「蹴鞠おじさん」と「教養科目」
「蹴鞠おじさん」
とても便利で、悲しい言葉が生まれた。
自分は、「ネイティブ広告ハンドブック」の内容については特に興味がない。
マクルーハンなんて名前は初めて聞いたというレベルだ。
しかし、この「蹴鞠おじさん」という概念については強い興味がある。
自分も頭に来たから、現状の理解をまとめてみる。
目次:
1.どこにでも、どこまでも、蔓延る「蹴鞠おじさん」
「蹴鞠おじさん」。
ヨッピー氏の表現をお借りすれば、以下のような概念のことを指す。
古くて、伝統があって普通の人が理解してないもの
ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作ってる上に、「俺たちはギョーカイ人なんだぞ!」っていう選民意識がめちゃくちゃ強い。
こういう輩は、メディアの世界だけではなく、どこの世界にもたくさんいる。本当にいる。
そして嘆かわしいことに、理性的な理論と議論によって成り立つべきである、技術や学問の世界にも、たくさんいる。
「素人が口を出すな、技は見て盗め」とかいったようないわゆる「職人気質」が、この蹴鞠おじさんに本当にそっくりだ。
発言した若手が「素人である」ということ自体を問題にして、本質的な議論を全く進めようとしない人だ。
若手がごめんなさいと言ったら、説教の後にようやく話し始めるが、結局は大したことを何も言えない人だ。
今回のケースでは、キモい語り口がオタクっぽいと評判だが、これはただのオタクのマウンティングではない。
「おじさん」というところが大事な点で、この硬直したキモさとうざさは、クソ人間を拗らせた上で、適度な権力を与えて数十年間じっくり熟成しないと生み出せない。ある種の芸術品だ。
「蹴鞠おじさん」というネーミングはとても的を射ていると思う。
2.マウンティングこそが正義、という思想
いろんな業界にいる、こういった「蹴鞠おじさん」は、根本的に人をマウンティングすることしか考えていない。
マウンティングをすることによって、教養がより高いレベルに洗練され、それが業界全体のプラスになる、という思想のもとで行動している。
「蹴鞠おじさん」は、その場その場で各々がマウンティングをすることによってのみ、その世界で正義が生まれて育つと考えている。
マウンティングこそがすべてであり、それ以上のことを考えない。
だから、自分が勝てる世界ならばそれで美しい、という思考に流れていく。
まあ、自分の数十年の人生だけですべての世界をくくってしまうのならば、そういう考え方である意味正しい面もある。蹴鞠おじさんの生き方も、一理あるといえば一理ある。
こういう「蹴鞠おじさん」は今までマウンティグによってのみ世界を組み立ててきたので、科学や技術などの世界が成り立ったような、そもそもの本質的な意味を知らない。
以前の記事で述べたような、「お前のスマホのために科学をやっている」といったような、馬鹿な傲慢な回答をしてしまうのは、大抵こういうタイプだ。
clacff.hatenablog.comスマホが科学の目的ではないように、マクルーハンだって、別にメディアに携わるための第一の手段などではないだろう。こんな簡単なことにすら気付けない思想だ。
人を踏むための武器として、マクルーハンを持ち出している。
そもそも相手が知らないことを期待して、「マクルーハンって知っていますか?」とか切り出している。当人は優雅で優美なつもりでいるのだろうが、そこには最初から悪意しかない。
3.大卒以上の人間が持っている、「教養」という武器
社会では、このような「蹴鞠おじさん」が大勢、高そうなスーツを着て、毎日偉そうに仕事をしている。というより、本当に偉い。
いい大学を出ていっぱい勉強をしてきているから、無責任なマウンティングができる人間になれた。
教養というものは、人を踏むための武器として使われている。
現代の社会においては、少なくともこれは事実である。それ自体は認めざるを得ない。
日本の教育カリキュラムにおいては、大学生になったらなぜか突然「教養」というものを勉強する。特に生活や受験に役に立つわけでもないのに、なぜか優雅に、今まで目も向けてこなかった雑学科学や、歴史や哲学についてかじり始めることになっている。
本当は「教養」には、自分の知っている世界を広めること、その知った新しい世界観を利用して、本来の専門分野を世界を広げること、そういう目的があったはずだ。
だからこそ、大学4年間の約半分もの時間を、本来の専門とは関係のない分野でわざわざ「教養」として勉強してきたはずだ。
そのはずだったのだが、教養というものは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質上、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあいをするのに非常に便利なツールである。
だからこそ、大学生は教養の勉強をすることになった。現在においては、本来の教養の意義はとっくに失われて、このような目的のために「教養」を勉強をしている。
これと同様に、世間の大人たちが、「本を読め」とか「ニュースを追え」とか小言を言い始めるのも、なぜか大学生になったあたりからである。
本当に世界を広げたいだけだったら、もっと早くから勉強していてもいいはずだ。
4.「教養」で殴り合う社会の問題点
例えば、「お嬢様がやる和琴のお稽古」は教養であるが、「スラムの餓鬼がやるロックバンド」は教養ではない。
例えば、「ジェンダーの視点から考える21世紀の日本社会講座」は教養であるが、「BLAZBLUE初心者立ち回り講座(起き攻め対応)」は教養ではない。
教養とは、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあうためのツールであるので、「様々な分野を幅広く」という目的だけでなく、「優雅に優美に」という条件も達成していなくてはいけない。
そんな事情で文化の貴賤が決定されてしまうのは問題だが、それ以前にもっと大きな問題がある。
そもそも教養とはそれ単体では無力であり、何の論理も達成できないことだ。
そんな役に立たない「教養」なんてもので、他人を踏もうという思考が、そもそも問題である。
教養とはその世界だけで勝手に設定された真実であり、目の前の問題が解決してくれるものではない。
経済学の概念と理論を述べたところで、外注先の納期を一日でも縮めることができるのか?
コンピューターサイエンスの歴史と偉人が言えたからといって、目の前のスクリプトを一行でも進めることができるのか?
ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作っている。そのギョーカイからは一歩も出ることができない。
もう一つの大きな問題は、「教養でバトったところで、結局は権力の勝負にしかならない」という点である。
教養とは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質があるため、絶対的な真実の基準がないし、いくらでも後出しジャンケンが可能だ。
その当人の立場と権力が許す限り、真実の基準を勝手に定めて、後出しジャンケンをすることができる。
結局は権力が足りない側には最初から勝ち目はない。また、逆に権力のある側が確実に勝つために必要な戦場が「教養バトル」であるともいえる。
このバトル戦う方法、すなわちこのバトルに「正しく負ける方法」は、これから社会の大人と戦う大学生たちにとっては必須科目であるわけだ。
今回のケースでのバトルを観察してみても、この人は権力については非常に慎重に話をしている。
例えばこの人は、マクルーハンは語ることができても、アスラン・ザラは語ることはできないだろう。
もしそれを切り出したら、「アスラン・ザラはメディアには関係ない」といって当人は逃げるはずだが、あれだけ売れて長く続いているテレビシリーズの話なんだから、関係ないことはない、と言い切ることだって可能なはずだ。
しかしその論理の余地を握りつぶして、「(自分には)関係ない」と言い張って制定できる権力があるから、ああいったマウンティングが成り立っていた。
また、「メディアの話をさせたら長いですよ」という切り口で話していること自体が、人を踏むことを第一目的にしている証拠であり、内容自体には実は自信がないということを表している。本当にすぐに十分語れるのならば、こんな前置きはしないで語り始めているはずだ。
まずは権力差をわからせたうえで、慎重に話を始めようとしていることが観察される。
5.それでも「蹴鞠おじさん」は生きる
togetter.comインターネットの言論において、「僕に「○○」の話をさせたら長くなりますよ?」という伝説が生まれた。
それでちょっと気になっていることがある。
世間の「蹴鞠おじさん」達は、今回ボコボコに馬鹿にされているけれど、言い返したりはしないのだろうか。
インターネットで自分たちがここまで言われていたら、見て見ぬふりをすることは結構難しいと思う。自分だったら恥ずかしくて枕の中に頭突っ込んでいると思う。
「蹴鞠おじさん」のほうに、本当に真実があるならば、だんまりなんてしてないで、コメント欄に乗り込んで全員たたき伏せるぐらいのことできるはずだ。
それができないということが、つまり奴らが真実ではなく権力で動いているという証拠だ。
正論で説き伏せることはできないと自分で分かっているから、自分が不利な状況ではガン逃げを決め込む。
結局のところ、この蹴鞠おじさんたちは、自分が持っている武器が蹴鞠しかないと、とっくに認識している。いい大学を出て無駄な勉強を重ねてきた人生しか持っていないと、とっくに気付いている。
だからこそ、その無駄な勉強で無双ができる蹴鞠の世界は、死ぬ気になって維持しようとするだろう。
あと20年ぐらい待っていれば、「蹴鞠おじさん」達は死滅してくれるかもしれないが、奴らは、自分の弟子にも同じような思考を伝授しているだろう。
この連鎖を断ち切るためには、弟子のほうが目を覚まして意識しないといけないと考える。
「現在、社会で幅を利かせている大人たちなど、この程度である」。
次の世代の若者たちには、ぜひともそれをブッ倒してもらいたい。
そんな未来を期待したい。
自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法
「自動車免許を取る時の学科試験って、ひどいひっかけ問題ばっかりだったよね?」
こういう話題が、免許を取ったことのある人には誰でも通じてしまうという異常事態が、放置され続けている。
例えば、このようなクソ問題だ。
Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。
答:×30km/h以上で走ってはならないから
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答:×昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
Q3.標識のない道路を運転する時、100km/h以上で走行してはいけない。
答:×原付は30km/hまでだから
Q4.公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。
答:×一般自動車でなくてもシートベルトをしなくてはならないから
Q5.制限速度30km/hの道路では、その制限速度を超えて走行することは許されない。
答:×非常時はその限りではないから
たったの5問だが、初見で満点取るのは確実に無理な問題群だ。
教習所に行って免許を取ったのはもう何年も前だ、という人も多いだろう。しかしこれは昔話などではなく、現在においても、当時と変わらぬクソ問題が量産されている。
若者たちの答案にバツ印がつけられて、一方的に裁かれている。
今日は、こうした悪問が「なぜ許されているのか」を書いてみる。
また、その悪問に「対処して生き延びる方法」も模索してみる。
目次:
1.理不尽で読めない後出しジャンケン
今回あげたような自動車免許の学科試験に限らず、「理不尽な後出しジャンケン」や、「どうやっても能動的に正解を選べない」といったような事態は、人生においては様々な場面で直面する。
子供から大人まで、学校生活・受験勉強・入社試験・昇格試験など、どのような場面においてもそれが出てくる。
受験などの、何か試験をするタイミングだけではなく、先日の記事に書いたように、権力で上回っている人が近くにいればそれだけで、「理不尽な後出しジャンケン」は許されてしまう。
今回の自動車免許の学科試験のように、権力を握った側は、明らかな嘘の答えですら通すことが出来る。
そしてその上で、「こんな簡単な問題で100点が取れないのか」というマウンティングまで出来てしまう。
「人生に一回ぐらいなら、ちょっと理不尽な問題をやらされたっていいじゃない。最終的には免許もとれたんだし。」といったような言葉では済まされない結果であるし、許してはならない。
「昔は日付変わるまでサビ残して会社に泊まりこんだものだ」とかいうブラック自慢を強要するのと同程度には、有害で邪悪な風習である。
2.なぜこのようなクソ問題が許されているのか
例えば先の問題のQ2を見てみよう。
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答え:×
理由:昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
100%疑いなく日本語が不自由であり、誰がどう見ても悪問である。
一応この問題の主張としては、「問題文をきちんと読まない受験生を落としたい」とか、「ひっかけ問題にしてでも原付は30km/hまでと深く印象付けたい」といったものがある。しかし、それらの理由は全部後付である上に、方法も結果も間違っている。
「普通にやると簡単に100点とれちゃうから意図的に不可能な問題を作って平均点を調節している」という説もある。
だから、100点はもともと無理なのでこんな問題は考えないで飛ばすべき。ほかのところで合格点を確保すればいい。という意図が出題側から出てくることもある。
しかし、考えなくていい問題なんて一つもないんだよ。
「どこまで考えるべきか?」がクソになっているからそもそも困っているわけで。
全部の問題で「よく考えて」しまえば、0点にだってなってしまう。
このように、こういった問題はどうやって言い繕っても悪問でクソ問題である。
問題製作者は一体何を考えているのだろうか。
「もちろん何も考えてない」。
過去の問題と同じようなクソ問題を継続することだけに心血を注いでいる。
とにかく前例に倣い続けることで、不公平感を出さないように頑張っている。
自動車免許は、現在ものすごい数が発行されている。
https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
もし、学科試験のクソ問題を改善したことで、何か効果が起こってしまったら、取り返しがつかなくなる。
仮にそれが良い効果であったとしても、それを証明するのにものすごい手間がかかる。
関わる人口が多すぎて、メンテナンスのコストが改善のメリットを上回っているため、全く身動きが取れないという状態になっている。
何か本当に良い改善ができるのだとしても、自動車の免許であるため、何かあれば命にかかわる問題になる。そのため判断には高いコストを支払わなくてはならない。
運転免許の利権や、免許人口の調節も、動けない理由の一つであろう。
一番最初に「クソ問題を作って合格率を操作しよう」という横着をしたツケを、未来永劫払い続けなければならない状態だ。
大体、クソ問題を絶対に作らないというのはかなり難しい。
問題は過去問と一つもかぶってはならないし、その上で、正当かつ測定効果がある問題を作り続けなければいけない。練習問題も含めれば膨大な量の問題を作らなくてはならない。
そんな難しい問題を、教習所の教官達が、サビ残して日々作り上げている訳だ。
そりゃあ間違いの10や20は存在するに決まっている。
以上のように、学科試験のクソ問題を改善することは、システム的にも現場的にも土台無理な話である。
そして、それを当然の事として運転免許の関係者たちは日々働いている。
奴らは永久に反省できない。
3.「クソ問題」を生き残る方法
このように、運転免許の学科試験のクソ問題は、現在の社会では回避不能なコストである。
そして人生においては、運転免許に限らず学校や職場等でも、同様のクソ問題は何度も解かされるだろう。
それに対処して生き残る方法も、一応いくつかはある。
まず一つ目は、正攻法と言っていいのかどうかは不明だが、例えば先のサイトでも紹介されていたような、「問題文に必ずとか絶対とかって文言が入ってたら大抵×が正解」といったテクニックを積み重ねることである。
文系の受験問題や公務員試験のように、こういった戦法が前提となっているような戦いもある。
しかし、こういうテクニックをいくら積み重ねたところで、それでも潰せてしまうところがクソ問題のクソたる所以であるが。
次に、「その一問の結果で一喜一憂するような状況がそもそもダメ」だという考え方もある。本当にちゃんとできる人間ならば、ほかの部分で合格点が取れるから、クソ問題にいくつかあたったところで死にはしない、という理論だ。
クソ問題を出題する側も、アリバイとしてよくこの理論を使うが、やはりそれでも正しくはない。
たとえ一問の得点であっても、タダで奪っていい理由などあるはずがない。
それに、そもそもクソ問題においては「考えるべき範囲」というものすらクソになっているため、そのたった一問と同じ方法で、残りの99問も不正解になり得てしまう。
こういったクソ問題においては、考えれば考えるほど損になる。そして、そのような試験で選ばれた社会では、まじめにものを考える人間などいなくなるだろう。
しかし、実際にそういう社会になりつつあるし、もともと社会はそういう人間こそを望んでいたのだとも考えられる。そういう意味では、テストとしては正常に機能しているのかもしれない。
クソ問題に翻弄されて、どうしても正解できない人は、まず人間の思考をやめてみよう。
人間として理性的に推論するのではなく、「求められている受験生」として機械的に判断してみよう。
この社会における勝者たちの多くは、そうやって正解率を上げてきた。
【回答済み】なぜ日本の企業では長時間の労働をしなければならないのか
日本の現在の法律では、一日の労働時間は8時間とされている。ひと月では160時間である。
それ以上の労働は超過労働であり、25%増しで給料を払う必要がある。
そして、その超過労働は月45時間を超えてはならない。
業務上どうしても超えてしまう場合は、雇用者本人と協定を結ばなければいけない。
一応そういうことになっているが、こんな風に働いているサラリーマンなど、まずいない。
通勤に片道1時間かかる人が、朝8時に家を出て、家に帰ってくるのが夜7時であったならば、その時点でアウトになってしまう計算だ。
あなたやお父さんが夜7時に家に帰ってきたら、「そこそこ早いし普通の帰宅時間だな」とか、「こんな風にちゃんと帰れる職場でよかったな」とか、そう思うでしょう?本当はアウトなんだよそれで。
上の記事でも述べられているように、元をたどれば「一日8時間」というのは、100年前に作られた経験則でしかない。1日の三分の一ということでキリはいいが、その数値自体は特に正義はない。
そもそも時間で区切らなければいけない理由もない。時間だけで成果が決まらない仕事だってたくさんあるだろう。
何故日本では、非効率で長時間の労働をしないといけないのか?
その理由自体はもうとっくに語りつくされているので、今日はそれを今一度羅列してみる。
そして本当に求められている労働力と、その社会を変える手段についても考えてみた。
目次:
1.労働の効率が落ちる理由一覧
日本の企業が、無駄な労働を強いるようになったことには、いろんな理由があるのだろう。
togetter.comこの記事に、よく出る理由は大体まとまっていたので、抜粋してみた。
- パソコンも携帯もなかった時代の仕事を基準にしているから
- 新しい手法を学ぶ余力は落ちていく一方で、学ぶべき内容は増え続けているから
- 下請けが無茶な納期で仕事をさせられるから
- 組織が大きいゆえに、一管理者が責任を取れなくなってしまったから
- なんだかんだで裕福であり、本気にならなくても食っていけるから
- 生存者バイアス。無茶な労働を生き残ってしまった者が権力を持ってしまったから
- 過去の自分の苦労を味わってほしい、という心の弱さがあるから
- 仕事以外の人生を知らないから、長時間労働上等という思想があるから
- 労働時間以外の、様々なパワハラ問題との複合効果から
- 労働時間はキツくないが、昔と違って無報酬なのがキツいから
- コンプライアンスの基準は厳しくなったが、取り締まってくれる機関が働かないから
- 周りの企業もみんなそうなので、検挙される可能性が減り、やる必然性も増えるから
これらはすべて、正しい意見なのだと思う。
「バブルの思考を引きずっているから」という意見があげられることもあるが、これはおそらくそこまで関係しない。バブルなんてせいぜい5~6年しか持続しなかったのだから。
そのバブルの時代でも、高度経済成長期の50年前でも、過酷な労働環境で自殺する人はたくさんいた。
別に、これらの話は今に始まったことではなく、「最近の若いもんは~」という記述がなされた文書は、明治時代どころか平安時代にすらある。それこそ有史以来続いていることで、古代エジプトの壁画にすら、こういった労働者の話が書いてある。
人間の未熟さとクズさは、太古から続く、人体の本質的な機能である。
こうやって、悪い環境で緩やかに思考停止していくこと自体を、人体の本能は望んでいる。
労働者も人間であり、それを雇用して管理する側も人間である。
真実を指摘したぐらいで改善されるのならば、こんな古くからは続いていない。
2.会社が本当に欲しい労働力
togetter.comいつかの電通の過労死の問題において、次のような意見があった。
日本の企業は生産性が低いと言われるけど、それはなぜかというと「より少ない労力で効率的に成果を出す」という発想が「怠け」として批判され、「より多く労力をかける」ことがエラいみたいな風潮があるから、だれも効率を上げる工夫をしなくなるんだよね
なぜ「効率を上げた新しい手法」が評価されないかという理由も、先の一覧で説明がつく。
つまり、以前の労働方法の歴史が長く続きすぎて、古い方法を撤廃する信頼性のリスクが大きくなりすぎているからだ。
新しい方法をちゃんと精査すれば絶対いいに決まっているのだけど、それを判断する余力が続かなくなっているからだ。
しかし、日本の企業もそこまで馬鹿ではなく、「単に労力をかけていればそれでいい」なんて発想をする人間は、ほとんどいない。
管理者だって、その上の人間に管理されている存在であり、単に労力をかけているだけでは「もっと成果を出せ」と、日々詰められる。
つまり管理者が本当に欲しい労働力とは、「二倍の効率で二倍の時間働いてくれる人」である。
今までは、1倍の効率で2倍の時間働く人ばかりだった。そこに、2倍の効率で1倍の時間働く人が現れたとする。
管理者の側からすれば、「じゃあその2倍効率でみんなと同じように2倍の時間働いてくれよ」って思うだろ当然?
別に2倍の効率を貶しているわけじゃあないんだ。
地球に危機が迫っているんだから、「スーパーサイヤ人もいいけど界王拳も使ってくれよ」って誰しもが思っただろう?*1
速度が倍か、時間が倍か。
どちらかしか選べないなら、記録に残りやすい時間の方をみんな選ぶし、会社側もそれを期待する。
2倍の効率で1倍の時間働く人は、評価の面ではプラマイゼロである。
いやむしろ、「新しい方法を精査する余力」を加味するとマイナス側に動く。
つまりはそういうことだ。
3.このような労働環境を変革する手段
こういうたとえ話がある。
昔の人間は天動説を無意識に信じていたが、ある日、観測と理論によって地動説を主張した異端の者が現れた。
現在では、天動説を信じている者はいなくなり、みな地動説を当然のものだとして信じるようになっている。
これは、地動説側による粘り強い説得によって成しえたことではない。
単に、天動説を信じる古い人間が、みんな寿命で死んだからだという。
「証拠は明らかだけどそれを信じてもらえない時代」というものを終わらせるには、とにかく待つしかない。人間の寿命が関わる、何十年かのスパンにおいて。
しかし今権力を握っている50代以上が氏ぬまでには30年以上はかかる。平均寿命は延びているし、死にたくても死ねない社会になっている。安楽死のルールが出来るのならまだ期待できるのかもしれないが。
現在苦しんでいる労働者で、そのなかでも正しくものを考えて訴える人間は、ガンダムで言うところのニュータイプなのだと思う。
能力に多寡があるところも、即時的に役に立つ超能力でないことも、結局は体制に利用される道具であるところも。
今日の労働問題のような、「新しい人間と古い人間の対立」は、30年前のアニメの題材にされるほどには、本質的でわかりきった問題であった。
ニュータイプへの覚醒で人類は変わる。そのときを待つ!
クワトロ大尉がZガンダムでそう言ってた。
今の人類は、少なくとも古代のエジプト人よりは進化していると思うんだ。
ここ100年足らずで、人類の科学も思想も加速度的に発達している。
もしかしたら、30年を待たずとも、人類はいい方向に進化してくれるのかもしれない。
それが待ちきれないのなら、テロリズムぐらいしか手段はないのだろう。
例えばゴルゴを10万人雇って、社会で権力を握る老害を片っ端から粛清するしかないのだろう。
逆襲のシャアみたいに。
*1:後付け設定で「併用はできない」ということにされたが
「正しいことだけが正しいわけじゃない」という意見の、解答解説
2016年の日本シリーズ、広島VS日ハムにおいて、ビデオ判定の是非が議論されている。
1-1の接戦だったところを、広島がビデオ判定により勝ち越してしまったため、日ハムが士気を失い、4点も取られて決着となってしまった。
この試合に、せっかくのスーパープレイだったのにビデオ判定で覆されて日ハムがかわいそう、という意見が出てきている。
何人かの日ハムファンがそう嘆いているだけならば、ただの戯言で済む話なんだけど、この試合のコメントで、カープ出身の達川(元キャッチャー)ほかの解説陣が、
「これがセーフなら野球の醍醐味がなくなる」
「ビデオで決めるなら審判いりませんからね」
などという発言を行っていた。
これは問題発言であると思う。
こんな主張はもちろん大嘘であり、許してはならない。
今日の記事で言いたいことはつまり大体これなのだが、こんな主張がまかり通る世界、そしてそれを食い止める反抗の意志については、もっと深い事情が関わっている。
「正しいことだけが正しい訳ではない」。
この言葉の正義について、考えれるだけ考えてみた。
目次:
1.「醍醐味」という嘘
大体今回の話では、ビデオ判定で決めるというルール自体が野球の中にはすでにある。だからこそ、今回公式戦でこういうことが起きたわけで、こういう時のためにわざわざ作られたルールだ。
審判がビデオ見てセーフだと言ったならそれは何と言うとセーフだ。
そういうルールブックの下で戦っている。
ゲームの判定は物理的な証拠と判断によって行われるものであり、醍醐味とか士気とかを考えて判定を変える、なんてルールは全く何も定義されていない。
だから、醍醐味を優先してビデオ判定を曲げることは、明らかにルール違反である。
今回の判定は賛否両論というよりは、誰が考えても答えは明らかだ。
「醍醐味ガー」とか言っている人たちも、本当は頭の中ではとっくに分かっているはずだ。
2.それでも「醍醐味」を求める理由
しかしだからと言って「醍醐味」を野球から切り捨ててしまっていいのだろうか?
「正しいことだけが正しい訳ではない」。そういうことを議論する余地は一応ある。
二次方程式の虚数解のように、どう考えても現在の定義からは存在できない答えであっても、そこに目をつぶって新たに定義をつくってしまえば、新しい世界が広がっている。
すなわち、今回言われている「醍醐味」とは、
「野球のルールを破ることによって生まれるロマン」のことである。
細かいルールや思想を指摘されてもなお、ロマンをゴリ押す快感のことである。
日本の高校野球を見ていればわかるように、野球というエンターテイメントは、昔からこういう商品を観衆に売ってきた。
人生を賭けた球児たちが織り成す渾身のプレイを、絶対的な審判が容赦なく裁く。
あんなに練習した強いチームであっても、ちょっとした拍子で得点が揺れ動く試合展開。
男たちが戦って青春を散らしていく様を、優雅に上から眺める。
野球というコロシアムは、そんな下卑た視線を満足させるエンターテイメントであったわけだ。
そしてそれは、野球と言うスポーツが商業的に普及する際には意味がある原理だったのだろう。
野球という活動の目的を、「観客を集めて入場料を取る」と言うことに限定してしまうならば、「野球の醍醐味」とやらを肯定することは可能である。
大相撲やテニスは、ビデオ判定は何十年も前から採用しているが、それに対して野球は別の方向での進化を選んでいた。
何割かの観客と、解説の元キャッチャーが「醍醐味」なんて発言をしてしまうぐらいには、そういう進化が及んでいたようだ。
3.野球と言うスポーツをエンターテイメントにする代償
「野球にはビデオ判定では通せない醍醐味があるよね」という思想を通すならば、野球とはずっと前からスポーツではなくエンターテイメントであった、ということを肯定しなければならない。
野球をスポーツではなくショーにしてしまえば、表面的には儲かるし楽しいかもしれないが、それを選んだ場合には、大きな代償を払わなければいけない。
先日の記事に書いたように、スポーツの追及とは科学の追及と同じであり、「余地があるから」こそ日々努力して切磋琢磨をしている。
そういう理由があるから、スポーツのルールは限界まで厳密に設定されていて、運の要素は限りなく排除されている。
そこで一つでも嘘を認めてしまうと、今まで決めてきたルールが連鎖的に全部ウソだと暴かれてしまう。
例えば、今回の野球の例のように、「美しければセーフ」というルールを、ルールブックに追加してしまった場合は、選手はこんなことを考えるようになる。
- 美しければセーフというなら、「カッコよく走る練習」をしないとダメじゃね?
- 走塁が間に合わなそうなときは、走るの止めて踊った方が得じゃね?
- 超カッコいいダンスでセーフになれる練習したから、打撃も全部バントでよくね?
- 相手チームが全部バントしてくるなら、外野守備なんて必要なくね?
まずはこのように、野球と言うゲームの内容が滅茶苦茶に変化する。
こういう風に、既存の世界が崩壊していくスピードは、選手たちがより真剣に勝つ方法を考えるほど、速くなる。もともとの野球の戦術も、同じようにルールを深く解釈することで進歩してきたものだ。
そして、今回追加した「美しさ」というルールは、基準も定義もない。だから、
- アウトセーフの判定に基準や定義が無くていいのなら、ストライクゾーンの範囲やバットの材質だって定義しなくていいよね。全部ノリで決めていいよね。
- こんなクソゲーなんかよりサッカーやった方が楽しいよね?
当然こういう考えが、早い段階で生まれてくる。
このように、ルールを一つ追加するだけで、野球は別ゲーになってしまう。
なおアメフトは、「キーパー以外もボールを手で持ってよくね?」というルールが追加されたことで生まれたスポーツらしい。そうやって、新しい楽しいスポーツが生まれてくる可能性はある。可能性はあるが、現在まで築き上げられてきた野球と言うスポーツを汚していい理由にはならない。どうしてもやるんだったら「スタイリッシュ野球リーグ」でも新たに作ってもらわないといけない。
エンターテイメントを企画しようとするならば、飽きられないようなコントロール、既存のものとの棲み分けといった、コントロールをよほど慎重にやらなくてはいけない。今回の「野球の醍醐味が無くなる」といった発言は、そこでミスった無粋な発言であった。
4.「エンタメ化」が許せない人が増えた理由
野球がエンターテイメントと化したとしても、実は観客の側はあまり困らない。
楽しみ方の質が変わるだけで、結果的に楽しくなっているならばむしろ歓迎されることもある。
高校野球で、一塁ヘッドスライディングが推奨されて、それを喜ぶ老人がいるように。
エンタメ化されて本当に困るのは、それで自分が戦わなくてはならない選手たちの方だ。
選手にとっては、ルール内での勝利こそが全てだ。そういうルールの下で戦っている。
自分たちが命を懸けてきたルールを、外部の勝手な好みで曖昧に書き換えられてしまう。
「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」とか言われて、納得できる選手など、ただの一人もいない。
今回の記事のコメント欄を見ても、反対意見ばかりが述べられている。
先日の記事で述べたように、インターネットは弱者の武器である、と自分は考える。
すなわち、インターネットのユーザーには、「戦う側の意見」が理解できる人間が集まってきているのではないのだろうか。
今までの人生の色々な場面で、「タイミング的にはセーフだったけど美しくなかったからお前アウトな」と言われて、「ふざけるなよこのやろう…!」という経験をしたことのある人が、多いのではないのだろうか。
インターネットの言論には、実際に戦う側、真実を求める側の言論が育ってきているのだと思う。
電通にはサビ残させる権利がある、という暴論
電通の社員が、ブラック労働をさせられて自殺に追い込まれたらしい。
今回の事件のように、企業が人を踏みつけるような事例において、自分がいつも思うことがある。
- 金や権力が十分にあれば、悪いことをしても逃げ切れるのではないか?
- 正義とか真実とか、元々大して必要とされていなかったのではないか?
自分が小学生のころに「罰金を払えるなら犯罪をやってもいいのか?」ということを、学校の先生に尋ねてみたけど、納得のいく答えはまだもらっていない。
国民や生徒に対する教育では、もちろん「罰金払えるとしてもやるな」というのが答えだろう。
人間の性善説に期待しているところもあるのだろうし、逆に相応に罰金を高くした場合だと別の問題が出てくるのであろう。
これは、法律と刑罰が不十分である点だと言える。
今回も、この弱点を突いた事件が起きてしまったので、そのことを詳しく書いてみようと思う。
目次:
1.電通の側から見た、今回の事件
電通の側から見た場合、今回の事件には、電通が「自分の財布の中で買い物をしただけ」だと言えるのではないのだろうか。
今回の事件が発覚したことで、電通はブラック企業だと世間に知れたが、それでも電通に就職して働きたい人と思う人間はたくさんいる。
電通はそれだけ名声、すなわち「財布の中身」を持っている。
今回の事件は、その「財布の中身」を消費して、長時間の労働力を買っただけの話ではないか?
もしこのブラック環境に適応できる逸材が出てきたら、とてもラッキーだ。
そういうガチャを、金払って引いたのだろう。
確かに、今回この買い物をしたことで、電通の財布の中身は減ったのだと思う。
しかし、それでも電通で働きたいという人はたくさんいる。
つまり、財布の中身はまだまだたくさん残っているということだ。
いつかワタミが、別の事件で被害者の遺族にこう言っていた。
「一億欲しいのか」って。
奴らにとっては、これがガチャ一回の値段だったわけだ。
1億円なら正直安いよね。
美人の東大生を馬鹿にして自殺させるまで働かせることが出来るんだから。
今回は不幸にも訴訟沙汰になったが、罰金はそれでも1億円よりは安いだろう。せいぜい2000万円じゃない?電通社員の給料なら1~2年分程度だ。
名声にもダメージはあるが、もともと電通がブラックなんてことはみんなとっくに知っている。
死者だって何度も出しているし、ある意味痛くもかゆくもない。
電通で働きたい人はそれでも毎年腐るほど来る。
と、奴らはそう考えている。
2.なぜ電通に就職したい人はいなくならないのか
電通がブラック企業だということは、大学生ならばとっくにみんな知っている。
わざわざニュースにされるまでもなく。電通だって別に隠してなんかいないだろう。
しかし、いざ就職活動が始まってしまうと、大学生は皆大企業に就職することを目標として動くようになる。
電通に限らず、ブラックな企業や業界であっても、大手ならばとりあえず目標に入ってしまう。
一応内心では嫌だと思ってはいるが、就職活動のコマが減ってくると、「電通でもいいや」と考えちゃうような学生がたくさんいる。
自分も経験があるから分かるが、就職活動をする大学生は、残りのコマがブラック企業だけになってしまうと、「ブラックらしいけど俺ならきっと生き延びれるぜ!」ということに期待するようになる。
ブラック企業だからと言って受けないまま就職活動を終了してしまうと、もっとひどい未来が待っているような気がする。ブラックな電通でも生き延びれればワンチャンあるし、むしろ適応できれば年収2000万円。ワンチャンだけじゃなくて夢もある。
そうやって、未来の期待値を考えた結果、冷静に真面目に、電通に挑戦してしまう。
大学生は、金も経験も持っていないが、代わりに若さと未来はとても多く持っている。
「ブラックな職場に就職して適応できるか?」というゲームは、大学生にとっては最も得意であり、勝ち目があるゲームであるんだ。
就職活動に失敗した大学生は、負けたら死ぬような危険なギャンブルを、やらざるをえなくなる。
現代社会でなされる様々な教育は、「大企業の正社員でないとまともな人生を送れない」ということを大学生に教え込み、大学生はそれを信じてしまう。*1
そして、もし電通に就職してブラック環境に適応できてしまえば、年収2000万だけでなく、圧倒的な名声を手に入れることが出来る。
大学生が本当に目指しているのは、この武器の獲得だ。
世の中には、電通の社員ならばそれだけでひれ伏してしまうような、心が弱い人がたくさんいる。
親兄弟・親戚・友達・教授・先輩・後輩。そして自分自身。
こいつら全員に対して絶対的に有利に立てる、強大なアイデンティティが手に入る。それは自分の人生を賭けてもいいと言えるほどの。
だからこそ、電通に就職したがる人間はいなくならない。
むしろ、ほかの中小ブラック企業に比べれば、ギャンブルの危険性が周知されているし、成功したときの報酬は大きいので、十分良心的だとすらいえるかもしれない。
3.本当に悪いのは誰なのか
曰く、電通と言う巨大な企業は、金と権力と名声を十分に持っていたため、社員一人が自殺したぐらいでは何のダメージもない。
むしろ長時間労働させれるリターンの方が大きいので、今日も明日も、電通はブラックであり続ける。
こんな暴挙が許されるかと言ったら、無論許されることではない。
正義や真実が、金や権力で作られるようになってしまうと何が起こるか?
答えは、「人が真実を求めないようになる」。
当人の寿命や、組織の都合の範囲だけでものを考えるようになり、それ以外では全員が嘘をつくようになる。
しかしそれは、おそらくいくらかは正しい生き方であるのだろう。
人が人として生きている姿である、と言えばそうだともいえるし、
現代の社会は実際にそのような原理で運営されている。
ブラック企業の行動にはある種の整合性がある。
悪いのはブラック企業じゃない。
悪いのはそれを取り締まれない法律の方だ。
*1:別にそれもいくらかは正しい事実なんだけど。
「人に話をするときは結論から話す」という手法を徹底的にこき下ろす
「人に話をするときは、結論を先に話しなさい」という指導が、職場や学校においてよく行われている。
結論が明確でない話を、聞かされる方はたまったものではない。理解するのにエネルギーを使うし、情報を記憶して保持するのも大変だ。その結果、誤解や間違いを生む。
話す方にとっても、言葉を長くしなくてはならないため、問題は一向に解決に向かわない。
だから、「結論を先に話しなさい」という思想が生まれたのだろう。
小学校の作文でも、ビジネスシーンのホウレンソウでも、このルールは絶対的なものとして、多くの人に信じられている。
自分の職場でも、こういう指導が行われている風景はよく見かける。
今日は、人を指導する方法についてのライフハックを書いてみようと思う。
会社の上司や学校の先生など、人の上に立ち指導をする側の人間は、誰しもが知っていなければいけないことだ。
目次:
1.自分が今回主張する結論
この段階で自分の結論を言うと、
- 「結論を先に話す」という手法は、必ずしも正しくない。
- 「結論を先に話す」という手法を強要する者は、悔い改めるべきである。
今回は冒頭に300文字ほど前書き書いてから、この結論を書いた。
もしこの前書きを無しにして、最初からこの話だけをしたらどう思っただろうか?
ブログの記事やツイッターならそれで投稿すれば終わりなのだろうが、対面で話をしていたら、いきなりこんなことを言っても意味不明だ。
「結論を先に話す」という手法は、それぐらい乱暴で特殊なテクニックだ。
「先に結論が欲しい」という欲求は、基本的に聞く側の短気・無思慮から成り立っている。
そしてその短気な馬鹿は、先に結論を言われたところで何も理解などできない。
「結論を先に言えと小学校で教わらなかったか?」という煽りを使って悦に浸るパターンも散見される。
確かに小学校ではそのように教えられているが、それは運用が間違っている。
2.結論を先に話さない理由
何故「結論を先に話しなさい」という手法が間違っているかと言えば、それはとても簡単な話だ。
話している内容がそんなに単純ではないから。
全ての話がイエスノーだけで片づけれるわけがない。
相手が知りたいことが一つだけであったとしても、自分が伝えなくてはならないことは一つだとは限らない。
結論は別に分かりきっていて、過程の方が大事なこともある。そういう時は結論は後に話さなければいけない。
そして結論を後に話すことは、それ以上に相手のことを考えているからだ。
簡単な例を述べる。
JR京都駅において、旅行者が、駅員に以下のことを聞いたとする。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。お金があまりないから自由席でないといけない。しかし券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」
この状況に、「結論を先に話せ」というルールを適用すると、旅行者は駅員に以下の発言をすることになる。
「券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」以上
こんなことだけを言われた駅員は、「何を買いたいのですか?どこに行きたいのですか?お金は持っていますか?」ということを、一から全部聞かなくてはいけないことになる。聞く方も聞かれた方も、不幸な思いしかしていない。
たったこれだけの単純な例においても、「結論を先に話しなさい」は間違っている。この手法は、これほど危険で特殊である。
一応「結論を先に話しなさい」という手法を使用する場面として、「初見のインパクトを必要以上に強調して無礼さを利用する」というものがある。
例えばテレビCMで、いきなり大声で「あなたは今の保険に満足していますか!?」とか言ってしまうような例がそれだ。
ライフハックのプレゼンテーションとかで、1ページ目に「あなたは失敗します!」とか書いてあるような例もある。
早く先が知りたいと急かせる効果がある。「CMはイライラさせた方が勝ち」という理論もある。
不特定多数が相手ならば責任はとらなくていいのかもしれないが、こういう無礼な手法を対人対面で使ってしまった場合は大罪だ。
コミュニケーションの根幹の部分であるため、「先に結論から話しなさい」を徹底すると仕事以外の人格もすべてが崩壊する。
なお「先に結論から話しなさい」という手法は、本当に緊急で時間がないときには確かに有効だ。
例えば医療現場や航空管制など。面接で1分間のアピールなどもこれに入るかもしれない。
そういう場面では確かに「先に結論から話しなさい」という手法も有効だ。
3.絶対負けない後出しジャンケン
教育や仕事の場において、「先に結論から話しなさい」という手法を強要することは断じて間違っている。
当然すぎることを書くが、コミュニケーションに完璧なんてものはない。絶対のルールなんてものも存在しない。
だから、話が一度で通らなかったのならば聞いている側にも責任はある。
例えば先ほど、京都駅でのこの例を述べた。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。お金があまりないから自由席でないといけない。しかし券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」
駅員の側はこういわれたところで、コミュニケーション的に後出しジャンケンが可能である。
「15時までに東京駅に行かなければいけないから新幹線の…」と言われた時点で、
→「長いよ!結論だけを先に話せ!」と返すことができる。
「先に結論から話しなさいって言っているだろう!」と強要が出来る。
そこでじゃあ結論から話したとして、
「券売機の使い方が分からないから教えてくれ!」と言っても、
→「何が分かんないのか分からねーよ!まともにしゃべれ!」と返すことが出来る。
そこでまともにしゃべろうとして頑張って、
「新幹線の切符を急いで買わなくてはいけない。」と言ったとしても、
→「じゃあ買えよ!券売機はそこだよ!」と片付けることが出来てしまう。
このようにこんな単純なコミュニケーションひとつをとっても、絶対に負けない後出しジャンケンが出来てしまうんだ。
教育や仕事の場でこんなことやっていたら、不幸しか生まない。
こんなことをやっていたらコミュ障だが、立場の強いものが一方的にそう認定出来てしまうことが問題だ。
4.話を聞く側の責任
コミュニケーションには正義などない。不備があるならば責任は互いにある。
「短気で話を聞けない馬鹿だっているから結論から先に話すように配慮しろ」という理由が述べられることもあるが、「その馬鹿が目の前の本人である」という自覚がないなら問題だし、あっても問題だ。
「先に結論から話しなさい」という手法は、つまり「相手の話は聞きたくない」と言っているのに等しい。そのくせ、話の結果だけタダで要求するというとても傲慢な姿勢だ。
「先に結論から話しなさい」という手法を、「空気を読んで都合のいい時だけ使え」と強要するならそれこそクソだ。
相手の思考回路が分かるのはその相手本人だけである。
確かに、話が分からないまま話を聞くのは難しいことであるし、イライラすることもあるだろう。しかしそれは、そもそも話が分からないこと自体が問題だ。そんな状況では、先に結論言われたところでもっと分からなくなる。
言われて分からない方にも、相応の責任がある。
というより、一度で理解できなかった者が権力を握ってしまった場合にこそ「結論を先に話しなさい」という煽りを使用する。
これじゃあ真面目に物を話してくれる人はいなくなる。
それでも、「先に結論から話しなさい」という手法が強要される場面は多い。
ググったら上の方にnaverまとめが出てきた。
matome.naver.jpnaverまとめにおいては、「ビジネスシーンなら使え、そうじゃないなら使うな」という結論でまとめられている。
自分が今日の記事で主張したことは、「先に結論から話しなさい」という手法をビジネスシーンで使うことは基本的に間違っているということだ。
それこそ本当に小学校で習う、コミュニケーションの基礎の問題だ。
互いに信頼関係のあるコミュニケーションならば、削っていい部分など最初から全部削っているため、余計な話なんてものは存在しない。
その結果、互いの価値観が合わなかったというのならば、そのコミュニケーションの価値は最初からなかった。
【9:1ダイヤ】部下が上司と戦う方法 【ガン逃げ】
今日も仕事におけるライフハックの記事を書いてみようと思う。
先日の記事で、「上司が持っている8つのチート武器」について書いた。
clacff.hatenablog.comこんな武器を自由に使われては、部下としては何もできることは無くなってしまう。
相手のミスや手加減によってしかダメージが通らない状況であり、部下が上司に対して論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
しかし、部下の方には全く対抗策がないのだろうか?
実は考えてみるとこれが結構見つかる。
例え勝つことはできなくても、少ないチャンスになるべくダメージの大きい一撃を加える方法、あるいは自分が普段食らうダメージを最大まで安くする方法、といったものはある。
今日はそういった、部下側の上司に対する「対策」をまとめてみる。
目次:
1.やってしまいがちだが、通用しない戦法
先述したように、部下が上司に論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
そんな状況だから、まずは「やってはいけない戦法」を紹介する。
戦いの中で思いつく戦法だが、これらはあまりいい結果をもたらさない。
【不利な状況でもあきらめずに自分の意見を述べること】
上司と部下の関係に苦しむ問題なんて、世界のいつでもどこでも起こっていたはずだ。
たとえ自分の意見が通らなくても、糾弾し続けることが正義への唯一の道ではないか。
「いつかは分かってくれる」とは限らないとしても、コミュニケーションをあきらめてしまってはそこまでではないだろうか。
そういった、正義の発想が通じないのである。上司の持つ8つのチート武器の前には。
「通じない状況なのに意見を述べた」と言うこと自体が罪として判定されてしまう。
チート武器を使ってしまう上司の前では、話せば話すほど罪は蓄積されて、信頼関係は一向に蓄積されていかない。「いつかは分かってくれる」というゴールから逆に遠ざかっているのだ。
一応、部下にある程度の発言権が育ってくれば、「上司さんはチート武器ばっかり使ってズルいですよね!?」という形で糾弾をすることもできるようになる。
しかし、これも通用しない。
ズルいと言われた上司は、ムキになる。「じゃあ正々堂々と勝負をしようか?」と言う形で勝負を持ちかけてくるケースが多い。
そこで、「何を持って正々堂々とするか」は、上司の側が判定できてしまう。
部下の方が一方的に正しい状況の場合は、チート武器を使ってノーリスクで逃げることができるから、上司側に十分に勝ち目があるケースでしか、「正々堂々の勝負」はそもそも提案してこない。
こういう状況では、上司は部下を本気で負かそうとしてくる。
いつも通り部下を叩きのめせれば、それで完全に正義が証明できるのだから。
そんな状況でチート武器が使われない可能性は、はっきり言って皆無だ。その上司は普段から自分がズルをしているなんてことは認めていないので、いつも使っている武器はチート武器などではないのだから。
それに大前提として、そういう糾弾は、半年~一年単位で隙間を開けて、ここぞというときにしか使えない。相手の許容量以上に意見を述べてしまうと、またチート武器で倒されてしまうからだ。そもそも上司がそういう意見を聞き入れてくれる人間ならば、最初から苦労はしない。
実は、一回だけでいいのならば、上司を倒すこと自体はできる。
半年~一年の時間をかけて、不正の証拠を集め続ければいい。9:1ダイヤの戦いだと言っても、部下の側が5ゲージの無敵技を使えば、最低でも削りダメージは確実に与えることができるように。
上司が決定的なミスをさらした時、さらに上の上司が見ているとき、と言ったような、部下の側が勝つチャンスも、一年も待っていればひとつぐらいは見つかるはずだ。そこで集めたものを全部叩きつければ、大抵の場合で勝つことはできる。
しかし、戦いの発生自体、勝ち負けの判定自体を操作できてしまうのが、上司のチート武器の能力である。
仮に部下が勝ってしまったとしても、上司の方はその負けのポイントをゼロにすることすらできる。上司は仮に負けたとしても、明日から心を入れ替えて接する義務などないのだから。
2.部下の側が能動的にできる戦術
このように、「あきらめずに糾弾し続ける」というのは、姿勢としては正しくても、戦術としては正しくない。
部下の側が上司に対して出来る一番有効な戦術とは、とにかく死なないことである。
不利な戦いに勝つためにはどうしたらいいのか?と考えることが既にまずい。
9:1ダイヤのクソゲーなのだから、そもそも戦いなど始まっていないと考えるのが肝要である。
だから、部下の側がまず第一にやるべきことは、ダメージを減らして寿命を延ばすことである。
部下の側がチート武器を使う上司に対してダメージを取る手段は、基本的にハイリスクであるため、そもそも戦いを挑まないべきだ。
例え自分が武器を持っていたとしても、使用せずに徹底的に温存しておくべきだ。
上司との戦いからは、逃げ続けるべきである。ガン逃げを決め込むべきである。
ちょっとした会話でもチート武器を使われてしまうため、なるべく会話をしなくていいように、普段から立ち回るといい。
上司から逃げ続けると言っても、完全に逃げ切ることは仕事をしている以上は無理だろう。いつかは捕まってダメージを食ってしまう。
そういう時は、相手が望むような形でダウンすることを意識する。
一番ダメージが安い形で倒れておいて、その戦いから逃げることを目指そう。
反撃をすればカウンターを取られてさらにダメージが増えてしまうので、自分からは手を出してはいけない。こちらから技を振らない限りは、少なくともカウンターを取られることはない。
そうやって手を抜いていると、「何もしないのはダメ」「仕事が遅い」という形でチート武器が飛んでくることがあるが、直撃を食らうよりは寿命は幾分伸びる。
その上司が、部下を殺すことを絶対的な目的にしているような、故意のサディストである場合はちょっと無理だが、大抵の場合では上司の側にそんな気概はない。普段チート武器で胡坐をかいているようなやつに人を殺すような覚悟は生まれないし、仮にあったとしたら、その点をさらに上の上司に糾弾することができる。
3.部下の側の勝ち筋
このようにして上司から逃げ続けていても勝負にはならないが、そもそも勝負など最初から始まってはいない。
上司のチート武器に挑んでは打ちのめされる状況とは、信頼の蓄積速度がマイナスになっている状態である。戦えば戦うほど、ゴールから遠ざかっていく。
まずはこの状況を取りの解かなくてはならない。逃げ回っている限りは、少なくともマイナスにはならない。
こうやってマイナスをなくすことが部下の戦術の第一歩である。次はほんの少量でいいので、プラスを蓄積しよう。
部下の側としては、生き延びて仕事をしているだけでも少しはプラスになっている。
上司抜きで一人でできる仕事だって、いくらかはあるはずだ。そしてできるならば、なるべくほかの上司の下で仕事をするように仕向けるといい。
資格取得など、外部の機関で実力を蓄積することでも有利が取れる。
その途中で上司のチート武器も襲ってくるだろうが、粘り強く敗走を続けることで勝利が見えてくる。
このようにして、プラスマイナスゼロの状態でもいいので、年単位で生き延びてみよう。
すると次第に上司の側も飽きてくる。
次のターゲットが見つかるか、配置換えになるか等で、上司のチート武器の手も確実に緩んでくる。
そうなったときが、ようやく戦いの始まりである。自分が相手以上の権力を握れたら、その時は部下の側の勝利になる。
この戦いで、部下がチート上司に勝つことが出来た暁には、あなたの新しい部下にはもうそんな戦いはしないで済むようにしてあげてください。