【回答済み】なぜ日本の企業では長時間の労働をしなければならないのか
日本の現在の法律では、一日の労働時間は8時間とされている。ひと月では160時間である。
それ以上の労働は超過労働であり、25%増しで給料を払う必要がある。
そして、その超過労働は月45時間を超えてはならない。
業務上どうしても超えてしまう場合は、雇用者本人と協定を結ばなければいけない。
一応そういうことになっているが、こんな風に働いているサラリーマンなど、まずいない。
通勤に片道1時間かかる人が、朝8時に家を出て、家に帰ってくるのが夜7時であったならば、その時点でアウトになってしまう計算だ。
あなたやお父さんが夜7時に家に帰ってきたら、「そこそこ早いし普通の帰宅時間だな」とか、「こんな風にちゃんと帰れる職場でよかったな」とか、そう思うでしょう?本当はアウトなんだよそれで。
上の記事でも述べられているように、元をたどれば「一日8時間」というのは、100年前に作られた経験則でしかない。1日の三分の一ということでキリはいいが、その数値自体は特に正義はない。
そもそも時間で区切らなければいけない理由もない。時間だけで成果が決まらない仕事だってたくさんあるだろう。
何故日本では、非効率で長時間の労働をしないといけないのか?
その理由自体はもうとっくに語りつくされているので、今日はそれを今一度羅列してみる。
そして本当に求められている労働力と、その社会を変える手段についても考えてみた。
目次:
1.労働の効率が落ちる理由一覧
日本の企業が、無駄な労働を強いるようになったことには、いろんな理由があるのだろう。
togetter.comこの記事に、よく出る理由は大体まとまっていたので、抜粋してみた。
- パソコンも携帯もなかった時代の仕事を基準にしているから
- 新しい手法を学ぶ余力は落ちていく一方で、学ぶべき内容は増え続けているから
- 下請けが無茶な納期で仕事をさせられるから
- 組織が大きいゆえに、一管理者が責任を取れなくなってしまったから
- なんだかんだで裕福であり、本気にならなくても食っていけるから
- 生存者バイアス。無茶な労働を生き残ってしまった者が権力を持ってしまったから
- 過去の自分の苦労を味わってほしい、という心の弱さがあるから
- 仕事以外の人生を知らないから、長時間労働上等という思想があるから
- 労働時間以外の、様々なパワハラ問題との複合効果から
- 労働時間はキツくないが、昔と違って無報酬なのがキツいから
- コンプライアンスの基準は厳しくなったが、取り締まってくれる機関が働かないから
- 周りの企業もみんなそうなので、検挙される可能性が減り、やる必然性も増えるから
これらはすべて、正しい意見なのだと思う。
「バブルの思考を引きずっているから」という意見があげられることもあるが、これはおそらくそこまで関係しない。バブルなんてせいぜい5~6年しか持続しなかったのだから。
そのバブルの時代でも、高度経済成長期の50年前でも、過酷な労働環境で自殺する人はたくさんいた。
別に、これらの話は今に始まったことではなく、「最近の若いもんは~」という記述がなされた文書は、明治時代どころか平安時代にすらある。それこそ有史以来続いていることで、古代エジプトの壁画にすら、こういった労働者の話が書いてある。
人間の未熟さとクズさは、太古から続く、人体の本質的な機能である。
こうやって、悪い環境で緩やかに思考停止していくこと自体を、人体の本能は望んでいる。
労働者も人間であり、それを雇用して管理する側も人間である。
真実を指摘したぐらいで改善されるのならば、こんな古くからは続いていない。
2.会社が本当に欲しい労働力
togetter.comいつかの電通の過労死の問題において、次のような意見があった。
日本の企業は生産性が低いと言われるけど、それはなぜかというと「より少ない労力で効率的に成果を出す」という発想が「怠け」として批判され、「より多く労力をかける」ことがエラいみたいな風潮があるから、だれも効率を上げる工夫をしなくなるんだよね
なぜ「効率を上げた新しい手法」が評価されないかという理由も、先の一覧で説明がつく。
つまり、以前の労働方法の歴史が長く続きすぎて、古い方法を撤廃する信頼性のリスクが大きくなりすぎているからだ。
新しい方法をちゃんと精査すれば絶対いいに決まっているのだけど、それを判断する余力が続かなくなっているからだ。
しかし、日本の企業もそこまで馬鹿ではなく、「単に労力をかけていればそれでいい」なんて発想をする人間は、ほとんどいない。
管理者だって、その上の人間に管理されている存在であり、単に労力をかけているだけでは「もっと成果を出せ」と、日々詰められる。
つまり管理者が本当に欲しい労働力とは、「二倍の効率で二倍の時間働いてくれる人」である。
今までは、1倍の効率で2倍の時間働く人ばかりだった。そこに、2倍の効率で1倍の時間働く人が現れたとする。
管理者の側からすれば、「じゃあその2倍効率でみんなと同じように2倍の時間働いてくれよ」って思うだろ当然?
別に2倍の効率を貶しているわけじゃあないんだ。
地球に危機が迫っているんだから、「スーパーサイヤ人もいいけど界王拳も使ってくれよ」って誰しもが思っただろう?*1
速度が倍か、時間が倍か。
どちらかしか選べないなら、記録に残りやすい時間の方をみんな選ぶし、会社側もそれを期待する。
2倍の効率で1倍の時間働く人は、評価の面ではプラマイゼロである。
いやむしろ、「新しい方法を精査する余力」を加味するとマイナス側に動く。
つまりはそういうことだ。
3.このような労働環境を変革する手段
こういうたとえ話がある。
昔の人間は天動説を無意識に信じていたが、ある日、観測と理論によって地動説を主張した異端の者が現れた。
現在では、天動説を信じている者はいなくなり、みな地動説を当然のものだとして信じるようになっている。
これは、地動説側による粘り強い説得によって成しえたことではない。
単に、天動説を信じる古い人間が、みんな寿命で死んだからだという。
「証拠は明らかだけどそれを信じてもらえない時代」というものを終わらせるには、とにかく待つしかない。人間の寿命が関わる、何十年かのスパンにおいて。
しかし今権力を握っている50代以上が氏ぬまでには30年以上はかかる。平均寿命は延びているし、死にたくても死ねない社会になっている。安楽死のルールが出来るのならまだ期待できるのかもしれないが。
現在苦しんでいる労働者で、そのなかでも正しくものを考えて訴える人間は、ガンダムで言うところのニュータイプなのだと思う。
能力に多寡があるところも、即時的に役に立つ超能力でないことも、結局は体制に利用される道具であるところも。
今日の労働問題のような、「新しい人間と古い人間の対立」は、30年前のアニメの題材にされるほどには、本質的でわかりきった問題であった。
ニュータイプへの覚醒で人類は変わる。そのときを待つ!
クワトロ大尉がZガンダムでそう言ってた。
今の人類は、少なくとも古代のエジプト人よりは進化していると思うんだ。
ここ100年足らずで、人類の科学も思想も加速度的に発達している。
もしかしたら、30年を待たずとも、人類はいい方向に進化してくれるのかもしれない。
それが待ちきれないのなら、テロリズムぐらいしか手段はないのだろう。
例えばゴルゴを10万人雇って、社会で権力を握る老害を片っ端から粛清するしかないのだろう。
逆襲のシャアみたいに。
*1:後付け設定で「併用はできない」ということにされたが
「正しいことだけが正しいわけじゃない」という意見の、解答解説
2016年の日本シリーズ、広島VS日ハムにおいて、ビデオ判定の是非が議論されている。
1-1の接戦だったところを、広島がビデオ判定により勝ち越してしまったため、日ハムが士気を失い、4点も取られて決着となってしまった。
この試合に、せっかくのスーパープレイだったのにビデオ判定で覆されて日ハムがかわいそう、という意見が出てきている。
何人かの日ハムファンがそう嘆いているだけならば、ただの戯言で済む話なんだけど、この試合のコメントで、カープ出身の達川(元キャッチャー)ほかの解説陣が、
「これがセーフなら野球の醍醐味がなくなる」
「ビデオで決めるなら審判いりませんからね」
などという発言を行っていた。
これは問題発言であると思う。
こんな主張はもちろん大嘘であり、許してはならない。
今日の記事で言いたいことはつまり大体これなのだが、こんな主張がまかり通る世界、そしてそれを食い止める反抗の意志については、もっと深い事情が関わっている。
「正しいことだけが正しい訳ではない」。
この言葉の正義について、考えれるだけ考えてみた。
目次:
1.「醍醐味」という嘘
大体今回の話では、ビデオ判定で決めるというルール自体が野球の中にはすでにある。だからこそ、今回公式戦でこういうことが起きたわけで、こういう時のためにわざわざ作られたルールだ。
審判がビデオ見てセーフだと言ったならそれは何と言うとセーフだ。
そういうルールブックの下で戦っている。
ゲームの判定は物理的な証拠と判断によって行われるものであり、醍醐味とか士気とかを考えて判定を変える、なんてルールは全く何も定義されていない。
だから、醍醐味を優先してビデオ判定を曲げることは、明らかにルール違反である。
今回の判定は賛否両論というよりは、誰が考えても答えは明らかだ。
「醍醐味ガー」とか言っている人たちも、本当は頭の中ではとっくに分かっているはずだ。
2.それでも「醍醐味」を求める理由
しかしだからと言って「醍醐味」を野球から切り捨ててしまっていいのだろうか?
「正しいことだけが正しい訳ではない」。そういうことを議論する余地は一応ある。
二次方程式の虚数解のように、どう考えても現在の定義からは存在できない答えであっても、そこに目をつぶって新たに定義をつくってしまえば、新しい世界が広がっている。
すなわち、今回言われている「醍醐味」とは、
「野球のルールを破ることによって生まれるロマン」のことである。
細かいルールや思想を指摘されてもなお、ロマンをゴリ押す快感のことである。
日本の高校野球を見ていればわかるように、野球というエンターテイメントは、昔からこういう商品を観衆に売ってきた。
人生を賭けた球児たちが織り成す渾身のプレイを、絶対的な審判が容赦なく裁く。
あんなに練習した強いチームであっても、ちょっとした拍子で得点が揺れ動く試合展開。
男たちが戦って青春を散らしていく様を、優雅に上から眺める。
野球というコロシアムは、そんな下卑た視線を満足させるエンターテイメントであったわけだ。
そしてそれは、野球と言うスポーツが商業的に普及する際には意味がある原理だったのだろう。
野球という活動の目的を、「観客を集めて入場料を取る」と言うことに限定してしまうならば、「野球の醍醐味」とやらを肯定することは可能である。
大相撲やテニスは、ビデオ判定は何十年も前から採用しているが、それに対して野球は別の方向での進化を選んでいた。
何割かの観客と、解説の元キャッチャーが「醍醐味」なんて発言をしてしまうぐらいには、そういう進化が及んでいたようだ。
3.野球と言うスポーツをエンターテイメントにする代償
「野球にはビデオ判定では通せない醍醐味があるよね」という思想を通すならば、野球とはずっと前からスポーツではなくエンターテイメントであった、ということを肯定しなければならない。
野球をスポーツではなくショーにしてしまえば、表面的には儲かるし楽しいかもしれないが、それを選んだ場合には、大きな代償を払わなければいけない。
先日の記事に書いたように、スポーツの追及とは科学の追及と同じであり、「余地があるから」こそ日々努力して切磋琢磨をしている。
そういう理由があるから、スポーツのルールは限界まで厳密に設定されていて、運の要素は限りなく排除されている。
そこで一つでも嘘を認めてしまうと、今まで決めてきたルールが連鎖的に全部ウソだと暴かれてしまう。
例えば、今回の野球の例のように、「美しければセーフ」というルールを、ルールブックに追加してしまった場合は、選手はこんなことを考えるようになる。
- 美しければセーフというなら、「カッコよく走る練習」をしないとダメじゃね?
- 走塁が間に合わなそうなときは、走るの止めて踊った方が得じゃね?
- 超カッコいいダンスでセーフになれる練習したから、打撃も全部バントでよくね?
- 相手チームが全部バントしてくるなら、外野守備なんて必要なくね?
まずはこのように、野球と言うゲームの内容が滅茶苦茶に変化する。
こういう風に、既存の世界が崩壊していくスピードは、選手たちがより真剣に勝つ方法を考えるほど、速くなる。もともとの野球の戦術も、同じようにルールを深く解釈することで進歩してきたものだ。
そして、今回追加した「美しさ」というルールは、基準も定義もない。だから、
- アウトセーフの判定に基準や定義が無くていいのなら、ストライクゾーンの範囲やバットの材質だって定義しなくていいよね。全部ノリで決めていいよね。
- こんなクソゲーなんかよりサッカーやった方が楽しいよね?
当然こういう考えが、早い段階で生まれてくる。
このように、ルールを一つ追加するだけで、野球は別ゲーになってしまう。
なおアメフトは、「キーパー以外もボールを手で持ってよくね?」というルールが追加されたことで生まれたスポーツらしい。そうやって、新しい楽しいスポーツが生まれてくる可能性はある。可能性はあるが、現在まで築き上げられてきた野球と言うスポーツを汚していい理由にはならない。どうしてもやるんだったら「スタイリッシュ野球リーグ」でも新たに作ってもらわないといけない。
エンターテイメントを企画しようとするならば、飽きられないようなコントロール、既存のものとの棲み分けといった、コントロールをよほど慎重にやらなくてはいけない。今回の「野球の醍醐味が無くなる」といった発言は、そこでミスった無粋な発言であった。
4.「エンタメ化」が許せない人が増えた理由
野球がエンターテイメントと化したとしても、実は観客の側はあまり困らない。
楽しみ方の質が変わるだけで、結果的に楽しくなっているならばむしろ歓迎されることもある。
高校野球で、一塁ヘッドスライディングが推奨されて、それを喜ぶ老人がいるように。
エンタメ化されて本当に困るのは、それで自分が戦わなくてはならない選手たちの方だ。
選手にとっては、ルール内での勝利こそが全てだ。そういうルールの下で戦っている。
自分たちが命を懸けてきたルールを、外部の勝手な好みで曖昧に書き換えられてしまう。
「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」とか言われて、納得できる選手など、ただの一人もいない。
今回の記事のコメント欄を見ても、反対意見ばかりが述べられている。
先日の記事で述べたように、インターネットは弱者の武器である、と自分は考える。
すなわち、インターネットのユーザーには、「戦う側の意見」が理解できる人間が集まってきているのではないのだろうか。
今までの人生の色々な場面で、「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」と言われて、「ふざけるなよこのやろう…!」という経験をしたことのある人が、多いのではないのだろうか。
インターネットの言論には、実際に戦う側、真実を求める側の言論が育ってきているのだと思う。
電通にはサビ残させる権利がある、という暴論
電通の社員が、ブラック労働をさせられて自殺に追い込まれたらしい。
今回の事件のように、企業が人を踏みつけるような事例において、自分がいつも思うことがある。
- 金や権力が十分にあれば、悪いことをしても逃げ切れるのではないか?
- 正義とか真実とか、元々大して必要とされていなかったのではないか?
自分が小学生のころに「罰金を払えるなら犯罪をやってもいいのか?」ということを、学校の先生に尋ねてみたけど、納得のいく答えはまだもらっていない。
国民や生徒に対する教育では、もちろん「罰金払えるとしてもやるな」というのが答えだろう。
人間の性善説に期待しているところもあるのだろうし、逆に相応に罰金を高くした場合だと別の問題が出てくるのであろう。
これは、法律と刑罰が不十分である点だと言える。
今回も、この弱点を突いた事件が起きてしまったので、そのことを詳しく書いてみようと思う。
目次:
1.電通の側から見た、今回の事件
電通の側から見た場合、今回の事件には、電通が「自分の財布の中で買い物をしただけ」だと言えるのではないのだろうか。
今回の事件が発覚したことで、電通はブラック企業だと世間に知れたが、それでも電通に就職して働きたい人と思う人間はたくさんいる。
電通はそれだけ名声、すなわち「財布の中身」を持っている。
今回の事件は、その「財布の中身」を消費して、長時間の労働力を買っただけの話ではないか?
もしこのブラック環境に適応できる逸材が出てきたら、とてもラッキーだ。
そういうガチャを、金払って引いたのだろう。
確かに、今回この買い物をしたことで、電通の財布の中身は減ったのだと思う。
しかし、それでも電通で働きたいという人はたくさんいる。
つまり、財布の中身はまだまだたくさん残っているということだ。
いつかワタミが、別の事件で被害者の遺族にこう言っていた。
「一億欲しいのか」って。
奴らにとっては、これがガチャ一回の値段だったわけだ。
1億円なら正直安いよね。
美人の東大生を馬鹿にして自殺させるまで働かせることが出来るんだから。
今回は不幸にも訴訟沙汰になったが、罰金はそれでも1億円よりは安いだろう。せいぜい2000万円じゃない?電通社員の給料なら1~2年分程度だ。
名声にもダメージはあるが、もともと電通がブラックなんてことはみんなとっくに知っている。
死者だって何度も出しているし、ある意味痛くもかゆくもない。
電通で働きたい人はそれでも毎年腐るほど来る。
と、奴らはそう考えている。
2.なぜ電通に就職したい人はいなくならないのか
電通がブラック企業だということは、大学生ならばとっくにみんな知っている。
わざわざニュースにされるまでもなく。電通だって別に隠してなんかいないだろう。
しかし、いざ就職活動が始まってしまうと、大学生は皆大企業に就職することを目標として動くようになる。
電通に限らず、ブラックな企業や業界であっても、大手ならばとりあえず目標に入ってしまう。
一応内心では嫌だと思ってはいるが、就職活動のコマが減ってくると、「電通でもいいや」と考えちゃうような学生がたくさんいる。
自分も経験があるから分かるが、就職活動をする大学生は、残りのコマがブラック企業だけになってしまうと、「ブラックらしいけど俺ならきっと生き延びれるぜ!」ということに期待するようになる。
ブラック企業だからと言って受けないまま就職活動を終了してしまうと、もっとひどい未来が待っているような気がする。ブラックな電通でも生き延びれればワンチャンあるし、むしろ適応できれば年収2000万円。ワンチャンだけじゃなくて夢もある。
そうやって、未来の期待値を考えた結果、冷静に真面目に、電通に挑戦してしまう。
大学生は、金も経験も持っていないが、代わりに若さと未来はとても多く持っている。
「ブラックな職場に就職して適応できるか?」というゲームは、大学生にとっては最も得意であり、勝ち目があるゲームであるんだ。
就職活動に失敗した大学生は、負けたら死ぬような危険なギャンブルを、やらざるをえなくなる。
現代社会でなされる様々な教育は、「大企業の正社員でないとまともな人生を送れない」ということを大学生に教え込み、大学生はそれを信じてしまう。*1
そして、もし電通に就職してブラック環境に適応できてしまえば、年収2000万だけでなく、圧倒的な名声を手に入れることが出来る。
大学生が本当に目指しているのは、この武器の獲得だ。
世の中には、電通の社員ならばそれだけでひれ伏してしまうような、心が弱い人がたくさんいる。
親兄弟・親戚・友達・教授・先輩・後輩。そして自分自身。
こいつら全員に対して絶対的に有利に立てる、強大なアイデンティティが手に入る。それは自分の人生を賭けてもいいと言えるほどの。
だからこそ、電通に就職したがる人間はいなくならない。
むしろ、ほかの中小ブラック企業に比べれば、ギャンブルの危険性が周知されているし、成功したときの報酬は大きいので、十分良心的だとすらいえるかもしれない。
3.本当に悪いのは誰なのか
曰く、電通と言う巨大な企業は、金と権力と名声を十分に持っていたため、社員一人が自殺したぐらいでは何のダメージもない。
むしろ長時間労働させれるリターンの方が大きいので、今日も明日も、電通はブラックであり続ける。
こんな暴挙が許されるかと言ったら、無論許されることではない。
正義や真実が、金や権力で作られるようになってしまうと何が起こるか?
答えは、「人が真実を求めないようになる」。
当人の寿命や、組織の都合の範囲だけでものを考えるようになり、それ以外では全員が嘘をつくようになる。
しかしそれは、おそらくいくらかは正しい生き方であるのだろう。
人が人として生きている姿である、と言えばそうだともいえるし、
現代の社会は実際にそのような原理で運営されている。
ブラック企業の行動にはある種の整合性がある。
悪いのはブラック企業じゃない。
悪いのはそれを取り締まれない法律の方だ。
*1:別にそれもいくらかは正しい事実なんだけど。
「人に話をするときは結論から話す」という手法を徹底的にこき下ろす
「人に話をするときは、結論を先に話しなさい」という指導が、職場や学校においてよく行われている。
結論が明確でない話を、聞かされる方はたまったものではない。理解するのにエネルギーを使うし、情報を記憶して保持するのも大変だ。その結果、誤解や間違いを生む。
話す方にとっても、言葉を長くしなくてはならないため、問題は一向に解決に向かわない。
だから、「結論を先に話しなさい」という思想が生まれたのだろう。
小学校の作文でも、ビジネスシーンのホウレンソウでも、このルールは絶対的なものとして、多くの人に信じられている。
自分の職場でも、こういう指導が行われている風景はよく見かける。
今日は、人を指導する方法についてのライフハックを書いてみようと思う。
会社の上司や学校の先生など、人の上に立ち指導をする側の人間は、誰しもが知っていなければいけないことだ。
目次:
1.自分が今回主張する結論
この段階で自分の結論を言うと、
- 「結論を先に話す」という手法は、必ずしも正しくない。
- 「結論を先に話す」という手法を強要する者は、悔い改めるべきである。
今回は冒頭に300文字ほど前書き書いてから、この結論を書いた。
もしこの前書きを無しにして、最初からこの話だけをしたらどう思っただろうか?
ブログの記事やツイッターならそれで投稿すれば終わりなのだろうが、対面で話をしていたら、いきなりこんなことを言っても意味不明だ。
「結論を先に話す」という手法は、それぐらい乱暴で特殊なテクニックだ。
「先に結論が欲しい」という欲求は、基本的に聞く側の短気・無思慮から成り立っている。
そしてその短気な馬鹿は、先に結論を言われたところで何も理解などできない。
「結論を先に言えと小学校で教わらなかったか?」という煽りを使って悦に浸るパターンも散見される。
確かに小学校ではそのように教えられているが、それは運用が間違っている。
2.結論を先に話さない理由
何故「結論を先に話しなさい」という手法が間違っているかと言えば、それはとても簡単な話だ。
話している内容がそんなに単純ではないから。
全ての話がイエスノーだけで片づけれるわけがない。
相手が知りたいことが一つだけであったとしても、自分が伝えなくてはならないことは一つだとは限らない。
結論は別に分かりきっていて、過程の方が大事なこともある。そういう時は結論は後に話さなければいけない。
そして結論を後に話すことは、それ以上に相手のことを考えているからだ。
簡単な例を述べる。
JR京都駅において、旅行者が、駅員に以下のことを聞いたとする。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。お金があまりないから自由席でないといけない。しかし券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」
この状況に、「結論を先に話せ」というルールを適用すると、旅行者は駅員に以下の発言をすることになる。
「券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」以上
こんなことだけを言われた駅員は、「何を買いたいのですか?どこに行きたいのですか?お金は持っていますか?」ということを、一から全部聞かなくてはいけないことになる。聞く方も聞かれた方も、不幸な思いしかしていない。
たったこれだけの単純な例においても、「結論を先に話しなさい」は間違っている。この手法は、これほど危険で特殊である。
一応「結論を先に話しなさい」という手法を使用する場面として、「初見のインパクトを必要以上に強調して無礼さを利用する」というものがある。
例えばテレビCMで、いきなり大声で「あなたは今の保険に満足していますか!?」とか言ってしまうような例がそれだ。
ライフハックのプレゼンテーションとかで、1ページ目に「あなたは失敗します!」とか書いてあるような例もある。
早く先が知りたいと急かせる効果がある。「CMはイライラさせた方が勝ち」という理論もある。
不特定多数が相手ならば責任はとらなくていいのかもしれないが、こういう無礼な手法を対人対面で使ってしまった場合は大罪だ。
コミュニケーションの根幹の部分であるため、「先に結論から話しなさい」を徹底すると仕事以外の人格もすべてが崩壊する。
なお「先に結論から話しなさい」という手法は、本当に緊急で時間がないときには確かに有効だ。
例えば医療現場や航空管制など。面接で1分間のアピールなどもこれに入るかもしれない。
そういう場面では確かに「先に結論から話しなさい」という手法も有効だ。
3.絶対負けない後出しジャンケン
教育や仕事の場において、「先に結論から話しなさい」という手法を強要することは断じて間違っている。
当然すぎることを書くが、コミュニケーションに完璧なんてものはない。絶対のルールなんてものも存在しない。
だから、話が一度で通らなかったのならば聞いている側にも責任はある。
例えば先ほど、京都駅でのこの例を述べた。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。お金があまりないから自由席でないといけない。しかし券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」
駅員の側はこういわれたところで、コミュニケーション的に後出しジャンケンが可能である。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の…」と言われた時点で、
→「長いよ!結論だけを先に話せ!」と返すことができる。
「先に結論から話しなさいって言っているだろう!」と強要が出来る。
そこでじゃあ結論から話したとして、
「券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」と言っても、
→「何が分かんないのか分からねーよ!まともにしゃべれ!」と返すことが出来る。
そこでまともにしゃべろうとして頑張って、
「新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。」と言ったとしても、
→「じゃあ買えよ!券売機はそこだよ!」と片付けることが出来てしまう。
このようにこんな単純なコミュニケーションひとつをとっても、絶対に負けない後出しジャンケンが出来てしまうんだ。
教育や仕事の場でこんなことやっていたら、不幸しか生まない。
こんなことをやっていたらコミュ障だが、立場の強いものが一方的にそう認定出来てしまうことが問題だ。
4.話を聞く側の責任
コミュニケーションには正義などない。不備があるならば責任は互いにある。
「短気で話を聞けない馬鹿だっているから結論から先に話すように配慮しろ」という理由が述べられることもあるが、「その馬鹿が目の前の本人である」という自覚がないなら問題だし、あっても問題だ。
「先に結論から話しなさい」という手法は、つまり「相手の話は聞きたくない」と言っているのに等しい。そのくせ、話の結果だけタダで要求するというとても傲慢な姿勢だ。
「先に結論から話しなさい」という手法を、「空気を読んで都合のいい時だけ使え」と強要するならそれこそクソだ。
相手の思考回路が分かるのはその相手本人だけである。
確かに、話が分からないまま話を聞くのは難しいことであるし、イライラすることもあるだろう。しかしそれは、そもそも話が分からないこと自体が問題だ。そんな状況では、先に結論言われたところでもっと分からなくなる。
言われて分からない方にも、相応の責任がある。
というより、一度で理解できなかった者が権力を握ってしまった場合にこそ「結論を先に話しなさい」という煽りを使用する。
これじゃあ真面目に物を話してくれる人はいなくなる。
それでも、「先に結論から話しなさい」という手法が強要される場面は多い。
ググったら上の方にnaverまとめが出てきた。
matome.naver.jpnaverまとめにおいては、「ビジネスシーンなら使え、そうじゃないなら使うな」という結論でまとめられている。
自分が今日の記事で主張したことは、「先に結論から話しなさい」という手法をビジネスシーンで使うことは基本的に間違っているということだ。
それこそ本当に小学校で習う、コミュニケーションの基礎の問題だ。
互いに信頼関係のあるコミュニケーションならば、削っていい部分など最初から全部削っているため、余計な話なんてものは存在しない。
その結果、互いの価値観が合わなかったというのならば、そのコミュニケーションの価値は最初からなかった。
【9:1ダイヤ】部下が上司と戦う方法 【ガン逃げ】
今日も仕事におけるライフハックの記事を書いてみようと思う。
先日の記事で、「上司が持っている8つのチート武器」について書いた。
clacff.hatenablog.comこんな武器を自由に使われては、部下としては何もできることは無くなってしまう。
相手のミスや手加減によってしかダメージが通らない状況であり、部下が上司に対して論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
しかし、部下の方には全く対抗策がないのだろうか?
実は考えてみるとこれが結構見つかる。
例え勝つことはできなくても、少ないチャンスになるべくダメージの大きい一撃を加える方法、あるいは自分が普段食らうダメージを最大まで安くする方法、といったものはある。
今日はそういった、部下側の上司に対する「対策」をまとめてみる。
目次:
1.やってしまいがちだが、通用しない戦法
先述したように、部下が上司に論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
そんな状況だから、まずは「やってはいけない戦法」を紹介する。
戦いの中で思いつく戦法だが、これらはあまりいい結果をもたらさない。
【不利な状況でもあきらめずに自分の意見を述べること】
上司と部下の関係に苦しむ問題なんて、世界のいつでもどこでも起こっていたはずだ。
たとえ自分の意見が通らなくても、糾弾し続けることが正義への唯一の道ではないか。
「いつかは分かってくれる」とは限らないとしても、コミュニケーションをあきらめてしまってはそこまでではないだろうか。
そういった、正義の発想が通じないのである。上司の持つ8つのチート武器の前には。
「通じない状況なのに意見を述べた」と言うこと自体が罪として判定されてしまう。
チート武器を使ってしまう上司の前では、話せば話すほど罪は蓄積されて、信頼関係は一向に蓄積されていかない。「いつかは分かってくれる」というゴールから逆に遠ざかっているのだ。
一応、部下にある程度の発言権が育ってくれば、「上司さんはチート武器ばっかり使ってズルいですよね!?」という形で糾弾をすることもできるようになる。
しかし、これも通用しない。
ズルいと言われた上司は、ムキになる。「じゃあ正々堂々と勝負をしようか?」と言う形で勝負を持ちかけてくるケースが多い。
そこで、「何を持って正々堂々とするか」は、上司の側が判定できてしまう。
部下の方が一方的に正しい状況の場合は、チート武器を使ってノーリスクで逃げることができるから、上司側に十分に勝ち目があるケースでしか、「正々堂々の勝負」はそもそも提案してこない。
こういう状況では、上司は部下を本気で負かそうとしてくる。
いつも通り部下を叩きのめせれば、それで完全に正義が証明できるのだから。
そんな状況でチート武器が使われない可能性は、はっきり言って皆無だ。その上司は普段から自分がズルをしているなんてことは認めていないので、いつも使っている武器はチート武器などではないのだから。
それに大前提として、そういう糾弾は、半年~一年単位で隙間を開けて、ここぞというときにしか使えない。相手の許容量以上に意見を述べてしまうと、またチート武器で倒されてしまうからだ。そもそも上司がそういう意見を聞き入れてくれる人間ならば、最初から苦労はしない。
実は、一回だけでいいのならば、上司を倒すこと自体はできる。
半年~一年の時間をかけて、不正の証拠を集め続ければいい。9:1ダイヤの戦いだと言っても、部下の側が5ゲージの無敵技を使えば、最低でも削りダメージは確実に与えることができるように。
上司が決定的なミスをさらした時、さらに上の上司が見ているとき、と言ったような、部下の側が勝つチャンスも、一年も待っていればひとつぐらいは見つかるはずだ。そこで集めたものを全部叩きつければ、大抵の場合で勝つことはできる。
しかし、戦いの発生自体、勝ち負けの判定自体を操作できてしまうのが、上司のチート武器の能力である。
仮に部下が勝ってしまったとしても、上司の方はその負けのポイントをゼロにすることすらできる。上司は仮に負けたとしても、明日から心を入れ替えて接する義務などないのだから。
2.部下の側が能動的にできる戦術
このように、「あきらめずに糾弾し続ける」というのは、姿勢としては正しくても、戦術としては正しくない。
部下の側が上司に対して出来る一番有効な戦術とは、とにかく死なないことである。
不利な戦いに勝つためにはどうしたらいいのか?と考えることが既にまずい。
9:1ダイヤのクソゲーなのだから、そもそも戦いなど始まっていないと考えるのが肝要である。
だから、部下の側がまず第一にやるべきことは、ダメージを減らして寿命を延ばすことである。
部下の側がチート武器を使う上司に対してダメージを取る手段は、基本的にハイリスクであるため、そもそも戦いを挑まないべきだ。
例え自分が武器を持っていたとしても、使用せずに徹底的に温存しておくべきだ。
上司との戦いからは、逃げ続けるべきである。ガン逃げを決め込むべきである。
ちょっとした会話でもチート武器を使われてしまうため、なるべく会話をしなくていいように、普段から立ち回るといい。
上司から逃げ続けると言っても、完全に逃げ切ることは仕事をしている以上は無理だろう。いつかは捕まってダメージを食ってしまう。
そういう時は、相手が望むような形でダウンすることを意識する。
一番ダメージが安い形で倒れておいて、その戦いから逃げることを目指そう。
反撃をすればカウンターを取られてさらにダメージが増えてしまうので、自分からは手を出してはいけない。こちらから技を振らない限りは、少なくともカウンターを取られることはない。
そうやって手を抜いていると、「何もしないのはダメ」「仕事が遅い」という形でチート武器が飛んでくることがあるが、直撃を食らうよりは寿命は幾分伸びる。
その上司が、部下を殺すことを絶対的な目的にしているような、故意のサディストである場合はちょっと無理だが、大抵の場合では上司の側にそんな気概はない。普段チート武器で胡坐をかいているようなやつに人を殺すような覚悟は生まれないし、仮にあったとしたら、その点をさらに上の上司に糾弾することができる。
3.部下の側の勝ち筋
このようにして上司から逃げ続けていても勝負にはならないが、そもそも勝負など最初から始まってはいない。
上司のチート武器に挑んでは打ちのめされる状況とは、信頼の蓄積速度がマイナスになっている状態である。戦えば戦うほど、ゴールから遠ざかっていく。
まずはこの状況を取りの解かなくてはならない。逃げ回っている限りは、少なくともマイナスにはならない。
こうやってマイナスをなくすことが部下の戦術の第一歩である。次はほんの少量でいいので、プラスを蓄積しよう。
部下の側としては、生き延びて仕事をしているだけでも少しはプラスになっている。
上司抜きで一人でできる仕事だって、いくらかはあるはずだ。そしてできるならば、なるべくほかの上司の下で仕事をするように仕向けるといい。
資格取得など、外部の機関で実力を蓄積することでも有利が取れる。
その途中で上司のチート武器も襲ってくるだろうが、粘り強く敗走を続けることで勝利が見えてくる。
このようにして、プラスマイナスゼロの状態でもいいので、年単位で生き延びてみよう。
すると次第に上司の側も飽きてくる。
次のターゲットが見つかるか、配置換えになるか等で、上司のチート武器の手も確実に緩んでくる。
そうなったときが、ようやく戦いの始まりである。自分が相手以上の権力を握れたら、その時は部下の側の勝利になる。
この戦いで、部下がチート上司に勝つことが出来た暁には、あなたの新しい部下にはもうそんな戦いはしないで済むようにしてあげてください。
【9:1ダイヤ】会社の上司が持つ8つの武器【クソゲー】
今日は、サラリーマンの職場における、人間関係のライフハックの話でも書こうと思う。
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あなたは職場において、「上司になかなか認められない…」と思ったことはありませんか?
あるいは、上司であるあなたが「部下がなかなか実力をつけてくれない…」と思っていませんか?
会社における部下と上司は、同じ人間であってもそれぞれの個性や能力が大きく異なります。
そして何より、持っている「武器」の数が違います。上司の方は、部下に比べて非常に多くの権限を与えられています。対等な立場に立ってものを考えることは、非常に難しいものです。
「あいつはダメなやつだ」とあきらめてしまう前に、お互いが持っている、「仕事の上での武器」を確認してみましょう!!
目次:
1.上司は部下より「圧倒的」に多くの権力を持っている
一言で言うと、会社における上司と言う立場は、部下に比べて圧倒的に多くの武器を持っている。
上司と部下がぶつかった場合は、何がどうあっても上司が負けることはない。
上司がわざわざ意識して手を緩めない限りは、部下が上司を超えることなど、ありはしない。
「部下がなかなか実力をつけてくれない…」と嘆いたところで、「上司になかなか認められない…」と嘆いたところで、上司が勝って部下を潰すだけならば、実力に関係なく、とても簡単なことである。
だからこそ、上司になる人間は、その前提を理解した上で、部下をものすごく慎重に扱わなければならない。
そうやって信頼を勝ち取らなければならない。
以下に、上司が持っているチート武器の一覧を示す。
2.上司が持っている、仕事においてのチート武器一覧
【チート武器その一】上司は、部下に供給する情報量を操作できる。
仕事の技術や知識だけでなく、日常の単純なホウレンソウでも、全部の情報を教えないことができる。仕事を進めるのに必要な情報の、一部分だけを断片的に教えることができる。その結果、言った言わないの水掛け論をするまでもなく、意図的に後出しジャンケンができる。
上司としては、完全に全部教える暇がないのかもしれない。言わなくても部下の方から気付いて欲しいのかもしれない。しかし、そのような事情すらも、「教えない」ことができる。
部下は「上司が全部教えなかったぞ!」という糾弾をすることができない。部下としては、言われたことしか聞くことはできない。
【チート武器その二】上司は、仕事をしないことができる。
先の例でも、「教えなければいけない」という仕事を回避している。
上司が部下から見て、完璧に仕事をやっている必然性はない。
その上司のさらに上の上司から見た場合は、確かに完璧に仕事ができていないとダメなのだが、部下から見た場合は、完璧に仕事ができていなくてもいい。部下にとって必要な仕事も、意図的にサボることができてしまうんだ。
部下は、上司に対して「アンタ仕事やってないじゃん」と糾弾することができない。
上司は、自分の手持ちの仕事量を隠すこともできるので、「上司にはもっと大変な仕事がたくさんあるんだろう」ということを信じ込ませることができる。
その結果、忙しい上司は「お前はもっと頑張らなくてはいけない」と逆に押し付けることもできる。
【チート武器その三】上司は、知らないフリができる。
上司が部下に教えなくてはならないことであっても、上司は知らないフリができる。上司が調べればすぐにわかることであっても、調べないことができる。
例えそれが、仕事を進めるうえで必要な知識であり、例えばJIS規格とか書類の番号などの、全員が知らなくてはならない共有事項であっても、上司は知らないフリができる。
部下は、上司に対して「上司ならこれぐらい知ってなきゃダメだろ!」と糾弾することができない。
なぜなら、上司は「何を持って当然とするか」というレベルを操作することができるからだ。
もしそこを突破して、「本当に上司が無知だった」という結論を導けたとしても、上司としてはまだ後出しジャンケンができる。「なぜおまえだけが知っていることを共有しなかったのか?」という責任を、部下に押し付けることができる。
だいたい、上司は、その仕事に関する知識経験はもちろん部下より多いはずで、部下が頑張って勉強したところで、上司を上回ることは根本的に不可能なんだ。
【チート武器その四】上司は、スコアをいじることができる。
なぜなら、部下を評価するのも、上司の仕事だからだ。
部下は満塁ホームランを打っても0.1点。
上司である自分は単発ヒットでも10点。
例えばこんな横暴なルールでも、自分の中だけで制定できて、正規のルールとして採用することができる。
部下の方が、「上司になかなか認められない…」と思い悩んで全力疾走したところで、ゴールの位置はどんどん遠ざけられる。アキレスと亀みたいなものだ。
【チート武器その五】上司は、不確定な内容を判定することができる。
職場における仕事の答えに、「絶対」なんてものが決まっているケースは少ない。
何が良くて何が悪いかは、時と場合によって変わるし、その変化を予測することは株主だってできない。
相手の感じ方や不文律、「決まっているわけじゃないけどなんとなくこうしておいた方がいい」といった経験など、多くの仕事はこういうもので成り立っている。
しかし上司は、その中で部下がどれを選ぶのが正解なのかを、判定することができる。
判別ではない。元々正解など分からないのだから、見てから好きに「判定」ができる。
仕事とは、やり方は一つではないし、正解も一つではない。そもそもそれほど厳密性を必要とする仕事も、そう多くはない。
しかし上司は部下に対して、「オレの方法」だけを唯一の正解として判定することができる。
例えるなら、「スパロボの育成にケチをつける同級生」みたいな真似が、合法的にできる。
【チート武器その六】上司は、さらに上の上司の反対意見を、回避することができる。
上司が係長だとして、その上の上司に部長がいるとする。
係長と部長と、部下である自分が同時に話をできるケースはそもそもレアである。
そしてそのような状況になったら、係長は部長にヘマを見せないように、特別に警戒するであろう。
そんな状況で、部下である自分が、上司のチートっぷりを告発をするのは、非常に危険な行為である。
仮に絶対的な証拠があったとしても、部長は係長を叩いて潰すようなことは、よほどのことがないとできない。それどころか、どちらかを叩かなければならない状況になったら、実績と経験がない部下の方を叩くだろう。
また、上司と自分が二人だけでいるときに、「部長がそう言っていましたよ」と言うこともできるが、その技も通用しない。「そんなの知らない」「お前の聞き間違いではないか」という意見を通すことができる。
上司がその部長をよほど個人的に信奉しているならまだ話は違うだろうが、実際のところは、上司は部長も認めてはいない。むしろ多くの場合で、「上に媚びないオレかっこいい」と思っている。
この上司のチート武器は、部長が叩いて直すこともできないわけだ。
【チート武器その七】上司は、殺すことができる。
チート武器その四でかいたように、上司の仕事の一つは部下を評価することである。
しかし結果を好きにいじることができる以上、「コイツはダメだった」という結果を自分で認定し、報告することができてしまう。
部下がいろいろ頑張って対処をしたところで、上司はいつでも部下を処断することができる。
リセットボタンどころか、電源ボタンがいつでも向こうから押せてしまうんだ。
【チート武器その八】上司は、生かすことができる。
上司は、部下に対しては相手の勝ち負けだけでなく、自分の勝ち負けも意図的に操作することができる。自分自身だけは、何がどうあっても生かすことができる。
例え上司が間違っていたと自分で気づいたとしても、それを認めて死ぬか死なないかは自分で選べる。
間違っていたら自分から自殺する、という強固な信念を持った人間でない限りは、自分自身だけは何があっても死ぬことはない。
3.「9:1ダイヤ」のゲーム
上司は、部下と違ってこのようなチート武器を持っている。
こんな強力な武器は、例え一つだけでも使ってしまったら、対等な勝負は成り立たない。
それが8個もある。
- 相手のミスによってしか自分の攻撃が通らない状況
- 通ったとしてもせいぜい一発だけでとても体力差で勝てない状況
これは、格闘ゲームでいう「9:1ダイヤ」に当たる。
なおゲーメストの割り振り方式において、この9:1というのは「10回戦えば1回は勝てる」という意味ではない。
「勝つ確率が0%」を意味する10:0ダイヤというものが現実的にありえないため、絶対に勝てないということを便宜的に表すために、一つ下の9:1という指標を用いている。
つまり、部下にとってはクソゲーである。
上司は、経験を積んでスキルがあるから、偉い。
だから強くていい、という言い分も確かにある。
上司だって実際には、普段の仕事において、チートばかりではなく、正しいことも多く言う。
経験とスキルに裏打ちされた指示ならば、多少理不尽でも一理ある指示なのであろう。
しかしその事実が、変に正しい部分も含んでいるだけ、タチが悪い。おかげで上司は自分の悪意に一生気付かない。
それに、スキルや経験で正義を語るならば、普通の上司より、その業界をいくつも渡り歩いている派遣社員の方が偉い。受験勉強に没頭している高校生のほうが偉い。そういうことを認めなければならなくなる。
上司は理不尽であっても、逆境に負けずに頑張る部下は偉い。
例えば、「見習い10年、親方の技を盗め」といったような頑固な世界なら、上司が職人気質みたいな姿勢を見せることで、部下が憧れを覚えて、より一層の努力を重ねるというパターンも、無いではないだろう。
しかし、よく考えてみてほしい。
例えそれで一人前になったとして、高い所から自分に石を投げ続けてきた人間を、本当に尊敬することができるのかを。
いくら部下を育ててくれたのが上司であったとしても、この「恨み」を帳消しにするほど素晴らしい指導をしてこれたと言えるかどうかを。
それをよく考えてみてほしい。
ゲームセンターで、古くから導入されている科学的なルール
先日の記事で、「ビデオゲームの持つ高潔さ」を書いた。
clacff.hatenablog.comビデオゲームは、科学やスポーツと同じように、追求するためにプレイをしている。
より深い真実に興味があるから、プレイをしている。
人の探究心に貴賤をつけることはできないはずであるが、それでもビデオゲームの趣味としての社会的な地位は低いままだ。
確かに、先の記事でも述べたように、「一つのメーカーが作った一つのゲーム」という範囲では、野球やサッカーよりもランクは低い。
それに金がかからないとはいえ、ほかで役に立つ肉体や技術が鍛えられるわけでもない。
見た目もキモいし、子供っぽい、というも間違いはないだろう。
そういった、「何も知らない人」に向けた人気がないと、金も集まらない。なので、いかに理念が立派であっても意味がない、という意見も正しい。
eスポーツがほかのスポーツと同じように認識されるようになるには、多くの時間と金が必要になるだろう。
そこで今日は、eスポーツの未来の発展のために、ビデオゲームにおける科学の歴史を書こうと思う。
1980年代の、スペースインベーダーの時代から、すでにビデオゲームの科学的なアプローチは始まっていた。
目次:
1.ビデオゲームの追及おける、ルールの厳密さ
先の記事で述べたように、ビデオゲームを追求することは、科学を追求することと同じである。
だからこそ、そこには厳密なルールが決められている。
ニコニコ動画に上がっているTAS動画でも同じで、例えば以下のようなことが議論になる場合が多い。
・本当に実機で再現ができる操作であるか(ex.ロックマン2のメタルブレードその場配置)
・どの地点をクリア画面とみなすか(ex.アイテム欄のバグでエンディング画面を呼び出すFF3)
・スコアが更新されたのはどちらが先か(ex.理論確定と、動画のアップをどちらを優先するか)
こういった事項の是非が、大真面目に議論されている。
「たかがゲームに何マジになってんの」という論理は、そこには含まれない。
ビデオゲームは、科学として追及する価値があり、趣味として高尚なものである。
科学と同じで、議論の余地が少しでも残っているのならば、前に進まなければならない。
面倒だから、という理由で打ち切ってしまった場合は、その世界はすべてが嘘っぱちになってしまうのだ。
2.「ハイスコア集計を打ち切る」という文化の意味
インターネットでTAS動画が出てきたのは2001年頃からだが、街のゲームセンターでは、1980年代からすでにゲームの科学的な追求が既に行われていた。
こういった歴史のある理念の例を一つ挙げてみる。
ゲームセンターでは、古くからある文化として、「ハイスコア集計」というものがある。
詳細は以下のサイトが詳しい。
Old Game Mesuem@@ƒAƒ‹ƒJƒfƒBƒA2001”N2ŒŽ†ŒfÚ•ª
インターネットが普及する以前から、全国のゲームセンターの筐体に残されたハイスコアを集めて、ゲーム雑誌の上で毎月ランキングを発表していた。
2015年にアルカディアが休刊してからは一時ストップしていたが、割と最近になって、以下のサイトで同様の試みが再開された。
ハイスコア追求の一例を挙げる。
例えば上の画像はカプコンの魔界村(1985)であるが、画像の上部に「10000」とハイスコアが表示されている。ゲームセンターでこんな感じにゲームをプレイして、スコアの多寡を競っていた。
ゲームのスコアは、内部でカウントできる桁数に限界がある。大体9999万点のものが多い。
しかし、一度でも9999万点のカンストのスコアが記録されてしまった場合は、もうその時点でスコアの集計は打ち切りとなる。その時点で、雑誌にスコアを送っても掲載されることは無くなり、どんなに高得点を取っても無意味になる。
なぜならばゲームの追及は科学と同じで、以前の記事に書いたように、「追求する余地があるから行っている」からだ。
clacff.hatenablog.comスコアの多寡という意味ではもうこれ以上ない、ということが証明されてしまったため、スコアを競うという意味では、もう遊ぶ意味がなくなる。
また、バグやテクニックによって、永久パターンで無限のスコアが取れるということが判明してしまったときも同様である。
例えまだ9999万点が実際に達成されていないとしても、永久パターンが確定してしまったときは、「もう9999万点が取れる」ということが確定してしまっている、スコアを競う意味がその時点でなくなる。
実際に上記の魔界村では、発売後まもなく1面のゾンビ狩りで永久パターンが発覚し、早い段階で修正基板を出す羽目になった。
永久パターンが発覚しただけで、実際に9999万点を取るまでやった者が現れたわけでもない。それに、ゲームの1面以降は楽しむ余地がまだそのまま残っている。
にもかかわらず、カプコンは多大な金額を払って、修正基板を出した。ごく一部分の修正のために、一台何十万円もする全国のアーケード筐体の基盤を交換したのだ。*1
カプコンとしては、コストの問題よりも、ハイスコアを追求する余地が無くなってしまったことが、ゲームとして大問題だったからだ。
こういう例が、下のサイトにいくつかまとまっている。
Old Game Mesuem@@ƒAƒ‹ƒJƒfƒBƒA2001”N2ŒŽ†ŒfÚ•ª
このように、たかがビデオゲームであっても、追求する余地が無くなるか、余地が全て知れてしまえば、ハイスコアの集計は行われなくなる。
そしてハイスコアを目指せなくなったプレイヤーたちは、またあらためて別のゲームでハイスコアを目指してプレイする。あるいは、一度ハイスコアが達成されたゲームでも、「ほかの遊び方は無いのだろうか」と模索する。
今度はタイムアタックに挑戦してみたり、武器を縛ってプレイしてみたり、そういう状況の下で、また新たなハイスコアを追求する。
こういった、明確かつ思い切りのいい原理が、1980年代のゲーム雑誌では既に実行されている。子供が遊ぶようなものであっても、ゲームを本気でプレイするということはこれぐらい厳密で価値があるものである。
- 「今自分たちがプレイしているゲームに意味はあるのか?」
- 「ハイスコアが達成されてしまったのならば、次に自分たちがやるべきことは何か?」
ビデオゲームをプレイする子供たちは、先日の記事で書いた羽生善治の発言と同じ原理を、1980年代にすでに理解していた。
3.ビデオゲームの真実と、現在の地位
この例だけではないが、ビデオゲームのプレイの追及には、長い歴史と科学的なアプローチがある。こんな崇高なことを、大人も子供もやっているのだ。
ビデオゲームをプレイする人は、堂々とプレイしていい。
今は趣味としては地位が低く認められていないが、それは社会の方が無知で未熟だからだ。
真実は十二分に含まれているし、競技人口も相当に多い。
野球や小説が昔は低俗な趣味とされていたように、趣味の価値が逆転することは大昔から何度も起こっている。ビデオゲームが逆転する日が、近いうちに必ず来る。
eスポーツと言う流れも当然で正当なものだ。
現在のところは、野球やオリンピックのように現在のところは大きい金やスポンサーが動いているわけではないが、そこもいずれは成長してくるだろう。
*1:一応、6面の一角獣を2匹から1匹に減らすという難易度調整もついでに行ってはいた