たけしの挑戦状は本当にクソゲーだったのか?
こんなまとめを読んでみた。
togetter.com“統計は模倣をするためでなく、未来を創造するために使う”という点に深く納得したが、それよりも、ビデオゲームの難易度に関する話題に興味を持った。
クリア率0.3%のゲームなんて分かってたら「俺には無理だ」って人がほとんどだから売れない。
なんかこのブログは、愚民と科学の事ばかりを書いている気がするから、久しぶりにゲームのことを書いてみようと思う。
“たけしの挑戦状はなぜ許されなかったのか”。
自分も昔少しこういう言論をかじったことがあるから、書いてみよう。
目次:
1.このゲームの一般的な評価
たけしの挑戦状というゲームは有名だと思う。
しかし、昔も今も“伝説のクソゲー”ということで評価は一貫している。
ゲームスタートしても目的すらわからない、ノーヒントでクリアできるわけないゲーム、といった評価である。事実としてはそれであっていると思う。
www26.atwiki.jp“伝説のクソゲー”ということで、ゲームカタログwikiなら綿密で、なおかつ良質で長文のレビューが見られる。
そこでも、やはり“これはノーヒントのクソゲーだ”と評価されている。
ゲームカタログwikiでも言及されているが、このゲームが現在一番評価されている点は、世界観だ。
“サラリーマンを操作して街中を自由に歩けるゲーム”なんてものは確かに斬新で面白かった。
今でこそ龍が如くとかGTAとかあるが、その面白さの先駆者であると言える。
ビートたけしの世界観の元祖だとかとも言われている。
街並みにいろいろな建物があり、中に入ることができる。パチンコゲームやカラオケゲームもある。カルチャースクールもある。ヤクザを殴ると金がもらえる。社長を殴れる。奥さんや子供も殴れる。このゲームでできることはとても多く、バイオレンスで面白い。
また、歩く・しゃがむ・ジャンプ・大ジャンプ・パンチ・話しかける といったアクションは、当時のアクションゲームとして考えれば結構多彩な部類に入る。
その上、ストーリーが進むと銃を撃てたり石を投げれたりする。
サラリーマンを大ジャンプさせて、通行人を殴り倒し、そこらの店に入って酒を飲めるゲーム!
このゲームを操作しているワクワク感は、正直マリオより上だった。
だからこそ、謎解きなんか投げ捨ててパスワードハックで銃を撃ちまくるプレイだけでも楽しかったのだろう。
パスワードはいつでも取れるし、子供同士が伝承しやすいようなネタパスワードもたくさんある。この辺にこのゲームのクオリティの隙のなさを感じる。
だからこそ、売れてしまったのだろう。
2.難易度に関する議論
こんなに楽しいゲームがなぜクソゲー扱いされているかと言えば、それは難易度が高すぎるからである。
ここに一番の誤解があると、自分は思う。
この「たけしの挑戦状」は、最初から全員がクリアできるようには作られていない。
ファイナルファンタジーのような、ある意味“クリアしてくれないと話が成り立たないゲーム”ではない。
文字通りの“挑戦状”であり、賞金付きのパズルのような性質のゲームだ。
クリア者を簡単には出さないためのゲームであり、謎解きゲームとしてはむしろ歴史があり正当な分野である。
「謎を解けるか。一億人。」
「常識があぶない。」
「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」
そもそも、このゲームのキャッチコピーからしてこれである。
このゲームでエンディングまでいくと、たけしが「えらいっ」と褒めてくれる。
1万人に一人クリアできればそれでいいゲームなんだこれは。
そりゃ難しいに決まっている。
しかし難しいとは言っても、パズルとしては当然成り立っている。それも、割と高度で繊細なレベルで。このゲームで理不尽と言われている点はたくさんあるが、いくつかを擁護してみようと思う。
(問題点1.)最初に辞表を提出しなければクリア不能
(解答)辞表を出さずに進むと、途中で“会社に戻ってこい”と言われて最初に戻されるイベントがある。そのため、一度これでミスったプレイヤーなら、“あれ、これは最初の選択肢で辞表を出しておかなければダメなんじゃないか?”と気付ける余地がある。(しかも、このゲームのスタート地点は社長室なので、二週目を始めたらに気付けるタイミングがすぐに来るという仕掛けもある。)離婚イベントや地図のジジイを殺しておくイベントも同様。
(問題点2.)宝の地図の出し方
(解答)1時間も操作しないで待たないといけない!とよく勘違いされるが、それは正規の方法ではない。ゲーム中には“5分が勝負だ”というヒントのセリフがある。そしてなにより、このソフトのテレビCMでたけしが宝の地図にマイクを使っているという大掛かりなヒントが出ている。(むしろ現代ならば、斬新だが納得できるヒントの手法として認められていると思う)
(問題点3.)セスナで行くとなぞのくうちゅうばくはつ
(解答)これも、“飛行機では滑走路がないからダメだ”というヒントのセリフがある。ハンググライダーだと難易度が異様に高く、目的の島も複数存在するところが難しいが、総当たりで調べれるだけまだマシだ。また、ここではちゃんと正解を選ぶと正式なサブタイトルが出てくれる、というご褒美もある。
(問題点4.)どうくつでしゃがむとか分かる訳ない
(解答)“うんこは地下への導き”とか、“山の上でうんこ”といったヒントはある。日本兵の家へ行く方法のヒントもある。うんこ=しゃがむということには、テレビゲームに慣れた当時の子供なら、いろいろ操作していれば普通に発想できるレベルだと思う。洞窟内部に来てしまったらもうヒントはないが、ここまでくればいろいろ試すだろう。
ほかにも、謎解きの部分は大体が選択式なので、総当たりでも解決はできる。
まあ、ダミーの選択肢が多すぎる・カラオケの判定にバグがある・パチンコの玉が出ない・三味線か尺八か・土産屋で何を買っていけばいいか 等といった、ちょっと擁護不能なところもあるが…
3.”挑戦者上等”か、“みんなでエンディング”か
たけしの挑戦状は、“挑戦者上等”のパズルとしては、よくできた名作だったと思う。
世界観とかアクションゲームとしての評価以前に、そういうところでもちゃんと価値がある作品だったと思う。
そしてこのゲームはもともと、北野武が“難易度が高すぎる”というスタッフの意見を突っぱねてまで作った、とにかく斬新で印象に残るゲームだった、というインタビューの記事も残っている。
しかし、それでも難易度は高すぎたのだろう。
一万人に一人クリアできればいいとはいっても、これ俺には無理じゃね?とあきらめるまでの時間が想定した以上に短かったのだろう。
そして、下手にアクションゲームとしては名作だったから、騙される人も多かったのだと思う。正直、もっとガチガチのADVだったら、そこまで叩かれてはいなかったと思う。
当時はファミコンソフトの値段も相対的に高価だったという懐事情もあった。
当時のファミリーコンピューターには、難過ぎてクリアできないゲームや、理不尽すぎてプレイできないゲームがあふれていた。
そんな初期の作品群でも、マリオやドラクエは、「頑張ればちゃんとクリアできる」というゲームバランスにより好評を博した。
たけしの挑戦状というゲームは、謎解きとしては純粋で歴史があるスタイルのはずだが、1986年当時には、すでにテレビゲームはクリアするものではなく楽しむもの、という新しい理解が始まっていた。
“挑戦者上等”か、それとも“みんながちゃんとエンディング”か。
どちらでも楽しいゲームは存在するのだろうが、1986年当時にはすでに、市場規模が大きいのは、“みんながちゃんとエンディング”のほうだった。
金を払ってくれて人口が集まってくれるのは、こちらの方だった。
しかし、たけしの挑戦状は“挑戦者上等”に分類されるゲームであり、だからこそクソゲーと呼ばれた。
そして、このゲームが現在受けている“クソゲー”だという評価は、当時このゲームが解けなかった負け犬たちが送る拍手である。
自分も当時全く解けなかった口だけどさ。
【売れれば正義?】漫画作品のエグいシーンを切り取ったネット広告について
clacff.hatenablog.com“馬鹿の多さに期待する”という戦法は、とてつもなく有効であるが、長期的には人が蓄積した知性を食いつぶす悪手である、と先日の記事で書いた。
そして、現代の社会における大抵の不幸も、この“馬鹿の多さ”を肯定することによって運営されるロジックである、とも書いた。
社会には、こんな不幸があふれている。
とても説明に使いやすい事例がさっそく出てきたので、紹介してみようと思う。
目次:
1.漫画作品のエグいシーンを切り取ったネット広告
togetter.com漫画作品の内容を歪めて、ショッキングでキャッチーな広告に仕立て上げる。
その結果、多くの人の目に入り、商業的にはより多く売れるようになる。
こういった手法が、さっそく使われている。
インターネットにおいて広告を配信するビジネスモデルでは、“これが有効な手法である”と、綿密な調査と統計により、明らかにされた。
どんな作品でも、目に入らなければ、認知されなければ、評価すらされない。
どんな作品でも、売れなければ、出版社が食っていくことができない。
そういった論理は一応成り立っている。
しかしそんな事情があろうとなかろうと、“嘘”を押し付けられた時点で、その作品はもれなく死亡する。
それでもなお、こんな手法を採用するのかどうかというのは、ちょっとよく考えたほうがいい。
「どうやって嘘を作り上げてやろう」と、漫画からわざわざこういうコマを探して、嘘の画像を仕立てあげている間に、その編集者はどんな顔をしているだろうか。
上からこうやって作れと指示されているだけで、当人は何も考えていないのだろうか。
それとも、実は作品の中身なんて読んでないから何も知らないのだろうか。
ちゃんと中身の作品を読んだ上で、こういう広告を作らされているのだとしたら、そりゃ精神だっておかしくなるだろう。
声が大きく拡散能力を持った出版社と言う組織の人間が、そういう精神状態にあるというのは、とても危険で有害だ。
2.こういう手法を許し続けるとどうなるか
こういった嘘広告という手法が氾濫することで、担当者の精神が狂っていっているらしいが、むしろ今はまだマシなのかもしれない。ちゃんと作品を読んだうえで気を病んでいるのならばまだいい。
本当に恐ろしいのは、こんな思いをするのは嫌だから作品なんて読まずに広告を作る、と割り切られた時だ。
出版社が作品を読まないようになったら、もう全部おしまいである。
“嘘を書いて釣り上げてやっている”ということにすら気付けずに、本当に嘘を流してしまうケースだって出てくるだろう。
査読をしない論文雑誌が権威を持っているようなものだ。
そういう者が科学を広める役割を担ってしまうと、誰も科学を理解しない世界がやってくる。
“書いた者だけが分かっていればいい・読める者だけが分かっていればいい”という姿勢には、これだけ大きなリスクがある。
そんな姿勢では、出版して広める意味がなくなる。広めることができない以上、それだけ価値が落ちる。
科学も技術も政治も芸術も商業もスポーツも、人類が積み上げてきたものは、みんな同じ論理で破壊できる。
3.特定の心だけが鍛えられていく
ところで、今回の“漫画のエグいシーンを切り取って広告にする”という手法で利用されるものは、虐待とかエログロの内容が多い。
虐待とかエログロとか、こういうものこそが人の心によく響く。
そういう事実を、綿密な調査のもとで見出したのだろう。
人間の心理なんてものは、結局そういうものだったのかもしれない。
人の心には下種な部分は確かにある。
しかし、その感情だけを使っていたら、そればかりが鍛え上げられていく。
多くのビデオゲームが教えてくれているように、同じスキルばかり使っていたらそこしかレベルが上がらない。
そんな下種な心がカンストすれば、すなわちこういう“漫画のエグいシーンを切り取った広告”が完全に飽きられてしまえば、たぶん業界は別の広告を考えだすのだろう。
何年後か何十年後かは知らないが、そのときまでは、こういった下種な手法は横行し続けるわけだ。
そして、“今の市場ならこんな程度の広告が有効だろう”という判断基準は、その時の社会における“品性のボリュームゾーン”に合わせられる。
すなわち、現在の社会における人の品性の最小公約数を参照してしまう。
人口が多ければ多いほど、特に馬鹿の人口が多ければ多いほど、こういった下種な手法は長持ちしてしまうわけだ。
4.聴衆・消費者の責任
“儲かればいい”という資本主義のシステムは、とてもよくできているが、限界があるとしたら、ここだ。
人類の知性<金となってしまったら、人は自らを維持できないレベルにまで退化して終了する。
“嘘でも売れればいい”という思想は、このような理由があるから危険である。タダでついていい嘘なんて一つだって存在はしていないんだ。
今回の漫画広告のケースにおいては、“一応は実際のコマを使っているから、嘘はついていないよ”という保身が可能である。本当に作品を読んだ上でこの部分を切り取ってしまった、と言い張ることも可能である。
そのようにして、人類が積み上げてきた成果は、最小公約数だけしか活用されないで潰されていく。
漫画も科学もスポーツも、作品を手に取るそれぞれの個人が、自分の責任で判断力を鍛えなければならない。
さもなければ、漫画作品みたいな身近で崇高なものでさえ、簡単に壊されてしまう。
こんな社会では、いずれ漫画を真面目に描く人だっていなくなるだろう。
「みんないいならそれでいい」という、愛を肯定して生きる思想。
多数決の結果をそのまま信じ込んでしまう思想。そんな他人至上主義・自分至上主義を採用してしまうと、人間は猿に戻る。
それはとても心地よくて楽な生き方ではあるが、やはり人は愛だけで生きてはならないと思うんだ。
社会において、「馬鹿に期待する」という戦法の有効性
人間は、知性で生きるのか、本能で生きるのか。
すなわち、理屈で生きるのか、愛情で生きるのか。
理屈も愛も、根っこは同じなのだとは思うが、以前にこんな記事を書いた。 clacff.hatenablog.com
愛で生きることは、人間の本能としては正しい。
理屈だって愛がなければ運用はできない。
自分はそう考えている。
しかし、いくら本能だからと言っても、愛だけで生きることは相当にヤバい。
本能だけで生きて、何も考えないで満足して、寿命で死んでいくことは心地よいのだろう。
しかし人間は、なるべく急いで本能から脱却して、知性で生きることを覚えなくてはいけない。
今日はそんな記事を書いてみる。
目次:
1.(過去の記事のリライト)
冒頭に紹介した、以前自分が書いた記事でも、一つの答えは出している。
すなわち、愛だけで生きることは相当にヤバい。その理由の一つは、「人間が行使できる愛が有限であるから」だ。
人間は、目は二つ・頭は一つしかない。
他人に配慮をする余力や、愛を確かめるための貢物も、決して無尽蔵ではない。
例え家族であっても、精神的に安定して暮らせるのはせいぜい5~6人までであるし、世界各国の陸軍における一班の人数もそれぐらいまでだ。
10人ぐらいの友達グループを作ったら、必ず一人二人は「付き合いの薄い人」が出てくるでしょう?
そこで次は100人の友達グループを作ったとしたら、顔と名前がすぐに一致させれる人数は、多くてもせいぜい60~70人程度ではないだろうか。
何か契約とか目的意識を共有しているならともかく、人間が運用できる愛なんてものはこれぐらいが限度だ。
100人のグループを作ってしまった時点で、すでに3割の人間は敗北者になって死亡している。「愛で生きる」世界においてはそういうことになる。
現代の社会を見てみると、「愛で生きる」という方式を採用している人が、割合的には多いが、人間が行使できる愛には上限がある。
差別・恋愛・見栄の張り合い・学歴マウンティングといったような活動は全て、人が人を対象に取る行為である以上、「愛の奪い合い」であると言える。
3割の人間が死亡しないためには、理屈と言う武器を取らざるを得ないんだ。
ジョージ・バーナード・ショーと言う人が、こんな言葉を残している。
もし君と僕がりんごを交換したら、持っているりんごはやはり、 ひとつずつだ。
愛や資源は有限であるが、知識や情報は無限である。
いくらコピーしてもなくならない、無限のエネルギーである。
2.「愛で生きる」ことの、もう一つのヤバさ
人間が複数集まった場合、手の数や労働力は、その人数だけ倍加するだろう。
太古から、人類はそうやって群れを作って、数の力によって自然の中で生き延びてきた。
それゆえに、人間は本能的に愛を肯定するように進化した。
しかし、意識や知性は、人数が集まっても倍加しない。
端的に言えば、人間は集まれば集まるほど、頭は悪くなる。
ウェイ系の馬鹿大学生や、群れないと静かになるDQN高校生を見ていればよくわかることであるが、これにはちゃんとした原理がある。
人間の知性は、人数が集まっても最小公約数でしか発現しないからだ。
人の集まりを一つの活動体とした場合、考えが複数あったところで、実際に採用できるのは一つだけである。
じゃあその中で「一番いい考え」を選べばいいはずだが、実際に採用されるのはその中で「一番悪い考え」である。
だって、一番いい考えを採用することは、一番悪い考えをしてしまった人を、否定することになるから。誰かの意見を無視して踏みつけることになるから。
例え馬鹿であっても、「無視されて馬鹿にされるのは嫌だ」という人間の本能は残っているから。
暴力や強制を使用するなら話は別だが、人が愛を求めて全員で行動しようとする以上は、誰かを否定して置いていくことはできない。
だから、一番レベルの低い考えで動かなければならない。
逆に言えば、組織においてまともな考えを採用しようとするならば、何らかの形で否定と言う名の暴力や強制を使用するしかない。
この社会において、「集まれば集まるほど馬鹿になっていく人たち」というのを、何度も見たことがあるはずだ。
学校のクラス・クソ文系・中二病技術者・左翼のデモ・独裁国家・田舎の親戚集団・PTAのBBA・体育会系・ウェイ系・日本・カルト宗教・ブラック企業、など。
現代の社会において、不幸と名がつく大抵のものは、愛を肯定することによって生み出された馬鹿が、作り出している。
人が組織を作る際は、よほど注意してマネージメントに力を割かないと、みんな馬鹿になっていく。どんな軍隊でも大企業でも、これは同じ苦労だ。
人間は、集まれば集まるほど、頭は悪くなる。
しかし、インターネットという場では、他人の目を気にせず、一人だけで真実を発信することができる。インターネットの言論にはそういう強さがあると思っている。
3.「馬鹿に期待する」という戦法
人間は集まれば集まるほど腕力は増えるが、知性は下がる。
まあこれは仕方ない原理と言うか、人間と言うシステムの仕様であると思う。
この愛の機能がなければ、おそらく人類はここまで生存できなかったから。
こういった人類のシステムの仕様をついた戦法で、非常に強力なものがある。
次のアップデートではおそらく修正される、バグレベルの壊れ技だ。
「人口が多ければ、数撃ちゃ当たる戦法」。
例えば、割と最近の例ではこういう戦法。
togetter.com確かに日本には1億人も有権者がいるんだから、大ボラ吹いておけば何割かは騙せてしまう。
そしてそれは、割と期待値が高い。社会には愛だけを肯定する馬鹿が大勢いるから。
いつかの民主党政権も、間違いなくそうやって誕生した。
また、この案件もそんな戦法の一例だ。*1
togetter.com「タダでプログラミングを教える仕事をやれ」という主張は明らかなる嘘であるが、人類の社会がより発達して人口が多いほど、こういう嘘が通しやすくなる。これだけ人があふれている社会なら、誰か一人ぐらいはホイホイついて行ってしまう。知ってか知らずかは分からないが、一人でも釣れればそれで勝ちになってしまう。
人口が多くなればなるほど人間は馬鹿になり、嘘を通すことができるようになる。
すなわち、社会は成長すればするほど、真実は失われていくんだ。
人間社会の進化は、このような矛盾を抱えている。
そういえば、自分が高校生の時に、クラスメイトがこんなことをやっていた。
「10円ちょうだい!」全員に声をかけながら、と、学校中で歩き回る。
すると1クラスで一人ぐらいは、本当に10円をくれるやつがいる。
10クラス回れば100円になる。100円あれば、昼食にパンを買うことができる。
馬鹿な高校に通っていたものだとつくづく思うが、そこには愛の真実もあった。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、確かにその社会では正義を持ってしまっている。納得しているのは馬鹿だけであっても、そもそもの社会大多数を馬鹿が構成しまっている。
「多数決は必ずしも正義ではない」ということは、理屈で考えれば当然のことなんだけど、愛で考えるならば、多数決は全ての正義である。
「みんな納得してるんだからいいじゃん」という思想。愛はそのような思想を生み出し、「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」を肯定する。
こんなことばかりをやっていると、どんどん世界が腐っていく。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」とは、馬鹿から脱却しようと成長している人間を切り落とす戦法だ。
成長している芽を切り落としたなら、残った根は衰弱して死んでいく。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」を使えば、ブラック企業も簡単に作れる。
ひどい条件でも募集すれば何人かは集まってしまうからだ。
鬱病にして使い捨てたとしても、また集めれば何人かは集まってしまうからだ。
clacff.hatenablog.com以前の記事に書いた「社会のチェックメイト集」の、大体がこの手法を使用している。
社会における大体の嘘は、人口と言う盾を持っているから成り立つ戦法だ。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、一見すると誰も困っていないし、どんな嘘でも通すことができる、魔法の戦法だ。
しかしその戦法を許すと、社会や人間はどんどん腐っていく。
社会が、自分の方から馬鹿になるのを期待するようになる。
だから、使ってはならない。
スパムメールや迷惑電話を想像してみればいい。
「人口が多ければ数撃ちゃ当たる戦法」というのは、これと同レベルの外道迷惑戦法だ。
「みんな納得してるんだからいいじゃん」という論理は、絶対に許してはならない。
「論理を省略して簡単にまとめる」という責任
「薬の成分に影響するから水かぬるま湯以外で飲んではダメです!」
「お茶や牛乳で飲むのも当然ダメです!正しく飲んでください!!」
自分の知ってる限りでは、薬を飲むときの注意事項には、必ずこんなことが書かれている。
医師の指示に従い正しく服用してください、とは言うものの、その医師の指示というのが頭ごなしであり、水かぬるま湯以外の手段は基本的に邪法として扱われていた。
この頭ごなしには、昔から「良薬は口に苦し」という諺が説明に使われてきたが、なにもこの諺は「薬は苦くていい」ということを許可する言葉ではない。
子供だけではなく大人にとっても、薬は飲みやすいほうがいい。
そういったある意味当然の要求が、ようやく伝わってきたのだと思う。
しかし、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切る方が、薬学的には当然正しいし、責任も負わなくて済む。
実際に、水かぬるま湯以外で薬を飲んで悪い結果になる案件が出てきたから、薬の説明書にもわざわざそうやって書いてあるのだろう。
だがそれでも、「薬は飲みやすいほうがいい」という要求自体もまた、真である。
医者や技術者や教育者など、その世界を切り開く能力を持った人間には、二つの義務がある。その世界を開拓することと、後続の者が通りやすいように道を整備することである。
今日は、その義務について書いてみようと思う。
目次:
1.細かい事項を説明しない、という責任逃れ
「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切ることは、薬学的には当然正しい。
例えば「お茶で飲んでもいい」ということを正式に許可するためには、定義された全てのお茶で全ての薬を試して、結果を保存しなくてはならない。それでもし問題が出てきたら、それはお茶では飲んではダメな薬として除外するか、問題が出ないように薬の組成を変える必要が出てくる。組成を変えたら、また全部のお茶でテストをする必要がある。
こういったテストを、現状の薬ではやっていないから、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言い切ることは正しい。というより、「お茶で飲んでもいい」と許可することは明らかに嘘になる。
だからこそ、「水かぬるま湯以外で飲んではダメ」と言っておけば、とりあえずは正しい。
コストや手間の問題もあるため、むしろ現状ではそういっておかざるを得ない。
こういった薬の飲み方の例のように、「細かい事例に対応することを放棄する」、「全部に対応できる説明だけを用意して責任を逃れる」といった手法は、ほかの分野でもよく用いられている。
例えば、最初から最後まですべての定義が書いてあるが、やたら分厚くて説明口調ばかりで、論理の流れをつかむのにすら難儀する学術書。
例えば、全部の機能や特性を記述してはあるが、「じゃあこのピンには何Vまでの電圧をかけていいのか?」といったことすら素人には読み取れないCPUのデータシート。
例えば、全員に同じ給食を食べさせて、好き嫌いはおろかアレルギーも認めようとしない小学校の教師。
「全ての定義を一から全部記述すること」、あるいは「すべてに対処できる一律の手法」は、とても強力である。
ある意味最小限の手間で済ませることができる。
例えば、外国人の留学生に日本語を教えるときには、わざわざ付き添って話して書いて教えるよりも、国語辞典を投げつけて「全部覚えろ」と言うだけ方が間違いなく楽ではある。そして、本当に国語辞典を全部覚えたのならば、付き添って教えた場合よりも、おそらく日本語は上手くなるだろう。留学生の憎しみの感情は溜まるだろうが。
また、「厳密だが分厚くて分かりにくい説明書」というものは、一見の素人をシャットアウトする手法として機能する。
何千ページもある学術書や説明書には、「すべてが書いてある」という安心感があるし、その筋の人間が頑張って書いたものである、という自負もある。それを読んでいない者は全て「不届きもの」として追い返すことができる。
「こんなのも読んでいないのか?ア~ン?」というマウンティングもできる。これは既に読んでわかっている側にとってはとても気持ちがいいし、「楽」もできる。あくまでも、教える方にとってだけだが。
2.論理をアスファルトで埋め立てる、義務と責任
このような、「全ての定義を一から全部記述すること」、あるいは「すべてに対処できる一律の手法」というものは、仕方なく採用されている面も確かにある。
「分かりやすく大雑把に説明すること」には、それ専門のスキルや精神が必要であるからだ。
分かりやすく大雑把に説明してしまうと、そこには正しくない内容も含まれてしまうので、膨大な量の検証も必要だ。
そんな状況だと、後から別の者が、「それは厳密じゃないぞ~?」と突くことも簡単だろう。
あらゆる科学や論理は「必要があるから」「それに気付いたから」構築されている。無視していい論理など、一つだってありはしない。
「薬は飲みやすいほうがいい」という欲求は純然たる事実であり、薬の効能と同じぐらい、薬学が追及しなくてはならない問題である。
例え、今までの薬学と相反するものであっても、見つけて気付いてしまった以上は、そこは開拓しなくてはならない分野である。
薬は患者が飲まなくてはならないものであり、通常の手段では味覚や痛覚に必ず抵触する。
それを「良薬は口に苦し」とかいって薬学を神聖化すれば、元々の「人を救いたい」という薬学の目的が果たせなくなる。
だからこそ、イチゴ味の歯磨き粉や、ゼリー状オブラートなど、そういった製品が研究・開発される必要がある。
決して邪道などではないし、科学に貴賤などそもそもあってはならない。
「苦くて飲みにくい薬」と同じように、「厳密だが分厚くて分かりにくい説明書」も同様に追及・解決されなくてはならない。
そもそも科学や技術といった人類の知識は、お金や食べ物などの物質と違って、全員がコピーして使用できる点にこそ価値がある。「分かりやすさ」という価値を減らせば減らす程、その技術の価値は落ちることになる。
科学を追求することと、後続の者が通りやすいように道を整備すること。この二つの行為を両方行うことにより、初めて人類の知は進歩する。
未知の世界に、ただ行ってみるだけでは本当の「開拓」にはならない。道を敷き鉄道を敷き、街を作って初めて真の開拓になる。
「後続の者が通りやすいように道を整備すること」は、前に進む仕事ではなく、ある意味後ろに進む仕事である。しかし、それも科学の価値を上げる仕事であり、貴賤などはない。
また、「後続の者が通りやすいように道を整備すること」は、多くの場合で「無駄をそぎ落とす行為」であり、言ってみれば、せっかく作られた論理をアスファルトで埋めてしまう行為であるともいえる。ごちゃごちゃした分かりにくいものを一つにまとめて、通りやすい道を作る行為である。
「ここってアスファルトで埋めちゃっていいのかな?」という判断をすることは、とても難しいことであるし、大きな責任が伴う。だからこそ誰かがやらねばならない。未知の世界を開拓できる能力を持った者が。
本当に医学で人を救っているのは、「この薬ならお茶で飲んでも大丈夫だよ。食後ならお茶の方が楽でしょ」と言ってくれる、気のいいおじいさんの医者だ。
3.責任に気付く者と、無視をする者
「プログラミングを学びたい!」という、清い心を持った若者に対し、「まずはこれができるようになれ。話はそれからだ」と言って、JAVAの公式ドキュメントを投げつける行為。
そうやって片づけておけば当人は楽ができるし、気分がいい。「千尋の谷」とか「親方の技を見て盗め」といった伝承に近いメンタリティだ。「厳しい教育を行った先輩」でいることができる。
そしてその中で、本当にドキュメントを読み込んで一人でできるようになった若者が出てくれば、それこそ儲けものだ。むしろ、自分自身もこのような手法で生き残ってきた存在であるため、それ以外の正義を認めることができない。
こういった、間違った論理の進化の中では、この程度の人間性しか育つことはない。
こういう押し付けをする人間は、JAVAの公式ドキュメントを一から読んでできるようになった、という自負があるが、いざ自分が「別の言語の仕様書を一から読め」という状況になった場合は、平気で手のひらを返す。
「一から読んでもわかるはずがないだろう?効率が悪い」とか、「なぜ技術習得のセッションや時間を設けないんだ!」などと喚きだす。
先日の記事でも述べたように、結局は、「自分が勝てるところ」がすべての論理であると思っている。
だが今回の「薬の飲み方」の例のように、いくつかの分野では、この病は治りつつある。
例えば「家電のマニュアル」なんかでは、最初の数ページは「~しないでください」の注意事項のラッシュで言質取りばかりを行っているが、何年か前からは、「すぐに使うには」「こんな機能が新しい」といった説明にページを割いて、なおかつ全体のページ数も最小限になるような構成が主流になった。
「格闘ゲームのコンボ」なんかも、同じような原理が働いていると思う。
「ダメージが低いがほぼ100%安定する妥協コン」と、「ダメージが高いが高難易度の魅せコン」がある場合、実戦で勝つのに必要なのは前者の方だと、格闘ゲーマーたちは気付いている。
練習時間と精神力が無尽蔵であると仮定すれば、高い難易度で一番減るコンボだけを練習していればいいのだが、「実際には練習時間と精神力が無尽蔵ではない」という認識の下で、新しい科学をすでに始めている。
「魅せコンより安定妥協コン」
「より消費者に受け入れられやすいマニュアル」
「薬は飲みやすいほうがいい」
「後続の者が通りやすいように道を整備する」
未熟な学者や技術者は、これらの重要性にいまだ気付いていないが、「ちゃんと自分自身の責任で戦っている者」ならば、こんなことにはとっくに気付いている。
【正しさハラスメント】中二病のまま大人になってしまった技術者の末路
こんな記事を読んだ。
「正しさハラスメント」という概念!
セクハラとかアルハラとかと同じで、これをやってて満足している側の人間は絶対に気付かないし気付こうともしないという意味で、非常に上手い言葉だと思う。
自分の仕事はプログラミングにはあまり関係していないから深くは言えないのだが、情報系の分野になると、特にこういう人が多くなるよね。
物理的な面ではほぼパソコン一つだけで完結して、それ以外は知識量と作業量でものを言える分野だからだろうか。コンピューターの処理能力は、扱い方次第では人間のそれをはるかに超える。それゆえに万能感に浸りやすいのだろうか。
昔の記事でも書いたが、例えば「プログラミングの基本を教えるスレ」みたいなものが立つと、おじさんたちがありとあらゆる手で即死させようとして大量に沸いてくる。
例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。
今日は、「正しさハラスメント」をやってしまう人間の心理について、書いてみようと思う。
マサカリを投げるプログラマーに限らず、もっと広い分野の技術者が対象の話になる。
今まで自分が見てきた人間に対する経験談で話すことが多いが、20年はこういう人間を相手にし続けているから、それなりに叫びたいことはある。
目次:
1.愛で生きる人間と、理屈で生きる人間
以前の記事で、「愛で生きる人間」と「理屈で生きる人間」のことを書いた。
正しさを否定する人間とは、「愛で生きる人間」の方だといえる。
「『みんな』で盛り上がっているのに水を差すなんて無粋な!」という思想。
あるいは、「『自分』がせっかくいい気持になっているのに余計なことを言うな!」という思想。
人間至上主義であり、他人至上主義である。そしてこれは、人間の生存本能に近い思想であり、歴史が長いのは断トツでこちらの方だ。
人間はサルの一種に過ぎない、ということで目標を確定してしまうのならば、「愛で生きる」と言う選択肢を採用することも、アリだとは思う。個人的には嫌だけど。
それに対して正しさを求める人間とは、「理屈で生きる人間」の方だといえる。
一つでも間違っていればそこから先に積みあがることは全部間違っている、という思想。
議論と記録によって、人類は無限に進化ができる、と考える思想。
実際に、今までの人類の科学や技術は、このような思想で作られている。
愛で生きる人間は、人間という種の本能を最高裁判所にしているが、理屈で生きる人間は、今まで人類が積み上げた知恵と実績を最高裁判所にしている。人類の知恵はすべての宇宙・概念にまで及ぶため、人間と言う種だけに限定した愛よりは、確実に正しい結論は出る。
「正しさハラスメント」をする人間は、理屈で生きる人間の方なのだろう。
気付いて指摘ができる以上はそれは正義であり、議論だけがすべての正義を作る。
「理屈で生きる」という思想においてその姿勢は正しいし、自分もそう思う。
2.「成長したくない」という中二病
正しさは、正義である。理屈を振りかざすことは正しいことであり、どんどんやればいいと思う。
しかし、その振りかざしている理屈が未熟であり、それを反省する気もないというならば、それは害悪だ。
clacff.hatenablog.com以前、理屈と中二病に関する記事を書いた。ここでも、「技術的な正しさを押し付ける人」の卑小さについて書いている。
・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?
・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?
「正しさハラスメント」をするような者は、こういった「次に当然出てくる問い」に答える能力すらもっていない。だから、中二病だと言うんだ。
自分のブログに、未熟で危険なプログラムを載せて、「よくわからないけどこんなの作ってみたよ!コピペするなら自己責任でね!」と書く行為。
この行為自体は、何一つ間違っていないし何の罪も規定されていない。
「よくわからない」ということも、「自己責任だ」ということも、すべて完璧に事実なんだ。
「間違ったことは即座に指摘する。その上でしか正しい世界は作られない。」という思想は正しいが、「議論だけがすべての正義を作る」という思想が意図的に無視されている。
マサカリはいい。いいんだけど、「もっと大きなマサカリ」を認めることができなければ何の意味もない。自分がおこずかいで買ったナイフよりも、大きくて鋭い刃物があれば、それを認めて取り入れる度量がない場合、どんな刃物も偽物になる。
普段プログラミングとか難しいことを考えているくせに、こんな簡単なことにだけは絶対に気付こうとしない。
そりゃ確かに、仕事の上のプロダクトで間違ったコードを書いているならば問題であるし、正しいと勝手に保障して使用を推奨したりするのは問題であろうが、「正しさハラスメント」をするような人間にはそんな判断力はない。自分のパソコンでオフラインでやっているだけでもなお、対面で躊躇なくハラスメントを繰り出してくる。
3.中二病が振り回せる正義の限度
「正しさハラスメント」が中二病の産物になりやすい理由として、「正しさの上限を一人で勝手に決めれてしまう」というものがある。
セクハラとかアルハラとか、そういうハラスメントでは線引きが難しいという事実はあるが、それでも一応、定義に限度はある。全く近寄らずに話さずにいればそうそうセクハラはならないし、アルコールも対象がはっきりしているだけに分断することは可能だ。
しかし、「正しさハラスメント」の場合は、そいつの知性のレベルに合わせて限界が勝手に決まってしまう。これが恐ろしいところだ。
例えばセキュリティ的に正しいとか危険だとか言っても、じゃあそれで完璧かといったらもちろん完璧ではない。その処置も別のベテランから見ればハラスメントの対象になる。
それに、技術の世界においては、そもそも一つの処置だけが正解だといえるほど単純でもない場合がほとんどだ。また、後出しで突っ込みを入れる方が絶対に有利という条件も大抵の場合で無視されている。
科学も技術も、一人の人間だけが完璧に知ることなどできはしない。というか、完璧に知ることが不可能であるから、進化がいつまでも続いていくわけであって。
自分の理解がすべてである、と言い切って議論を否定するならば、それですべての理屈を否定することになる。
・ぶっ殺したとしてそれからどうなるのか?
・それは正しいのだろうけど、じゃあ今からそれをやらなければいけないのか?
という簡単な問いにすら答えることができていないというのに。
なお自分の経験上、「正しさハラスメント」をする者に対してこういう問いを突きつけると、大抵の場合でファビョるか白痴化する。答えを聞いてから意見を曲げる後出しジャンケンすら平気でやる。
「正しさハラスメント」に耽る者は、無知の知を理解しようとしない。
自分がものを知らないということを絶対に認めようとはしない。
マウンティング合戦で勝つことでしか心の平静を保つことができない未熟な精神だから。
他人を踏めるような信頼関係もないのに、自分の持っている正義だけが言語だと思っている。
こんな人間に、自らの礼儀を鑑みる能力などありはしない。
4.自分の経験則を勝手にまとめると
以前の自分の記事で述べたように、インターネットは、最初は弱者のものだった。だから弱者の言論が優勢になる。
冒頭の記事から引用して、
・現実に差別が多いからポリティカル・コレクトネスを声高に叫ぶ。
・現実に違法行為があるからリーガル・コレクトネスを声高に叫ぶ。
・現実にニセ科学が蔓延してるからサイエンティフィック・コレクトネスを声高に叫ぶ。
・現実に非効率的なことが多いからコスト・コレクトネスを声高に叫ぶ。
現実で弱者の立場に追いやられて、こういった「嘘の矢面」に立たされてきた人達だから、貪欲に病的に正義を求め続ける。
そうした不幸な生まれがあるゆえに正義を求めるのだが、しかし、そのやり方が未熟すぎる。
正義で生きているくせに、自分が負けるのが怖いから、より正しい正義を認めようとしない。
それどころか、本当は虐げられた記憶すら持っていないのかもしれない。「正しさハラスメント」を繰り返してきた人生なら、その場だけなら一方的に殴り放題で負けることは絶対にないから。自分が未熟で弱かった歴史を「黒歴史」として隠してしまうなら、そりゃそこから先は常勝無敗に決まっている。
それゆえに、何が間違いかもわからずに、叩けるところだけを叩き続ける。
それが、正しさハラスメントをする人間の正体だ。
例えプログラミングであっても、人間が共同作業をしている以上、人の心を無視して良いプロダクトなど生み出せるはずがない。自分はそう考える。
危険なことなら厳しくして当然とか、指摘してもらえるうちが花とか、そういう古いことを言ってて本当に信頼関係が築けると思っているのだろうか?
「本当に自分は威張れるほど他人のことを考えた指導ができているのか?」と、よく考えてみてほしい。どうせできないだろうし、義務もないけどさ。
【住民税】ふるさと納税に対する解釈【自由化】
そろそろ年末ということで、ふと「ふるさと納税」のことを思い出した。
自分の好きな自治体に寄付ができて、豪華な返礼品がもらえる、何かお得なシステムであるらしいが、詳しいことはよく知らなかった。
そこでこの週末にちょっと調べてみて、実際にふるさと納税をやってみた。
使用したサイトは以下のサイトです。
2015年度からは、一定の条件を満たせば確定申告が必要なくなった。
年収300万円~ぐらいの給与所得者ならば、上記のようなサイトで、2000円均一のAmazonをポチるような感覚で、豪華返礼品がゲットできる。
現段階での自分の理解を、記事にまとめてみようと思う。
目次:
1.「ふるさと納税」の紹介
ふるさと納税自体は、数年前からテレビCMも時々やっているし、何やらお得そうなシステムだということは知れ渡っている。
しかし、「数万円払って高級なカタログギフトがもらえる程度だろう?」と今まで自分は思っていた。そして、もちろん確定申告などの手続きが超面倒くさいのだろうと思っていた。
もらえる商品については、もちろんカタログギフトもあるが、かなりいろいろなものから選べる。
こんな一覧から、Amazonみたいにサイドバーから選んで、クレカで「注文」することができる。
和牛とか地元の果物だけでなく、旅行券や家具や雑貨もある。あとなぜか包丁がやたら豊富。その自治体の特産品だけでなく、普通にホームセンターで売っているようなものも選べる。団体や事業への募金みたいな形でも消費可能だ。
手続きもすごく簡単になった。2015年度からは寄付限度額が2倍になり、「ワンストップ特例制度」というものができて、確定申告などをしないでも、次年度からの住民税を自動で割り引いてくれるようになった。
寄付限度額の範囲ならば、実質の自己負担は固定の2000円。40000円寄付した場合は、次年度の住民税が38000円安くなる。
2015年以前のふるさと納税は、確定申告が前提のシステムであった。
だから自営業とか、勝ち組ブロガーとかが主にやっていたシステムだった。*1
2015年度からはこの「ワンストップ特例制度」を使えば、源泉徴収のサラリーマンでも、封筒で書類一枚と身分証明をおくるだけで、ふるさと納税をすることが可能になった。
ワンストップ特例制度を使ってふるさと納税をする条件は、大体以下の三つぐらい。
・給与所得者であること
・住民税を払っていること
・自分で確定申告をしないこと
あとは寄付できる自治体は1年5つ以内で、年収や家族構成によって寄付限度額が決まる。
www.furusato-tax.jpこのシミュレーターでかなり簡単に計算ができる。
例えば年収400万円なら、1年で4万円分ぐらいは、このサイトで「2000円均一」の買い物ができる。
2.「ふるさと納税」の性質の理解
ふるさと納税ってなんでこんなおいしいシステムなのか?どうせ裏があるんじゃないか?ということをやはり想像してしまう。
ざっと検索した限りでも、「好きな自治体に寄付できる」「返礼品がもらえて税金が安くなる」ぐらいのことしかプッシュされていない。
そこで、自分がいろいろ調べて「ふるさと納税がお得になり得る理由」を勝手に解釈してみた。
ふるさと納税とは、つまり住民税を寄付する場所を自分で選べるというシステムである。
従来の住民税とは、その自治体に住んでいれば、年収に応じた額を嫌でも払わなくてはならないものであった。
そして自治体にとっては、ただ住民を抱えてくれば勝手に入ってくる金だったともいえる。
インフラが整っていて人口が多い自治体ならば、左団扇でガッポリ儲けれたわけだが、そうやって人口を取り合っていると、インフラが整っていない田舎の自治体が損をするようになってしまった。
そこで、人口だけで自治体の品格や予算が決まってしまうのは不公平だ!として、住民税の納付先の自由化が制定された。
人口が少ない自治体でも、魅力的な返礼品や寄付先事業でアピールができるので、勝負になる。納税者が負担する2000円の固定額については、税金の総額も増えることになる。
納税者としても、ただ住んでいるだけで特に思い入れもない自治体に住民税を払うより、自分の好きな自治体に住民税を払えた方がいい。納税の義務を勉強して実感することにもつながる。
もちろん自由化されたのは住民税の総額の1割ほどであるが、その住民税を「うちの自治体に落としてくれ!」とアピールをしているのがふるさと納税というものだ。そのため、豪華な返礼品などを用意している。その返礼品が例え高価で赤字ギリギリであっても、よその自治体の住民税を奪ってこれるのだから、アピール合戦には本気になれるわけだ。
このように、ふるさと納税とは住民税の納付先の自由化、つまり奪い合いであるといえる。
だから、ふるさと納税という名称であっても、自分の自治体には寄付できない。最初から入ってくる予定である住民税なら、わざわざ競争する意味がないからだ。*2
またふるさと納税による税金の控除は、必ず住民税から引かれる。*3
だから、元々の払うはずだった住民税以上の額は寄付できない。*4
払うべき住民税は年収と家族構成で決まるため、ふるさと納税の寄付限度額も年収と家族構成によって上限が決まる。
年収が多い場合は、住民税の額も多くなるため、その分多くの額のふるさと納税ができる。
家族が多い場合は、その分住民税が割り引かれているため、ふるさと納税ができる額も低くなる。
3.「ふるさと納税」の問題点
以上、ふるさと納税がなぜあんなに高価な返礼品を出せるのか、を考察してみた。
ちゃんとそれなりに現実的な理由があるように思える。
納税者の側の注意としては、最初にまとまった額の金額を出さないといけないということだ。返済は一年かけての分割払いになる。
それと、来年払う住民税が減るので見かけの手取りは増えるが、別に年収が増えるわけではない…
納税者側のデメリットはこれぐらいで、あとは、多少手続きがあったり調べる手間があるぐらいだ。
それさえ乗り越えてしまえば、毎年何万円かは、「2000円均一」で豪華賞品を選ぶことができる。
国や自治体側からみれば、たぶんデメリットは結構あるのだろう。
税金の総額が定額の2000円分だけは増えるとはいえ、その実態は奪い合いなので、今まで胡坐をかいていた自治体や、競争力のない自治体は損をこうむることになる。
また、このお得なふるさと納税と言うシステムは、払っている住民税が多ければ多いほど、納税者が得をできるシステムだともいえる。
すなわち年収が多い金持ちほど得ができてしまうので、税金の逆進性がある。
転売にそのまま使えるような高価な返礼品が多い、というも問題だ。
そういったデメリットを考慮したうえで、国はこのふるさと納税と言うシステムを整備してくれた。
納税者としてはもちろん得であるし、税金のことを理解して国政に参加するいい機会であるので、自分が使って得なうちは使い続けようと思う。
(なお、この記事は cLaCFFによる個人的な理解であり、cLaCFFは今回初めてふるさと納税をしてみた程度の人間です。間違いの個所を見つけたらぜひ指摘してください。)
芸術や科学を、「最後の秘境」に誰がした?
こんな本が発売されているということを知った。
中身はまだ読んでいないが、レビューや感想文などは見てみた。
娯楽としてはなかなか面白そうな本だ。
それと同時に、このような記事も発見した。
moro-oka.hatenablog.comこの方は芸術分野のことについて書いているが、自分は自然科学の分野において同じような経験があり、記事を書いている。
自分自身、いまだに嘆き悲しんでいる差別問題であるので、今一度書いてみようと思う。
目次:
1.専門家に対する、「愛の強要」
自分が以前に書いた記事というのがこちら。
この記事を大体要約すると、
・何かの専門家は、「その分野への異常な愛」を持っていなければならない、という偏見。
・その分野が専門的で理解できないから、その説明として愛を強要する。
・愛だけの天然クンを祭り上げてトップに立たせてしまうと、その分野が崩壊する。
今回の記事で挙げられていた、「芸大生は天才変人奇人である」という決めつけは、自分が言いたい話と同じ話である。
彼らが言う、「天才変人奇人である」とは、「人生・人間性・社会性をかなぐり捨てて、芸術のみに生きる人間である」という一方的な決めつけである。そういった「すべてを捨てて凝縮された愛」という武器を使って、芸術という世界に生きているのだと思い込んでいる。
ハンターハンターに出てくる「制約と誓約」みたいなものだろうか。人生の条件を縛り、多くのものを捨てたことにより、残った愛が常人では考えられないほど強くなる。難しい分野で超人的な活動をしている(ように見えている)から、こういった犠牲的な手法を用いているに違いない、と思い込んでいる。
2.もともと、変人奇人である必然性がない
こんな誤解が生まれるのも、その専門的な分野が理解されていないのが原因だ。
「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいる
芸大生だって、他人の表現を勉強して、自分が考えたより良い表現を突き詰めているだけだ。その結果作品が出来上がったわけであり、決して変人奇人が口からタマゴを吐いて産み出したわけではない。
科学者も芸大生同じぐらいの割合で天才・変人・奇人扱いをされる。
しかし科学はもともと、「発見した経験則を全員に説明できるようにまとめること」を目的とした活動である。
というより、「発見した経験則を説明できるようする」という行為は全て、科学であると言っていい。
大げさな話、家庭の主婦が昨日より上手に目玉焼きが焼けて、自分の娘にその焼き方を教えることができたのならば、もうその主婦は科学者だと言っていい。医学や物理学だって、結局は全部こういう風に作られている。科学の内容に貴賤などありはしない。
「理解できないレベルの愛」とか、必要ないし肯定してもならない。
あまりに世間から愛を強要されるに至って、当の科学者でさえも科学の目的を忘れている。
バラエティ番組でいじられる科学者・知識人しか、世間の目には映っていない。
確かに、相対的にみれば、こういった芸術や科学の分野にはそれなりに高い能力や珍しい才能を持った人間が集まっているのだろう。
能力の高い者や才能を持ったものが、こういう生き方を選択しやすいような社会になっているのだろう。その事実自体はいくらかは正しいと思う。
しかし、科学者や芸大生は、本質的には天才・変人・奇人などではない。
なぜならば、その分野を開発するに当たっては、そんな人間である必要はないからだ。
数学パズルが楽しくて数学の道に進んだ、という数学者はいるだろう。
しかし、魔法陣の計算なんかしているより、プレステの方が楽しいに決まっている。
確かに北極のオーロラは美しいだろう。
しかし、美しいものが見たいだけなら学者なんかにならなくても旅行で北極ツアーに行けば事足りる。
地質学者が、地震が起きるたびにウキウキしてテレビの速報をチェックしたりするだろうか?
しないよそんなこと。
科学者や芸大生だって、こういった当然の感覚を持った人間である。
普段もっと頭を使っているんだから、これぐらいのことは簡単に気付いている。
科学も芸術も、変人奇人が遊ぶだけのところではないんだ。
3.ショーを強いられる立場
理解されていないということは、救われていないということだ。
芸術の分野は、いわゆる一般人から見れば、以下のような存在である。
・理解することはできない
・否定することは難しいから怖い
・でもハタから見ていると面白い
これらの傲慢さや無責任さが入り混じった状態が導き出す回答が、「天才だね」という心無い褒め言葉だ。
本当に天才だと思っているのならば、今すぐすべての芸大生を一部上場企業に内定させてみろ!
偏差値高いし勉強してるぞ!?
今回の冒頭で述べた本は、まあ娯楽として読むなら割と楽しいのだと思う。しかし、そんな一時のカタルシスのために、科学や芸術が食い物にされているという現実がある。
その結果、芸大生当人も天才・変人・奇人になりたがってしまう。
というより、勝利の判定をするのは大衆の方であるため、勝つために天才・変人・奇人を目指さざるを得なくなってしまう。
その結果出来上がってしまうのは、「愛しか信じなかった天然クン」であり、こういうやつがその分野を支配してしまうと、芸術の本来の目的すらも自分で言えなくなる。
だが、今日の冒頭の記事を読んで、少しは勇気が出てきた。
この記事を読む限り、少なくとも芸術の世界では、そんな天然クンばかりでもなかったようだ。
正義を信じて戦う人間の意志は、こんな逆境においても残り続けている。