【9:1ダイヤ】部下が上司と戦う方法 【ガン逃げ】
今日も仕事におけるライフハックの記事を書いてみようと思う。
先日の記事で、「上司が持っている8つのチート武器」について書いた。
clacff.hatenablog.comこんな武器を自由に使われては、部下としては何もできることは無くなってしまう。
相手のミスや手加減によってしかダメージが通らない状況であり、部下が上司に対して論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
しかし、部下の方には全く対抗策がないのだろうか?
実は考えてみるとこれが結構見つかる。
例え勝つことはできなくても、少ないチャンスになるべくダメージの大きい一撃を加える方法、あるいは自分が普段食らうダメージを最大まで安くする方法、といったものはある。
今日はそういった、部下側の上司に対する「対策」をまとめてみる。
目次:
1.やってしまいがちだが、通用しない戦法
先述したように、部下が上司に論理的な糾弾で挑むことは、まさしく9:1ダイヤのクソゲーだと言える。
そんな状況だから、まずは「やってはいけない戦法」を紹介する。
戦いの中で思いつく戦法だが、これらはあまりいい結果をもたらさない。
【不利な状況でもあきらめずに自分の意見を述べること】
上司と部下の関係に苦しむ問題なんて、世界のいつでもどこでも起こっていたはずだ。
たとえ自分の意見が通らなくても、糾弾し続けることが正義への唯一の道ではないか。
「いつかは分かってくれる」とは限らないとしても、コミュニケーションをあきらめてしまってはそこまでではないだろうか。
そういった、正義の発想が通じないのである。上司の持つ8つのチート武器の前には。
「通じない状況なのに意見を述べた」と言うこと自体が罪として判定されてしまう。
チート武器を使ってしまう上司の前では、話せば話すほど罪は蓄積されて、信頼関係は一向に蓄積されていかない。「いつかは分かってくれる」というゴールから逆に遠ざかっているのだ。
一応、部下にある程度の発言権が育ってくれば、「上司さんはチート武器ばっかり使ってズルいですよね!?」という形で糾弾をすることもできるようになる。
しかし、これも通用しない。
ズルいと言われた上司は、ムキになる。「じゃあ正々堂々と勝負をしようか?」と言う形で勝負を持ちかけてくるケースが多い。
そこで、「何を持って正々堂々とするか」は、上司の側が判定できてしまう。
部下の方が一方的に正しい状況の場合は、チート武器を使ってノーリスクで逃げることができるから、上司側に十分に勝ち目があるケースでしか、「正々堂々の勝負」はそもそも提案してこない。
こういう状況では、上司は部下を本気で負かそうとしてくる。
いつも通り部下を叩きのめせれば、それで完全に正義が証明できるのだから。
そんな状況でチート武器が使われない可能性は、はっきり言って皆無だ。その上司は普段から自分がズルをしているなんてことは認めていないので、いつも使っている武器はチート武器などではないのだから。
それに大前提として、そういう糾弾は、半年~一年単位で隙間を開けて、ここぞというときにしか使えない。相手の許容量以上に意見を述べてしまうと、またチート武器で倒されてしまうからだ。そもそも上司がそういう意見を聞き入れてくれる人間ならば、最初から苦労はしない。
実は、一回だけでいいのならば、上司を倒すこと自体はできる。
半年~一年の時間をかけて、不正の証拠を集め続ければいい。9:1ダイヤの戦いだと言っても、部下の側が5ゲージの無敵技を使えば、最低でも削りダメージは確実に与えることができるように。
上司が決定的なミスをさらした時、さらに上の上司が見ているとき、と言ったような、部下の側が勝つチャンスも、一年も待っていればひとつぐらいは見つかるはずだ。そこで集めたものを全部叩きつければ、大抵の場合で勝つことはできる。
しかし、戦いの発生自体、勝ち負けの判定自体を操作できてしまうのが、上司のチート武器の能力である。
仮に部下が勝ってしまったとしても、上司の方はその負けのポイントをゼロにすることすらできる。上司は仮に負けたとしても、明日から心を入れ替えて接する義務などないのだから。
2.部下の側が能動的にできる戦術
このように、「あきらめずに糾弾し続ける」というのは、姿勢としては正しくても、戦術としては正しくない。
部下の側が上司に対して出来る一番有効な戦術とは、とにかく死なないことである。
不利な戦いに勝つためにはどうしたらいいのか?と考えることが既にまずい。
9:1ダイヤのクソゲーなのだから、そもそも戦いなど始まっていないと考えるのが肝要である。
だから、部下の側がまず第一にやるべきことは、ダメージを減らして寿命を延ばすことである。
部下の側がチート武器を使う上司に対してダメージを取る手段は、基本的にハイリスクであるため、そもそも戦いを挑まないべきだ。
例え自分が武器を持っていたとしても、使用せずに徹底的に温存しておくべきだ。
上司との戦いからは、逃げ続けるべきである。ガン逃げを決め込むべきである。
ちょっとした会話でもチート武器を使われてしまうため、なるべく会話をしなくていいように、普段から立ち回るといい。
上司から逃げ続けると言っても、完全に逃げ切ることは仕事をしている以上は無理だろう。いつかは捕まってダメージを食ってしまう。
そういう時は、相手が望むような形でダウンすることを意識する。
一番ダメージが安い形で倒れておいて、その戦いから逃げることを目指そう。
反撃をすればカウンターを取られてさらにダメージが増えてしまうので、自分からは手を出してはいけない。こちらから技を振らない限りは、少なくともカウンターを取られることはない。
そうやって手を抜いていると、「何もしないのはダメ」「仕事が遅い」という形でチート武器が飛んでくることがあるが、直撃を食らうよりは寿命は幾分伸びる。
その上司が、部下を殺すことを絶対的な目的にしているような、故意のサディストである場合はちょっと無理だが、大抵の場合では上司の側にそんな気概はない。普段チート武器で胡坐をかいているようなやつに人を殺すような覚悟は生まれないし、仮にあったとしたら、その点をさらに上の上司に糾弾することができる。
3.部下の側の勝ち筋
このようにして上司から逃げ続けていても勝負にはならないが、そもそも勝負など最初から始まってはいない。
上司のチート武器に挑んでは打ちのめされる状況とは、信頼の蓄積速度がマイナスになっている状態である。戦えば戦うほど、ゴールから遠ざかっていく。
まずはこの状況を取りの解かなくてはならない。逃げ回っている限りは、少なくともマイナスにはならない。
こうやってマイナスをなくすことが部下の戦術の第一歩である。次はほんの少量でいいので、プラスを蓄積しよう。
部下の側としては、生き延びて仕事をしているだけでも少しはプラスになっている。
上司抜きで一人でできる仕事だって、いくらかはあるはずだ。そしてできるならば、なるべくほかの上司の下で仕事をするように仕向けるといい。
資格取得など、外部の機関で実力を蓄積することでも有利が取れる。
その途中で上司のチート武器も襲ってくるだろうが、粘り強く敗走を続けることで勝利が見えてくる。
このようにして、プラスマイナスゼロの状態でもいいので、年単位で生き延びてみよう。
すると次第に上司の側も飽きてくる。
次のターゲットが見つかるか、配置換えになるか等で、上司のチート武器の手も確実に緩んでくる。
そうなったときが、ようやく戦いの始まりである。自分が相手以上の権力を握れたら、その時は部下の側の勝利になる。
この戦いで、部下がチート上司に勝つことが出来た暁には、あなたの新しい部下にはもうそんな戦いはしないで済むようにしてあげてください。
【9:1ダイヤ】会社の上司が持つ8つの武器【クソゲー】
今日は、サラリーマンの職場における、人間関係のライフハックの話でも書こうと思う。
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あなたは職場において、「上司になかなか認められない…」と思ったことはありませんか?
あるいは、上司であるあなたが「部下がなかなか実力をつけてくれない…」と思っていませんか?
会社における部下と上司は、同じ人間であってもそれぞれの個性や能力が大きく異なります。
そして何より、持っている「武器」の数が違います。上司の方は、部下に比べて非常に多くの権限を与えられています。対等な立場に立ってものを考えることは、非常に難しいものです。
「あいつはダメなやつだ」とあきらめてしまう前に、お互いが持っている、「仕事の上での武器」を確認してみましょう!!
目次:
1.上司は部下より「圧倒的」に多くの権力を持っている
一言で言うと、会社における上司と言う立場は、部下に比べて圧倒的に多くの武器を持っている。
上司と部下がぶつかった場合は、何がどうあっても上司が負けることはない。
上司がわざわざ意識して手を緩めない限りは、部下が上司を超えることなど、ありはしない。
「部下がなかなか実力をつけてくれない…」と嘆いたところで、「上司になかなか認められない…」と嘆いたところで、上司が勝って部下を潰すだけならば、実力に関係なく、とても簡単なことである。
だからこそ、上司になる人間は、その前提を理解した上で、部下をものすごく慎重に扱わなければならない。
そうやって信頼を勝ち取らなければならない。
以下に、上司が持っているチート武器の一覧を示す。
2.上司が持っている、仕事においてのチート武器一覧
【チート武器その一】上司は、部下に供給する情報量を操作できる。
仕事の技術や知識だけでなく、日常の単純なホウレンソウでも、全部の情報を教えないことができる。仕事を進めるのに必要な情報の、一部分だけを断片的に教えることができる。その結果、言った言わないの水掛け論をするまでもなく、意図的に後出しジャンケンができる。
上司としては、完全に全部教える暇がないのかもしれない。言わなくても部下の方から気付いて欲しいのかもしれない。しかし、そのような事情すらも、「教えない」ことができる。
部下は「上司が全部教えなかったぞ!」という糾弾をすることができない。部下としては、言われたことしか聞くことはできない。
【チート武器その二】上司は、仕事をしないことができる。
先の例でも、「教えなければいけない」という仕事を回避している。
上司が部下から見て、完璧に仕事をやっている必然性はない。
その上司のさらに上の上司から見た場合は、確かに完璧に仕事ができていないとダメなのだが、部下から見た場合は、完璧に仕事ができていなくてもいい。部下にとって必要な仕事も、意図的にサボることができてしまうんだ。
部下は、上司に対して「アンタ仕事やってないじゃん」と糾弾することができない。
上司は、自分の手持ちの仕事量を隠すこともできるので、「上司にはもっと大変な仕事がたくさんあるんだろう」ということを信じ込ませることができる。
その結果、忙しい上司は「お前はもっと頑張らなくてはいけない」と逆に押し付けることもできる。
【チート武器その三】上司は、知らないフリができる。
上司が部下に教えなくてはならないことであっても、上司は知らないフリができる。上司が調べればすぐにわかることであっても、調べないことができる。
例えそれが、仕事を進めるうえで必要な知識であり、例えばJIS規格とか書類の番号などの、全員が知らなくてはならない共有事項であっても、上司は知らないフリができる。
部下は、上司に対して「上司ならこれぐらい知ってなきゃダメだろ!」と糾弾することができない。
なぜなら、上司は「何を持って当然とするか」というレベルを操作することができるからだ。
もしそこを突破して、「本当に上司が無知だった」という結論を導けたとしても、上司としてはまだ後出しジャンケンができる。「なぜおまえだけが知っていることを共有しなかったのか?」という責任を、部下に押し付けることができる。
だいたい、上司は、その仕事に関する知識経験はもちろん部下より多いはずで、部下が頑張って勉強したところで、上司を上回ることは根本的に不可能なんだ。
【チート武器その四】上司は、スコアをいじることができる。
なぜなら、部下を評価するのも、上司の仕事だからだ。
部下は満塁ホームランを打っても0.1点。
上司である自分は単発ヒットでも10点。
例えばこんな横暴なルールでも、自分の中だけで制定できて、正規のルールとして採用することができる。
部下の方が、「上司になかなか認められない…」と思い悩んで全力疾走したところで、ゴールの位置はどんどん遠ざけられる。アキレスと亀みたいなものだ。
【チート武器その五】上司は、不確定な内容を判定することができる。
職場における仕事の答えに、「絶対」なんてものが決まっているケースは少ない。
何が良くて何が悪いかは、時と場合によって変わるし、その変化を予測することは株主だってできない。
相手の感じ方や不文律、「決まっているわけじゃないけどなんとなくこうしておいた方がいい」といった経験など、多くの仕事はこういうもので成り立っている。
しかし上司は、その中で部下がどれを選ぶのが正解なのかを、判定することができる。
判別ではない。元々正解など分からないのだから、見てから好きに「判定」ができる。
仕事とは、やり方は一つではないし、正解も一つではない。そもそもそれほど厳密性を必要とする仕事も、そう多くはない。
しかし上司は部下に対して、「オレの方法」だけを唯一の正解として判定することができる。
例えるなら、「スパロボの育成にケチをつける同級生」みたいな真似が、合法的にできる。
【チート武器その六】上司は、さらに上の上司の反対意見を、回避することができる。
上司が係長だとして、その上の上司に部長がいるとする。
係長と部長と、部下である自分が同時に話をできるケースはそもそもレアである。
そしてそのような状況になったら、係長は部長にヘマを見せないように、特別に警戒するであろう。
そんな状況で、部下である自分が、上司のチートっぷりを告発をするのは、非常に危険な行為である。
仮に絶対的な証拠があったとしても、部長は係長を叩いて潰すようなことは、よほどのことがないとできない。それどころか、どちらかを叩かなければならない状況になったら、実績と経験がない部下の方を叩くだろう。
また、上司と自分が二人だけでいるときに、「部長がそう言っていましたよ」と言うこともできるが、その技も通用しない。「そんなの知らない」「お前の聞き間違いではないか」という意見を通すことができる。
上司がその部長をよほど個人的に信奉しているならまだ話は違うだろうが、実際のところは、上司は部長も認めてはいない。むしろ多くの場合で、「上に媚びないオレかっこいい」と思っている。
この上司のチート武器は、部長が叩いて直すこともできないわけだ。
【チート武器その七】上司は、殺すことができる。
チート武器その四でかいたように、上司の仕事の一つは部下を評価することである。
しかし結果を好きにいじることができる以上、「コイツはダメだった」という結果を自分で認定し、報告することができてしまう。
部下がいろいろ頑張って対処をしたところで、上司はいつでも部下を処断することができる。
リセットボタンどころか、電源ボタンがいつでも向こうから押せてしまうんだ。
【チート武器その八】上司は、生かすことができる。
上司は、部下に対しては相手の勝ち負けだけでなく、自分の勝ち負けも意図的に操作することができる。自分自身だけは、何がどうあっても生かすことができる。
例え上司が間違っていたと自分で気づいたとしても、それを認めて死ぬか死なないかは自分で選べる。
間違っていたら自分から自殺する、という強固な信念を持った人間でない限りは、自分自身だけは何があっても死ぬことはない。
3.「9:1ダイヤ」のゲーム
上司は、部下と違ってこのようなチート武器を持っている。
こんな強力な武器は、例え一つだけでも使ってしまったら、対等な勝負は成り立たない。
それが8個もある。
- 相手のミスによってしか自分の攻撃が通らない状況
- 通ったとしてもせいぜい一発だけでとても体力差で勝てない状況
これは、格闘ゲームでいう「9:1ダイヤ」に当たる。
なおゲーメストの割り振り方式において、この9:1というのは「10回戦えば1回は勝てる」という意味ではない。
「勝つ確率が0%」を意味する10:0ダイヤというものが現実的にありえないため、絶対に勝てないということを便宜的に表すために、一つ下の9:1という指標を用いている。
つまり、部下にとってはクソゲーである。
上司は、経験を積んでスキルがあるから、偉い。
だから強くていい、という言い分も確かにある。
上司だって実際には、普段の仕事において、チートばかりではなく、正しいことも多く言う。
経験とスキルに裏打ちされた指示ならば、多少理不尽でも一理ある指示なのであろう。
しかしその事実が、変に正しい部分も含んでいるだけ、タチが悪い。おかげで上司は自分の悪意に一生気付かない。
それに、スキルや経験で正義を語るならば、普通の上司より、その業界をいくつも渡り歩いている派遣社員の方が偉い。受験勉強に没頭している高校生のほうが偉い。そういうことを認めなければならなくなる。
上司は理不尽であっても、逆境に負けずに頑張る部下は偉い。
例えば、「見習い10年、親方の技を盗め」といったような頑固な世界なら、上司が職人気質みたいな姿勢を見せることで、部下が憧れを覚えて、より一層の努力を重ねるというパターンも、無いではないだろう。
しかし、よく考えてみてほしい。
例えそれで一人前になったとして、高い所から自分に石を投げ続けてきた人間を、本当に尊敬することができるのかを。
いくら部下を育ててくれたのが上司であったとしても、この「恨み」を帳消しにするほど素晴らしい指導をしてこれたと言えるかどうかを。
それをよく考えてみてほしい。
ゲームセンターで、古くから導入されている科学的なルール
先日の記事で、「ビデオゲームの持つ高潔さ」を書いた。
clacff.hatenablog.comビデオゲームは、科学やスポーツと同じように、追求するためにプレイをしている。
より深い真実に興味があるから、プレイをしている。
人の探究心に貴賤をつけることはできないはずであるが、それでもビデオゲームの趣味としての社会的な地位は低いままだ。
確かに、先の記事でも述べたように、「一つのメーカーが作った一つのゲーム」という範囲では、野球やサッカーよりもランクは低い。
それに金がかからないとはいえ、ほかで役に立つ肉体や技術が鍛えられるわけでもない。
見た目もキモいし、子供っぽい、というも間違いはないだろう。
そういった、「何も知らない人」に向けた人気がないと、金も集まらない。なので、いかに理念が立派であっても意味がない、という意見も正しい。
eスポーツがほかのスポーツと同じように認識されるようになるには、多くの時間と金が必要になるだろう。
そこで今日は、eスポーツの未来の発展のために、ビデオゲームにおける科学の歴史を書こうと思う。
1980年代の、スペースインベーダーの時代から、すでにビデオゲームの科学的なアプローチは始まっていた。
目次:
1.ビデオゲームの追及おける、ルールの厳密さ
先の記事で述べたように、ビデオゲームを追求することは、科学を追求することと同じである。
だからこそ、そこには厳密なルールが決められている。
ニコニコ動画に上がっているTAS動画でも同じで、例えば以下のようなことが議論になる場合が多い。
・本当に実機で再現ができる操作であるか(ex.ロックマン2のメタルブレードその場配置)
・どの地点をクリア画面とみなすか(ex.アイテム欄のバグでエンディング画面を呼び出すFF3)
・スコアが更新されたのはどちらが先か(ex.理論確定と、動画のアップをどちらを優先するか)
こういった事項の是非が、大真面目に議論されている。
「たかがゲームに何マジになってんの」という論理は、そこには含まれない。
ビデオゲームは、科学として追及する価値があり、趣味として高尚なものである。
科学と同じで、議論の余地が少しでも残っているのならば、前に進まなければならない。
面倒だから、という理由で打ち切ってしまった場合は、その世界はすべてが嘘っぱちになってしまうのだ。
2.「ハイスコア集計を打ち切る」という文化の意味
インターネットでTAS動画が出てきたのは2001年頃からだが、街のゲームセンターでは、1980年代からすでにゲームの科学的な追求が既に行われていた。
こういった歴史のある理念の例を一つ挙げてみる。
ゲームセンターでは、古くからある文化として、「ハイスコア集計」というものがある。
詳細は以下のサイトが詳しい。
Old Game Mesuem@@ƒAƒ‹ƒJƒfƒBƒA2001”N2ŒŽ†ŒfÚ•ª
インターネットが普及する以前から、全国のゲームセンターの筐体に残されたハイスコアを集めて、ゲーム雑誌の上で毎月ランキングを発表していた。
2015年にアルカディアが休刊してからは一時ストップしていたが、割と最近になって、以下のサイトで同様の試みが再開された。
ハイスコア追求の一例を挙げる。
例えば上の画像はカプコンの魔界村(1985)であるが、画像の上部に「10000」とハイスコアが表示されている。ゲームセンターでこんな感じにゲームをプレイして、スコアの多寡を競っていた。
ゲームのスコアは、内部でカウントできる桁数に限界がある。大体9999万点のものが多い。
しかし、一度でも9999万点のカンストのスコアが記録されてしまった場合は、もうその時点でスコアの集計は打ち切りとなる。その時点で、雑誌にスコアを送っても掲載されることは無くなり、どんなに高得点を取っても無意味になる。
なぜならばゲームの追及は科学と同じで、以前の記事に書いたように、「追求する余地があるから行っている」からだ。
clacff.hatenablog.comスコアの多寡という意味ではもうこれ以上ない、ということが証明されてしまったため、スコアを競うという意味では、もう遊ぶ意味がなくなる。
また、バグやテクニックによって、永久パターンで無限のスコアが取れるということが判明してしまったときも同様である。
例えまだ9999万点が実際に達成されていないとしても、永久パターンが確定してしまったときは、「もう9999万点が取れる」ということが確定してしまっている、スコアを競う意味がその時点でなくなる。
実際に上記の魔界村では、発売後まもなく1面のゾンビ狩りで永久パターンが発覚し、早い段階で修正基板を出す羽目になった。
永久パターンが発覚しただけで、実際に9999万点を取るまでやった者が現れたわけでもない。それに、ゲームの1面以降は楽しむ余地がまだそのまま残っている。
にもかかわらず、カプコンは多大な金額を払って、修正基板を出した。ごく一部分の修正のために、一台何十万円もする全国のアーケード筐体の基盤を交換したのだ。*1
カプコンとしては、コストの問題よりも、ハイスコアを追求する余地が無くなってしまったことが、ゲームとして大問題だったからだ。
こういう例が、下のサイトにいくつかまとまっている。
Old Game Mesuem@@ƒAƒ‹ƒJƒfƒBƒA2001”N2ŒŽ†ŒfÚ•ª
このように、たかがビデオゲームであっても、追求する余地が無くなるか、余地が全て知れてしまえば、ハイスコアの集計は行われなくなる。
そしてハイスコアを目指せなくなったプレイヤーたちは、またあらためて別のゲームでハイスコアを目指してプレイする。あるいは、一度ハイスコアが達成されたゲームでも、「ほかの遊び方は無いのだろうか」と模索する。
今度はタイムアタックに挑戦してみたり、武器を縛ってプレイしてみたり、そういう状況の下で、また新たなハイスコアを追求する。
こういった、明確かつ思い切りのいい原理が、1980年代のゲーム雑誌では既に実行されている。子供が遊ぶようなものであっても、ゲームを本気でプレイするということはこれぐらい厳密で価値があるものである。
- 「今自分たちがプレイしているゲームに意味はあるのか?」
- 「ハイスコアが達成されてしまったのならば、次に自分たちがやるべきことは何か?」
ビデオゲームをプレイする子供たちは、先日の記事で書いた羽生善治の発言と同じ原理を、1980年代にすでに理解していた。
3.ビデオゲームの真実と、現在の地位
この例だけではないが、ビデオゲームのプレイの追及には、長い歴史と科学的なアプローチがある。こんな崇高なことを、大人も子供もやっているのだ。
ビデオゲームをプレイする人は、堂々とプレイしていい。
今は趣味としては地位が低く認められていないが、それは社会の方が無知で未熟だからだ。
真実は十二分に含まれているし、競技人口も相当に多い。
野球や小説が昔は低俗な趣味とされていたように、趣味の価値が逆転することは大昔から何度も起こっている。ビデオゲームが逆転する日が、近いうちに必ず来る。
eスポーツと言う流れも当然で正当なものだ。
現在のところは、野球やオリンピックのように現在のところは大きい金やスポンサーが動いているわけではないが、そこもいずれは成長してくるだろう。
*1:一応、6面の一角獣を2匹から1匹に減らすという難易度調整もついでに行ってはいた
【趣味】ビデオゲームが持つ高潔さ【eスポーツ】
「ビデオゲーム」には実にいろんなタイプがある。
スマホでダウンロードして動かすもの、自宅のPCやテレビで動かすもの、ゲームセンターで金を払ってプレイするもの、など。
ここ10年ほどで、プレイする人口が一気に増えて、ずいぶん社会に浸透してきた。
togetter.comしかしこの記事でまとまっているように、ビデオゲームという趣味は、社会的な地位がまだ低い。
子供の趣味、オタクの趣味、暇つぶし、などと扱われている。
当然の前提として、趣味に貴賤はない。ビデオゲームだって立派な趣味である。
ただ、それぞれの趣味には損得はあるのだと思う。金・名声・技術・時間等、それぞれをどれぐらい得られるか、どれぐらい失うかは趣味によって違う。
そういう観点で話をすると、ビデオゲームとは、お金も余りかからないし、頭脳や感性を鍛えることができる、文明人らしい有利で便利な趣味であると思う。
自分が考えるに、ビデオゲームの本質はスポーツと同じである。
「プレイする」という言葉が共通して使われているように。
野球や陸上競技などと同じ原理で、eスポーツが行われている。
今日は、ビデオゲームの高潔さを書いてみようと思う。
目次:
1.ゲームを行う意味
ロジェ・カイヨワは「遊び」を「競争、偶然、模倣、眩暈」四つに分類した。
ビデオゲームは、これら「競争、偶然、模倣、眩暈」を全て含んだ総合遊戯である。なので、競争ばかりではなく、単純な「暇つぶし・気休め」というのもゲームの使い方の一つだ。何も考えずにだらだら時間を潰す、という目的のゲームもある。
しかし、多くのゲームでは、ハイスコアや、ネット上のランキングなど、プレイをする目的として、「競争」が採用されている。
対人戦の勝ち負けやネット上での順位を競うものは分かりやすいが、オフラインの育成ゲーや箱庭ゲーなども、そのゲームのルールだけで設定された基準に対して、競争をしているという点では同じだ。
何故競争をするか?というのが、ビデオゲームをプレイしない人にはわからないのだと思う。自分も昔はよくわからなかった。
勝ったところで何か得をするわけでもないし、敗者の顔を見て楽しむという目的があるわけでもない。
ビデオゲームで何故競争をするかと言えば、「どちらがなぜ強いのか」に純粋な興味があるからに他ならない、と自分は考える。
2.「eスポーツ」がスポーツ足りうる理由
陸上競技や球技などのスポーツが、なぜ追求されているかを以下に記す。
例えば、陸上競技の100m走なら、「人類がどれだけ早く100mを走れるか」ということに興味があるからである。
元をたどると、足が速ければ、それだけ自然界で種として生存に有利になるからであろう。そういう意味では、100走は興味の動機としては、もっとも根本的なものの一つだと言える。
それに対して、やり投げやハンマー投げの場合は一段ランクが下がって、「戦争の時により遠くから敵の陣地を攻撃するため」だと言える。
また、野球やサッカーの場合はさらにランクが下がって、「考案された面白いゲームをより楽しむため」に戦術・肉体が追求されている。
そういう話の先に、eスポーツがある。
スポーツとしての根本の動機は、野球やサッカーと同じで、「発売された面白いゲームをより楽しむため」であり、ランクとしては下の方に位置するが、ビデオゲームも本質的にはスポーツと何も変わりはしない。
ビデオゲームで競争をする理由は、どちらがなぜ強いのかに興味があるからであり、人間は最終的にどこまで強くなれるのかを、追求するためである。
繰り返すが、陸上競技や球技は、元の動機はさまざまであるが、どれも「どれだけ強くなれるか?」という純粋な興味によって追求が行われている。
集客によって金を稼ぐためではない。感動的で美しいプレイを楽しませるためでもない。
それは、外部の人間が勝手にそうやって利用しているだけの話で、スポーツの本質ではない。
eスポーツも、全く同じ動機で追求が行われている。マーケティング目的で気取って「eスポーツ」と名前がつけたわけではない。
繰り返すが、eスポーツは、「一つゲームをより楽しむため」「人がその範囲でどこまで強くなれるのかに興味があるため」にプレイされている。100m走や野球と何も変わりはしないから、「スポーツ」という名前が付けられている。
3.ビデオゲームを追求する行為と科学を追求する行為
スポーツを追求することは、科学を追求することと同じである。
以下の記事に、人間が科学技術を追求する意味を書いた。
最終的にはもちろん「人類の役に立つため」に科学を追求しているが、なぜ一見役に立たない細かいことでも追及しなければならないのか、という理由は、以下の二つだ。
-
一度気付いてしまった部分は「未開拓」であり、追求する余地が残っているから。
-
その未開拓の部分に、何か重要なものが眠っている可能性がゼロではないから。
eスポーツのような、対人戦で勝利することを目的としたものばかりではなく、たとえ一人用のゲームであっても、追求するプレイには科学的な意味がある。
TAS動画が、例としてわかりやすいかもしれない。
例えば、マリオ3やロックマン2を、「理論上どれだけ早くクリアできるのか?」ということを追求・研究している動画が、ニコニコ動画などでアップロードされている。
TAS動画は、すごいプレイを魅せることによるエンターテイメントを目的としたものではない。また、TASのコンテストで相手チームを打ち負かすことを目的としたものでもない。そういうものは、「人力TAS」や「祭りイベント」などで、別のジャンルとして取り扱われる。
TAS動画を研究する本質的な理由は、一つの会社が発売した一つのゲームの中で、「どれだけのことができるのか?」ということを、誰かが興味を持ってしまったからである。
先の記事でも同じことを述べているように、「こうすればもっと早くなるんじゃないか?」ということを、「誰かが気付いてしまったから」である。科学と同じで、「余地がそこにあるから」こそやっている。
科学の追及は、最終的な目的は「人類の役に立つため」とある意味一番上のランクであるが、ビデオゲームの場合は「一つのタイトルをより楽しむため」と、ランクは確かに下の方に位置する。
しかし科学のように包括的な範囲とは違って、ゲームには多くのタイトルがある。
だから、もしその一つのタイトルをやりつくしてしまったら、誰も何も思いつかないようになってしまったら、次のタイトルに移動すればいい。そこでまた、次の「科学」が生まれる。
将棋の羽生善治が、2014年に以下のようなインタビューを受けていた。
www.news-postseven.com「もし人口知能が将棋界を支配したら?」という問いに対して、羽生善治は以下のように答えている。
「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」
別にこれは、「ゼロベース思考」だとか、「将棋に対する努力を惜しまない羽生善治すげぇ!」という話ではない。「天才だけに見えている新たな境地」などでは断じてない。
ゲームを追求する基本的な原理であり、ゲームを追求するものならば、「いい年してなんでゲームやってるの?」とか言われたときに、持っていなければならない矜持である。
【極論注意】障碍者スポーツの真の理解
2016年9月8日に、リオデジャネイロパラインピックが開催される。
自分も、身内ではないけど障碍者の方が身近にいるので、なるべくテレビをつけて内容を追ってみようと思う。
パラリンピック開催に伴い、テレビのニュースなどでも特集が組まれていたが、やはりどの特集でも、二言目には「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマが挙げられている。
そういったところが、ゴールに設定されているように思う。
今日はこの、障碍者スポーツへの理解について書いてみようと思う。
そしてその中で、障碍者と言う言葉を根本的になくす方法も思いついてしまったので、書いてみようと思う。
目次:
1.障碍者スポーツへの理解、とは?
「障碍者スポーツへの理解と関心」というテーマを表す具体的な一例として、集客数の話がある。
車いすテニスの国内予選では、入場無料なのに客席がガラガラ、という例がニュースで紹介されていた。
「いかにして集客数を増やすか」と課題に取り組んでいる、とのことだが、「障碍者スポーツへの理解を深める」ことは、その解決策にはなっていないと思う。
確かに、障碍者スポーツへの理解があれば、興味を持つ人も増えて、集客数も増えるのかもしれないが、障碍者スポーツへの理解って、すでに大体十分なのではないか?
障碍者スポーツのルールとか、選手の生い立ちとか、有力選手の力関係とか。大抵の人は、健常者スポーツですらよくは知らない。
例えばラグビーは、女子ラグビーやワールドカップで話題沸騰中であるが、ラグビーのルールをちゃんと知っている人は、そう多くはない。
というか、リオデジャネイロオリンピックでメダルを取った卓球やバドミントンでも、選手の名前を知っているのは、マスコミが取り上げた数名だけではないか?
自分が思うに、スポーツを観戦して楽しむならば、プロの選手がすごい動きをしているのを見て、「すげー!」って言うだけでも十分楽しめるものだと思っている。
そして、そのように「すげー!」と言って楽しむのならば、障碍者スポーツは健常者スポーツよりずっとすごい。個人的にはこっちの方がおすすめだ。
本当にスポーツに「人気」と言うものを出すのならば、野球とかJリーグのように、桁違いの金額をかけてマーケティング・プロモーションをしなければならない。
多分それは、「障碍者スポーツに理解を深める」ぐらいのことでは達成できないのだと思う。
「健常者のスポーツへの興味>障碍者のスポーツへの興味」という構図は簡単には崩れないが、これは別に障碍者スポーツが悪いのではない。
そもそも障碍者と健常者に人口比に差があるので、ポテンシャルで障碍者スポーツと健常者スポーツが並んでいないということだ。
何か障碍者スポーツに、健常者スポーツにはない別に魅力があればいいが、そんなものがあったらあったで、障碍者スポーツへの理解は成り立たないような気がする。障碍者スポーツと健常者スポーツは、どんどん別のものになっていく気がする。
2.障碍者が障碍者でなくなる唯一の方法
前回のロンドンオリンピックで、オリンピックとパラリンピックの両方に出場した、オスカー・ピストリウスという選手がいた。義足で達成したその記録が、当時結構議論になった。
五輪陸上選手になった義足ラガーマン オスカー・ピストリウス|Did you know?|RUGBY REPUBLIC(ラグビー共和国)
今回のリオデジャネイロオリンピックでも、両足が義足のマルクス・レーム選手が出場を見送ったというニュースがある。
健常者超える記録が論争 義足ジャンパー、五輪に壁 - 読んで見フォト - 産経フォト
何故出場を見送ったかと言えば、陸上競技においては健常者より障碍者の方が有利である可能性があるからだ。
上記のリンクを見てもらえばわかるが、陸上競技用に開発された特別な義足であり、バネのように機能して、速くなっているのではないかという懸念がある。
現在のところはまだ科学的に有利だと証明されたわけではないが、義足の技術的な進歩が続けば、いずれは生身の足より義足の方が速くなってしまう日が必ず来る。
生身の選手より義足の選手の方が速いと、いったい何が問題になるのか。
分かりやすい理由の一つとしては、「生身の選手が、速さを求めて脚を切断するようになるから」である。
「そんなバカなことする奴いねーよwww」というのは無関係の一般人の感覚だ。
スポーツ選手は記録を伸ばすために、勝利するために人生すなわち命を懸けている。脚を切れば速くなるならば、当然切断するのが正解だ。たとえ本人が嫌がっても、親やコーチが切断させるだろう。
というより現在のところ、スポーツの世界ではすでに同じようなことが行われている。
小さいころから無理な筋トレや柔軟体操をして体を痛めつけることは、足を切断することと本質的には同じだ。スポーツで記録を残すために、不可逆な変化を肉体に加えているんだから。
そこで考えたのだが、このように「足を切断した方が速くなる」という手段が一般化すれば、障碍者と健常者の区別は無くなるのではないだろうか。
義足の技術が十分に進歩して、健常者の方が「脚などいらない」と言い出したその日が、本当の意味で障碍者という言葉が無くなった日でないだろうか。
元々足がない障碍者ならば、義足をつけるのにむしろ有利であり、それを健常者の方が羨む日が来れば、障碍者という概念が無くなるのではないだろうか。
バレリーナの二重関節のようなものである。
医学的には先天的な奇形であると言えるが、皆が羨む有利な才能であり、二重関節のバレリーナのことを障碍者と扱う者はいない。
3.未来の世界のスポーツ
この例のような、義足の進歩が人体を超えてしまう例は、もう20年ぐらいは未来の話かもしれない。
しかし、陸上選手のスパイクや水泳選手のスイムウェアなど、これと同じような話はすでに現実に起こっている。
器具だけの話ではなく、例えばプロテインが普通に薬局で買えるようになったという話にも、このような側面は含まれている。
陸上競技などのスポーツは、近い将来、モータースポーツのように工業技術を競う場になる。
そしてそのうちに、科学技術によって機械化された選手以外にも興味が向けられるようになる。かつての「パラリンピック」と同じように、生身の選手だけで行う「生身ンピック」が開催されるようになるだろう。
現在は、パラリンピックはオリンピックより競技人口も集客も少ないし、後の日程で行われる。
言い換えれば、「健常者スポーツ>障碍者スポーツ」である。
もし将来、パラリンピックが「生身ンピック」より先に開催される様になったら、その時は「障碍者に対する理解」が真に行われた社会になるのだろう。「健常者スポーツ<障碍者スポーツ」となり、障碍者スポーツに真の関心が寄せられる世界になるのだろう。
そしてその時には、「生身ンピック」の選手が、「健常者スポーツに理解・関心が足りない」とか言い出すのだろう。
厚生労働省のストレスチェックに対して考えること
2016年度から、労働安全衛生法により、一定規模以上の企業はストレスチェックを行うことが義務化された。
内容は、厚生労働省の以下の資料に分かりやすくまとめられている。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei12/pdf/150709-1.pdf
自分が働いている会社でも、近々行われることになり、説明会が開催された。
きっとよその会社でも、何らかの形でアクションがとられているのだろう。
今回はこのストレスチェックについて、考えたことや調べたことをまとめて見る。
このストレスチェックに対して、個人的な意見や感想を書いている人は意外と少ないと思ったので。
目次:
1.ストレスチェックは茶番であるのか?
いきなりこんな題名ではあるが、まず一番の論点になるのはここだ。
大前提として、多くのサラリーマンは、ストレスチェックなど茶番だと思っている。
企業が、従業員に対してストレスチェックを行わないことによる直接の罰則は、現状無い。
一応、ストレスチェックを行わないことにより何か裁判沙汰になった場合は、労働契約法の安全配慮義務違反で責任を問われることはあるようだが、どのみち事後の話だ。
そして普通のサラリーマンは、自分の会社相手に裁判を起こすような気概も能力も持ってはいない。
ストレスチェックが義務化されたと言っても、この時点でハイ解散、となっても仕方ない。
厚生労働省が何かルールを義務化したと言ったところで、「どうせ何も変わらないんでしょ?」という失望が先に出てくる状態だ。しかもその予測は大体のケースにおいて正しい。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というルールが、すでに有効性を帯びてきてしまっている。現代の日本の労働環境においては、証拠が明らかなパワハラやサビ残すら、労基は取り締まることができていないんだ。こんな状態で何を信じろと言うのだ。
多かれ少なかれ、パワハラとサビ残を味わったことがない正社員など、この国には一握りも存在していない。もともと現代の日本においては、サラリーマンと企業の信頼関係は、心情には成り立っていない。
今回の「ストレスチェック」のルールには、「人事権を持つ人はその紙を閲覧したり手に取ることはできない」とある。だから、ストレスチェックの結果が当人に不利な結果をもたらすことはない、ということになっている。
が、普通の企業ならば嫌でも目に入ってしまうし、悪い企業ならば積極的に盗んで利用する。間違いなく。
証拠は完全に消すことができるし、もしそれが暴かれることがあったとしても、その時にはすでに原告が死んでいるから無意味だ。
そしてストレスチェックが茶番だと思われる一番の理由は、「面談をしたところで何がどうなるものでもない」という点だ。当然この問題は残っている。
例え、最大限に結果を汲んでくれる超優しい会社であったとしても、ストレスチェックに引っかかった者への対応としては、異動させたり仕事を減らしたり、という内容でしかない。間違っても、サビ残がキツそうだから残業代をちゃんと出そう!という沙汰にはならない。
以上の理由により、ストレスチェックはやはり根本的には茶番であると言えてしまう、と思う。
しかし、一応今回のストレスチェックは、労働者の側からすれば、「タダで降ってきた権利」であると自分は考える。
今回のストレスチェックは、それ自体には一定の効果があるテストだと思う。そのテスト結果を会社が良い方向に利用してくれるかと言えば、8割がたNOなのだろうけど。
したがって、声を出せる元気があるならば、とりあえず訴えるだけ訴えておけばいいんじゃないだろうか。
2.ストレスチェックの効果と対策
ストレスチェックの内容は事前に公開されている。
厚生労働省のサイトで、問題全文をWord形式でダウンロードできる。
大体の流れとしては、以下のような質問を全部で40問行い、そう思うorそう思わない を4段階でチェックシートに書き込む、というものだ。
- 非常にたくさんの仕事をしなければならない
- (最近一か月の間で)活気がわいてくる
- 職場の上司とどのくらい気軽に話ができますか? など
「こんな質問並べたぐらいで人の心など分かるものか」と思うかも知れないが、間違いなく効果はある。
なぜならば、本当にメンタルがやばいことになっている人は、こんなテストもまともに答えられないぐらいの惨状になっているから。
現代社会はそこまで人を追い詰めるものであり、そういう被害者が多発したからこそ、今回のストレスチェックが企画された。
ストレスチェックでよく指摘される問題点の一つとして、「成績が悪かった者はストレス耐性が弱いというレッテルを貼られてしまう」というものがある。それによって、立場が悪くなったり、出世に響いたりするという恐れがある。
しかし先述したとおり、この程度のテストに合格できなければ、レッテル貼りとか心配するまでもなく、本当にまずい。
ストレスチェックを受ける社員の中には、「現状なんとか耐えれるけど弱みを見せたら不利益な扱いを受ける」という微妙な立ち位置にいる人もいるだろう。
そういう心配があるなら、ストレスチェックは拒否できるルールがあるし、その選択すら無理だと言うならば、適当に嘘を書いてクリアしておけばいい。
問題は先の厚生労働省のサイトですべて公開されているので、心配な人は予習しておこう。
しかし、ストレスチェックでやばい判定が出た場合でも、実際に医者と面談ができるまでに2~3か月はかかる。その期間に耐えきれる人でないと意味がない、と言う側面はある。
今日一日が耐え切れない本当にヤバい人は、助からないテストではある。
3.ストレスチェックの取り扱いについて
今回行われるストレスチェックは、今回行われるストレスチェックは、本当にヤバい人をあぶりだすことができる、必要で有効なテストだと思う。
だから、ストレスチェックを外部に丸投げしようなどと考える企業は、そもそも腐っている。そういう意味では、自分の会社を判断する機会を与えてくれるという効果もありそうだ。
先述したように、別にストレスチェック自体で社員が救われるわけではない。
本当に必要なものは、法的な救済などではなく、会社と社員の信頼関係の再構築である。
今回のストレスチェックは、企業にとっては受けさせることは義務であるが、従業員にとっては受けることは義務ではない。
このルールを悪用すれば、ストレスチェックさぼりたい会社からすれば「何故か社員全員が受けようとしませんでした。終わり。」で済ませることもできる。
そして、「そういう風に済ませてくれる」ということをセールスポイントにする委託先もあるのだろう。
そして多くの企業は、今回のストレスチェックは外注に丸投げしているようだ…
その理由としては、企業医がやる気なかったり(合法)、そもそもいなかったり(違法)と言うのを除けば、やはり「忙しすぎて無理」と言うところが多いのだろう。
しかし、これぐらいはメンタルヘルスに手間を割けるような会社じゃなければそもそもまずい。
今回、厚生労働省がそう判断したのが、このストレスチェックのあらましである。
まとめると、今回のストレスチェックはまだ不十分な面もあるが、大丈夫な面を見ればとりあえずは有用であると言える。
これだけ全国的に実施されるのはこれが初めてだから、さぼらずにきっちり行うのをお勧めする。
選挙と同じで、「ちゃんとやる人」が多ければ効果は見直されていくと思う。
そして選挙と違って、割と確実に自分に結果が跳ね返ってくるのだから。
二次元文化の表現規制に対する論法
東京都知事選挙が行われている本日だが、それに先んじて表現規制に関することが話題になった。
togetter.comやはり二次元の文化の規制に関することが、関心を持たれている。
clacff.hatenablog.com先日の記事に書いたように、やはりインターネットはオタクの文化が成熟しやすいので、ネットの社会において、表現規制は切実な問題である。
二次元文化に対する規制はとても歴史が長い。何度も規制案が出てきては消えてを繰り返している、とても根深い問題である。大体は以下のページにまとまっている。
自分自身は、表現規制にはやっぱり反対の立場である。
ただ不謹慎だから・エロいからというだけでは規制をする理由にならないし、定義もゾーニングもあいまいなままで、感情論以外が全然出てこないからだ。
インターネットの言論においては、大体主流の意見、というより当然の意見だと思う。
しかし、表現規制を反対するという意見を述べるにはどういうことを考えないといけないのか?ということに、いくつか思うことがあるので書いてみる。
目次:
1.なぜ規制されようとしているのか
いわゆる表現規制の問題は、本来はあらゆる表現に関する包括的な話題であるはずだが、今日の記事ではインターネットで話題になっている部分である、「ゲームや漫画のような、二次元文化のエロ・グロ規制」という部分だけに着目する。
表現規制が行われる理由には、特定の選挙アピールと言った理由や、特定団体の利権といったような理由も、存在はしていると思う。
しかしそういったものを抜きにしても、二次元文化が規制される理由は、もちろんある。
現在のような成熟しまくった二次元文化を鑑みれば明らかだが、子供の教育・成長には確実に影響が出るだろう。現在の二次元文化のレベルは、何十年か前の水準をどうみても超えている。
例えば、子供がチャンピオンREDのような雑誌を、本屋で何の抵抗もなく買うことができてしまったら、確かにそれは問題だろう。ゾーニング自体はもっと強化するべきだという意見は、表現規制反対派の中でも根強い。
このように、確かに二次元文化は規制される理由はある。
本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。
2.なぜ規制の争いに決着がつかないのか。
繰り返すが、本当に問題になっているのは、規制の是非ではなく規制の範囲である。
表現の自由が憲法により認められているとか、芸術を犯すことは文化の死につながるとか、そういった主張も規制反対派にはあるが、それにしたって限度はある。
例えば、いくら表現が自由だといっても「マンガのセリフの中に誰かの本名や住所を勝手に書いたらマズい」ということならば、納得ができるだろう。
社会を維持するためには、やってはいけない範囲というのは、もちろん定められなければならない。
しかし、その範囲の議論がいつまでたっても行われない。
・「漫画はダメです。」
・「ドラえもんはいい。」
とか、その程度の戯言しか規制派は出してこない。
反論に対しては「オタクの意見キモい」と耳をふさいで、これ以上の議論を進めようとしない。そして、規制することだけは進めようとする。
これは、行政の判断リソースが全く割かれていないことが原因である。
端的に行ってしまえば、現在議論されている規制の範囲なんてものは、社会で地位を持った、偉いハゲ数人が、適当に身内で選んだ結果でしかないから。
当時は、手塚治虫や石ノ森章太郎の作品でさえ、校庭で焚書された。しかし2016年の現在だったら、これらの方は神様であるので、焚書なんてとんでもない。むしろ子供に勧めて読ませるだろう。
これは二枚舌ではない。本を燃やすか燃やさないかは、その時の偉い大人の判断で決まるから。
「当時は手塚治虫が気に入らなかったから燃やしたけど、今は気に入るから大丈夫。」奴らはこんな言い分すら通すことができる。
「これはクールジャパンだけどこれはクールジャパンじゃない」などといったキャンペーンを好きに設計することができる。
最初から正義など有りはしない。だから、「何を規制するべきか?」という問いに答えられない。
大体、芸術と言う深すぎる対象に対して、ちょっと話したぐらいで全員が納得するものを決めるなんてことが土台無理なのだ。
日本が間接民主主義を採用している以上、もともとこのように数人の指導者が多数の民衆の意見を決定することで成り立っていたはずだ。
芸術にかかわる人間の数が増えすぎたことが、根本的な原因でもある。
3.ここでも起こり得る、「やってはいけない批判」
表現規制に関する議論は、このようなところでストップしている。
筋が通っていないのはどう考えても規制派の方であるが、規制反対派としてできることは、票を与えないことと、正義を唱え続けることぐらいのものだ。
規制反対派はそうやって正義を唱え続けているが、やっぱり「間違った批判」をしてしまっているケースが多々見られる。
何度でもいうが、「二次元文化には~賞を受賞した素晴らしい人がいる!」という論法は、自爆に等しい。
「賞を取れない漫画は下品だから規制する」という論理を許すことになる。
以前当ブログで書いた、スマホと科学者の話と同じである。 clacff.hatenablog.com「スマホが作れるようになる程度の科学だったらやる価値無い」と、無関係の人間が切り捨てることができるようになってしまう。
以前当ブログで書いた、断捨離の話でも言っている。
clacff.hatenablog.com「高くないものなら捨てていい」という論理を許すことになる。そして規制派は、この例で行けば大抵「金持ち」にあたるので、あらゆるものが捨てられてしまうようになる。
「二次元文化には~様がいる!~様もいる!」というインパクトでゴリ押せるのは、馬鹿な大衆だけだ。
大衆を操るのでは奴らと同じであるというだけでなく、本来の理を無視して大衆という武器で奴らに立ち向かおうというならば、絶対に向こうの方が有利になる。
「~賞を受賞した世界に認められた偉人」だとしても、その賞を発行するのは、どちらかと言えば規制をする側の人間である。
賞は関係なく、売れたかどうかという話だとしてもダメだ。売れたという判定をするのも、実際に売るのも、どちらかと言えば規制をする側の人間である。
元々正義自体は確実に規制反対派の方にあるのだから、主張するものを間違えてはならない。二次元のエロ漫画を読んでいても罪ではないとそう思うのならば、ちゃんとそうやって言えばいい。
こそこそやっているから、叩く機会を与えることになる。