールがあるし、その選択すら無理だと言うならば、適当に嘘を書いてクリアしておけばいい。
問題は先の厚生労働省のサイトですべて公開されているので、心配な人は予習しておこう。
しかし、ストレスチェックでやばい判定が出た場合でも、実際に医者と面談ができるまでに2~3か月はかかる。その期間に耐えきれる人でないと意味がない、と言う側面はある。
今日一日が耐え切れない本当にヤバい人は、助からないテストではある。
3.ストレスチェックの取り扱いについて
今回行われるストレスチェックは、今回行われるストレスチェックは、本当にヤバい人をあぶりだすことができる、必要で有効なテストだと思う。
だから、ストレスチェックを外部に丸投げしようなどと考える企業は、そもそも腐っている。そういう意味では、自分の会社を判断する機会を与えてくれるという効果もありそうだ。
先述したように、別にストレスチェック自体で社員が救われるわけではない。
本当に必要なものは、法的な救済などではなく、会社と社員の信頼関係の再構築である。
今回のストレスチェックは、企業にとっては受けさせることは義務であるが、従業員にとっては受けることは義務ではない。
このルールを悪用すれば、ストレスチェックさぼりたい会社からすれば「何故か社員全員が受けようとしませんでした。終わり。」で済ませることもできる。
そして、「そういう風に済ませてくれる」ということをセールスポイントにする委託先もあるのだろう。
そして多くの企業は、今回のストレスチェックは外注に丸投げしているようだ…
その理由としては、企業医がやる気なかったり(合法)、そもそもいなかったり(違法)と言うのを除けば、やはり「忙しすぎて無理」と言うところが多いのだろう。
しかし、これぐらいはメンタルヘルスに手間を割けるような会社じゃなければそもそもまずい。
今回、厚生労働省がそう判断したのが、このストレスチェックのあらましである。
まとめると、今回のストレスチェックはまだ不十分な面もあるが、大丈夫な面を見ればとりあえずは有用であると言える。
これだけ全国的に実施されるのはこれが初めてだから、さぼらずにきっちり行うのをお勧めする。
選挙と同じで、「ちゃんとやる人」が多ければ効果は見直されていくと思う。
そして選挙と違って、割と確実に自分に結果が跳ね返ってくるのだから。
二次元文化の表現規制に対する論法
東京都知事選挙が行われている本日だが、それに先んじて表現規制に関することが話題になった。
togetter.comやはり二次元の文化の規制に関することが、関心を持たれている。
clacff.hatenablog.com先日の記事に書いたように、やはりインターネットはオタクの文化が成熟しやすいので、ネットの社会において、表現規制は切実な問題である。
二次元文化に対する規制はとても歴史が長い。何度も規制案が出てきては消えてを繰り返している、とても根深い問題である。大体は以下のページにまとまっている。
自分自身は、表現規制にはやっぱり反対の立場である。
ただ不謹慎だから・エロいからというだけでは規制をする理由にならないし、定義もゾーニングもあいまいなままで、感情論以外が全然出てこないからだ。
インターネットの言論においては、大体主流の意見、というより当然の意見だと思う。
しかし、表現規制を反対するという意見を述べるにはどういうことを考えないといけないのか?ということに、いくつか思うことがあるので書いてみる。
目次:
1.なぜ規制されようとしているのか
いわゆる表現規制の問題は、本来はあらゆる表現に関する包括的な話題であるはずだが、今日の記事ではインターネットで話題になっている部分である、「ゲームや漫画のような、二次元文化のエロ・グロ規制」という部分だけに着目する。
表現規制が行われる理由には、特定の選挙アピールと言った理由や、特定団体の利権といったような理由も、存在はしていると思う。
しかしそういったものを抜きにしても、二次元文化が規制される理由は、もちろんある。
現在のような成熟しまくった二次元文化を鑑みれば明らかだが、子供の教育・成長には確実に影響が出るだろう。現在の二次元文化のレベルは、何十年か前の水準をどうみても超えている。
例えば、子供がチャンピオンREDのような雑誌を、本屋で何の抵抗もなく買うことができてしまったら、確かにそれは問題だろう。ゾーニング自体はもっと強化するべきだという意見は、表現規制反対派の中でも根強い。
このように、確かに二次元文化は規制される理由はある。
本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。
2.なぜ規制の争いに決着がつかないのか。
繰り返すが、本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。
表現の自由が憲法により認められているとか、芸術を犯すことは文化の死につながるとか、そういった主張も規制反対派にはあるが、それにしたって限度はある。
例えば、いくら表現が自由だといっても「マンガのセリフの中に誰かの本名や住所を勝手に書いたらマズい」ということならば、納得ができるだろう。
社会を維持するためには、やってはいけない範囲というのは、もちろん定められなければならない。
しかし、その範囲の議論がいつまでたっても行われない。
・「漫画はダメです。」
・「ドラえもんはいい。」
とか、その程度の戯言しか規制派は出してこない。
反論に対しては「オタクの意見キモい」と耳をふさいで、これ以上の議論を進めようとしない。そして、規制することだけは進めようとする。
これは、行政の判断リソースが全く割かれていないことが原因である。
端的に行ってしまえば、現在議論されている規制の範囲なんてものは、社会で地位を持った、偉いハゲ数人が、適当に身内で選んだ結果でしかないから。
当時は、手塚治虫や石ノ森章太郎の作品でさえ、校庭で焚書された。しかし2016年の現在だったら、これらの方は神様であるので、焚書なんてとんでもない。むしろ子供に勧めて読ませるだろう。
これは二枚舌ではない。本を燃やすか燃やさないかは、その時の偉い大人の判断で決まるから。
「当時は手塚治虫が気に入らなかったから燃やしたけど、今は気に入るから大丈夫。」奴らはこんな言い分すら通すことができる。
「これはクールジャパンだけどこれはクールジャパンじゃない」などといったキャンペーンを好きに設計することができる。
最初から正義など有りはしない。だから、「何を規制するべきか?」という問いに答えられない。
大体、芸術と言う深すぎる対象に対して、ちょっと話したぐらいで全員が納得するものを決めるなんてことが土台無理なのだ。
日本が間接民主主義を採用している以上、もともとこのように数人の指導者が多数の民衆の意見を決定することで成り立っていたはずだ。
芸術にかかわる人間の数が増えすぎたことが、根本的な原因でもある。
3.ここでも起こり得る、「やってはいけない批判」
表現規制に関する議論は、このようなところでストップしている。
筋が通っていないのはどう考えても規制派の方であるが、規制反対派としてできることは、票を与えないことと、正義を唱え続けることぐらいのものだ。
規制反対派はそうやって正義を唱え続けているが、やっぱり「間違った批判」をしてしまっているケースが多々見られる。
何度でもいうが、「二次元文化には~賞を受賞した素晴らしい人がいる!」という論法は、自爆に等しい。
「賞を取れない漫画は下品だから規制する」という論理を許すことになる。
以前当ブログで書いた、スマホと科学者の話と同じである。 clacff.hatenablog.com「スマホが作れるようになる程度の科学だったらやる価値無い」と、無関係の人間が切り捨てることができるようになってしまう。
以前当ブログで書いた、断捨離の話でも言っている。
clacff.hatenablog.com「高くないものなら捨てていい」という論理を許すことになる。そして規制派は、この例で行けば大抵「金持ち」にあたるので、あらゆるものが捨てられてしまうようになる。
「二次元文化には~様がいる!~様もいる!」というインパクトでゴリ押せるのは、馬鹿な大衆だけだ。
大衆を操るのでは奴らと同じであるというだけでなく、本来の理を無視して大衆という武器で奴らに立ち向かおうというならば、絶対に向こうの方が有利になる。
「~賞を受賞した世界に認められた偉人」だとしても、その賞を発行するのは、どちらかと言えば規制をする側の人間である。
賞は関係なく、売れたかどうかという話だとしてもダメだ。売れたという判定をするのも、実際に売るのも、どちらかと言えば規制をする側の人間である。
元々正義自体は確実に規制反対派の方にあるのだから、主張するものを間違えてはならない。二次元のエロ漫画を読んでいても罪ではないとそう思うのならば、ちゃんとそうやって言えばいい。
こそこそやっているから、叩く機会を与えることになる。
ネット言論のアキレス腱
先日の記事に、インターネットの言論は、弱者の武器であると書いた。
インターネットの言論は核兵器のように強力であるが、特に環境を汚染するようなものではないので、どんどん使って戦うべきだと書いた。
しかしインターネットの言論は、核兵器ほどに強力ではあると言っても、実際のところはとても脆い弱点を抱えている。
今回は、インターネットの言論のアキレス腱と、その防御手段を書こうと思う。
炎上を恐れる強者の立場ならば、こういうところを狙うといい。
炎上で戦う弱者の立場ならば、その弱点を知って防御することが必要だ。
目次:
1.インターネットの炎上を支えているもの
基本的にインターネットにおいては、掲示板やツイッターのような書き込みやすい媒体ですら8割がROMであり、自分から意見を発信する人間は少ない。
先日取り上げた現代ビジネスの記事でも言われているように、インターネットの炎上で直接的に攻撃力を発揮する人間は、一つの炎上でせいぜい5~6人だと言われている。
・インターネットに長時間張りつけるほど金と時間に余裕がある人間であること
・社会における人間関係を特定する技術を持っていること
・インターネットの文化やセキュリティに詳しいこと
・それらの成果を発信する気概があり、警察を恐れない人
考えてみれば、以上の条件を全部満たした戦士など、そうそういるわけがない。
だからこそ、そうした人間は昔から「神」と呼ばれてきた。
そして、その5~6人の神が、インターネットの言論におけるアキレス腱であるといえる。
2.インターネットの言論の脆さ
インターネットで言論を展開する弱者にとって、一番怖いのは、その5~6人の神が特定されて潰されてしまうことだ。
実際、炎上が完全に終結するパターンの一つは、「警察が介入して犯人と詳細が全部明らかになること」である。
だから、炎上させる側も警察沙汰にはならないように細心の注意を払う。住所の特定もスネークも、ぎりぎりのレベルを狙って行われる。
最近では、優ちゃんの遠隔操作事件が(比較的)記憶に新しいかもしれない。
この事件も、最後は警察の張り込みによって終結した。
「誤認逮捕されて人生終了した人はどうなる?」という言論は残っていたはずにもかかわらず、炎上はそこで終了した。
インターネットは弱者の武器であるが、リアルの世界においては、やはり世界を支配しているのは強者の方だ。
警察が本気を出せば、5~6人の神を取り押さえることは、少なくとも神がネットを炎上させることよりは簡単であるはずである。どう考えてマンパワーで勝っているとは考えづらい。
また、一定以上の社会的地位を持つ人物であれば、弁護士がきちんと調査したうえで「晒してくれた奴は訴えるぞ」と言い切ることもできる。こうされてしまったら、5~6人の神などひとたまりもない。
それに、もともと5~6人の神は、炎上の加担において反社会的なギリギリの行為を行っている。だからこそ、神と呼ばれているわけで。そのような前提であるから、突かれると非常に脆い存在ではある。
少し小噺として、「法治社会において最終的に一番強いのは医者」だという話を聞いたことがある。医者ならば、診断書を書いてしまえばどんな人間でも合法的に殺せるから、だと。
どんなに偉い政治家でもヤクザでも、例えば「事務所が火事で全員死亡」とかいう事件があったら、怪しまれるし調査もされる。しかし、ある程度権力を持った医者が、誰かを心不全だと言って診断書を書いてしまえば、完全にそれまでで調査もされないから。
天皇や大統領ですらも、最終的には医者によって殺されていると言える。
それと同じで、たとえネットの社会でどんなに強くなったとしても、リアルの社会においてはどんな神でも死の危険性がある。
インターネットを構成する通信や電力といった物理的なインフラは、リアルの社会と不可分であるため、これはそうそう奪われたりはしない。
しかし、たった「5~6人の神」ならば、いざとなれば狙い撃ちされるものだと考える。
これならば失っても特に社会の害にはならないので、強者にとって都合の悪い炎上が起きれば、平気で逮捕されるだろうと考える。
(というか犯罪行為をやってたら普通に逮捕されるよね。)
3.ネットの言論が負けないために。
社会における弾圧や不当逮捕に対抗し、正義を示すための手段の一つとして、
「たとえ私が死んでも正義は受け継がれる!」
というものがある。
歴史を振り返ってみると、近代的な民主主義や自由主義などは確かにこうやって勝ち取られてきた。
しかし、この戦法はインターネットの言論においては多分通用しない。
民主主義や自由主義ならば、学の無いものがそれを聞いても、理解して実行することができる。しかし、インターネットにおける言論については、そうもいかない。
先述したように、「神」になるためにはとても厳しい条件と高い技術力が必要である。
「私が倒れても第二第三の神が現れるだろう…!」という期待は多分成り立たない。
たしかに、言論における活動力みたいなものは、おそらく一定量は存在するのだろう。
彼らが全員討ち死にしたとしても、また何十人かは、風紀委員に立ち上がる人が出てくるだろう。逆に神が倒されたことで、義憤に駆られてより力を発揮する人もいるだろう。
でも、その風紀委員が、もといた神より強いかと言われれば、たぶん強くはない。
本気でインターネットの言論でリアルの強者に勝とうと思うならば、以下のことが必要だ。
・神は死ぬ前に技術を公開すること
・その技術を継承して、洗練させること
次世代の芽が、枯れずに大きくなる方法はこれしかない。
例えば、以下のような技術だ。
電車の音で住所を特定するとか、そういった戦うための技術はどんどん公開するべきだと思う。むしろ、向こう側もこういった技術を使って潰そうとしてくるはずなので、身を守る手段としても技術を知ることはとても重要だ。
テロリストは手口を秘密にしたほうが有利ではないか?という意見もあるだろうが、おそらく現在ストーカーが知っているようなことは、本職の警察ならばもうとっくに知っている。知らないのは一般人だけなんだ。
技術や情報は、潰される前に拡散していかなければいけない。
ノウハウを分かりやすく、伝わりやすくまとめるというのは、ここにおいても必要とされている技術であると思う。
【貧者の核兵器】インターネットにおける「炎上」の正義
少し前だが、現代ビジネスで非常に興味深い記事を読んだ。
インターネットにおける、いわゆる「炎上」の話をしている。
そのなかで、「ネットは貧者の核兵器」という表現が出てきた。
非常にうまい表現で、まさしくその通りだと思う。
今回はその正義の是非について書いてみたいと思う。
目次:
1.自分が考える、インターネットでの言論の始まり
もともとインターネットというものは、1960~70年代に、大学や研究所におけるデータベースの共有から始まった。1980年代から商用利用が解放され、現在に至る。
インターネットには、生まれつき、以下のような性質が備わっていた。
- 設備と知識が必要
- そのかわりに、一度使いこなしてしまえば、とても低コスト
このような性質があるからこそ、学術の場で生まれて、学術の場で便利に使われた。
現在では、「設備と知識が必要」という面については、いくらかは緩和されている。
インターネットをやりたいだけなら、auショップでスマホを買えば、いくらかの金はかかるが、特に何も考えないで使えるようにしてもらえる。
自宅にネット回線を引くときも、折り込みチラシの番号に電話して、お金を払えば工事をやってもらえる。後は電気屋に行って、ルーターやパソコンを買ってこればいい。今どきの製品なら、どれを選んでも大体は何とかなる。
それらはすべて事実だが、それでもなお、インターネットには「設備と知識が必要」という前提は無くなっていない。
インターネットの接続について、よくわからない人は高齢者だけではない。便利になりすぎた故、ある意味若い世代にとっても、デジタルディバイドは存在している。
何も知らない人がインターネットに接続したところで、ちゃんと使いこなそうとするのには結構な意志力が必要だ。
インターネットにおいては、自分で調べて学習すれば、いくらでも知識を得ることができるが、その差を知識なしで埋めようとすれば、やはり多めの金が必要になる。
つまり乱暴な表現をすれば、元々インターネットとはオタクの武器である。
「設備と知識が必要」という前提は2016年の現在でも残っているし、「一度使いこなしてしまえば、とても低コスト」という性質も、オタクという存在にマッチしやすい。実際に2000年以前ぐらいまでは、間違いなくそういった世界があった。
そしてオタクの武器であると同時に、弱者の武器でもあった。
言うまでもなく、オタクは社会においては弱者である。また、現在におけるスマホの文化の主役である若者たちも、多くは設備や知識を持たないという面で、弱者だと言える。
そんな弱者たちが、「低コスト」で大きな力を発揮することができる武器が、インターネットであった。
2.弱者はなぜ戦うか?
インターネットが普及する以前は、言論という世界は所謂「社会の強者」だけの舞台であった。
テレビ、新聞、雑誌。そしてそれに付随する、報道、芸能、文芸。どこにおいても、多くの金と才能がなければ、発言権を得られない世界であった。
しかし、インターネットという武器の普及により、情報革命が起こって、金も才能も持たない弱者が、言論という舞台で戦えるようになった。そうして言論の世界の規模が拡大したが、その結果「炎上」という現象が、頻繁に起こるようになった。
この記事でも述べられているように、なぜか弱者が強者に戦いを挑んでいる。
しかし自分が思うに、無意味に起こる炎上などは(ほぼ)存在しない。
炎上には必ず「燃料」が必要である。
例えば未成年が飲酒をしていたり、知識人ぶっている人が二枚舌をさらしていたりする、といった、例が分かりやすい。
なお、インターネットの亡者たちは何でもかんでも燃料にできるわけではなく、以下に当てはまるものしか叩けない。
- 「嘘」であるもの
- 「下品」であるもの
これらを叩いてつぶす戦いが「炎上」として結果に残る。
1.2.に当てはまらないケースで暴れている例もないではないが、それはただコメント数が多いだけの現象であり、有効な炎上にはなっていない。
途中で新しい証拠が出てきたり話の流れが変わった時に、今まで喜んで叩いていた亡者たちが、ソッコーで手のひらを返す様もよくみられる。これは亡者たちが最初から一貫して1.2.の原理のみを判断して動いている証拠であり、手のひらを返す速度はむしろ正しさと潔さの表れだ。
何とかして別の証拠を見つけようとあがく姿も、正しい論証であるといえる。
未成年の飲酒は、すでに犯罪として定義されているから分かりやすい。「犯罪者なんかじゃないですよ」というポーズを取りながら飲酒をかますのは、1.に該当する。
知識人が二枚舌をさらしているケースは、例えば、現役の小学校教諭が「男子は汚くて馬鹿だが女子はかわいくて優れている」とかツイッターで言ってしまうような例だ。
これでも一応意見としては成り立っているため、1.だけでは当てはまらない。
「こういう極論を肯定してしまうような人間が現役教師である」という事実が2.であり、それがギルティとして扱われる。
1.と2.に共通している事項であり、最終的な判断の原理は、「自分が損をするかしないか」である。
インターネットは弱者の武器であり、その弱者は今までの人生において、リアルの世界において何度も損をしてきた。
1.のような、他人の嘘に人生を踊らされてきた。
2.のような、女児を贔屓するような下品さによって差別をされてきた。
そういう憎しみが、インターネットの炎上の源であり、インターネットの言論が弱者の武器である以上、この原理は無くならないと思う。
3.核兵器を使うことは正しいのか。
「自分の利益のために暴力を振るう」という、かつては強者のみに許されていた手段が、インターネットの普及という革命によって、弱者もできるようになった。
そういう意味ではインターネットは弱者にとっては救いであり、許されるべき戦いではある。
だから、戦う。
インターネットの炎上というものは、この世から嘘が無くならない限り、この世から弱者がいなくならない限りは、終わることがない。
【ネットは貧者の核兵器】である。
しかしそれは実際の核兵器と違って、別に環境が汚染されるわけでも、国が消滅するわけでもない。ただ強力で強者を脅かすことができる武器である、という点のみが残っている。
核兵器ではあるけど、これは使っちゃダメなわけでは全然ない。
これまでの努力の結果であり当然の権利だと思う。
むしろこう言った暴力は、今まで本物の強者のみに許されていた特権であり、それは今までは平然と行われていた。
選挙権が18歳に引き下げられる意味
2016年7月10日に行われる、第26回参議院選挙において、選挙権が18歳に引き下げられることとなった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160619-00000004-asahi-pol
選挙権を持つ人間が広がったことは、良い結果を導き出せる可能性が上がったことになる。国際的にも、選挙権は18歳からが主流であるし、このルール変更自体には、自分は賛成だ。
しかし、現代に日本の政治において、18歳が選挙に行くようになれば、こういうことを第一に学ぶことになると思う。
「やっても無駄じゃんなんだこれ」って。
今日はそのことについて、自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1.現在の選挙のシステムについて
現在行われている選挙は、システム的な参加のしやすさについては、すでに十分に配慮がなされている。
選挙の日時は飽きるほど告知しているし、実際の作業も非常に簡便だ。
葉書を持って投票所に行って、名前を鉛筆で書くだけ。以上。
期日前投票も、以前に比べてずっと簡単になっている。
選挙のことがちゃんとわかるように、こんなビデオすら配られていた。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1001/20/news083.html
こんなレベルにまで落として解説しているんだ。
これ以上どうやって簡単にしろと言うんだ。
参加は簡単だ。死ぬほど簡単だ。
しかし、すでに誰もが感じている通り、選挙に参加する意味自体が、もはや弱い。
候補者のマニフェストは、分かりにくいというより、無意味である。
なぜならば、誰もかれも、具体的でなく耳障りのいいことしか言っていないから。
- 経済問題を頑張る
- 税金の無駄遣いをやめる
- 地球環境に配慮する
- 隣国と仲良くする
等々。
こんなものは、いいか悪いかで言ったら、当然やった方がいいに決まっている。何も判断するまでもなく。
これ以上の具体案を出してくれないと、議論のしようがないのだ。
そして候補者達は、知られたら困る情報はもちろん隠している。
どの企業から献金を受けているか、誰の命令で動いているか、誰のためにどういう政策を作ろうとしているか。私生活や個人の意思も、分かったものではない。
全員が悪いことをしているのなら、議論なんか無視して、ステルス戦法に走った方が当然勝率は高い。政治家も少なくない金と人生を投資している以上、勝つために動くのは当然だ。
だから、みんな同じようなマニュフェストしか用意しない。
そして過去の歴史が証明しているように、そうやって並べたマニフェストは、実は破ったところでどうということはない。
どんなに嘘を実行しようと、その一期だけならば与党でいられる。
もちろん次の選挙の時には不利になるかもしれないが、そのときはまたステルス合戦が始まるだけであって、正直者が勝つという未来だけはありえない。
それに、議員一匹が別の人間になったぐらいで、何の意味があるのだろうか。
冷静に考えれば、そこのところがそもそも意義が薄い。どうせ考えは政党で共通されているし、採決は最終的には多数決だ。採決の時にここぞというタイミングで、有権者が見込んだ正しい意志が発揮されて、その結果出来上がる法律が変わる、なんてことが、現実にあり得るのだろうか。
以上のことは、今まで選挙に行ってきた人間ならば、誰しもがわかっていることだ。
投票はできるけど、やったところで特にどうなるわけでもないって。
結局は自分の手が届かないところで、大きな不思議な力によって、政治は決まってしまうって。
2.大人に対する失望
従来20歳以上が行っていた、この国の普通選挙とは、以上のようなものだ。
今18歳である若者たちは、すでに似たような話、身近に見たことがある。
同じような出来事を、すでに経験している。
学校で行われる、生徒会選挙だ。
あれが茶番ではないと思っている生徒なんてなかなかいないぞ。
糸を引いているのは結局職員室であり、実務能力は完全に無視されている。
先生に気に入られた極一部の学生による、就職や進学の名声作りでしかない。
そして、生徒会の活動によって自分の学生生活が変わるわけではないことも、とっくに知っている。
ただ、人気者がもてはやされたり、死んで行ったりするのを眺める。
その程度の価値のイベントでしかないことを、とっくに知っている。
実際の国会選挙と同じような出来事が、すでに学校で起こっている。
結局は自分の手が届かないところで、大きな不思議な力によって、政治は決まってしまうということを、すでに深いレベルで教育されてしまっている。
それとも、教師たちが選挙の現実を詳しく教えてくれるとでもいうのだろうか。
何が正義でどこを支持するのか、その判断に必要な材料を揃えて考えさせてくれるのだろうか。
それには期待したいところだけど、教師の4割ぐらいが、「まあ行っても仕方ないよね…」と言ってないか?
いや、むしろこう教えてくれる教師はいい教師なのかもしれない。残りの6割の教師は、「国民の義務だから絶対行け!!」とゴリ押すことしかしないから。
子供たちは、いったい何を信じろと言うのか。
3.すでに見透かされている、「18歳選挙」
「生徒会の選挙は茶番であるが、国政選挙も同様に茶番である」。
選挙権が18歳になったからといって、この現実を2年早く学ぶ以上の意味はないと思う。
有権者の割合が少し変わったぐらいで、現在の高齢者が増え続ける社会に当たっては、政局には何の影響も及ぼさないだろう。
そして、そういう打算が既にできていたからこそ、導入されたルールなのだろう。
総務省のURLには「将来を担う若者の意見も聞きたいから下げた」と書いてはあるが、「たったの2%で何が変わるの?」という根本的すぎる問題を、意図的に無視している。
本当に「将来を担う若者の意見も聞きたいから」と言うのならば、高齢化がこんなに進む前に、もっと早くに下げててよかったはずだ。
・千里の道も一歩から!
・ちりも積もれば大和撫子
(※恋愛サーキュレーション(化物語)より)
確かに、あらゆる権利はそうやって勝ち取られてきたのだろう。
最初の権利は小さいものである、ということだけならまだわかるが、最終的に勝ち目がある場合にのみ、その手のセリフを吐くことが許される。
正しい情報が開示されていない上に、人口比で負けている。
つまり選挙とは、そもそも能動的なゲームではない。
選挙によって日本を変えるのは、「無理ゲー」である。
当たりが入っていないどころか、自分で回すことすらできないガチャに等しい。
ある意味、今の若い世代の方がそういう理解が早いんじゃないのかな。
こんなクソゲーのために、日曜日の午前中を潰すのは、どれだけアホらしいことなんだろう。
その現実を、今の18歳は二年早く学ぶことになる。
4.それでも選挙は進んでいく
それでも確かに、国民の手による普通選挙は、貴重で尊いルールである。
参政権を平等に薄めてしまうと、一人の影響力は一億分の一になってしまう。これはどうしようもない仕様である。
フランス革命以前の社会においては、普通選挙は、あこがれの最強ルールであったはずだ。搾取されている多数の労働者が、ごく一部の金持ちを倒すことができる。数が多くて苦労している人間が報われる、唯一絶対の剣であったはずだ。
現在では、その多数の側が老人であった。
そういった内容で、社会は何の問題もなく運用されている。