「断捨離」の楽しみ方ガイド
もう、こう定義したほうが話が早い。
断捨離とは、レジャーだ。
捨ててもったいない、捨てられてかわいそう、ではない。
捨てて楽しい!捨てて面白い!である。
いいレストランで食事をしておしゃべりをして、心と食欲を満たすのと同じだ。
金を持って店に入った以上、「家畜さんと植物さんが殺されてかわいそう」なんて考える方が的外れなのだ。
断捨離というレジャーを紹介してみんなで楽しむために、こういうテレビ番組が作られる。
手段はゲスであっても動機は純粋で曇りない。
とても楽しいレジャーだから、他人にお勧めしたくなる気持ちが生まれる。
そういう心が広まった結果、断捨離という言葉はここまで流行して、(一見すれば)不幸な事故がたくさん起こったのだろう。
繰り返す。
断捨離とはレジャーである。ライフハックではない。
断捨離が、自分や家族の現状を良くするための手段だと思っているなら考え直した方がいい。
断捨離とは、ある意味無駄なコストを払って、一時の感情を楽しむためものである。
今日は断捨離というレジャーの楽しみ方を紹介しようと思う。
目次:
1. お手軽に断捨離気分を体験できる方法
テレビゲームをプレイする人は、断捨離の楽しさを疑似的に体験できるいい方法がある。
自分が昔クリアした、(できればオンラインでない)RPGかシミュレーションのセーブデータをロードしてみよう。
そしてそのデータの、アイテム・装備・自軍ユニット等をすべて売り払ってみよう。
・どれぐらいのお金になるんだろう?カンストするかな?
・ラグナロクって売れるんだwww結構高いwww
・かたみのゆびわ1ギルかよwww
そういう遊びをやってみたことがあるが、結構楽しい。クリア後にやる遊びとしてはお勧めだ。
装備もアイテムも全部なくなった状態で、もう一度ラスダンに挑むのもまた面白い。
一通り楽しんだら、セーブデータを上書きしないようにして電源を切ればいい。
これで、断捨離というレジャーを疑似体験することができる。
2. 脳に生じている作用
断捨離というレジャーを実行すると、事情はどうあれ結果的には手元から持ち物がなくなる。
部屋が片付いて、なにかすごいことをした気分になれる。
普段行き詰っている家事を一気に解決できるような期待感に胸を膨らませることができる。
自分の持ち物を失ってしまうというリスクを背負うこと自体も高揚感を生み出すための大事なスパイスだが、捨てたいけど捨てるのはつらい。そういうジレンマはなんとかしないといけない。
そこで、間を取って「家族のものを捨てる」というとても手頃な選択肢を取ってしまう。
断捨離で不幸な事故が起こるときは9割以上は家庭内の話である。
自分の物じゃないけどよく知っている物。
普段から片付けないといけないと思っている物。
失うことのダメージは小さく、整理した時のメリットは大きい。
だから、旦那や子供の持ち物を捨てればいい!とひらめいてしまう。
そんな都合のいい答えが、主婦の目の前に転がっている。
こういった判断をするまでにはそれなりの葛藤や罪悪感はあったのだろう。
もし最初から全く無かったら本当にサイコパスだ。
その罪悪感は、断捨離という「流行ってみんなが使っている言葉」が消してくれる。
みんながやっているから正しい、という免罪符。
頭を使って考えることはコストであり、言葉にだけ従えば頭は使わないで済む。
別に、「なるべく無駄なことを考えないようにする」という原理自体は、文系の学問においてですら正しい原理だ。
思考停止を求めること自体は間違っていない。
このレジャーをやると決めたのならば、もうそれを貫き通した方がいい。
3. 価値を考えてはいけない
断捨離とは、レジャーである。
捨てること自体を楽しむレジャーである。
それ以外の正義は存在してはならない。
これを捨てればあれができるようになる!なんて考えて断捨離しちゃいけないし、これを売り払えばこれだけの価値があるかも!なんてことも考えてはならない。
togetter.com物を捨てること自体が楽しくて価値があるので、物自体の金銭的価値などは二の次である。
だから何度でも言うが、もし断捨離をされたくない側に立っているなら、「価値があるから捨てちゃダメだ!」と主張する戦法は絶対にダメだ。
もしそのガラクタに、価値があるということが分かってしまったら、もっと地獄であるからだ。
・なんでそんな何万円もするものを寝かせてるの?使わなきゃ意味ないでしょ?
・全部合わせてもせいぜい~万円じゃない。捨てましょう!
・今までそんな無駄遣いをしてきたなんて!これからのためにも卒業しなきゃ!
こんな即死魔法が連続して飛んでくるようになる。
大体、今日日ネットでオークションをあたれば普通のお宝なんて数千円で片が付くケースがほとんどだ。激レアものであっても普通に所有できるものなら5万もあれば大抵は買えてしまう。
数万~十万円程度である。あなたが今まで収集してきたお宝の総額は。
普段旅行や被服に使っている値段と大して変わらないわけだ。
「これ全部処分してみんなで海外旅行しましょう!その方がいいでしょ?」とか言われたらもう回避不能である。
それほどまでに「価値があるから捨てちゃダメだ!」という戦法はリスクが高い。
なお、当然のことながら「勝手に断捨離するな!お前のも捨ててやろうか!!」という戦法はもっとダメだ。
断捨離という暴挙を止めるためには、ちゃんと話し合って日常の楽しみや快適さを地道に整備する以外の道は無い。
「10日かかります」「お前ならできる、5日でやれ!」
社会人はいつも納期というものに追われる。
「この仕事をいつまでに完成させる」という約束のことだ。
学生の頃にはあまり馴染みのなかった概念だが、社会人になるとマジでこればっかりになる。
仕事の質よりも納期のほうが優先的な事項である。なぜならば、締め切りを過ぎてしまったものはどんなに優れたもので世に出すことができないのだから。
世に出せるぎりぎりの範囲というものが、締め切りという言葉の意味である。
手塚治虫は、そんな状況でも納期より仕事の質の方を優先させた。数々の反則技を使ってまで。
だから神のように偉い、といった内容がこの本に書いてある。
今日は、この納期に関する反則技のことを書いてみようと思う。
仕事を発注する側がやる反則技についてだ。
目次:
1. いつかは言ってみたいこんなセリフ
納期というものはもちろん当事者同士が話し合って決めるものである。
だから例えば、仕事を受ける方にも「この仕事には10日くれ!」と要求する権利はあるわけだ。
それに対して、仕事を出す側が「お前ならできる、5日でやれ!」ということがある。
これが、今回取り扱う反則技だ。
このセリフは映画やドラマみたいでかっこいいから使ってしまう人がいるが、本来は相当の用意が無ければ使ってはいけないセリフだ。
例えば、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部で、ブチャラティがこの発言をしているシーン。
このシーンでは、ブチャラティは相当の準備をクリアしたうえでこの反則技を使っている。
ブチャラティとアバッキオだからこそ成り立ったシーンであり、日本のなんでもないサラリーマンみたいな人間が真似をすると確実に痛い目をみる。
こういうシーンは、当の指揮官にとってはとても魅力的である。
「的確で情熱のある指揮」と「能力を信頼した仲間」が力を合わせて、数値以上のスペックを出して困難を乗り越えれてしまうのだから。
これ以上ないぐらいの信頼関係が生まれるだろうし、「ほら俺の言った通りだろう」という究極のマウンティングもできる。
だからこそ、欲を出して判断を誤ってしまう。
2. あらかじめ用意できてないといけないこと
以下に、この戦法を使う際に必要な条件を記す。
・その1「削る時間に納得できるような妥当性があること」
例えば「10日かかる」と言われて「5日でやれ」という場合、どうやって5日間削れるかを説明できないといけない。
「いつもの二倍気合を入れれば半分で終わるだろ?」みたいな根性論では決して通らない。
(先の画像のブチャラティは実はここが少し弱いのだが、スタンドは精神力で動くものだから…)
もちろん、仕事を受ける側も適当に「10日」といったわけではないので、これをクリアするのが一番難しい。
互いの仕事を熟知して、相手の仕事を尊敬することが前提条件である。
「こういう状況を加味すれば10日と言っておいた方がいいな」といったような条件を含ませている場合で、その状況をどう加味するか?という交渉をすることの方が実際には多い。
納期の短縮とは、根性やお願いではなく、交渉である。
・その2「ミスった場合に責めないこと」
仕事を受ける側は、何か特別な手法を使えば5日でできるかもしれないとしよう。
その特別な手法を使っていいかどうかの交渉もクリアしたとしよう。
でも、まだ壁が残っている。その特別な手法は失敗する可能性があるからだ。
安全に成功できるのだったら、交渉が終わった時点で「じゃあ5日で出来る」というに決まっている。
失敗した場合に、「5日で出来るって言っただろう?」という後出しをしないという保証が必要である。
こういった信頼関係があって初めて、「わからないけどやってみる!」という言葉を引き出すことができる。
やったけど間に合わなかった、やったけど雑だった、やったけどほかのことを犠牲にした。いろんなパターンがあるが、すべての場合で無条件で許さないといけない。
そして仕事を出した側は、「5日で出来るかもしれない」という不確実な情報で動くリスクを背負わないといけない。
それを背負う気概があって初めて「お前ならできる!5日でやれ!」という戦法を使うことができる。
3. 圧力で押し通した場合の不幸な未来
すなわち、仕事を受ける側と出す側の間に、相当の信頼関係が無ければならない。
互いの仕事を理解して尊敬しあうこと。
失敗した場合の処遇を保証すること。
最低でもこれだけのことができていなければいけない。
しかし信頼関係が無くても、圧力や恫喝を使って「10日を5日にしろ」ということはもちろん簡単である。
現実には、漫画や映画と違ってこの方式でやらされているケースのほうがずっと多い…
圧力を使ってこの戦法を実行してしまった場合は、最終的には仕事を発注する側に不幸が起こる。
最初の交渉の段階で、仕事を受ける側が隠し事をするようになる。
なぜならば、恫喝だけで動かせられているのなら、「5日で出来るって言っただろう?」というリスクを一方的に背負うだけだからだ。
最初から「断固10日かかります」と言い張ったほうが得に決まっているからだ。
こうやって開き直られてしまうと、不利なのは仕事を出す側である。
最初の交渉がまともに機能しなくなるからだ。
「この仕事には10日かかります」
「今回は簡単でいいし余裕も見なくていいよ。5日で出来ない?」
「知ったことではありません。10日かかります」
という対応をされるようになる。
ここで仕事を出す側は、「こうやれば10日もかからないで済むだろう」ということを立証しないといけないが、隠し事合戦になった場合に有利なのは仕事を受ける側の方だ。
水掛け論にしてしまえば「10日かかる」ということを押し通すことができる。
さらに極論すれば、
「この仕事には100日かかります。( ゚д゚)、ペッ」
とか言い張ってしまうことも可能になってしまう。
そしてなんで100日もかかるのかと言われたら、その理由は「仕事を出す側の対応がクソだから」と言われてしまう。これはとても痛い。
もちろんここまでやられたら仕事を頼む先を変えるという選択肢もあるが、いつでも変更ができるわけでもないし、自分が必ずお客様の立場にいるとも限らない。
こうして仕事を出す側は、本来の納期以上の余裕をとって仕事を進めないといけなくなる。
全ての工程において誰も彼もが余裕を含ませるので、最終的な納期はずっと遅くなってしまう。
納期に限らず、無理なものは無理と主張しないと、このような世界が来てしまう。
新卒大学生が「何の技能も持っていない」ことを正当化できちゃう論理
6月は、2018年3月卒業の大学生が就職活動で面接を始める時期らしい。
このように、就職活動のスケジュールというものは毎年変わる。
経団連と大学が、採用業務の都合と学業の都合を話し合って、このような形に決定されるらしい。
内々定とかいうクソみたいな子供だましワードを消し去ってから物事をほざいて欲しいと心から感じるが、とりあえず現在のところはこのスケジュールに従って、大学生たちがブッ殺されたり生き延びたりしている。
日本の新卒就職活動にはクソで不可解な点がいくつかある。
そのなかで一番最初に出てくるのが、「なんで新卒の大学生なのか」という話題だと思う。
二十歳を超えていてそんなに若いわけでもない。
何か専門的な業務ができるわけでもない。
アルバイトも勉強も片手間であり、サークルで遊んできたモラトリアム大学生達だ。
なぜ企業はこういう人間をこぞって欲しがるのだろうか。
処女信仰とかシステムの問題とか、いろいろ説明できる理論はあるが、当時就職活動をしていた自分はそれにどうも納得ができないでいた。
「自分って冷静に考えれば何もできないよなぁ だからブランドで誤魔化して勝つしかないんだよなぁ」と、そういう負い目を感じながら就職活動をしていた。
こんな心情で戦っている大学生は多いと思う。
今の自分だったら、それに対する説明ができる気がするので、書いてみる。
目次:
1.解答解説
「俺はやればできる。今は本気を出していないだけ。」というグータラ人間定番の心理があるが、これが答えだ。
つまり企業は、「やればできる人間」こそが欲しい。
新卒大学生を採用して働かせ続けることには、何億円ものコストがかかる。
しかし会社としては、アルバイトや派遣社員ばかりで社員を構成するわけにもいかない。
長期的に忠誠をもって在籍してくれて、いろんな仕事をやらせれる社員というものがどうしても必要だからだ。
大学生たちは、その椅子を奪い合って戦っているわけだ。
新卒の学生は長く雇うので、一つの業務ではなく色んな業務をやらせたい。
しかし何年も何十年も雇うので、どういう仕事をやらせることになるかは会社の側もわからない。
だから、「いろんなことに対応できる能力」を持った者が欲しい。
逆に極論を言えば、今会社の業務に必要な技術を持っている者は、新卒採用では要らない。
特定の業務ならば別の企業にアウトソージングでもしたほうがいいからだ。
新人を追加してでもやらなきゃいけないような差し迫った業務を、新卒大学生にやらせるのはコスト的に損だからだ。
2.(ポケモンで言えばメタモン)
ここまで考えたところで冷静に見てみると、「今までモラトリアムをやってきた大学生」という存在は、実はとても魅力的で最適な人材であるということがいえる。
難しい受験勉強を突破して、大学で様々な教養を無駄に齧りながら、なおかつ遊び過ぎずにちゃんと卒業をした者。
なんか研究とかをやってたみたいだけど、それが業務の直接の役に立つことはまずない。
年齢は若くなくて、役に立つ技能を何一つ持っていないクソ大学生である。
多くのことをやってきた割には、何一つ成し遂げていないクソ大学生である。
「俺はやればできるんだ」という、ニートみたいなステータス異常を、最後まで維持させてきた存在が新卒大学生だ。
それこそが企業が求めるものである。
科学において暗記が無価値であるように、「いつでも参照取得できる」という理想の状態を大学の無駄な四年間で鍛え上げてきた存在だ。
だから新卒大学生は、やれてなくてもいい。無垢なままでいい。
逆に、「俺は何もできない」という状況を本気で理解して危惧した者ならば、実際に企業で役に立つ技術を学んで、高卒や専門卒で就職をしている。
例えば、高卒のたたき上げの技術者が「お前が今までやってきたことなんてどうでもいいから新しいこと学んで」とか言われたら、多分ほとんどはついてこれないだろう。
そういう仕事をやるのが新卒大学生である。
高卒と新卒大学生のどちらが優れているのかはよくわからない。
「単機能の電卓」と「HDDが空のパソコン」のどっちが役に立つだろうかという話だ。
会社の需要としては両方ある。
3.企業側が乗り越えるべき心理
本当に取りたい新卒大学生には、能力など要らない。
「これはできないから別の方法を考えよう!」という発想能力も要らない。
「俺は何もできない」という状態こそに価値があり、何かをできてしまうことは自らの存在に矛盾しているからだ。
また、アイディアを出す仕事は偉い人たちが自分でやりたいに決まっているからだ。
しかしこういった要求は、実は企業の側でも本気で理解している人は多くない。
心の底では「HDDが空のパソコン」欲しいくせに、面接の上では「何かすぐ使える能力は持っていないの? ア~ン??」といったことを言ってしまう。
新卒大学生の採用については、今回自分が述べている以外の理論や動機もあるのだろう。
それぞれが自分の理論を胸に抱えていて、社内でも共有が取れていない。
「何もできないクソ大学生になんで高い給料を払わないといけないんだ」というテーマを、会社の側が考えて理解しないといけない。
心情的にはとても認められないことなのは間違いないが、ここを乗り越えないと多分正しい採用活動はできないのだと思う。
卒業式を「練習する」とか「成功させる」とか。
この記事を読んだ。
自分が小学生だったころを思い出してみたが、卒業式に代表されるような「感謝や感動を強要させる行事」には、やっぱり納得はしていなかった。
問題点は二つあると思う。
一つは、何十人も何百人もいる児童の、心や家庭環境が全部同様なものだとして一緒くたに扱われること。
人それぞれ内面は違うに決まっているのに、「大人が考える理想形」のみが押し付けられること。
もう一つは、人の心がどうこうできると思っていることそれ自体だ。
到底無理だということは分かり切っているくせに、それでも大人が立場や権力を使って無理やり行っている。
卒業式を、「練習する」とか。「成功させる」とか。
当時の自分は、この言葉の意味が分かっていなかった。
というか今でも分かっていないのだが、無理やり説明することはできる。
目次:
1. おぞましきポルノショー
件の記事では、1/2成人式なる行事を話題に上げている。
自分が子供のころも、似たような行事はあった。
ほかにも同じような行事として、卒業式や学芸会などが挙げられる。
運動会での危険な組体操なんかも、結局はこういう例に分類されるだろう。
なんでこんなことをやらないといけないのか。
当時の自分は分からなかったが、今ならもうとっくに知っている。
大人がクソだったおかげで、理解することができた。
つまり、「感動」が、要求されている。
「いいからとにかく鬱憤がたまっている保護者と教育者を楽しませろよ」という要求である。
そしてそれは、本質的には「勃起してぇから服脱げよwww」という要求と何一つ変わりはしない。
本来ならば、安全に隔離された密室と高額の報酬を用意してお願いしないといけないようなことである。
しかし大人は子供に対して、平気でこういうことを要求する。学校に通っている者には区別なく全員にだ。
2. 行使されるのは大人の都合
冒頭に挙げた問題点その1として、「大人が心と向き合う仕事をサボっている」というものがある。
心をケアする専門の教員は用意できない、という事情を述べるが、「じゃあ仕方ないね」という結論を出しているのは大人達の方だ。
「こんなことやってなんになるの?」ってことぐらいは小学生でも言う。
感動を要求する行為は、何の根拠もない一時の鬱憤晴らしである。
こんな無意味な行為だからこそ、大人側に事情があれば簡単に反故にされたり後回しにされたりする。
例えば、どの学校でも卒業式は「感動」させるが、入学式は「感動」させない。
入学式も卒業式と同じように感動ができると思うが、なぜだかスルーされている。
これの答えは簡単で、入学式ではクラスのみんなはまだ知らない人たちばかりで、
「練習」というイベントが成り立たないからだ。
みんなで苦労して理不尽に耐える、という必須の儀式を行う時間の余裕がないからだ。
他にも、小学校では「1/2成人式」といった行事で「感動」を要求するが、20歳になったときの本物の成人式では「感動」は要求されないことだ。
成人式は同窓会みたいなもので、親なんて普通は見に来ない。市長の眠たい話を聞いたらあとは飲み会である。
本来は、1/2成人式なんかより、20歳の成人式のときのほうが感動させるべきだと考える。
しかし、これも練習の時間などが取れないし、なにより教師の方も何年も会っていない教え子たちなので、統率が取れないから。そういった事情があるから、反故にされている。
3.大人たちの的外れな慎重さ
こういった事情を、大人たちは巧妙に隠して、子供たちに強要する。
本当はさっさと子供の裸を見ることしか考えていない。
しかし口では「体に悪い菌がついているかもしれない!検査をするから服を脱いでくれ、早く!」みたいなことを言って誤魔化している。
こんな下手な言い訳を信じるのは仕込みのAV女優ぐらいだが、何割かの小学生はこれを信じてしまう。
例えば大人達は、絶対に「演出」という言葉は口にしない。
先の記事では普通に「演出」という言葉が出てきているが、これは大人の側が読む新聞記事だから出てきているのであって、彼らは子供の前では絶対に「演出」という言葉は口にしない。
なぜならば、出した瞬間にリアリティ(笑)が崩れ去るからだ。
教師はエンターテイナーであり、そういうところにはかなり強い誇りを持っているからだ。
例え子供のほうが「先生、こんなの茶番じゃね?」と言ってきても、殴り返して熱い言葉で黙らせる技術と歴史を持っているからだ。
そのショーを観る保護者達もまた、観客としてはプロである。
どうみても茶番であることなんてとっくにわかっているが、それを心に封印してポルノショーを楽しんでいる。むしろ茶番を必死に頑張る子供カワイイ!という方向に進化している。
そして、「これ茶番じゃね?」と気付いた子供を、見つけて叩き直すことが教育者の仕事である。こういった不穏分子を排除強制してこそ、真のエンターテイメントが実現するから。
現実を見て斜めに構えることや、自分の意見ばかりを言って大人の意見を聞かないことを、中二病だとして馬鹿にしている。
怒って泣き出した子供を体育館の外に連れ出し、罵倒とビンタとなんか耳障りのいい言葉を駆使して、「更生」させる。
心をケアする専門の教員が用意できない、というのがそもそもの発端だったような気がするが、なんてことはない。すでにプロが山ほどいる。
心を治療する医者ではなく、悪い心を切除する処刑人が。
4. 有効に動けないのなら大事にするしかないじゃない?
「結局感動ポルノじゃないか!」という結論は動かないが、大人がこの手の倫理的な矛盾を説明する手段はある。
例えば、「人間とは感情すらも教育されないと理解できない生き物だから、いろいろな心の経験を積ませてあげているんだ!」という論法である。
小中学生は“未”人間であり心さえも我々が動かしてやらないといけない!という主張だって出来る。そして、いくらかはそれで正しい部分も含まれているのだろう。
しかし、そうやって創造主を気取ると、冒頭に上げた問題点その1が浮上してくる。
今の大人たちには、一度に何十人もの心をミスなく組上げることなんて到底できないのだ。
既に手抜きとどんぶり勘定が横行しまくっている。
心とは、自由で神聖で、精密だ。
それは大人にとってだけではなく、子供にとってももちろんそうだ。
だからこそ、「心だけは誰にも奪えない」という結論を採用せざるを得ないと考える。
漫画やアニメやゲームだけでなく、映画や文学や美術でも、人間を描いた創作物では大抵こういったことが謳われている。それぐらい基本的なことなんだ。
心は、強制しても統治することはできない。
体は従っても心は従わない、ということ自体は簡単にできてしまうから。
卒業式の練習とか1/2成人式にムカついている人間が大勢いるように。
だからこそ、憲法で信条の自由が保障されているわけで。
どうせ社会は茶番でできているのだから、茶番に適応できるようにならないと生き残れないぞ、というもっと恐ろしい結論にすることもできないではない。
【不倶戴天】無知と差別とトリックスター
本日、この記事が炎上していました。
インターネットの世界には、どの分野でも「詳しいオタク」がたくさんいる。
なぜならば、インターネットの言論には、(現実世界の)立場や権力が弱くても自由に参加ができるからだ。
むしろ必要になるものといえばパソコンのことを理解する技術力であり、インターネットの文化はオタクが最初に作り出したものだからだ。
そんなことを、以前このブログに書いた。
圧倒的な知識と経験を持ったおじさんが、無知でうかつな者を叩き壊す風景。
おじさんは、古来より「神」「解析班」「モヒカン」「~警察」など、実に様々な呼び方がされてきた。
なぜなら、ネット文化のあらゆる場所・時代において、おじさんはその影響力を行使していたからだ。
今日は、この記事特有の巧妙さと、おじさんたちの怒りの感情を解説してみる。
目次:
1. 今回の炎上記事の特徴
まず、今回炎上している「詳報:トヨタが頼った謎のAI半導体メーカー」はなかなか面白い事例だと思う。
今回の炎上は、「叩く難易度が非常に低い」というのが特徴だと思う。
Twitterやあらゆるコメント欄で言われているように、自分でパソコンを所有して、ゲームや動画などを見る者ならば簡単にたどり着ける知識であるからだ。
こんな簡単な条件だから、多くの者がクリアできる。
また、PCでゲームをやったり動画を扱ったりする者、すなわち現代の若者の割と大多数にとっては、グラボの性能というのは愛車の排気量と同じようなものだから。
「格」がつくものであり、誇りを持つものだから。
こんな簡単で重大なことだから、誰でも叩きたくなる。
この手の「叩く難易度が非常に低い」案件で、過去の事例はこんなところが思いつく。
いくつかを引用する。
「神いわゆるゴッド」が当時笑われたのも根底が同じような気がする。
マスコミや知識人のような、「社会的地位が高そうな人間」がしたり顔で隙があることを発言して、なおかつそれがお茶の間で称賛される(ような状況が存在する)のが、我慢ならないのだと思う。
2.記者の類まれなる技術力
一応この記事を書いた記者は、現在炎上している通り、「本当に知らない可能性」は無いでもない。
そして、こんなことも知らないような奴に経済誌の記事を書いて欲しくない、という理論は成り立つ。
www.huffingtonpost.jpNVIDIAによると、この記事の記者はNVIDIAのことについてよく知ってはいたらしい。すなわち、この記事はタイトルの過激さで客を寄せようと目論んだ、釣り記事である。
その前提で中身を読んでみると、この記事がいかに高度なのかが思い知らされる。
この記者は、確かに無知ではない。
そうじゃなければこんなにキモい文章は絶対に書けない。
特に5ページ目がアツい。「クルマを司るAIは“3人”いる」なんて、まるで高校一年生男子が挑む朗読大会のような、文系が考えるかっこいい理系を見事に体現している。
タイトルで釣るだけでは決して終わらせず、中身でも楽しませてくれる非常に高品質な記事である。
記者の経歴を見ても、「本当に知らない可能性」なんてものはおそらく皆無である。
しかし、この記者がそれを釈明せずに、経歴だけをチラつかせて牽制を続けるならば、こんなことも知らないような奴は経済誌の記事を書くな!という罵倒は成り立つ。
注目を集めたところで、憎しみも集まるのでは意味がないと思うが、これが炎上芸というやつなのだろう。以前の記事で書いたように、信じる馬鹿が多ければ多いほどこういう戦法は有効になってしまうのだろう。
3.愛とか心とか、今まで何度も聞いているはず。
無知は差別を生む。
インターネットの言論で戦っている者の多くは、リアルの世界での立場や権力を持たない者である。こういう人種は、差別や迫害に弱い。
だから、今回のような無知を装って炎上させようという記事に、怒っている。
数にものを言わせて仕返ししてやる、指をさして笑ってやる、という悪意が渦巻いている。
そうやって戦いの歴史は紡がれていくが、その背景には「こういうオタクを馬鹿にする記事こそが大衆にウケる」という人口比率があったから、こんなおぞましい記事が生み出されたのだろう。
多分、オタクはもっとその知識を広めないといけないのだと思う。
無知は差別を生むのだから、その技術を教えて仲間にしてしまえば、差別は減るのだと思う。
・パソコンに詳しいとこんな面白いゲームがプレイできるよ!
・ネット文化に詳しいとこんな面白い会話ができるよ!
普段馬鹿にしている一般人と、こういう交流をやってこなかったツケが来ているのではないだろうか。
確かにオタクの文化はだいぶ大きな市場になってきたが、まだそれだけでは精神の融和が追い付いていないから、今回のような「馬鹿の数に期待した戦法」が通ってしまったんじゃないだろうか。
オタクじみた精神がいつまでたっても抜けていない。
笑うより先にやらなければいけないことがある。
社会には、愛がなければ勝てない。
そう考える。
チャーハンで分かる、専門分野のマウンティング合戦のこと
なぜ人はマウンティングをしたがるのだろうか。
元をたどれば自然界でサルとかゴリラとかがやっている行為であり、人間の社会性にもその本能が残っているから。
古い日記を見つけたが、ここの解説が詳しかった。
しかし、サルやゴリラとは違って、人間は地位や持ち物ではマウンティングはあまりしていないように見える。そのあたりは、獣から少しは進化をしているのだろう。
人間は主に、自らの能力の多寡を使ってマウンティングをする。
議論と理性という武器を取らなくては、人類社会には未来は無いと思うので、今日はその心理について書く。
目次:
1. 心の生存競争
なぜ人はマウンティングをするのに能力の多寡を使うのだろうか。
結論だけを先に言うと、「誇りで殴るのは最高に楽しいから」だ。
相手が持っている一番大切なものを叩き壊す最高の攻撃であるからだ。
自らの誇りに「相手をぶっ殺した!偉い!」という勲章をつけることができるからだ。
人間が一つのデスクトップパソコンだと例えた場合。
心とは、ソフトやハードなどではなく、それらを動かすための電力を意味する。
電力がなければ人体は一歩も動くことはできないし、適切なものを絶えず供給し続けなければならない。
そんな大切な心に、ダイレクトダメージを与えることができる。そして自分の心はその成果を独り占めできる。誇りを使った殴り合いは、こんなハイリターンであるからだ。
2. 武器は戦いを引き寄せる
そういうわけで、何としてでもこの誇りを使った殴り合いに参加しなくてはならないわけだが、じゃあ自分がどんな誇りを持っているのか?というのを考えるときに、わかりやすい例がある。
以前、チャーハンの作り方に関する記事を書いた。
チャーハンというのは、低コストで効率よくカロリーを摂取できる利便性が高い手段であるため、特に一人暮らしで自炊をする者には、よく使用される技術である。
言ってしまえば、チャーハンを作る能力というのは、社会不適合者の糞ニートであっても手に入れることができる誇りである。
だからこそ、インターネットの社会においては、この誇りを使った殴り合いが頻繁に起こる。
テロリストがAKばっかり使うという事例によく似ている。
すなわち、戦いをしたくてしかたない者たちが、手に入れやすくて使いやすい環境が揃ってしまっている。
糞ニートはチャーハンの作り方ぐらいしかマウンティングできるような誇りは持っていないが、仕事や学校で別途能力を身につけた者たちは違う。
AKなんかよりもっと上等な武器を使って戦争をしている。
最たるものが、「プログラミングの能力」であると思う。
インターネットの世界では、情報工学の分野で、チャーハンの作り方と同じぐらい醜い争いがより大規模にハイレベルに行われている。
例えばこのようなもの。
以前自分が記事で書いたような、「正しさハラスメント」とか「なんでもいいからナンバーワンになれ」とか、そういう争いに夢中になっている人種だ。こればっかりは文系より理系のほうがクソだと思う。
3. 争いの先を見据える義務
チャーハンの作り方にせよプログラミング技術にせよ、不幸な人生では、それしかマウンティング合戦に使えるような誇りがなかったのだろう。
マウンティングをしないと落ち着けないというのは、野蛮で幼稚な精神だと断ずることもまたできない。
すでにここは、見栄を張らないと本当に殺されてしまうぐらいの修羅の国だから。
だが、能力でマウンティングをしようといっても、ほとんどの場合で能力とは定量化ができない不安定なものである。
人間は、こんな不安定なものを使って勝った負けたを繰り返している。
体の大きさとか子分の頭数とか、そういう目に見えるものでマウンティングをしているだけ、サルやゴリラのほうがまだマシなのかもしれない。
能力は、たとえあったとしても定量化ができない。
その能力を使って価値を持ってこられるかどうかは、いつも別問題なんだ。
例え最高のチャーハンが作れる能力があったとしても、それだけでは単に自慢ができるだけである。
それで自分や他人の腹をどれだけ効率的に満たすことができるのか?
どんな店を開いてどれだけの利益を上げることができるのか?
能力が持った者が本当に考えなければならないのはこういうことだ。
能力を持った者なら、普段もっと高度な技術的な会話をしているのだから、答えなんてすぐに出るはずだ。
マウンティングなんかよりもさっさと次のことを考えなければならない。
クロコダインが言っていたこのセリフはこういう意味だと思う。
おじさんたちが口を酸っぱくして押し付けるルール
問題です。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」。
このルール、イエスかノーか。
・答えはイエス!
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
このように理解している者が大多数だと思う。
何年か前にこんなニュースがあったけど、ここでもそうだった。
でも、この「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、冷静に考えてみればだいぶ怪しいところがある。
というより、歴史を辿ってみても、これは銃を扱う者の共通の憲法などではない。
あるのは、その昔ジェフ・クーパーという偉い人が「軍隊や警察にこう教えたことがある」という起源だけである。それを各団体が必要に応じてアレンジして採用しているだけのものだ。
にも関らず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは絶対のマナーとして神格化され、素人を叩いていい武器だとして行使されている。
この、銃口安全に関するルールは一例だが、このようにモラルや安全を盾に業界のルールを口酸っぱく押し付けられる場面が多くの業界に存在する。
ルールというものは、人間が作って運用するものだから、放っておくと感情に従って暴走する。
今日はその危険性について書いてみる。
目次:
1. 嘘を暴く
まず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールのおかしいところについてだが、「このルールのどこがおかしいんだ?当然だろう!」とベテランのおじさんたちは言うのだろう。
このルールに従うと、砂利ガキがモデルガンでガンマンごっこをやる行為はアウトになる。
たしかにそうだろう。例えおもちゃであっても、銃で遊んではいけないのだから。
この時点で既にだいぶ無理をしている気がするが、そう考えることもできるんだろう。
それならば、じゃあ例えば「映画の撮影」は、いったいどうやって説明をつけているのだろうか。
シュワちゃんが銀幕で動くたびに「銃口ガー」って発狂するの?
それとも、映画はフィクションだとわかっているからセーフなの?
その論理だったら普段悪ふざけをして銃口を向けるのもセーフにならない?
そもそも、どこまでをおもちゃの銃だとみなしているのか?
1. 幽遊白書の霊丸の構えのように、飛び道具を撃つという意思は確かに表しているもの。
2. ロボライダーのボルティックシューターのように、多分本物の銃ではないと気付けるが、実銃だと言い張ることも可能そうなもの。
3. 実物に忠実に作られた発火式モデルガンのように、そのまま実銃だと脅すことができてしまうもの。
これを全部まとめてアウトにするのだとしたら、かなり困る。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、ちょっと考えれば大げさなルールであることが簡単にわかる。
そして、もちろんというかなんというか、ジェフ・クーパーも全米ライフル協会も実は最初からこんなことは言っていない。
「破壊したいもの以外には銃口を向けるな」とは言っているが、これはエネルギーを持った弾丸がでる銃口のことを指して言っている。おもちゃの銃口もダメだとは言っていない。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、どこかの団体がジェフ・クーパーの訓練手法をアレンジして、どこかのタイミングで勝手に追加したルールである。
そして、現在はこのルールを採用している団体ばかりというわけでもない。
2.ルールを作って運用する際に、必要な品性
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
おじさんたちは、いつも口を酸っぱくしてこう言っているが、これらは全部デタラメである。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」というルールを採用しているのは一部の団体のみである。
常識という言葉は、同意と議論の下でしか運用してはいけないはずだ。
このルールを採用している集団の元では、確かに必ずこのような訓練がなされるのだろう。
でも、そこの卒業生が全人類かといえば当然そうではないわけで。
自分たちの訓練がすべての正義だと決めつける思考である。
「常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる」という方針自体は正しいと思うが、ここが一番危ない。
矛盾は矛盾を呼ぶ。一つの矛盾を通した時点で、考えれば考えるほど全ての論理が崩壊する。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールを押し通した場合、このようにちょっと考えてしまっただけで、「じゃあ、あれもこれも全部ダメなんじゃね?」という思考に行きついてしまう。
安全工学をちょっとでも勉強すればわかるはずなのだが、安全のためのルールを作って運用する際には、よほど慎重な管理をする能力が必要である。
自分が知っているルールだけを神格化して、素人を叩いてドヤ顔をするおじさんたちに、そんな能力があるのかどうか。
3.反則技を使ったことを忘れてしまう傲慢さ
まあ、「おもちゃの銃を人に向けていいのかどうか」なんてルール自体は別にどうだっていい。
銃器を扱う際には、それ専用のルールや訓練が別途あるのだろう。
いろいろ屁理屈をこねたけど、本当はただの精神教義だってことぐらいは知っている。
「おもちゃだから人に向けていいんだもーん」と粋がったクソ餓鬼がいたから、こういうルールを作ったのだろう。
多少矛盾したルールでも厳しく押し付けないと事故は撲滅できない、という経験則は実際に存在しているだろう。
問題はそのあとだ。
矛盾したルールのパワーでその場を解決した後、しばらくすれば、そのルールが本当は矛盾しているのだということを忘れてしまう。
そのルールが実績のある正義だと勘違いしてしまい、その後も吟味せずに運用してしまう。
おじさん達は、モラルを盾にルールを暴走させる。
そのうちに、何が正しいのか自分でも説明ができなくなる。
そして、そこを指摘されたら「そんなの常識だろう!」とキレて追い返す。
・FAXをした後はFAX届いていますかという電話確認をすること
・車のエンジンをかける前に、降車して一周確認すること
・goto文は事情があっても使用してはならないこと
・フォークリフトは10km以上の速度を出さないこと
・はんだごてはタイマーがついたコンセント以外で使わないこと
これらは全部、「常識」なのだろう。
しかし、もともと矛盾しているルールだから、当のおじさんたちはこれを好きなタイミングで反故にできる。
注意する者がいなくなったとき、自分が面倒になれば簡単に無かったことにする。
「たとえおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない!」と宣っていながら、コマンドーが再放送されると喜んで鑑賞している。
こうやってやたら強い言葉でルールを押し付ける大人が、どの業界にもたくさんいる。
学校や、家庭や、職場で、そういう大人を何度も見てきている。
・そのルールは意味が明確ではなく、冷静に考えれば多分間違っている。
・でもやたら口を酸っぱくして言っている。
・調べてみると、そのルールは過去の偉い人の言葉を繰り返しているだけだったりする。
・そして、それが常識だとか躾だとかいう。
こういう大人のどこを尊敬すればいいのだろうか。
厳しいルールを強制する手法も無いではないが、社会や人間関係においては、尊敬や信頼なしに成り立つことなんて多分ほとんど無い。
常識・誇り・当然といったようなワードには、有効な真実は何一つ入っていない。
ただのドヤ顔バズワードであり、議論と説明以外に真実などは存在しない。
普段人徳が得られないからって、こういう形で人を踏もうとする精神が危険である。