【職人気質】たった一人の焦土作戦
日本には古来より「職人気質」という病が存在する。
日本の産業を支える存在でありながら、その陰では多くの怠慢と負債を抱えている。
職人気質という病については、自分も職業柄よく直面するので、ブログに書きたいと思っていた。
今回はそのうちの一つ、この「後継者がいない」という状態について書いてみようと思う。
職人たちは自らの技術が滅びゆくときに何を考えるのか。
自分が知る限りのその心理を記す。
目次:
1.職人たちの現状理解
多くのケースで、後継者がいない伝統的な技術が「このままではやばい」ということは当の職人達はとっくにわかっている。
なぜならば、自分の商品の売り上げや周りの人間の平均年齢を見れば嫌でも分かってしまうから。
(自分の仕事にマネージメントが全然含まれていなかったり、一人で作業だけをして成り立ってしまうようなケースの場合は、この状況すら気付いてない場合もあるが。)
社会がどうなろうとワシの技術は不変で世界一なんじゃ!なんて考えているような職人はまずいない。
職人を酒の席に誘って「業界の未来」についての話を振ると良い。
最近はダメだということをこれでもかと言うほど語ってくれるから。
そして、何か手があるのかどうかというのを聞いても何も返ってこないから。
総じていえば、職人たちは決して「技術一筋で未来が見えてない馬鹿者」ではない。
どんなに頭が固くても、自分の未来ぐらいはしっかりはっきり見えている。
しかし、この「自分の未来だけは見えている」という事実がさらに現状をおぞましくしているのだが。
2.彼らだけでは何もできない。
「職人たちは自分の技術に胡坐をかいていないで普及と伝承をもっと頑張れよ!」と指摘したくなるが、職人たちは自分にその能力が無いことも知っている。
若者たちには「最近の若者はダメだ」とか口では言うが、自分たちも現状を打開する力は無いことを、口に出さないだけでよく悟っている。
例えば、戦車や戦艦のプラモデルは少し前までは滅びゆく文化だったが、突然のブームにより息を吹き返した。
インターネットやオタクの力を使えばこういった大逆転も例があるが、バンダイとか角川とかの大企業の力をもってしても、狙ってこういうブームを起こすことは簡単ではない。
関連商品を積極的に開発して売り上げを確保するのも情報を広めてブームを長続きさせるのも、大企業の資本力と広報力があるからできることである。
そこらの職人たちが何人か集まって奮起したところで、同じような大逆転劇を期待するのは到底無理である。
現に刀剣ブームが来ている今なら勝ち目があるじゃん?とも思うが、当の職人たちが刀剣ブームなんてものに興味がない。
現役の刀匠の人たちがとうらぶを実際にプレイして、「これはなかなか楽しいゲームだね!ぜひ私たちの刀匠の世界にも来てくれませんか?」なんて言っている風景を見たことが無い。*1
せいぜい、「刀剣乱舞は間違っている。これだから最近の若い者は」といった程度のことしか言えない。それどころか今更ゲームなんてプレイもしないからこんな発言すらあまりでてこない。
逆に、一過性の下らんブームに惑わされてはならない!とだけは感じている。
(それはそれで間違ってはいない意見だが。)
3.最終権力者の「自殺する自由」
一過性のブームを起こす力もないし、起こったブームを育てるノウハウも知らない。外部コンサルに頼るような金も気概もない。
技術が滅びゆくことは事実であるが、現状ではどうしようもない。
そうやって自分なりに歯噛みを済ませたあとで、彼らは考えた。
彼らは、滅びゆく業界とともに、心中するつもりでいる。
自分の寿命と業界の寿命が近い数値になったのをいいことに、業界を看取ろうとしている。
「時代に合わないこの業界もずいぶん長く続いたな。お疲れ様」と上から目線で言おうとしている。自分が殺したくせに
一応理屈ならば通る。
命をささげるぐらい人生を割いてきたから。それが自分の人生のすべてだったのだから。
死んだ後のことはどうでもいいとも考えられる。
自分が最後の戦士になれることを誇りに思っている。
時代の流れ…とかいって滅びることにあこがれを持っている。
次世代への継承という面倒なこともしなくて済む。
どうせ自らの命というコストを払うことを考えれば、割といいとこづくめである。
既にもう冒頭の記事で指摘されている事実だが、後継者がいない業界は滅ぶしかない。
だが、後継者不足なんて怖くはないんだ。
むしろそれを迎えようとして準備を進めている。
4.職人が逃げ続けてきたもの
中には、技術を絶やさないために将来に向けて活動しなければ!と奮起する者もいる。
しかし、そうやって今までやってきた「弟子の育成」はある意味で相当のヌルゲーであった。
本来は、伝承をするということは進化をするということであり、次世代は現世代よりもプラスになっていなければならない。
弟子の数も自分一人に対して二人以上でないといけない。
10年で覚えたことは今度は5年で教えれるようにならないといけない。
さもなくば、業界は先細りして死んでいく。
社会の需要はどのように変化していくか読めないのだから、こうやって自らが強くなることでしか対抗はできない。
しかし実際には「プラスマイナスゼロになれば上等」という甘い基準で何十年も生き延びてきてしまった。
技術も師匠に言われたとおりのそのまま。顧客も引き継いだまま。
後継者はせいぜい一人だけでも「ちゃんと伝承した」というアリバイになってしまう。
だからこそ、「最初の五年は無給!見て盗め」なんて殿様商売ができるわけだ。
自分のその業界が、社会の変化に対応できるぐらいの強さを手に入れるためには、もっと難しいことに立ち向かわなくてはいけない。
しかし、今まで何も考えずにヌルゲーで済ませてきた職人たちである。
自分の寿命の直前になってから突然次世代への使命に目覚めて技術を伝承に力を入れる、なんてことがあるわけがない。
そのような未来への気概を持った美しい心は、職人気質が潰してきた。
「無我夢中に勉強して職人技を磨いてきました」とかキリッとしながらインタビューに答えてる時点でお察しなんだよ。もうアウトだ。
5.「個人の感情」と「技術の未来」を天秤にかけた結果
「刀剣ブームに乗じて技術を絶やさないように何とかしなければ!」と考えるのは、いつだって政府などの外部の人間である。
当の職人たちは、この技術を絶やすことなく残さないといけない、とは本気で思っていない。
ameblo.jpこういうことを意見として出せるほどの勇気と技術を持った職人もいる。
確かに、マナーをわきまえない「にわか」にはとても腹を立てたのだろう。
しかし、それを乗り越えないとその文化は死ぬ。
乗り越えないと死ぬ、と言うところまで来ているのを分かったうえで、乗り越えれないから死を選んだのだろう。
その業界で長年師匠の椅子に座ってきたので、どのようなことでも実行可能だ。
以前の記事でも書いたが、自分の好きな世界・有利な世界で思考停止ができるということは最高の幸せである。当人にとっては。
日常から意図的にコストを割いていかないと、人はこのような思想に流れていく。
性欲以外で自分の寿命以上のことを考えるのはおそらく生物的に相当に高度で難しい技術であるのだとおもう。
*1:一応、調べたら少しは希望が持てそうな事例が一つはあった。
「具体例を挙げろ」では論破したことにはなりません
「ソースを出せ」というの言葉は、インターネットの言論においては決まり手になることが多い。
「ソースを出せ」という言葉を相手がソースを出せなさそうなときに使えば、「ソースが出せないなら相手が間違っている」という論理で相手を倒すことができるからだ。
論戦においてはよく見る決着の形であるが、実はこれ論理的にはあまり正しくない。
「現状ではこれで仕方ない」という事情があるからまかり通っている現象であって、「ソースを出せ」という言葉では正義を証明したことには決してならない。
「ソースを出せ」という言葉は、本来は申し訳なさと共に使用しなければならない。
(相手が嘘を広めていることで何か自分に害が出ているならそれは別問題だが。)
現実世界での対話においても、「具体例を挙げろ」という言葉で勝った気になる人は多い。
こういう害悪はインターネット以外にも山ほどいる。
「具体例を挙げれる=正しい」はそれなりに成り立つが、「具体例を挙げれない=間違っている」は多くの場合で成り立たない。
「具体例を挙げれない者は間違っている」という結論を最終的に採用することは可能だが、それを採用するのはあなただけの裁量と責任である。
たったこれだけです。
こんな簡単なことだから、今日の記事で説明してみます。
目次:
1.中学生でも分かる解答解説
「具体例を挙げろ」「ソースを出せ」という言葉ではマウンティングは成り立たない。
なぜならば、正義を証明するのに「具体的な例」だとか「信用できるソース」なんてものが存在しないからだ。
あるとすれば、「あなたという一人の人間だけが具体的だと感じる例」か、「あなたという一人の人間だけが信用したくなるようなソース」だけであるからだ。
どれだけそれっぽいものを積み重ねても絶対的に正しいものなんて存在はしない。
判断基準はあなた自身の中にしかない。
「正義とか関係なく、俺が満足したか否か」だけを追求するならまだ筋は通るが、そんな基準で動いている人間は他人に正義など語れない。
他人に正義を要求するなら、「俺を満足させられなかったからお前は悪い」という傲慢な結論を押し付けれる間柄でないと成り立たない。
他人の意見を採用するかしないかはあなた自身の問題であり、それなりの責任を負わなくてはならない。
よく説明に使われる例を出すが、例えば「水分子」なんてものが本当に存在すると思っているのだろうか?
一番バカな人間は、分子や原子がほんとうに『ある』と思っている。
中くらいの頭の人間は、分子や原子は『概念』だと考えている。
利口な人間は、分子や原子をたんなる『約束』だと信じているのである。
物理学はむずかしくないという1976年のクッソ古典的な本から引用したが、この言葉を本当に自信をもって理解しているだろうか。
水素と酸素が反応して水ができる。
しかし本当にそう断言していいのか?
明日も同じ結果が出るという保障がどこにある?
明後日はどうだ? 一億年後は? あるいは、十億年前は?
追試験をやったヤツ全員が虚言症だったら?
再現性と簡単に言うが、完全に同じ条件を再現して実験をするなんて厳密には不可能だろう?
『あのときの水素』と『今ここにある水素』がまったく同じものであることをどうやって証明したらいい?
水素と酸素の反応にもし空間上の座標軸が関係していたら?
同じ実験をやって地球とM78星雲ではまったく違う結果が出たらどうする?
客観性と再現性を本気で追及しようとしたら、科学は何ひとつ証明できない。
イリアの空 UFOの夏というラノベに出てくる文章だが、中学校ぐらいのときにこういうことを考えたりしたことは無かっただろうか。
全く気付かないで先生の言われるままに暗記をしている者をガキだと笑ったことが無いだろうか。
それとも、気付いたけど分からなかったから無視して今まで生きてきたのだろうか。
というわけでだ、『ある程度の』客観性と再現性があれば、
それは科学的には認められることになっている。
しかしそれは、そういうことにしておかないと何事も進まないから仕方なく、という「ナアナアの決め事」にすぎない。
先の文章はこう続く。
水分子なんてものを見たことがある人はいない。
今用意した物が本当に水分子とやらである保証はない。
仮に見えたのだとしても、自分の目が完璧に正しいという保証はない。
もっと言えば自分の頭が完璧に正しいという保証もない。
そこで、現在大多数の人間がそう錯覚できているのをいいことに、分子論というとりあえずの約束事を仕方なく採用した。
もし何か新しい事実が出てきて、それを大多数の人間が信じることができたなら、この分子論はソッコーで入れ替えられる。
科学における反証可能性というのはこれのことであり、あらゆる論理は不安定な地盤で不安定なつながりをしている。
だからこそ、当人が自分の判断基準で正しいかそうでないかを選んで採用しないといけないわけで。
以上が科学の本質というか、中学生でも気付くような人間の論理の本質である。
これを中二病と言って向き合わなかった者の末路が「俺が満足できるソースを出せ!出せないならお前は間違っている!」である。
自分で判断する力が無いから、相手に判断をさせようとしている。その結果をロクに検証もせずに飲み込もうとしている。むしろ「俺が何も考えずに飲み込めるものをよこせ」と要求している。
ドラクエⅢをプレイして、バラモスを倒したところで世界を救ったと思い込み、アレフガルドの存在に気付かなかった者。
真のラスボスもロトの系譜につながる物語も知ろうとしない者。
科学の本質を理解せずに大人になった者は、これと同じぐらい滑稽である。
2.「証拠を出せ」という不毛さ
そういうわけで、ソースや具体例の有無で他人の正義を語ることは間違っている。
あるのは、その具体例を信じるか信じないかの自分の正義だけである。
絶対的な正義などはないのだから、差し当たって意味を持つものは、当人同士の人間関係や権力の差といったものである。
だから、何をどこまで信じるかの基準は、聞く側が好きに設定できてしまう。
例えばとある会社で、「新しい社内の勤怠管理システムを導入しよう!」という話が持ち上がったとする。
これを導入すれば総務部の作業が楽になり、給与の計算においてもミスをしなくなる期待が持てるものだとする。
ここで、話を聞く側としては「いくらかかるのか、どれぐらいの効果があるのかを具体的に述べよ」と言い放つことができる。
導入に~円必要
作業工数の削減が~円だけ減る
だから年間で~円得をする
と言ったものをまとめてから提案するのが当然だ!と仕事に慣れた人は言うが、それが当然ではないんだ。
なぜなら、~円というだけでは十分な証拠にならないから。作業の時間と正確性も考慮する必要があるかもしれない。
工数が減ったといっても、それはどれだけの正確さをもって算出されたものなのか?普段使っていない工数計算だとしたらそれだけのリスクがある。
そういう事情がある以上、年間で~円得をするというのも皮算用である。来年の今にその~円をここに札束で並べれるか?といったらそんな保証はない。
証拠なんてものには何の正義もなく、「どれのレベルなら納得するか」のさじ加減一つでいくらでも後出しジャンケンができてしまう。
さらに都合が悪いことに、こんな不確かな証拠を集めること自体にも結構なコストがかかる。
「現在いくらのコストがかかっているか述べよ」といわれても、全ての行動のコストを毎日記録することはタダではない。
導入にいくらかかるか?ということを納入業者に聞いても、まず見積もりを取らせてくださいとかえってくるだけだろう。
正確な見積もりを取らせるには買う側の意思決定をして内部調査に時間と工数を割かないといけないわけで。
さもなければあいまいな情報で適当な見積もりを取らせることになるが、そんな「証拠」で納得するということはもともと大して証拠なんて必要としていなかったも同然だ。
結局は、「何も考えていない」という責任を誰かに押し付けたいのだ。
納得する範囲は自分が決めれるので、いつまでも納得しなければ相手をどんどん消耗させることができる。とても有利なゲームである。
小学生がよく、「誰がいつそんなこと言った?何月何日何曜日何時何分何秒、地球が何回まわった時?」などと言う戦法を使っている。
これは、自分自身が判断の決定権を持っている(という勘違いをしている)点を最大限に活用した戦法である。
これと同レベルの戦法を、大人が他人に対して使ってしまっている。
「具体例を出せ」というマウンティングがどれほどアホらしいかが分かるはずだ。
3.馬鹿になるという覚悟
実際には、どれだけ証拠を集めようと絶対的に安心することなどできない。
証拠はないけどやる、という判断をしなくてはならない。
手の届く範囲で使えそうな証拠がないかは探すが、最終的にはどこかでえいやと踏み出さなくてはいけない。
証拠を揃えて理論的な状態を気取るより先に、少ない証拠でも動くことができる信頼関係の構築の方を先に済ませなければいけない。
まあ証拠にこだわることなんて、本当はただの「真面目に検討しています」のポーズで、実際に必要なのは安心感の演出だとどこかで分かってはいるのだろう。
案外みんなそれに気付かない振りをしているだけかもしれない。
水分子の例を出すまでもなく、みんな本当はとっくにわかっているのかもしれない。
ガチで分かってなくて「具体例出せ」のマウンティングに夢中な馬鹿も大勢いるけど。
誤解していた方が気持ちがいいし、有利である。
どうせ何をそろえても正義なんて確定はしないのだから、それっぽい形を取り繕うことが重要なのかもしれない。
だとしたらそれは口に出して認めてしまった方がいい。
【ガチなら許す】夏休みの自由研究
夏休みシーズンだということで、自由研究の宿題のことが話題になった。
「ミニ四駆は自由研究として有りか無しか」ということが議論されているが、自分は小学生のころ、自由研究ってそもそも何をやっていいのか全くわからなかった。
何を出せば怒られないのかが分からなかったから、人にアドバイスをされるまで自分では手を付けなかった。
自分も研究者をやっていたことがあるから、今なら分かるんだ。
「研究とは何か」なんて高度な問答に小学生も先生も答えられるわけがない。
自由研究の宿題はクソゲーである。
今日は自由研究の宿題がいかにクソゲーであるかということと、許されざるオタクの思想のことについて書こうと思う。
目次:
1.自由研究という禅問答
自由研究の宿題が出るときは、「自由だ」とは先生から聞かされる。
しかし実際にはダメなことがたくさんあることをすぐに学ぶ。
真面目なものじゃないとダメ。苦労していないとダメ。
なんとなくこういうルールがあることぐらいまでなら、怒られながら覚えることができる。
そもそも何をやればいいのか、小学生にはわからない。
だって先生も真面目に説明してないし、「研究とは何か」ということを教えれる人間なんて一握りも存在しないから。
何か新しいことを調べればいいのだろうか。小学生はそう考えるが、何が新しいのかを調べるためには既存の本を読むことになる。それじゃあ「新しくない」よねこれ。
最初から自分一人で考えれば「新しい」は達成できるが、「真面目なもの」という縛りがある。もし仮に何か教師受けしそうなことをたまたま自分が知っていたとしても、次は「苦労しないとダメ」という壁が立ちふさがる。
自由研究は、もはや禅問答である。
先生の話を聞く限りでは、抜け道は何とか見つけれてもすべての選択肢に返し技が設定されているから一歩も動けない。
恐る恐る提出しても「こんなんじゃダメだ!」と突き返される。
何がダメかもわからないし、先生がこれにしろと言ったものもなぜそれがいいのかわからない。
そうやってすべての活路をふさがれているから、小学生は持ち前の明るさを使ってネタに走る。一発ギャグに等しいノート数枚を提出して許してもらおうとする。
自分が使える武器が無いから、不正に走るようになる。すでに本にまとまっているようなものをいかにも自分で調べましたみたいな細工をして、デコレーションして苦労しました感を演出する。
「いかに上手く誤魔化すことができるか」を競争するようになる。
研究の意味も必要性も理解することなく、「何も手掛かりがないところでお茶を濁す力」だけが鍛えられる。
以上が、自分の「自由研究」に対する記憶である。
知性と科学が腐っていく過程は小学校のころから始まっているのだと思い知らされる。
2.タブーの存在
まあ答えとしては、先生の逆鱗に触れないようなものを、規定されたフォーマットで一定量以上書いて持ってくればそれでクリアーとなる。
宿題としてはそれだけのミッションだ。
しかし「先生の逆鱗に触れないようなものって何?」というトラップは切り抜けないといけない。
公表しないものをルールにすることは間違っているし、そもそも研究内容に貴賤など存在しないのだが、先生のタブーを踏んでしまった場合はアウトになる。
そのタブーに「ミニ四駆」が含まれているのかいないのかというのが、冒頭の記事での議題だった。
元々が先生のさじ加減一つで決まるクソゲーだから「その学校の先生に聞け」というのが唯一の答えなんだけど、大人としてはいろいろ意見を述べたくなるようだ。
3.「ガチなら許す」という大罪
今日の記事で一番言いたいことなので、ちょっと乱暴な言葉を使う。
AをBに認めるか否かという議論において、「ガチなら許す」という判断を出した人は、全員氏んだ方がいいと思うんだ。
「ミニ四駆が先生に認められるか」という話をしているときに、
「モーターの慣らし方でデータを取って回転速度と空力を計算して理想的なパーツ配置を表にしてタイムを計測してその試行錯誤をレポート形式にしてボディの重さとスピードの相関とかミニ四駆進化史とかベアリングの脱脂とかマスダンパーの効果とか…これぐらいやれば先生も認めてくれるよ!」
という話を少しでもしてしまった人は、ダメだ。
冒頭のまとめでは、そんな意見を述べている人が大勢見受けられた。
口ではそう言ってるけど実際にはそう考えていない、という人もいくらかは居たのだろうけど、結果的に「ガチなら許す」という結論を発信させたのならばもう赤信号だ。
「ガチなら許す」という判決は、知識を持ったオタク特有の上から目線の乱暴で傲慢な判決である。
認めるとか認めないとかって話題がどれだけエゴイスティックになるかは簡単に想像ができるだろう。
「ガチなら許す」ってことはすなわち「ガチじゃないなら許さん」ってことを言っているのと同じだ。
もともと自由研究がルールの無いクソゲーだということを無視してまでも、知識量でマウンティング合戦に誘っている。
「これだけの知識と本気度を先生に見せつければ大丈夫だよ!」などとキラキラしながら宣う。
研究に貴賤などない。
カッコよくないと許されない研究なんてものは無い。
知識を並べた量が評価される研究なんてものも無い。
自分が「語れる」分野になるとすぐに熱くなり、こんな基本的な原則すら忘れてしまう。
「ガチ度」というステータスに何の判断基準もないくせに、他人を「ガチ度」で評価する。
何様のつもりだろうか。
「詳しいオタク様」のつもりなんだろうね。
誰だって、「詳しいオタク様」が知識量でマウンティングを始めて「にわか」を叩き殺す風景を何度も見たことがあるはずだ。
作ったプラモの写真を自分のツイッターにアップロードしたら「下手くそ」とか言っちゃう系。
「絵が下手な奴は同人誌を出すな」とか言っちゃう系。
何を根拠にそんなことを言ったのかと問い詰めてみれば、結局のところは「モデラーとして認めない」「絵描きとして恥ずかしい」「誇りや意識が足りない」といった程度のことしか言っていない。
自分が詳しい分野で「ガチだ」とキュンときちゃえばもうそこで思考停止。
どんなに汚くて間違った思想でも「オタクの誇り」で許しちゃう。
クソゲーの自由研究みたいなものでも、「人にお披露目できる貴重な機会」だったら舞い上がっちゃう。
そういうチョロくて危険なオタクを何人も見てきた。
こういう隙だらけの思想を持っている者は必ずミスをする。
いつでも足元を掬われる。自分が好きなその分野の中でさえも。
普通の食塩水の実験とかなら自由研究に持っていっても何も言われないのに、ミニ四駆にだけ厳しい条件が付けられているという不公平に気付いていない。
4.(差別されて当然だろ)
「ガチであろうとなかろうと、やるべきことや楽しめることは誰にだってある」。
世界には頂点などない。
ガチでない者も世界を支えている。
自分の知識量に酔ってしまったオタクは、こんな大事なことをいとも簡単に忘れる。
普段よっぽど難しくて高度なことを考えているくせに、自分自身のオタクの思想にだけは本気で向き合ったことが無い。
なぜならば、「ガチ度」でマウンティングをしていれば大抵の相手には負けないから。
素人を叩いていれば気持ちを保てるし、自分の好きな世界の中で思考停止ができるから。
こういった弱い心が、「オタク」を社会の敗北者にした。
・知識量でマウンティングをするのが大好きで、必要もないのに勝手に語りだす。
・知識の量はすごいのだけどそもそも知らないニッチな分野。
・的外れな押し付け、猿山のキモい仲間意識。
・それでいて本人はすごくキラキラした目をしている。
ステレオタイプな「オタクの気質」を列挙したけど、なんでこういう評価が生まれて根付いてしまったのかをよく考えた方がいい。
2010年代になってオタクは社会に受け入れられてきた!なんて調子に乗っている場合ではない。
「いまさら聞けない~入門」とかいう大嘘について
本屋で技術書や入門書を探してみると、多くの本でこういうタイトルがついている。
「いまさら聞けない~入門」
何かおかしくないだろうか。
「常識」だとか「当然」だとかいう言葉でムカついている人は多いのに、この「いまさら聞けない」という言葉はなぜか受け入れられているように思う。
「いまさら聞けない」で検索をしても言論が全然出てこない。むしろ「簡単にわかりやすく教えてくれる!」ということを意味している言葉になっている。
まあ、こういうキャッチーなタイトルをつけた方が売り上げはいいのだろう。統計的にそういう結果が出ていることは納得できる。
「いまさら聞けない」という言葉にもはや大した意味なんて持たされていないのだろう。
しかしもちろんこの言葉は、間違った概念である。
「いまさら聞けない」という言葉は本のタイトルとしては機能するのかもしれないが、人と人との対話や技術そのものには決して使ってはいけない概念だ。
インターネットや会社や学校で、「いまさら聞けない」という概念を使って知識のマウンティングを行う風景がよくみられる。
今回はそのことを書いてみようと思う。
目次:
1.知恵を共有する間柄
もう結論だけを先に書いてしまおう。
「いまさら聞けない」ではない。
「いつでも何度でも聞かなきゃいけない」のだよ。
このブログで何度も言っているように、情報や技術は伝承して拡散できるところに価値がある。
機密にしなければならない競合他社とか、情報を有料で販売して生計を立てているとか、そういう状況を除けばどんな基本的なことでも必要ならば教えあわなくてはならない。
「知らないことが恥」という概念自体がもはや古い。
これができないという間柄は、すなわち「敵同士」である。同じ業界・同じ会社・同じコミュニティにいる仲間同士ならば、これらのことは当然できなくてはいけない。
どんなに実力があったとしても、これができない時点で老害であり敵同士である。
2.~を知らなきゃ「ヤバい」
「業界人なら~を知らないとヤバい」という概念を用いて人を叩くケースがある。
以前ちょっと話題になった、「蹴鞠おじさん」という存在と同じだ。
この「ヤバい」という価値観自体が、作りだされた優越感である。
ありもしない同調圧力に屈した弱い心である。
誰にとって、何がヤバいのか。その説明が全くなされていない。
「素人は叩ける」という目先の快楽だけにとらわれてしまっている。
どの程度知っていないとヤバいのかだって曖昧すぎる。
殆どの場合で当人が勝手に判断して、ヤバいなどと喚いている。
この思想は、当人の優越感以外に意味がないくせに、人を踏むという浅ましい心だけは大きく成長させる。
確かに、現在進行形で間違いを広げて被害を出しているというのならば、確かにそれはヤバいといえるだろう。
その時はそこを直せばいい。敵ではなく仲間であるならばだが。
ヤバいなどと言っている暇があれば教えて直してやれば済む話なんだ。
3.「知っている」という嘘
今、自分が自身の仕事をできているか否か。大事なことはこれだけであり、それ以外に大事なものなどない。
情報が足りないならば補充すればいいだけのことだ。
なぜならば、人間一人が把握できる範囲などたかが知れているからである。
絵描きであっても工業であっても金融業界であっても、一人でその業界や技術のすべてが理解できると思っているのだろうか?
今までに人類が積み上げてきた知識や技術は膨大だ。どんなに詳しいつもりであっても完全に知ることなどは絶対にできない。
だからこそ、人類は知識や技術を「いつでも参照ができるように」体系化して保存した。
「知らないことが恥ではない。知ろうとしないことが恥である」と紀元前から言われているが、表面的な理解しかなされていない。
「知識の量で殴りあうことは馬鹿なことである」と早く気付かなくてはならない。
大学に行けば全員が学ぶことであるが、「分からない」という状態は基本であり原動力である。何でも知っている博士なんてものは存在し得ないんだ。
「蹴鞠おじさん」が実は物理攻撃に弱いように、どんな熟練者であってもこの「実はあんまり知らない」という原則からは逃れることができない。
ただ、弱点を隠して虚勢を張るのが上手くなるだけであって。
「実はあんまり知らない」というギャップを、権力で埋めるようになる。
そして大抵の場合では、「案外知らなくても問題なく事は進む」という事実に気付く。
どんな熟練者だって、どこかでその事実に救われている。
【おじさん】生き残るための闘い【新人】
この手法は本当にお勧めだ。
いつの時代にも、職場には「おじさん」がはびこっている。
「そんなんじゃダメだ」という言葉と「甘えるな見て盗め」という言葉を同時にしゃべる人種。
実力はあってもコミュニケーション能力がなく、伝承をしない。できない。
だから新人にノウハウが根付かないが、逆におじさん達はそれで自らの希少価値を維持する。
そして実力があるというのも本当の話なので、本人は誇りを維持できるし会社側も切ることができない。
そういったおじさん達が、職場にはびこっている。
自分はおじさんだらけの職場で長年生き残ってきたので、こういう作戦を使ったときや使われたときの心理をよーく知っている。
この作戦はおじさん達より偉い人が使わないと意味がないが、その条件さえ満たしているなら効果は絶大だ。
この作戦を使うことによる、新人の成長へのいい影響。
あなたが新人からの信頼をじゃぶじゃぶ得られる影響。
停滞した職場のおじさん達を正義に向かって歩ませる影響。
それらを語ってみる。
目次:
1.「三方良し」
新人が入ってくるときの挨拶で、新人に向けて毎回言おうと決めている言葉があります。 「わからないことがあったら、なんでも私に聞いてください! 誰に聞いたらわかりそうか、私が教えます!」 質問し易い環境にするために、これとても大事だと思っています。 あと、毎回そこそこウケます。
まず最初に得られるものは、その新人自身への成長についてだ。
「分からないことは黙ってないで何とかしないといけない」という、大事な姿勢を学ぶことができる。
それも「知っている人に聞く」という一番即効性がある手法がすぐに提示されている。
これを学んだ新人は、「~さんがそう言っていたからあなたに聞いてみます!」という大義名分をもって、次々に質問をすることができる。
学生時代とは比べ物にならないスピードで、あらゆることを吸収していくだろう。
あなたのもとには新人が次々に質問しに来るわけだが、これを門前払いしないで対応するだけで、あなたに対するリスペクトはどんどん上がっていく。
純真さこそがウリの新人君は、「~さんは忙しいのにちゃんと対応してくれている!」と勝手に理解してくれる。
しかもあなた自身はそこまで忙しくすることもない。「誰に聞いたらわかりそうか」を判断すればあとは丸投げができるからだ。
しかしこの「誰に聞いたらわかりそうか」を判断することが、かなり高レベルの経験と権限が必要になる。管理職であるあなたにしかできない仕事だ。
簡単で手間がかからない割にはあなたにしかできない重要な仕事。こんな仕事が新人の数だけ毎日たくさん湧いてくる。
非常にオイシイ。
次に「~さんがそう言っていたからあなたに聞いてみます!」という紹介状を持った新人が、おじさんのところに乗り込む。ここからがショータイムだ。
まず、いつも使っている「見て盗め」という戦法が通用しない。
紹介状がある以上は「ちゃんと教えろ」という命令が出ているのも同然であるし、教えないことは新人だけでなく上司の信頼も失うことになるからだ。
本当は、「俺は教えるのは苦手だからそういうときは別の人を使ってください」と最初から上司に頭を下げに行けば、まだおじさんは生き残ることができた。
しかしおじさんの長年のプライドはその逃げ道に気付く余地すら与えない。
(逆に、これを選べる人だったら相当信頼がおけるおじさんだと見ていい。)
「何でもかんでも人に聞くようになると教える側が忙しくなりすぎる!」という言い分がおじさん側にある。確かに、この作戦の根本的な弱点の一つだ。
しかし、多くの場合でその問題はクリアできる。技術で胡坐をかいているようなおじさんは大抵の場合でそう忙しくはないからだ。
自分しか知らない仕事だから忙しく見せることは簡単だし、おじさんたちには過度の負荷がかかっているケースは少ない。心地がいいからこそおじさんになるわけであって。
かくしておじさんは、今までろくに成功させたこともないような「新人にちゃんと教える」という仕事をやることになる。
当のおじさん達も、「新人にちゃんと教える」という仕事の重要性を知らなかったわけではない。よほど寝ぼけていなければ自分たちが実はやばいということぐらいはとっくに知っている。
今まで必要だと思っていても目を背けていた、克服する機会を与えられなかった仕事である。
その仕事に取り組む大義名分が、新人と上司の命令がセットになってやってきているのだ。
案外仲良く教えていくことができるだろう。
まあそうはいっても実際は、7割がたのおじさんは上手くいかない。
おじさんたちは「教えても覚えない!だから最近の若者は」という結論を出す。あるいは、自分が持っている技術の出し惜しみを行う。
まあ教育なんて繊細な心理とノウハウに基づいた難しい技術であるので、失敗するのは仕方がないだろう。
そしてあなたのもとに新人が戻ってきて、「~さんはちゃんと教えてくれませんでした」と泣きついてくる。戻ってくるのはあなたがちゃんと信頼されているという証拠だ。
こうしてあなたは、見込みがあるおじさんとダメなおじさんを選別することができる。それもあいまいな評価でなく、部下がちゃんと人力で調べた明確な確実な情報をもって判断することができる。
外から見るだけでは決してわからない、価値のある情報を持ち帰らせることができる。
その新人を飲み会の一つにでも誘えば、あらゆる事情が事細かにわかるだろう。
事情を理解したら、今度は見込みのあるおじさんのところへの紹介状を書けばいい。
ダメだったおじさんは排除するか、「俺は教えるのは苦手だからそういうときは別の人を使ってください」というポジションに隔離するのがいい。
ちょっと裏技としては、上司と新人が一緒になってそのおじさんのところに乗り込むという手もある。上司が「私にも教えてくれませんか?」とおじさんに頼むのだ。こういうことをされるとおじさんは喜ぶ。
まあこの戦法は仕事の内容と使える時間にもよるが、あなた自身も仕事を学ぶことができるし、新人からの信頼をさらに強いものにすることができる。
2.おじさん達のサバイバルが始まる
新人が入ってくるときの挨拶で、新人に向けて毎回言おうと決めている言葉があります。 「わからないことがあったら、なんでも私に聞いてください! 誰に聞いたらわかりそうか、私が教えます!」 質問し易い環境にするために、これとても大事だと思っています。 あと、毎回そこそこウケます。
この作戦は、おじさんたちにとってはおそろしい。
核兵器よりも威圧的で、毒ガスのようにねちっこい、そのくせ大義名分が確保されている、
そこそこウケるというが、観察しているとよくわかる。
おじさんの顔は笑ってないから。
そして、ほかの人は笑っているのに自分は笑えない、という状況に内心ものすごくビクビクしているから。
新人紹介の朝礼で、執行猶予付きの死刑宣告をされたに等しい。
今まで相手をしてこなかった新人という存在が、紹介状と大義名分をもって自分たちに攻め寄せてくるのだから。
先述したようなこの作戦の本質を分かってしまっていると、おじさん達はすぐにこういう理解に至る。
「あの上司め余計なこと言いやがって!」と毒突くこともできない。
そんなことを口に出してしまったらもう自分は老害確定だからだ。
例え飲み会のような場でこっそり言っても、頷いてくれる人はいないだろう。
信頼だけがどんどん損なわれてしまう。
ここで奮起して新人たちとうまくやろうと努力するおじさんか、それとも憤慨しながら殻に閉じこもっていくおじさんか、それはこれからわかる。
3.注意事項
何度も言っているように、この作戦はあなたがそのおじさん達より偉くないと成立しない作戦です。
あなたが新人の立場だったら、見込みがありそうな上司にそれとなく誘導する、といった程度です。
また今となっては、新人が入ってくるときの挨拶だけでこれを言ってしまうと、この記事の真似だと思われてしまうリスクがあります。
おじさん達だってツイッターなどのネットの動向は見ている場合が多い。
本当にお勧めなのは、新人が入ってくるときだけでなく、この作戦を常時使うことだ。
仕事をするたびに、「まず最初は俺のところに来い」という。
そのたびに「それはあいつに聞いてみろ」という。
簡単でしょう?あなたが上司の権限を持っているなら、ぜひ行ってみてください。
「断捨離」の楽しみ方ガイド
もう、こう定義したほうが話が早い。
断捨離とは、レジャーだ。
捨ててもったいない、捨てられてかわいそう、ではない。
捨てて楽しい!捨てて面白い!である。
いいレストランで食事をしておしゃべりをして、心と食欲を満たすのと同じだ。
金を持って店に入った以上、「家畜さんと植物さんが殺されてかわいそう」なんて考える方が的外れなのだ。
断捨離というレジャーを紹介してみんなで楽しむために、こういうテレビ番組が作られる。
手段はゲスであっても動機は純粋で曇りない。
とても楽しいレジャーだから、他人にお勧めしたくなる気持ちが生まれる。
そういう心が広まった結果、断捨離という言葉はここまで流行して、(一見すれば)不幸な事故がたくさん起こったのだろう。
繰り返す。
断捨離とはレジャーである。ライフハックではない。
断捨離が、自分や家族の現状を良くするための手段だと思っているなら考え直した方がいい。
断捨離とは、ある意味無駄なコストを払って、一時の感情を楽しむためものである。
今日は断捨離というレジャーの楽しみ方を紹介しようと思う。
目次:
1. お手軽に断捨離気分を体験できる方法
テレビゲームをプレイする人は、断捨離の楽しさを疑似的に体験できるいい方法がある。
自分が昔クリアした、(できればオンラインでない)RPGかシミュレーションのセーブデータをロードしてみよう。
そしてそのデータの、アイテム・装備・自軍ユニット等をすべて売り払ってみよう。
・どれぐらいのお金になるんだろう?カンストするかな?
・ラグナロクって売れるんだwww結構高いwww
・かたみのゆびわ1ギルかよwww
そういう遊びをやってみたことがあるが、結構楽しい。クリア後にやる遊びとしてはお勧めだ。
装備もアイテムも全部なくなった状態で、もう一度ラスダンに挑むのもまた面白い。
一通り楽しんだら、セーブデータを上書きしないようにして電源を切ればいい。
これで、断捨離というレジャーを疑似体験することができる。
2. 脳に生じている作用
断捨離というレジャーを実行すると、事情はどうあれ結果的には手元から持ち物がなくなる。
部屋が片付いて、なにかすごいことをした気分になれる。
普段行き詰っている家事を一気に解決できるような期待感に胸を膨らませることができる。
自分の持ち物を失ってしまうというリスクを背負うこと自体も高揚感を生み出すための大事なスパイスだが、捨てたいけど捨てるのはつらい。そういうジレンマはなんとかしないといけない。
そこで、間を取って「家族のものを捨てる」というとても手頃な選択肢を取ってしまう。
断捨離で不幸な事故が起こるときは9割以上は家庭内の話である。
自分の物じゃないけどよく知っている物。
普段から片付けないといけないと思っている物。
失うことのダメージは小さく、整理した時のメリットは大きい。
だから、旦那や子供の持ち物を捨てればいい!とひらめいてしまう。
そんな都合のいい答えが、主婦の目の前に転がっている。
こういった判断をするまでにはそれなりの葛藤や罪悪感はあったのだろう。
もし最初から全く無かったら本当にサイコパスだ。
その罪悪感は、断捨離という「流行ってみんなが使っている言葉」が消してくれる。
みんながやっているから正しい、という免罪符。
頭を使って考えることはコストであり、言葉にだけ従えば頭は使わないで済む。
別に、「なるべく無駄なことを考えないようにする」という原理自体は、文系の学問においてですら正しい原理だ。
思考停止を求めること自体は間違っていない。
このレジャーをやると決めたのならば、もうそれを貫き通した方がいい。
3. 価値を考えてはいけない
断捨離とは、レジャーである。
捨てること自体を楽しむレジャーである。
それ以外の正義は存在してはならない。
これを捨てればあれができるようになる!なんて考えて断捨離しちゃいけないし、これを売り払えばこれだけの価値があるかも!なんてことも考えてはならない。
togetter.com物を捨てること自体が楽しくて価値があるので、物自体の金銭的価値などは二の次である。
だから何度でも言うが、もし断捨離をされたくない側に立っているなら、「価値があるから捨てちゃダメだ!」と主張する戦法は絶対にダメだ。
もしそのガラクタに、価値があるということが分かってしまったら、もっと地獄であるからだ。
・なんでそんな何万円もするものを寝かせてるの?使わなきゃ意味ないでしょ?
・全部合わせてもせいぜい~万円じゃない。捨てましょう!
・今までそんな無駄遣いをしてきたなんて!これからのためにも卒業しなきゃ!
こんな即死魔法が連続して飛んでくるようになる。
大体、今日日ネットでオークションをあたれば普通のお宝なんて数千円で片が付くケースがほとんどだ。激レアものであっても普通に所有できるものなら5万もあれば大抵は買えてしまう。
数万~十万円程度である。あなたが今まで収集してきたお宝の総額は。
普段旅行や被服に使っている値段と大して変わらないわけだ。
「これ全部処分してみんなで海外旅行しましょう!その方がいいでしょ?」とか言われたらもう回避不能である。
それほどまでに「価値があるから捨てちゃダメだ!」という戦法はリスクが高い。
なお、当然のことながら「勝手に断捨離するな!お前のも捨ててやろうか!!」という戦法はもっとダメだ。
断捨離という暴挙を止めるためには、ちゃんと話し合って日常の楽しみや快適さを地道に整備する以外の道は無い。
「10日かかります」「お前ならできる、5日でやれ!」
社会人はいつも納期というものに追われる。
「この仕事をいつまでに完成させる」という約束のことだ。
学生の頃にはあまり馴染みのなかった概念だが、社会人になるとマジでこればっかりになる。
仕事の質よりも納期のほうが優先的な事項である。なぜならば、締め切りを過ぎてしまったものはどんなに優れたもので世に出すことができないのだから。
世に出せるぎりぎりの範囲というものが、締め切りという言葉の意味である。
手塚治虫は、そんな状況でも納期より仕事の質の方を優先させた。数々の反則技を使ってまで。
だから神のように偉い、といった内容がこの本に書いてある。
今日は、この納期に関する反則技のことを書いてみようと思う。
仕事を発注する側がやる反則技についてだ。
目次:
1. いつかは言ってみたいこんなセリフ
納期というものはもちろん当事者同士が話し合って決めるものである。
だから例えば、仕事を受ける方にも「この仕事には10日くれ!」と要求する権利はあるわけだ。
それに対して、仕事を出す側が「お前ならできる、5日でやれ!」ということがある。
これが、今回取り扱う反則技だ。
このセリフは映画やドラマみたいでかっこいいから使ってしまう人がいるが、本来は相当の用意が無ければ使ってはいけないセリフだ。
例えば、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部で、ブチャラティがこの発言をしているシーン。
このシーンでは、ブチャラティは相当の準備をクリアしたうえでこの反則技を使っている。
ブチャラティとアバッキオだからこそ成り立ったシーンであり、日本のなんでもないサラリーマンみたいな人間が真似をすると確実に痛い目をみる。
こういうシーンは、当の指揮官にとってはとても魅力的である。
「的確で情熱のある指揮」と「能力を信頼した仲間」が力を合わせて、数値以上のスペックを出して困難を乗り越えれてしまうのだから。
これ以上ないぐらいの信頼関係が生まれるだろうし、「ほら俺の言った通りだろう」という究極のマウンティングもできる。
だからこそ、欲を出して判断を誤ってしまう。
2. あらかじめ用意できてないといけないこと
以下に、この戦法を使う際に必要な条件を記す。
・その1「削る時間に納得できるような妥当性があること」
例えば「10日かかる」と言われて「5日でやれ」という場合、どうやって5日間削れるかを説明できないといけない。
「いつもの二倍気合を入れれば半分で終わるだろ?」みたいな根性論では決して通らない。
(先の画像のブチャラティは実はここが少し弱いのだが、スタンドは精神力で動くものだから…)
もちろん、仕事を受ける側も適当に「10日」といったわけではないので、これをクリアするのが一番難しい。
互いの仕事を熟知して、相手の仕事を尊敬することが前提条件である。
「こういう状況を加味すれば10日と言っておいた方がいいな」といったような条件を含ませている場合で、その状況をどう加味するか?という交渉をすることの方が実際には多い。
納期の短縮とは、根性やお願いではなく、交渉である。
・その2「ミスった場合に責めないこと」
仕事を受ける側は、何か特別な手法を使えば5日でできるかもしれないとしよう。
その特別な手法を使っていいかどうかの交渉もクリアしたとしよう。
でも、まだ壁が残っている。その特別な手法は失敗する可能性があるからだ。
安全に成功できるのだったら、交渉が終わった時点で「じゃあ5日で出来る」というに決まっている。
失敗した場合に、「5日で出来るって言っただろう?」という後出しをしないという保証が必要である。
こういった信頼関係があって初めて、「わからないけどやってみる!」という言葉を引き出すことができる。
やったけど間に合わなかった、やったけど雑だった、やったけどほかのことを犠牲にした。いろんなパターンがあるが、すべての場合で無条件で許さないといけない。
そして仕事を出した側は、「5日で出来るかもしれない」という不確実な情報で動くリスクを背負わないといけない。
それを背負う気概があって初めて「お前ならできる!5日でやれ!」という戦法を使うことができる。
3. 圧力で押し通した場合の不幸な未来
すなわち、仕事を受ける側と出す側の間に、相当の信頼関係が無ければならない。
互いの仕事を理解して尊敬しあうこと。
失敗した場合の処遇を保証すること。
最低でもこれだけのことができていなければいけない。
しかし信頼関係が無くても、圧力や恫喝を使って「10日を5日にしろ」ということはもちろん簡単である。
現実には、漫画や映画と違ってこの方式でやらされているケースのほうがずっと多い…
圧力を使ってこの戦法を実行してしまった場合は、最終的には仕事を発注する側に不幸が起こる。
最初の交渉の段階で、仕事を受ける側が隠し事をするようになる。
なぜならば、恫喝だけで動かせられているのなら、「5日で出来るって言っただろう?」というリスクを一方的に背負うだけだからだ。
最初から「断固10日かかります」と言い張ったほうが得に決まっているからだ。
こうやって開き直られてしまうと、不利なのは仕事を出す側である。
最初の交渉がまともに機能しなくなるからだ。
「この仕事には10日かかります」
「今回は簡単でいいし余裕も見なくていいよ。5日で出来ない?」
「知ったことではありません。10日かかります」
という対応をされるようになる。
ここで仕事を出す側は、「こうやれば10日もかからないで済むだろう」ということを立証しないといけないが、隠し事合戦になった場合に有利なのは仕事を受ける側の方だ。
水掛け論にしてしまえば「10日かかる」ということを押し通すことができる。
さらに極論すれば、
「この仕事には100日かかります。( ゚д゚)、ペッ」
とか言い張ってしまうことも可能になってしまう。
そしてなんで100日もかかるのかと言われたら、その理由は「仕事を出す側の対応がクソだから」と言われてしまう。これはとても痛い。
もちろんここまでやられたら仕事を頼む先を変えるという選択肢もあるが、いつでも変更ができるわけでもないし、自分が必ずお客様の立場にいるとも限らない。
こうして仕事を出す側は、本来の納期以上の余裕をとって仕事を進めないといけなくなる。
全ての工程において誰も彼もが余裕を含ませるので、最終的な納期はずっと遅くなってしまう。
納期に限らず、無理なものは無理と主張しないと、このような世界が来てしまう。