「社会は嘘などついていない。いいね?」
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も。
どれもこれも、唾棄すべき現代社会の病である。
しかし、どれも理屈だけなら、いくらかは通っている。
先日の記事で述べたように、中学生レベルの理ならば確かに通っている。
先日の記事で、「理屈がすべて」だとは書いたが、正論だけですべての理屈がクリアーできるとは言っていない。正論以外にも通さなければならない「理屈」は存在する。
今日はそのことを書いてみようと思う。
目次:
1.嘘を正論として通す方法
ブラック企業や働かない政治家といった社会の大人たちは、嘘つきである。そんなことは中学生でもわかってしまうことだ。
しかし、こいつらは嘘つきではあるが、その嘘を正論として通す方法が存在している。
やり方は簡単だ。ゴリ押してしまえばいい。
また先日の胸糞記事を引用して例を挙げる。
この状況において、確かに妻は嘘をついていたのだが、妻は次のようなことを言って逃れている。
「私が嘘をついていた部分はジョークだからノーカウントだ」と。
「確かに買ってもいい。その分だけ借金は出来るがな」と。
こんなクソ論法でも一応筋は通っているわけだ。
確かにこのケースの場合、夫はジョークを言うことを禁じているわけではない。コートを買うことは要求していても、その予算を家計から盗むなとは言っていない。
コートを買ってあげるというのはもともと嘘だったわけだが、それを嘘にしないことは簡単だ。ジョークだとか誤解だとか言ってしまえば、なんだってセーフになるだろう。
聞いている側の理解力が高ければ高いほど、嘘でも正論として筋が通せてしまう。
2.唾棄すべき、「動かぬ正義」
記事の冒頭に書いた、唾棄すべき社会の病たちも、こういった手段を使って、嘘を正論として通している。例をいくつかまとめてみた。
「だってその方が儲かるし経営者は楽しいしお前らだって働くじゃん」
「ルール違反であっても労基に見つかって処分されるまでは続けるもんね」
仕事をしない政治家:
「選挙に勝ったのは俺だし勝たせたのはお前らだもん。任期があるうちは好き放題やるよ」
「選挙というシステムは悪いかもしれないけど、俺自身は何一つ悪くないもん」
不公平なマスコミ:
「テレビを買って視聴してくれてるのはお前らだろう。放映権だって持っている」
他人を踏みつける田舎者:
「なぜか地元警官と仲がいいから放火しても事件にならないなー(棒)」
「都会から来た医者が自分の病気よりも憎らしいから苛め抜いて自殺させてやるわ!」
子供を踏みつけるサイコ教師:
「生徒が数人鬱になったり人生狂ったりしたところで、私は痛くないもん」
「俺は社会経験もないし大学出ただけだから正しい勉強を教えるのは無理でしたー」
これでチェックメイトである。
お分かりいただけただろうか。すべては筋が通っている。
その正論が成り立っているからこそ、この社会から叩き出せないわけであって。
繰り返す。どんなに悪いことをしても、正論で勝つだけならばマジで簡単だ。
奴らは自分に危機が迫ると、自然にこういう手段を選択する。意固地になるまでもない。
3.「信頼」という、次の話
例えば、小学生がやるような、
「正解したらお金あげるよ」→「(金を持ち上げて)ハイ上げた」
というのも、筋自体は通っているわけだ。聞いている側が勘違いしていただけだという結論も、一応成り立つわけだ。
だが実際にこういった戦法が許されない理由は、一度これをやってしまうと、もう二度と信頼されなくなるからだ。
今後、この小学生が「お金をあげる」と言っても信頼されなくなるからだ。また逆に、同じ論法を使われることで、「お金をもらうこと」もできなくなるからだ。
だからこそ、「(金を持ち上げて)ハイ上げた」というのは、小学生レベルの戯言である。
理屈自体は通っていても、その理屈だけでは後のことが一切クリアできなくなる。
正論で勝つだけでは済まない話がそこにはある。
「理屈こそがすべてなんだから、信頼なんて精神論は知ったことではない」という反論も出てくるだろうが、それはほとんどの場合で成り立たない。
なぜなら、「自分が信頼によって許されている場面」をすでに多く抱えているからだ。
これも、先日の記事の、中二病で例えると分かりやすい。
ナイフを持って殺傷能力を手に入れた中学生だとしても、昨日までママに作ってもらった飯を食って育っていて、ママに買ってもらった洋服を今日まで着ているわけだ。
すでに借金まみれだから、ちょっと「正論」で黒字になったぐらいでは勝てていない。
信頼とはただの心情だけの問題ではない。人と人が共同して活動する以上は、正論と同じぐらい必要であり、すでに使っているものだ。
確かに、正義は正論によって作られているが、自分の手の届かないところは信頼で補わなければいけない。全部のことができていないならば、そういう責任は負わなくてはいけない。
論理と信頼は表裏一体であり、論理を通すならば信頼は失われる。信頼ばかりを通していると論理は破たんする。
今回のコートの話も、正論で勝つだけならば簡単な話であった。しかしそうやってゴリ押した場合は、その分だけ信頼が失われる。今回の件ならば、たったの75000円の案件で一発離婚すらあり得るほど信頼が失われた。ただ、稼ぎの違いと子供の存在でなんとか生き延びることができただけの話で。
4.正論をゴリ押す罪
「その相手には信頼されなくていい」と思うならば、嘘はついてもいい。
ブラック企業やマスコミたちは、嘘をついた方が得だという判断がついたうえで、なおかつ支払えるだけの信頼を十分に持っているから、嘘をゴリ押すという選択が取れている。
clacff.hatenablog.comこの記事で述べた、「会社の上司は何をやっても許される」という事例のように、そもそも有利な立場が固まっているなら何をどうやっても勝つことができる。
信頼というコストを支払ってくれるならば、嘘をつかれても別にかまわない。
嘘をつかれる側としても、相手が信頼できないとわかっていれば、嘘をつくことに事前の覚悟・対処ができる。
しかし、嘘をついておきながら信頼も要求するのは完全に筋が通らない。
ブラック企業をはじめとした社会のゴミ共が、本当に筋が通っていないのはそこのところだ。
ブラック企業もマスコミも会社の上司も、「自分が嘘をついた」なんてことは絶対に認めない。「仕方ない事情で嘘をつくけどごめんなさい」なんて伺いも立ててこない。
いつだって、嘘をついているのに「俺は嘘などついてない。そうだろう?」と脅しをかけてくる。
立場と権力に物を言わせて、理屈の上でも負けたことにされる。
先述したように、そもそも「正論で勝つだけならばマジで簡単」という前提があるが、その自分が勝てる世界から永久に出てこない。
ちゃんと自分の欲望を正直に話しているという点で、「ムカついたから殺す!」と暴れる通り魔のほうが、まだ誠実である。
現代の社会における正義は、エラーが起きていてコンパイルが出来ていないプログラムのようなものだ。
「バグ」ならば残ったままでも動くかもしれないが、「エラー」が起きているということは、それをすべて取り除くまでは動いていないことを意味する。
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も、会社の上司も。
自分が嘘をついているくせに、「嘘をついていない」という大義名分を要求する。支払うべき信頼を踏み倒している。
こんな嘘をつくゴミが一人でも息をしている以上は、社会というプログラムは正義に向かって歩み始めることができない。
むしろ逆に、「俺が死ぬまで楽しく生きれれば正義などいらない」という思想で、現代の社会は動かされている。